目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第十六回お鷹狩りすこやか歩こう会スタッフ研修

2018-10-29 11:17:31 | ウォーキング
めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークが今週の土曜日に迫ってきました。事務局としてはコース選定の4月から準備し、大会を支える実行委員の皆さんにとっては、ウォーキング塾が実施されていた6月から準備を始めたことになります。目黒ウォーキング協会、すこやか歩こう会にとっても最大のイベントです。


日比谷見附
日比谷公園内にあります。見附についてWikipediaから引用します。
見張り番が置かれていた城門などの施設。例:赤坂見附(江戸城三十六見附の一つ)
Wikipediaの三十六見附の項目では日比谷見附ではなく日比谷門として紹介されています。外堀沿いの城門は「見附」と名がつく場所が多いように思いますが、中には虎ノ門のように「門」を用いている場所もあります。内堀沿いでは桜田門や和田倉門など「門」がなじみ深いですね。


国会前交差点
ロングコースは6月に行った実踏、9月に行ったコース確認共に雨に祟られていたのですが、この日はよく晴れました。気持ちの良い秋の一日でした。



国会前庭和式庭園
都内でも木々は少しずつ色づき始めているようです。将軍お鷹狩りウォークは毎回コースを変えていますが、この公園を通るのは十六回目にして初めてとなります。今回は国会議事堂側の歩道を歩き、これもこれまでのお鷹狩の歴史の中で初めて。立法を象徴する国会議事堂、少し遠景になりますが司法を象徴する最高裁判所を眺めながら歩きます。行政を象徴する首相官邸の近くを通れるといいのですが、こちらは警察の許可が下りないので、首相が総裁を務める自民党本部を紹介するしかないですね。
三権の長四名(議長は衆議院・参議院一名ずつ)の月給はみな同じで二百万円くらいと説明しましたが、誤りでした。総理大臣と最高裁判所長官の月給は2,071,000円ですが、議長の月給は2,182,000円です。


赤坂見附のサクラ
赤坂見附交差点に桜の花が咲いていたので、最近話題となってた塩害によるものかと思って写真に撮りましたが、写真を見るとソメイヨシノではないことがわかります。冬桜の十月桜か何かですね。
再度見附についてWikipediaから引用します。
見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。赤坂見附はそのうちのひとつで、他に現在に名を残すものとしては四谷見附(四谷)、市谷見附(市ヶ谷)などがある。
赤坂見附は枡形門の形式で、これは江戸城の田安門、清水門などと同じである。現在の赤坂見附址にはこの城門は存在しない。現在見られる赤坂見附の遺構は、紀尾井町の国道246号沿いに残る石垣である。
この赤坂見附跡の西側には弁慶堀が水を湛え、赤坂見附交差点は国道246号(大山道)と外堀通りの交点となっている。



とらや
改装中でずっと暖簾がかかっていなかったので、6月の実踏の時には見逃していて「あれ?虎屋どこだっけ?」と思ったのですが、ようやく暖簾がかかりました。この場所にお約束のこの暖簾がないと寂しいです。最初に見たのは高校生の時、「『やらと』って何だ?」と思いました。


神宮外苑絵画館前広場
自転車のイベントをやっていて、大量の自転車に占拠されていました。

絵画館前の休憩を終えて再出発し、新国立競技場、神宮球場、秩父宮ラグビー場、青山通りを横断してパイナップルケーキのサニーヒルズ、青南小学校、岡本太郎記念館、六本木通りを横断して常陸宮邸、國學院大學、氷川の杜公園(土俵)、渋谷橋交差点、明治通りを横断して恵比寿橋、ビヤ坂を登りサッポロビール本社、恵比寿ガーデンプレイス、アメリカ橋、茶屋坂を下ってゴールの田道ふれあい広場に至ります。
新国立競技場は建設が進み、その姿が見えてきました。11月3日にラグビー日本代表対NZ代表戦が行われると聞いて秩父宮ラグビー場付近の混雑を心配しましたが、試合が行われるのは調布の味の素スタジアムでした。サニーヒルズの設計は新国立競技場と同じ隈研吾さん。岡本太郎記念館では木が覆い茂って太陽の塔が見えません。國學院大學のご厚意によりトイレ休憩を行います。氷川の杜公園の土俵では江戸時代勧進相撲が行われていました。公園にある土俵について渋谷氷川神社のご由緒を神社のページから引用します。
創始は非常に古く、慶長十年に記された「氷川大明神豊泉寺縁起」によると景行天皇の御代の皇子日本武尊東征の時、当地に素盞鳴尊を勧請したとある。境内には江戸郊外三大相撲の一つ金王相撲の相撲場の跡がある。

サッポロホールディングス様には今年もスポンサーとしてお茶を提供していただきます。アメリカ橋はかつての通称で、輸入した橋はすでに架け替えられているため恵比寿南橋が現在の名称です。この橋を歌った「アメリカ橋」は狩人のオリジナルかと思ったら湖東美歌さんが歌われたのがオリジナルだそうです。興味がある方はこちらから聞いてみてください。
茶屋坂は将軍お鷹狩りウォークでは区内で最も重要な場所です。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 茶屋坂
更新日:2014年2月3日

「目黒の坂」は、「月刊めぐろ」1972年3月号から1984年2月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒のさんま
江戸の初め、田道橋を渡り三田方面に通ずる坂上の眺望のよいところに、1軒の茶屋があった。徳川3代将軍家光は、目黒筋遊猟の帰りにしばしばこの茶屋に寄って休息をとっていた。家光は、茶屋の主人彦四郎の素朴な人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたため、この茶屋は「爺々が茶屋」と呼ばれるようになった。あるとき、家光は「いつもお前の世話になっている。何か欲しいものがあったら取らせるからいってみよ」との仰せ。彦四郎は恐縮しながら、自分の屋敷の周囲を1町ほど拝領したいむね申して、これをいただいた。

ここからは落語として創作された話である。

例によって遊猟の帰途、茶屋に寄った将軍は、空腹を感じて彦四郎に食事の用意を命じた。だが、草深い郊外の茶屋に、将軍の口にあうものがあろうはずはない。そのむねを申しあげたが「何でもよいから早く出せ」とのこと。やむをえず、ありあわせのさんまを焼いて差しあげたところ、山海の珍味にあきた将軍の口に、脂ののったさんまの味は、また格別だったのだろう。その日は、たいへんご満悦のようすで帰った。

それからしばらくして、殿中で将軍は、ふとさんまの美味であったことを思い出し、家来にさんまを所望した。当時さんまは、庶民の食べ物とされていたので家来は前例がないこと、たいへん困ったが、さっそく房州の網元から早船飛脚で取り寄せた。ところが料理法がわからない。気をきかせた御膳奉行は、さんまの頭をとり、小骨をとり、すっかり脂肪を抜いて差し出した。びっくりしたのは殿様。美しい姿もこわされ、それこそ味も素っ気もなくなったさんまに不興のようす。

「これを何と申す」
「は、さんまにございます」
「なに、さんまとな。してどこでとれたものじゃ」
「は、銚子沖にございます」
「なに銚子とな。銚子はいかん。さんまは目黒に限る」

この話が、落語「目黒のさんま」である。

さて、目黒のさんまの話はともかくとして、爺々が茶屋の子孫は、坂下の方に住んでおられた。目黒ニ丁目の島村家がそれで、同家は、代々彦四郎を襲名してきたが、やめたという。

島村家には、今なお当時の模様を伝える古文書―御成之節記録覚―や一軒茶屋の図が保存されている。そのなかから、将軍と彦四郎のほほえましいやりとりを紹介しよう。これは、元文3年4月13日猪狩りの折りに、茶屋場に立ち寄ったときのものである。

