写真:地区ウォークの旗
5月29日から始まった「めぐろウォーキング塾」は5回の講演・実技、1回の合同ウォーク、3回の地区ウォークで構成されます。講演・実技で学んだことを五地区(北部、東部、中央、南部、西部)で週に一回行われるウォーキング活動に参加することにより実践しましょうという流れです。合同ウォークは「一度は塾生が一堂に会して歩く機会を設けましょう」という趣旨で行われています。
参加者も居住地域により五地区に分かれていますが、どの地区のウォーキング活動に参加をしてもよく、その気になれば十回でも地区ウォークに参加できるのですが、出席としてカウントされるのは三回までとなっています。めぐろウォーキング塾は9回出席すると皆勤となるのですが、7回以上出席した参加者に修了証が発行されます。
今回北部地区すこやか歩こう会の地区ウォークは二度目となりますが塾生8名の参加があり、総勢22名でのウォーキングとなりました。一回目の地区ウォークでは塾生7名参加と報告を受けており、4名の方が二度参加されているので実質11名の方が北部の地区ウォークに参加されたことになります。
写真:ノウゼンカズラ
写真:アメリカデイゴ
写真:舟入場橋
すこやか歩こう会の地区ウォークは歩くコースが毎回異なるため塾生に歩行計画を配布しています。ただし混乱を避けるため集合場所を中目黒GTに統一し、歩くコースにより解散する場所が異なるということになります。北部公園コースでは中目黒GTに集合した後、目黒川舟入場へ移動してウォーキング前のストレッチを行います。目黒川舟入場はかつて目黒川水運の終点でした。水運で木材を運び入れることができたため、中目黒駅付近には材木屋さんが多かったと聞いたことがあります。
舟入場橋は目黒川にかかる最新の橋で2018年3月から運用が始まっています。これまでは上流へ向かう際も少し下流の田楽橋を渡ってから上流へ向かっていたのですが、舟入場橋を利用すると直接上流に向かうショートカットが可能となります。ウォーキングなのでショートカットがいいのかどうかわかりませんが、すこやか歩こう会の活動としては初めて舟入場橋を渡って上流へ向かいました。
写真:菅刈公園
写真:スモークツリー
駒沢通りを歩道橋で渡り、宿山橋を過ぎて北野神社、キンケロシアターの前を通り、少しだけ西郷山を登って菅刈住区センター。目黒川舟入場に次いで二つ目の公園、菅刈公園に到着しました。菅刈という字名について目黒区のページから引用します。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。
菅刈公園で休憩後、目黒川が削った崖を上って西郷山公園へ。菅刈公園と西郷山公園、どちらも西郷従道の屋敷跡です。これについても目黒区のページを引用してみましょう。
西郷山の従道邸
青葉台二丁目周辺は、別名西郷山とも呼ばれている。それは、明治の初めに西郷隆盛の弟従道(じゅうどう)が付近の地形を生かした広い庭園を造り、立派な建物を構えていたからである。
兄隆盛のために購入
このあたりは、江戸時代、「荒城の月」で知られる豊後(今の大分県)の岡(竹田)城主、中川修理大夫の抱かかえ屋敷であった。樹木がうっそうと茂り、池に三田用水から水を引くなど、林泉の美しさは近郊随一とうたわれた。その後、2万坪に及ぶこの屋敷は、明治維新のとき征韓論を主張して破れ、下野した兄隆盛のために、従道が手に入れたのである。
西郷従道(1843年から1902年)は、明治2年に山県有朋らと欧州を視察後、わが国の兵制や警察制度の制定、殖産興業政策の推進に尽力した。兄の下野にもかかわらず、英明な従道は新政府の要職につき、文部卿・陸軍卿・農商務卿・内務卿・海相などを歴任した。
行幸の碑
洋館・書院造りの和館などを配置した回遊式の庭園は、東京一の名庭園といわれ、名士が訪れることも多かった。特に、従道が海軍大臣であった明治22年には、明治天皇の行幸や、皇后・皇太后の行啓があった。天皇は、庭園での大相撲や薩摩踊りを、また皇后は、当時従道が後援していた養蚕技術の改良成果の展示を熱心に観覧したと伝えられる。
邸内には、養蚕所のほか農園・果樹園もあり、機織りやトマトソースの製造・缶詰加工も行われていたという
耐震性を考えた西洋館
広々とした芝生や、大王松・ヒマラヤ杉・落羽松などが茂る樹林に囲まれ、清浄な池に面した西洋館の建築には、フランスの建築家レスカースと棟梁鈴木孝太郎が携わった。
建具類はほとんどフランス直輸入の品を使用した。また、屋根は垂木たるきを省いたり、金属板を葺くなどの軽量化が図られた。さらに、建物の四隅には通し柱を配置、壁の中にはれんがを積み建物の浮き上がりを防ぐなど、当時では、他に類例の見られない耐震設計がなされていた。
跡地は公共施設に
従道の死後は、二男従徳が昭和16年に渋谷に移転するまで、本邸として使用していた。その後、同邸の所有は箱根鉄道・国鉄と移ったが、空襲で和館が焼失したり名木が枯れるなど、往時の面影はほとんど失せてしまった。わずかに残された西洋館は、国鉄官舎や当時のプロ野球国鉄スワローズの合宿などに利用されていたが、昭和38年、愛知県犬山市の「明治村」に移され、後、国の重要文化財に指定された。
現在は西郷山公園・菅刈公園として整備され、新たな憩いの場となっている。
写真:松見坂
旧山手通りを歩き、マレーシア大使館、神泉交差点を過ぎて淡島通りに入ります。淡島通りと山手通りの交差点が松見坂です。目黒区のページから引用します。
目黒の坂 松見坂
「昔、今の環六と淡島通りの交差する駒場一丁目付近に、道玄太郎という山賊がいましてね。その道玄がこの付近にあった松の大木に登って、旅人をねらっていたそうです。まあ、そんな話から、渋谷には道玄坂があり、道玄の登った松の大木を道玄物見の松といい、その名から松見坂という坂名がついたと、よく祖父から聞いたものです」と、土地っ子、宗田淳さんはいう。
坂名の由来は、この道玄の話が有力だ。道玄が出没していたのは、今から約