「藤の花は、咲くか咲かないか」
「少々、20房から30房ばかりですが咲きます」
「花は長いか短いか」
「野藤なので短こうございます」
「どのくらいの長さか」
「せいぜい7寸から8寸でございます」
「野藤ゆえ、そうであろう」

会話の調子が、前述のさんまのそれに似ているところがおもしろい。

そのほか、鷹狩りの折り、団子150串、田楽100串というような注文が出ていること、その代金が支払われていることなどが記録として残されている。

茶屋坂の今昔
茶屋坂は、昔はたいへん寂しいところだったらしく明治維新で世情が混乱のころには、茶屋場はたびたび泥棒に見舞われ、島村家は、ついに坂下の村の方に移ってくることになったという。今日では、茶屋場の跡を正確に知る由もないが、茶屋坂には、昔からきれいな清水がコンコンと湧いて樹木が茂っていた。

明治にはいって、山手線が通ると、目黒、恵比寿の中間ほどに位置する茶屋坂一帯は、工場立地の条件がそろい、海軍の火薬製造所が建設された。同工場は、あたりに住宅が建ち始める昭和の初めに移転したが、その後も海軍技術研究所などの施設が入った。

やがて、今日のマンション時代を迎えることになるが、そうなると、このあたりは高台で展望がきくうえ目黒というイメージがマンションにぴったり合って、高層建物が建ち並ぶようになり、まちの景観を変えてしまった。

昔から湧いていた清水も、マンション建設のつち音が響き始めると、水脈が変わってか、パッタリ止まってしまったという。将軍も食べたという目黒のさんま。今では秋に催される「目黒のさんま」祭りで、その味を楽しむことができる。



解体中の目黒清掃工場
田道ふれあい広場では少年野球をやっていたので今回は遠慮して、ふれあい橋でストレッチをして解散となりました。


石川県羽咋市遊穂
ショートコースのすこやか研修で早めに到着していた二人を誘って上目黒まで歩き、中目黒ひつじで生マトンのジンギスカンとビールで昼食。いつもの流れで伊勢五本店で日本酒を飲んだ後、ONCEで各々好きな飲み物を頼み、暗くなる前から酔っ払いとなりました。
お鷹狩り本番は今週土曜日。実行委員の皆さんは風邪などひかないように注意して、当日元気にご協力ください。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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秋の小川町・寄居・秩父旅行

2018-10-25 10:03:07 | ウォーキング
すこやか歩こう会の旅好きの会員さんが「かんぽの宿の中では一番お気に入り」というかんぽの宿寄居にとまることが始めに決まり、それから歩く場所を検討しました。秩父鉄道沿いに行田、熊谷、寄居、秩父など魅力的な観光地があり、寄居はアップダウンがあってハイキングになりそうなので除外。中山道の宿場であり秩父往還の起点である熊谷は街が大きくなりすぎたためか、あまり魅力的なルートがありません。アップダウンがそれほどないルートが紹介されていた小川町を歩くことにして計画がまとまりました。


青い鳥号

小川町駅
中目黒→東急東横・東京メトロ副都心・東武東上線→森林公園→東武東上線→小川町と長い行程ですが一回の乗り換えで小川町へ到着します。小川町駅にとまっていた青い鳥号について東武鉄道のページから引用します。
本列車は、かつて東武東上線で活躍した行楽列車「フライング東上号」のリバイバルカラーの列車です。1925年7月の東武東上線が全線開通してから、2015年で90周年を迎えたことを記念して実施されました。
長瀞や外秩父への行楽客を対象に1949年から1967年まで運行し、人気を博した行楽列車「フライング東上号」の象徴である、鮮やかな濃い青色の車体に黄色の帯を締めたカラーリングを、50090型車両(10両)には車体へのフルラッピング、8000系車両(4両)には塗装によって再現しています。
2017年1月21日(土)より、ヘッドマークと側面羽デザインを変更した「ブルーバード号」として運行中。

小川町駅前でストレッチをして、ウォーキングスタートです。


北裏の町並み

栃本観音堂
今回のコースは小川町健康長寿ウォーキングマップで紹介されている「万葉の歌と八幡台史跡めぐりコース」を歩きます。「北裏の町並み」をネットで検索しても簡単には見つからず、ちょっとだけ苦労しました。秩父往還の北側に「北裏通り」、南側に「南浦通り」があり、蔵のある風景は北裏通りです。秩父往還についてWikipediaから引用します。
秩父往還(ちちぶおうかん)とは、中山道熊谷宿がある石原村(現、熊谷市)を起点として荒川渓谷沿いを通り、秩父大宮(秩父市)のある秩父盆地を横断し、雁坂峠を越えて甲州に入り甲府に至る街道である。秩父往還道、秩父甲州往還とも呼ばれ、甲州側からは雁坂口、秩父路、秩父側からは甲州路、信玄路などの呼称が見られる。

概要
現在の国道140号とその旧道に相当し、古来、埼玉県の熊谷から秩父を東西に経て山梨県南巨摩郡富士川町に至る道筋で、近世においては秩父市大宮郷を中心とする道筋である。
秩父往還はいく筋の経路があった。「江戸時代に「秩父往還」と呼ばれた道筋はいく筋」があったという。代表的な秩父往還の経路は、「その中で現在の国道一四〇号線が現在では代表的な「秩父往還」とみなされている。他の道筋にくらべてより重要な街道だった」という言われている
江戸から甲府を経て中山道に通じる甲州街道の裏街道であり、大菩薩峠越えの青梅往還とともに甲府と北関東を結ぶ街道であった。甲州街道は内藤新宿から分岐して大宮へ至り、青梅街道は多摩田無宿で分岐して大宮へ合流する間道がある。秩父往還道は、奥秩父山塊や秩父湖など景色が美しいことから「日本の道100選」に選ばれている。


次に小川町についてWikipediaから引用します。経済の項目が興味深いのでそこだけ。
経済
産業
古くから起業家精神(アントレプレナーシップ)が盛んな土地として知られ、東証一部上場のスーパー「ヤオコー」や、衣料品小売「しまむら」は、それぞれ小川町の八百屋「八百幸」、「島村呉服店」が発端である。この2社をとりあげた書籍『しまむらとヤオコー』(小川孔輔著、小学館)が2011年1月に発売されている。
また、埼玉県西部を中心に店舗網を持ち1951年に大生無尽と合併した小川無尽(現:東和銀行)や、1999年11月12日経営破綻した小川信用金庫(現:埼玉縣信用金庫)の本店所在地でもあった。

和紙
小川和紙の歴史は古く、その起源は1300年前にさかのぼると言われている。特に特産品である手漉きの「細川紙」は、国の重要無形文化財の指定を受けている。
太平洋戦争末期、風船爆弾の製造に当たっては実験段階から主に小川和紙が使用された。これは小川和紙が繊維が長く強度に優れる「細川紙」であること、和紙産地の中で小川町が比較的東京に近いことなどによる。

金融機関
埼玉りそな銀行小川支店
武蔵野銀行小川支店
東和銀行小川支店
埼玉縣信用金庫小川支店
JA埼玉中央農業協同組合
小川支店、竹沢支店、八和田支店

その他
・絹織物
・建具
・日本酒(晴雲酒造、松岡醸造、武蔵鶴酒造)
・鬼瓦
・水嚢(すいのう)
・徳川家康が関東移封時、諏訪頼忠が奈良梨に一時所領を与えられた。
・農業(霜里農場など)

ウォーキングマップには載っていなかったの素通りでしたが、ヤオコー発祥の地、しまむら発祥の地には何かそれを示すものがあったのでしょうか?地方銀行の元が無尽だったとは、初めて知りました。銀座昭和通り沿いにある東和銀行にはギャラリーがあって、当会会長が主催するグループの押し花展を何度かやらせていただき、とてもいいギャラリーだったことを覚えています。すこやか歩こう会の会員さんも訪れたことがあるかもしれませんね。


万葉の歌
この表示がいたるところにあり、「これはなんだ?万葉集か?」などと話をしていましたが、コースのタイトルに万葉の歌と書いてありました。


忠霊塔

忠霊塔からの眺め

1964年東京オリンピックの記念碑
英霊塔が一般的なようですが、コースガイドには忠霊塔とあります。日清戦争から第二次世界大戦に至るまでの地区の戦没者を顕彰したものです。高台にあり小川盆地を見渡すことができます。小川町の地理についてWikipediaから引用します。
比企地方及び県南西部の最も北西に位置し、秩父地方のすぐ外側に位置する。江戸から川越を抜けて秩父に向かう往還が町を東西に抜けており、古くはその地理的な優位性から六斎市が立つなど地域の商業中心であった。
外秩父の山に囲まれた小川盆地に市街地があり、その地勢から「武蔵の小京都」の異名を持ち、伝統工芸の和紙で知られる。
名誉町民である元・埼玉県議会議長小久保太郎の作詞による「ピッカリ千両節」は、町の歌とも言われ、これによれば「山の町、酒の町、紙の町」である。



八幡神社参道

参道桜並木

八幡神社
高台の尾根道が参道になっています。


穴八幡古墳


穴八幡古墳(埼玉県指定史跡)
Wikipediaから引用します。
概要
一辺28.2m、高さ5.6mの二段築成の墳丘と、墳丘の外側は二重の周溝が巡っていて、周溝外縁は一辺61.4mに及ぶ大型の方墳である。また、全長8.2mの石室が開口している。石室は前室・奥室に分かれており、緑泥片岩の一枚板石を組み合わせた精巧なものである。敷石には白い玉石が敷かれている。石室下部には版築を用いた基礎工事である掘り込み地業が行われていることが確認されており、穴八幡古墳の掘り込み地業は東京都、府中市の武蔵府中熊野神社古墳と並ぶ、約1.5mの深さに及ぶ。
入口付近には「建治4年(1278年)2月2日」と刻まれている。
また、寛文年間に村民がこの塚を崩し陸田にしようとしたところ、石室が現れたのでやめたという記録が新編武蔵風土記稿に残されている。
1959年3月20日、埼玉県の史跡に指定。
この古墳は1988年に測量調査が行われるまで円墳だと考えられていた。このときの調査で二重周溝も確認されている。出土品としては須恵器、土師器、鉄器、刀装具などがあり、石室の構造や出土品などから築造年代は7世紀後半と見られている。



温州ミカン
意外なことに蜜柑の産地だそうです。




大塚八幡神社

イチョウの木
大塚は字名のようです。写真ではわかりませんがイチョウには銀杏がたくさんついて黄色く見えていました。



大梅寺



大梅寺二連板石塔婆

リンドウ
大きなお寺でした。石塔婆は1341年に作られたものです。その頃は江戸がど田舎で、小川町は武蔵の主要都市だったのでしょうね。


陣屋沼

中城跡

中城跡・仙覚律師遺跡
城好きには知られた存在のようです。仙覚律師も知りませんでした。マップのコースのおすすめポイントから引用します。
古墳時代末期の穴八幡古墳、鎌倉時代に『万葉集註釈』を著した僧仙覚の顕彰碑、戦国時代の中城跡など小川盆地の歴史をたどるコースです。中城跡周辺は山林なので虫刺されなどにご注意ください。

仙覚についてWikipediaから引用します。
万葉研究
万葉研究における仙覚の功績ははなはだ大きく、彼が生涯をかけて完成させた万葉集校本とそれをもとに注釈を加えた『萬葉集註釈』は、以降明治期にいたるまで万葉集の定本として多くの研究者に利用されている。注釈・加点自体は現在の観点からすれば物足りない部分もあるが、中世歌学を考えるうえでの重要な資料のひとつであり、その価値はやはり高い。仙覚が加えた点を特に新点と称する所以である。



コキア

柿の実

和紙のふるさと

北裏通りの蔵

女郎うなぎ

北裏通りの蔵
中城跡から駅近くを通り、再び北裏通りへ戻ってきました。女郎うなぎは表が秩父往還に面し、裏が北裏通りに面していました。女郎うなぎの記述がある小川町のページをWikipediaから引用します。
特産品・名物・史跡・観光スポット・祭事
・和紙(小川和紙)
・忠七めし
 割烹旅館二葉の名物料理。幕末から明治初期にかけて活躍した山岡鉄舟はたびたび小川町を訪れており、その際二葉八代目当主・八木忠七に「禅味を盛った料理」を所望して作り出されたものと伝えられている。二葉旧館は登録有形文化財となっている。
・女郎うなぎ
 1855年創業とされる割烹旅館福助の名物料理。吉原の遊女の面倒を見たことからその元遊女の生家に伝わる秘伝のタレを伝授され、「女郎うなぎ」として名物になったとされる。福助本館は明治年間に建てられた木造三階建。
・高見城:県指定史跡。
・小川町七夕まつり
・道の駅おがわまち
 埼玉伝統工芸会館
・吉田家住宅:埼玉県内最古の民家であり国の重要文化財でもある。
・仙元山見晴らしの丘公園:仙元山にあり、ローラーすべり台を楽しむ事ができる。



槻川と八高線の鉄橋

槻川
槻川の清流が小川和紙の生産に欠かせないようです。この先は別のウォーキングマップ「下小川の歴史と自然をめぐるコース」となっています。







西光寺
小川町観光協会のページから引用します。
「大寺」の通称で親しまれている曹洞宗の寺院で、趣のある鐘楼が寺の歴史を感じさせてくれます。
春にはカタクリとしだれ桜が、秋には紅葉が境内を美しく彩ります。



道ばたの六地蔵

道ばたの石仏群

道の駅おがわ(埼玉伝統工芸館)
こちらで昼食休憩を取りました。道の駅内のレストランのページから引用します。
地元の小麦を100%自家製粉して作った手打ちうどんと本格的手打ちそばのお店「麺工房かたくり」が好評です。
館内には、朝採り野菜市場も併設、地元小川の味をご賞味ください!!


埼玉県といえば小麦の文化でうどんだと思いますが、この日蕎麦が売り切れでした。埼玉県とうどんの関係を東京新聞の記事から引用します。
 埼玉県は隠れた「うどん県」だ。讃岐うどんで知られる香川県には及ばないが、江戸時代から続く小麦栽培の伝統を受け継ぎ、県内各地で親しまれているご当地うどんがそれを物語る。
 六月二十五日を条例で「うどんの日」と定めている加須市の「加須うどん」はコシの強さと喉ごしのよさが特徴。東京・多摩地域から県西部に伝わる「武蔵野うどん」、麺の幅が八センチもあって初めて食べる際に戸惑う「こうのす川幅うどん」など多彩な顔ぶれだ。
 うどん県を示すデータもある。農林水産省の米麦加工食品動向(二〇〇九年)によると、うどんの生麺、ゆで麺の合計の生産量は四万七千八十トンの香川県に次いで、埼玉県が二万四千四百三トンと二位。県内の「そば・うどん店」の数は二千二百四十九店と、東京都に次いで二位(一四年の経済センサス)だった。
 うどん県の素地はうどんに適した小麦生産が盛んな土地柄にあった。熊谷市は、明治、大正期に「麦踏み」「二毛作」を導入し、麦の増産技術普及に功績を残し「麦王」と呼ばれた権田愛三の出身地。同市内の小麦の作付面積は約千六百ヘクタールあり、収穫量は本州でトップクラスだ。県内の農家には、ハレの日には家庭で手づくりのうどんを振る舞う慣習が残っている。



紙すき工房

水路沿いの道




八宮神社(やみやじんじゃ)


芭蕉の句碑
神社について小川町のページから引用します。
八宮(やみや)神社は旧小川村の総鎮守で、「天忍日命(オシホミミノミコト)」など8柱を祭神としていることからこの名前があります。創建は不明ですが、江戸時代後期の書物に「元和三年(1617)再建の棟札あり」とあることから、それ以前と思われます。かつては日赤病院のある尾根の西側スウツ山にありましたが、享保2年(1717)頃にこの地に移転したと伝えられています。
社殿は本殿と拝殿を幣殿でつないだ複合社殿(権現造)で、棟札から本殿は天保4年(1833)の建築とわかります。大棟梁は妻沼の林兵庫正尊、彫刻棟梁は上州花輪の石原常八主信(もとのぶ)で、国宝の妻沼歓喜院聖天堂の造営にかかわった林氏・石原氏の系譜を引く見事な彫刻が施されています。埼玉県内で特徴的にみられる江戸時代中期から幕末にかけての精巧な彫刻をもつ寺社建築の中でも、年代の特定できる好例として、県の有形文化財に指定されています。
境内にある青麻三光宮(あおそさんこうぐう)本殿も、小規模ながら天保13年に林兵庫正尊を棟梁として建立されたもので、合わせて県指定文化財になっています。



兜川

マンホールのふた

ふるさと歩道案内図

八高線線路

八高線停車駅のご案内
ウォーキングコースを外れ駅まで戻り、この日のウォーキングは終了となりました。日帰り9名は東上線に乗って池袋方面へ向かい、宿泊14名は八高線に乗って寄居へ向かいました。宿泊はかんぽの宿寄居です。美肌の湯につかり、地酒秩父錦を大いに堪能しました。


寄居の夜明け
朝ぶろが5時からで夜明けは5時半頃でした。露天風呂からこの朝焼けを眺めるのもいいかもしれませんが、私は部屋にいてばっちり写真に収めました。


ふるさと歩道案内図

回数券にはさみを入れる


波久礼駅

秩父鉄道
かんぽの宿から寄居駅に送迎バスがあるのですが、寄居駅の前に一つ秩父寄りの波久礼駅でバスを降ります。ここから秩父鉄道に乗るのですが、少しでも旅費を節約しようと回数券を購入したところ、駅員さん一人で手が回らないのか自分たちで入鋏しています。秩父鉄道についてWikipediaから引用します。
概要
埼玉県北部を東西に横断する秩父本線(秩父線)と、貨物線である三ヶ尻線の2路線を保有・運営している。長瀞渓谷や宝登山を中心とする長瀞の観光開発を行ってきた会社でもあり、直営の「長瀞ライン下り」は大正時代からの歴史を有する。
過去には、乗合バス、貸切バス事業、索道事業(三峰ロープウェイ)も行っていた。バス部門は秩父鉄道観光バスに分社している。三峰ロープウェイは廃止になっているが、子会社の宝登興業では現在も索道事業(宝登山ロープウェイ)を行っている。
太平洋セメントが筆頭株主であり、同社の前身である秩父セメント時代から行っている武甲山から産出される石灰石を運ぶ貨物輸送が盛んである。





レトロバス
波久礼駅→秩父鉄道→御花畑駅→徒歩→西武秩父駅(荷物をコインロッカーに預ける)→徒歩→御花畑駅→秩父鉄道→大野原駅→ウォーキング開始を計画していたところ、調べた時刻と実際のダイヤが違っており、西武秩父駅で30分待つことになってしまいました。駅前から大野原駅方面へのバスが10分後に発車することがわかり、急きょ乗ったバスがこのようなレトロバスでした。アニメのキャラクターについては知らなかったのですが、「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。」というテレビアニメとのことです。


大野原駅
駅でトイレをお借りした後、場所もお借りしてウォーキング前のストレッチです。この日のコースは秩父市ハイキングマップの「江戸巡礼古道コース」です。この地図がウォーキングマップではなく、ハイキングマップであることを後で思い知らされます。


シュウメイギク

案内標識
シュウメイギクはハワイ島のキラウエア・イキ・クレーター・トレイルで見て印象に残っていました。あれは五月でしたが漢字で書けば「秋明菊」、秋の花ですね。今日のウォーキング(一部ハイキング)は巡礼道なので、地図をみなくても標識が案内してくれそうです。



龍石寺

奉納額


龍石寺説明板
市指定史跡
秩父札所第十九番飛淵山龍石寺
この札所は、大きい一面の岩盤上に建てられています。観音堂は七間半四面表流れの向拝をふした方形造りでありましたが近年の堂の向拝を憂い広く浄財を募り昭和四十七年改体復元が目されております。その折宝永二年の墨書が発見され歴史の深さを物語っております。堂内には。閻魔をはじめ十五像など冥途の恐怖を強調するものや三途の川の脱衣婆をまつる三途婆堂 もあって仏教の暗い一面をみせる札所でもあります。
本尊は千手観世音像 で高さ四十九糎寄木造りで室町時代の作と云われております。
 昔、この地方に大旱魃があって弘法大師 は、天皇の勅により雨を折られたところ、この大盤石二つに割れて、神泉苑より竜が昇天し雲を呼び雨を降らせ人畜草木みなよみがえり大豊作を得たと云う縁起があります
昭和四十年一月二十五日 秩父市教育委員会指定



旧秩父橋

秩父橋と荒川

旧秩父橋から荒川
旧秩父橋はアニメの舞台として重要な役割があるようです。思い起こしてみれば、巡礼とは縁がなさそうな男の子の集団が写真を撮っていました。


岩之上堂近くの石仏




岩之上堂
この日はよく晴れて日差しが暑く、上り坂が多くなってきたこのあたりからちょっと辛くなりました。札所二十番は秩父市のページから引用します。
 この堂は、三間四面の方形造、札所における屈指の建築物である。江戸時代初期の造営と思われるが、後に前面の向拝、元禄年間(1688~1704)に内陣、宝永年間(1704~1711)に彫刻の補修を経てきた。純粋の唐様建築から少し遠いが優秀な建築である。内陣には見事な春日厨子がある。本尊は、聖観世音立像、像高67.5cm、寄木漆箔、藤原時代の作である。


立派な民家



観音寺
市指定史跡 札所二十一番
要光山  観音寺

 この堂は、通称矢の堂と称し、本尊は聖観世音で他に幾体かの仏像があります。大正十二年小学校火災により類焼後、今の堂がつくられました、焼失前は三間四面の堂であったといわれ、境内には聖観世音立像、百萬遍念仏塔、弁財天石塔、芭蕉 句碑等あり盛時 が偲ばれます。
 堂前の道端には地芝居役者の座頭中村十九十郎(田舎千両と称えられた)の墓もあって地芝居隆盛 の昔を偲ぶ民俗資料としても貴重です。
 昔この地は、元八幡宮の社地で神託により観世音の霊場になったといいます。
 邪神悪魔を除き仏地にせんと八幡大菩薩の放てる神矢がここに落ち、悪魔退散したるため名づけて矢の堂をなすという縁起があります。

昭和40年1月25日 秩父市教育委員会指定



秩父盆地と武甲山

童子堂跡地
二十二番童子堂跡地
ここより北へ百メートルほどの府坂地内に童子堂が建立されていたが、江戸元禄十五年(1702)に現在の童子堂がここに建立された。
以来二百年もの長い間、この霊地に建っていた童子堂は明治末期になると巡拝に便の良い現在の二十二番の地に移された。
この跡地には、奥の院の跡や礎石が残り、昔を偲ばせている。





江戸巡礼古道
この道がウォーキングコースではなく、ハイキングコースであることを実感させられるのはここからです。ここまではアップダウンの多いウォーキングでした。Googleマップで、この先の道がマップに載っていないことは確認していました。コースマップに示されている以上、そんなにひどい道とは思わなかったのですが、台風の影響か荒れ放題でした。ところどころに「巡礼道」と表示があったので進むことが出来ましたが、表示がなければ進むことはできなかったと思います。
道の入り口付近で迷っているときに地元の猟友会の人が通りかかり、「この先はやぶだらけで歩けないよ」といわれたのですが、戻って坂を登りなおす気力はなく「巡礼道」の表示を頼りに進みました。このハイキングはしばらく語り草になると思います。



十三地蔵
秩父札所を開設した十三権者の石像
 1234年妙見大菩薩・蔵王権現・善光寺如来・熊野権現・閻魔大王・具生神・花山法皇・白河法皇・徳道上人・性空上人・医王上人・良忠上人・通観法印の十三人の権者が秩父札所を開設した時に、この地の松風の音を聞き、菩薩の音楽と感じたので山号を松風山、寺名を音楽寺としたのである。





音楽寺
秩父市のページから引用します。
 この寺は、春は桜・つつじ・新緑、秋は月、冬は雪と、秩父地方屈指の景観であり、行楽地でもある。
 本堂は三間四面、吹寄せ二重垂木、三方に勾欄をつけた大きな堂である。浜縁、勾欄等は先年修理した。
 本尊は、聖観世音一木造り桧材、像高81cm、室町時代の作である。
 銅鐘は明和5年(1768)銘、市指定文化財である。



音楽寺の手水舎

音楽寺の六地蔵

音楽寺の銅鐘

音楽寺から見た武甲山
この時点で予定のゴール時間を過ぎており、バスでの移動を探ったものの次のバスは一時間後。歩いてゆくしか手段はないようです。


紅葉

秩父ハープ橋

ハープ橋から見た荒川

ハープ橋と武甲山
ハープ橋からまっすぐ秩父駅に向かう道は少し上りになって、くたびれてしまった会員さんにはつらい時間だったと思います。秩父駅までくれば秩父鉄道、バス、最悪タクシーと、西武秩父駅へ向かう手段がいろいろあるので、ここでくたびれた会員を分離してまだ歩けそうなメンバーだけウォーキングで西武秩父駅へ向かいました。



秩父神社

奉納ウィスキー



少林寺
秩父蒸留所のIchiro's Maltを試してみたいのですが、まだ機会がありません。いちど「ワンショット三千円」といわれ躊躇してやめました。あとで気が付いたのですが、西武秩父駅前温泉祭の湯の酒屋で飲めたかもしれません。時間に余裕がなく、惜しいことをしました。

レッドアローに乗り込み、ビールを飲みながらゆったりと帰路につきました。残念ながらこの特急、車内販売がないようです。当初S-TRAINを利用して渋谷まで(中目黒は通過)帰ってこようと考えていたのですが、西武秩父発17:05、渋谷着18:56と遅くなってしまうので、池袋行きのレッドアローにしました。帰りの列車は満員でした。

池袋から副都心・東横線に乗って中目黒へ帰り、ONCEでべろべろ酔っ払いになるまで反省会をしましたが、酔っ払いすぎて何を反省したのやら記憶にありません。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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秦野渋沢丘陵・震生湖コース 約9.4km

2018-10-16 09:12:54 | ウォーキング
明け方まで降り続いた雨にちょっと気をもみながら、朝起きてみると晴れ間が少し見えていました。この日は9時スタートと通常より早めなので、食事前に活動がある旨メールしました。雨が降ったり著しく気温が高い場合ウォーキングを中止にしますが、その連絡はメーリングリストを活用しています。携帯電話アドレスの場合インターネットからのメールを遮断するようにデフォルトで設定されてしまうので、会員の皆さんには特定のアドレスからのメールを受け取れるようにお願いしています。ご自身で設定される方や、携帯ショップで設定してもらっている会員さんもいます。


秦野駅前の名水
中目黒から東横・副都心線で新宿三丁目。そこから歩いて小田急線新宿駅へ行き、始発の急行列車に乗ります。渋谷集合にして井の頭線から下北沢で乗り換えたいところですが、小田急小田原線への乗車が一時間以上となるため、座席確保のため新宿から乗車します。
秦野市の地理についてWikipediaから引用します。
市域は、東西約13.6キロメートル、南北は約12.8キロメートル、面積は103.61平方キロメートルで、県内19市中5位の広さを持つ。丹沢の麓に位置し、市域の半分は山林である。市街地は四方を山に囲まれている。直下には秦野断層が所在する。神奈川県の行政区域としては湘南に含まれているが、海には面していない。北部と西部に丹沢山地が連なり、東は相模平野と秦野盆地に挟んでいる大根台地があり、南には大磯丘陵が横たわる盆地(秦野盆地)が市の中心部である。盆地内には金目川水系の河川により複合扇状地が展開する。
先日のブラタモリで「湘南とはどこか?」という質問に対して「秦野も含まれる」という答えには失笑が漏れていましたが、行政区域としては湘南に含まれるそうです。次に秦野盆地の地理についてWikipediaから引用します。
・北側及び西側は丹沢山地、南側は渋沢丘陵(大磯丘陵の一部)、東側は弘法山に囲まれた盆地である。渋沢断層の活動による陥没で形成され、丹沢山地から流れ出る、水無川と金目川の扇状地からなる。
・箱根の芦ノ湖を上回るほどの水量の地下水を有している。
・秦野盆地と秦野市主要部の範囲はほぼ一致しており、古くから盆地内で1つの経済圏ができていた。盆地の東西を横切る形で東名高速道路、国道246号、小田急小田原線が走っている。
・神奈川県唯一の盆地である。

「神奈川県唯一の盆地である。」というのは考えたこともなかったので意外でした。次に扇状地の形成と地質についてWikipediaから引用します。
扇状地は、山地で土砂を大量に運び去った水が、山地を抜けたところで持っていた土砂を急に手放すことで生じる。平地部のある河道で堆積が進むと、その付近の土地が高くなり、洪水をきっかけに近くの比較的低い土地を川が流れるようになる。以後は河道の変更された土地で堆積が進む。このようにして、周りより低いところを選んでの河道変更が何度も繰り返されると、山地の出口を扇のかなめとして、土砂が平地側の全方向にまんべんなく積もり、扇状地ができあがる。なお、山地が海のすぐそばまで迫っているような場所では、扇端が直接海に接している場合もある。
扇状地は地図上ではきれいな扇形の等高線を描くが、その上にはいくつもの旧河道が扇の骨のように放射状に並んで跡を残している。そのため完全に平らではなく、小さな起伏が微地形としてある。
扇状地を形成している堆積物は大小さまざまな大きさの礫を多く含んでおり、大変水を通し易い。そのため、扇央部では河川の水のかなりの部分が地下へと浸透してしまい、地下水となる。この結果、扇央部にある地上の河川の流量は減り、場合によっては水を失い、地上の川が水無川となることもある。さて、扇状地を形成する堆積物の下には元から平地が存在するが、地上から浸透してきた河川の水は、この平地で大部分が受け止められる。受け止められた水は、そのまま地下を流れる伏流水となる。伏流水は扇端部で湧水として現れ、その先に小河川を作ることが多い。なお、扇頂下部では井戸が掘れ、さらに下がった扇央部では帯水層からの水圧を利用した自噴井が設置できる。

ここに書いてある特徴をすべて見ることができる秦野盆地は、まさに扇状地と河岸段丘の教科書と言えます。



水無川


弘法の清水
まさに「扇状地の形成と地質」で紹介されている通りです。朝まで雨が降っていたので、水無川の水量が多いようです。河岸段丘や扇状地は小学校の理科の時間に学習し、遠足で扇状地を見に行っているものと思いますが、記憶にないです。子供の頃に退屈だった地理の話が、今になって面白くなるのはなぜなのでしょう。


大上公園の金木犀
秦野駅を北口から出て、水無川と湧水を見てから南口に回り、この公園でストレッチをします。昨年は10月7日にここを訪れキンモクセイが香っていたのですが、今年は一週間遅れで全く香りません。今年のキンモクセイはちょっと早かったように思います。このあともう一度香るのですよね。


秦野駅南口の荒井用水

太岳院の石仏

今泉湧水桜公園

倒れたミニトマト
Googleマップを見ると池には「秦野盆地湧水群」とあり、池の底から大量の水が湧きだしていることが想像でき、実際大量の水が流れ出ています。大量の赤い物体を見たときは「こんな大量のカラスウリを見たことない」と思ったのですが、よく見るとプチトマトでした。台風で倒されたのかな?


南小の隣にある建物

庚申塔など

白笹稲荷神社
小学校の隣にある建物は、周辺の建物に比べ頑丈そうで蔵のようです。扇状地は桑の栽培にも適しており、かつてはお蚕様で潤ったのかもしれません。稲荷神社についてWikipediaから引用します。
白笹稲荷神社(しらささいなりじんじゃ)は神奈川県秦野市今泉にある神社。関東三大稲荷の一社。
創建当初は白篠稲荷という小祠であったと伝えられる。創建年不詳。
近くに秦野の水源地「一貫田湧水」がある。

関東三大稲荷もWikipediaから抜粋します。
一般的に「関東三大稲荷」と称される神社:笠間稲荷神社、東京都の装束稲荷神社(王子稲荷神社の摂社)、神奈川県の白笹稲荷神社。


渋沢丘陵へののぼり口

秦野盆地


震生湖
白笹稲荷神社を過ぎると県道平塚秦野線を横断し、渋沢丘陵への上り坂です。標高が上がるにしたがって秦野盆地が丹沢の山々を背にした、扇状地であることがよくわかります。震生湖は渋沢丘陵の裏側になります。名前の通り関東大震災の際の山の崩落によりできた湖ですが、名前の由来という記事が面白いのでWikipediaから引用します。
一般的に、震生湖の名は「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉を残した(とされる)物理学者寺田寅彦が名付けたとされる。湖畔には寅彦が詠んだ「山さけて成しける池や水すまし」の句碑も建っている。
しかし、彼が東大地震研究所の所員としてこの地に調査に来たのは1930年である。1928年発行の「神奈川県中郡南秦野村郷土誌」には既に震生湖の名前が出ており、寅彦が当地に来たときには既に震生湖の名称があったと考えられる。地元の人たちが考案した名が定着したというものである。
ちなみに寅彦の随筆集 「柿の種」(青空文庫)に収められている「震生湖より」(1930年10月)には、「山崩れのために生じた池、震生湖というのを見物および撮影に行った」とある。 「山裂けて…」と共に「穂芒(ほすすき)や地震(ない)に裂けたる山の腹」の句も出ている。




秦野福寿弁財天社
トイレがある震生湖でランチ休憩を取り、弁財天にお参りし再度渋沢丘陵の尾根を歩きます。


蕎麦畑

ススキ

温州ミカン

ミカン山から見下ろす渋沢の街

カリン

ザクロ

石仏

カラスウリの実
すぐに車道を外れ、渋沢丘陵の林や畑がある尾根道を歩いてゆきます。未舗装路が多く、朝まで雨が降っていたのでちょっと足元が悪かったけれど、車もすれ違う人もいない気持ちのいい散策路でした。双体の石仏が珍しいですね。カラスウリは普段見るものと種類が違うのかなと思うほど印象的な赤でした。

丘陵を下り、農産物直売の「じばさんず」を訪れ落花生を購入しました。ゆで落花生に向くという大ぶりの「おおまさり」のほかに、小ぶりの「郷の香」を購入してみました。少し風味が異なり、楽しめそうです。「落花生といえば千葉で、秦野の落花生は初めて聞いた」という会員さんもいるので、日本における生産と輸入の項目をWikipediaから引用します。
日本における生産量は、農林水産省の『作物統計』によると、2015年の生産量はむきみ換算で1万2300トンである。輸入量は、財務省の貿易統計によると9万8867トンであった。県別の生産量では、千葉県が9590トンで突出しており、78.0%を生産している。千葉県は農林総合研究センターに「落花生研究室」を設けている。品種として「ナカテユタカ」「郷の香」「おおまさり」のほか、2018年に命名した「Qなっつ」のように品種改良やブランド化、高齢化で減少傾向にある栽培農家数の回復にも力を入れている。特に千葉県中央部の八街市が生産量では日本一を誇る。県別では茨城県(1500トン、12.2%)が続き、千葉県と合わせると9割を超える。以下、神奈川県、栃木県、鹿児島県が続く。
日本で初めて栽培されたのは1871年(明治4年)に神奈川県大磯町の農家、渡辺慶次郎が横浜の親戚から落花生の種を譲り受け、自分の畑に蒔いたもの。花は咲いたが何も実を結ばないので「こんなもの」と足蹴りしたら地中から鞘(殻)が出てきて、地下結実性であることが判明した。経済栽培に向けて、販売先の確保のため、地元旅館に試食を依頼したが「客は喜んだが、座敷が汚されて困る」と断られた逸話が残っている。その後、明治10年に0.4リットル袋入りにて横浜の駄菓子屋に売り込んだところ盛況となり、採算がとれる商業生産への見通しがたった。千葉県においては1876年より栽培が開始されている。

日本で生産されている主な品種は以下の通り。

・千葉半立
・ナカテユタカ(千葉県農試育成)
・郷の香(千葉県農試育成)
・立落花生一号(神奈川県農試選抜)
・改良半立(神奈川県農試選抜)
・フクマサリ(千葉県農試育成)
・金時
・おおまさり
日本国内で消費されている安価なラッカセイの大部分は中国産で、主に大粒の品種を栽培している山東省、河北省、天津市産の輸入が多い。「南京豆」という別名に使われている江蘇省の南京など、華中・華南地方産のラッカセイは小粒の物が多い。

日本における落花生のオリジナルは湘南でした。


渋沢駅
買い物で重くなったリュックを背にじばさんずから渋沢駅まで歩くのがこのコース最大の苦行です。渋沢駅でストレッチをして、この日は解散となりました。


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【下見】手賀沼・大堀川コース

2018-10-12 13:47:31 | ウォーキング
かつて松戸へ向かい、ゴール後お蕎麦を食べるコースがあり好評だったのですが、お蕎麦屋さんがやめてしまったので松戸へ向かうコースは廃止となりました。水戸街道方面のコースを復活させたいと思い流山などにも下見に行ったのですが、そちらは採用になりません。
この夏美味しい枝豆を求めて柏市の農産物直売所「かしわで」に行った際、大学時代の友人が案内してくれた「さんち家」の野菜料理バイキングが期待していたよりおいしくて、「ここをゴールとするコースを作ろう」と思い立ち、夏の暑い日に下見に行ってきました。友人は見たことがないとのことでしたが、大堀川ではサケの遡上がみられるとのこと。栃木の那珂川に遡上する鮭にびっくりしていたくらいなのに、千葉の柏で鮭の遡上がみられるとは、なんとお手軽!と言ってもまだ目撃したわけではないのですが。。。
さんち家について柏市のページから引用します。
柏産の朝採り新鮮野菜が並び、ほぼ午前中でなくなってしまうほどのにぎわいをみせている農産物直売所「かしわで」。
平成16年6月の直売所オープンから12年、柏の農産物のおいしさをもっと多くの人に伝えたいと、今年6月11日に農家レストラン「さんち家(さんちや)」をオープンさせました。
店名には「産地」と「○○さんの家」の意味が込められています。
野菜を知り尽くした地元農家の主婦がシェフを務める「野菜だけ」のこだわりのレストランとなっていて、直売所直営とあって、それぞれの野菜のおいしさを最大限に引き出したメニューを提供。約50種類の料理がビュッフェ形式で楽しめます。
体も心も大満足!ぜひお試しください。



スタートは我孫子駅
人生で初めて降り立った我孫子駅。千代田線の行き先表示でよく見るので「あびこ」と読めますが、難読地名の一つだと思います。


我孫子市ゆかりの文化人

手賀沼公園付近の案内板
「我孫子市ゆかりの文化人」パネルの中央の写真の説明に「大正6年春、武者小路邸(市内船戸)にて白樺派の三人。後列左3人目から武者小路実篤、柳宗悦、志賀直哉。」とあります。左右に紹介されている六名は柳田國男、岡田武松、中野治房、嘉納治五郎、杉村楚人冠、バーナードリーチで、なるほど我孫子市が誇りたくなる文化人です。駅前を南下しながら坂を下ってゆくと、手賀沼が大きく開けます。
お勉強を兼ねて、Wikipediaから手賀沼の歴史の一部を引用します。
享保12年(1727年)、江戸幕府(八代将軍徳川吉宗)は勘定吟味役であった井沢弥惣兵衛為永の建議で沼全体の干拓を計画し、江戸町人の高田茂右衛門友清に工事を着手させたが、その後工事計画を変更。沼を上・下に分け、中央に千間堤(浅間堤)を築き、下部のみを干拓した。これにより、約200町歩の新田が拓かれたが、上部沿岸の村々は排水不良となり、毎年のように洪水の被害を受けた。元文3年(1738年)に千間堤は決壊し、新田は水没。その後、老中田沼意次や水野忠邦の時にも干拓の努力は続けられたが、洪水と老中失脚とにより成功しなかった。
当時の手賀沼はカモなどの水鳥やコイ、ウナギなどの魚介類に恵まれ、特に水鳥とウナギは江戸の人々に美味として珍重されていた。現在でも我孫子市内には江戸時代から続くウナギ屋や、コイやフナ料理の店が多い。

中略

大正時代、湖畔には志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地であった。
干拓事業の2年前の1944年(昭和19年)11月22日に、我孫子中央国民学校の教諭・生徒をはじめとした、44名が手賀沼を渡船で横断中、大風に煽られて転覆し、17名の死者を出すという水難事故が発生した(手賀沼の悲劇)。市内には「手賀沼殉教教育者の碑」として、記念碑が建てられている。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)農水省の直轄事業として大規模な干拓事業が再び着手され、1968年(昭和43年)に完成。約500ヘクタールの水田が造成され、沼の面積は著しく減少している。沼では競艇場建設、1964年東京オリンピックボート競技の誘致、手賀沼ディズニーランドの建設などの開発計画が持ち上がったが、いずれも失敗している。



手賀沼

オオバン




ヒマワリ
あまりの暑さにヒマワリが下を向いているのかと思ったら、一部上をむいているヒマワリもあります。手賀沼周辺の道路は広々していて気持ちがいいです。





北柏ふるさと公園のハイビスカス

白鳥
大堀川が手賀沼に流れ込むところに北柏ふるさと公園があります。白鳥も人慣れして逃げる気配もなし。



北柏ふるさと公園

フウロ

コマツヨイグサ

柏ふるさと大橋
ここから大堀川が始まる感じです。大堀川は手賀沼に注ぎ、手賀川となって利根川に注ぐものと思っていましたが、地図で見ると利根川とつながっていません。下流で六軒川と弁天川に分かれ、利根川との結節点には「手賀排水機場」があります。この施設について千葉県のページから引用します。
本施設は、国営手賀沼干拓事業により昭和31年に完成した排水機場です。降雨時には流域約160km2※1(柏市、印西市、我孫子市、鎌ケ谷市、白井市、流山市及び松戸市)から手賀沼に流入する洪水を手賀川の流末にて毎秒40m3※2で利根川へ強制排水することで、受益地1,905haを保全しており、近年では、流域の都市開発や道路等の浸水対策にも効果を発揮し、農地以外の社会共通資本の防災対策上も重要な施設となっています。
しかしながら、築後50余年経過し、老朽化が目立ち、平成21年10月にポンプ1台が損傷し、排水機能の低下を来しています。このため、当事務所では本施設の維持管理を行うとともに、基幹水利施設ストックマネジメント事業として、ポンプの復旧と他のポンプの老朽箇所、不良箇所の補修、交換整備を行い、本施設の機能を保全することで、農地や地域社会の防災対策に寄与するとともに、長期的な維持修繕コストの低減を図っています。

手賀沼の水を排水することにより陸地を確保しているということのようですね。「新田」がつく地名が多いことの理由がわかりました。ここで素朴な疑問、「鮭はどこから来るのでしょう?」


セミの抜け殻

水戸街道の呼塚橋から大堀川
途中常磐線をくぐり、水戸街道をくぐるところのルートが難しかったです。下見とは違った道を本番のコースとして設定しました。Googleマップなどで確認したけど、思ったとおりに道があるかどうかちょっと不安です。


カラスウリの花



高田小近くの大堀川
友人宅の畑を横目で見ながら、大堀川沿いに上流へと歩いてきました。鮭の遡上の頃にはカラスウリの実を見ることができるでしょう。鮭の遡上について柏市のページから2012年11月15日の記事を引用します。
毎年恒例となった「大堀川の鮭の遡上」。今年も鮭が遡上してきました。
11月14日(水曜日)の午後は、天気が良く、高田小学校付近を散歩していた多くの市民のかたたちが鮭の遡上に見入っていました。
例年、12月ごろまでは見ることができるそう。
水産法令で、市民のかたが鮭を捕獲することは禁止されていますので、温かく見守ってあげてください。また、住宅街の中にあるため、駐車場等はございませんのでご了承ください。


このコースは11月17日に実施予定です。楽しいウォーキングとなることを期待しています。

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青山千駄ヶ谷コース 約8.6km

2018-10-07 14:55:16 | ウォーキング
この日の歩行距離は8.6kmと、いよいよ本格的な秋のウォーキングシーズン到来です。


ソメイヨシノの紅葉
目黒川舟入場で場所をお借りして、ウォーキング前のストレッチです。スカッと晴れた青空が気持ちいい一日でしたが、お彼岸過ぎても日差しは強く日なたではじりじりと暑さを感じます。


目黒川

ツタの紅葉
暑いといえども秋は徐々にやってきており、ツタの紅葉が始まっています。ハナミズキも紅葉して実がきれいだったのですが、うまく写真になりませんでした。


別所坂

別所坂上庚申塔

馬頭観音

恵比寿南三丁目計画
坂について目黒区のページから引用します。
目黒の坂 別所坂
別所坂は区の東北部の高台、淀橋台から目黒川の谷に面した急斜面を切り割った、いわゆる切り通しで、渋谷区境から中目黒一丁目、ニ丁目境を目黒川田楽橋に下る、折れ曲がった長い急坂である。
坂の由来については、郷土目黒誌によると「この坂を下ったところに別所と呼ばれた地名のところがあったからである」と記されており、かつては江戸の人びとが麻布辺りから行楽の地、目黒に入る近道として重要な交通路であった。
また、坂上は富士のながめの良いところで、えぞ・千島の探検で知られた近藤重蔵が文政2年(1819年)、新富士・近藤富士などと呼ばれた築山を造り、目黒元富士とともに江戸名所のひとつとして、行楽客に親しまれていたと言われている。この築山は昭和34年まで、その形を残していたが取り崩され、今は、「文政二己卯年六月建之」の碑石が残されているのみである。
坂上(中目黒一丁目)に住む重信さんは「この坂は今でこそ、住宅に囲まれていますが、私の子どものころは暗くてうっそうとした森の中にあり、とてもさびしいところでした。区の花ハギもかなり自生していましたよ。私の家から坂下を見ると、目黒川をはさんで田んぼが続き、水車小屋もありました。こんなに開けたのは戦後のことです」と言う。
また、戦後この坂に移り住んだという寺島さん(中目黒ニ丁目)は「坂の途中にある別所坂児童遊園のところは、以前はすすきの山で、わき水もあり、沢がに取りや、築山にも登って遊びましたよ。それに、10年ほど前までは、家の庭から富士が良く見えました」
今は、中目黒の交差点付近にビルが建って見えなくなってしまった。でも、冬から春先にかけての朝のうちなら、今でも坂上から富士が見えるという。現在のこの坂は、JR恵比寿駅を利用する人びとの通勤・通学路となっている。

坂上にある庚申塔や、渋谷区側の坂の途中にある馬頭観音が、この道が古くからある道であることを物語っています。野村不動産による恵比寿南三丁目計画で公務員宿舎があった場所が再開発されます。住宅、ホテル、介護施設などになるようです。


恵比寿駅前

渋谷橋から渋谷川
目黒と渋谷の区界になる旧山手通り付近に淀橋台(台地)と目黒台(台地)の境界があり、渋谷区側の淀橋台の方が目黒台より標高く、目黒元富士や、目黒新富士の舞台となります。目黒台のきわを目黒川が削り、淀橋台を渋谷川が削って谷が出来たため、その間に壁のように淀橋台が残りました。別所坂は目黒川の谷から淀橋台へ上るため急坂となりました。




広尾小学校
戦前の鉄筋コンクリートの建物で、火の見櫓を備えています。外壁に細工があったり、ステンドグラスが使用されているなどおしゃれです。櫓の理由を小学校のホームページから引用します。
高台に立つRC造3階建で、関東大震災後の小学校復興事業の末期の建設となる。消防署が同居したことから、火の見櫓としての塔屋を備えている。設計は東京府の市ノ瀬仁重朗氏、施工は佐藤平治氏が担当した。


渋谷氷川神社
三島由紀夫の遺作となった豊饒の海、第二部「奔馬」で、清顕の生まれ変わりである飯沼勲が決起のためのお参りをする舞台となっている神社です。


國學院大學

実践女子学園
この二つに加え、青山学院大学がある文教地区です。


雨露

ヘクソカズラ

根津美術館
國學院大學を過ぎ、常陸宮邸の先で六本木通りを渡り、本山米店、南青山六丁目児童遊園の前を通り、骨董通りをちょっと歩いて「根津美術館通り」とでも言いたくなる都道413号を北へ向かいます。都道413号が六本木通りに接続していなかった頃に引いた地図なので、このあたりのルートは骨董通りを通らないルートに変更する必要があります。都道413号は原宿駅から表参道交差点まで「表参道」、そこから根津美術館までが「みゆき通り」と名前がありますが、美術館から乃木坂までの間は愛称がない。乃木坂から先は赤坂通りと呼ばれます。


南青山四丁目

青山橋
青山橋とその下を通る外苑西通りの高低差はビル五階分くらいあるでしょうか。ここは笄川が削った谷で、外苑西通りは笄川の川原に沿って作られており、天現寺で笄川は渋谷川と合流します。


青山霊園
こちらでトイレをお借りして休憩としました。青山霊園についてWikipediaから引用します。
1872年(明治5年)、美濃郡上藩(現在の岐阜県郡上市)の藩主・青山家の下屋敷跡に開設された。当初は神葬祭墓地であった。1874年(明治7年)9月1日、市民のための公共墓地となった。1889年(明治22年)、東京府から東京市に移管された。1926年(大正15年)、斎場の建物のすべてが東京市に寄附され、日本で初めての公営墓地となった。
現在は東京都の所管である。面積は約26万平方メートルで、会津藩出身の桐生氏が開いた現在の附属立山墓地が興りとされ、隣接してのちの青山霊園への造成へとつながっていった。その後桐生氏は当時の東京府に土地所有権を無償で供与し代々立山墓地の管理に携わってきたが、東京都により2008年3月いっぱいで管理の更新を断られた。都による墓所使用料未払いによる無縁仏への墳墓改装、それに伴う公園型霊園開発を理由とした、2000年代以降の霊園内外都有地の段階的な賃貸料増額も相まって管理の更新を断られ、先祖開拓以来の土地を離れることとなった。なお、霊園内外人墓地に関しては無縁仏として改装されず、貸付対象箇所にはならないことになった。
霊園は、桜並木が名所であり、明治維新の功労者や文学者・科学者・芸術家・政治家等の著名人墓所が数多くある。維新の三傑である大久保利通、細井和喜蔵の『女工哀史』の印税で建てられた「解放運動無名戦士墓」も存在、忠犬ハチ公の墓もある。附属立山墓地には、永田鉄山、木村兵太郎、相楽総三なども眠っている。



伊藤忠商事とORACLE



新国立競技場
青山霊園から青山通りへ出て、外苑銀杏並木、神宮球場、新国立競技場へと歩いてきます。ずいぶんと形になってきた新国立競技場ですが、フェンスがあるので近くからの写真は撮りにくいです。ちょっと逆光になっていますが、外苑西通りにかかる外苑橋からは競技場のスケールを感じることができます。


東京体育館

国立能楽堂
東京体育館は1964年東京オリンピックの体操競技会場と認識していましたが、その10年前に東京都体育館として完成しており、オリンピックのために建てられたわけではないのですね。セイコー・スーパー・テニスの会場という認識があるのですが、この大会の歴代優勝者を見ると、ボルグ、コナーズ、マッケンロー、エドベリなど男子トップ選手が参加する国内最高峰の男子テニス大会でしたね。
東京体育館や国立能楽堂がある都道414号四谷角筈線は、特に愛称はないそうです。この道を通り北参道へ向かいます。


明治神宮北参道

拝殿

七五三
明治神宮は結構混んでいました。七五三にはちょっと早いかなぁとは思いましたが、何組か見かけました。欧米からの旅行者が彼女と一緒に写真を撮って喜んでいました。



結婚式
休日には結構見かける光景ですがこの日は仏滅、数少ない結婚式だったかもしれません。

南参道を歩き、代々木公園正門前で場所をお借りしてストレッチをして解散でした。その後中目黒へ場所を移し串カツ田中で酔っ払って日本酒まで。。。ちょっと暑かったですが、青空が広がり、秋の乾いた空気の中のウォーキングは気持ちよかったです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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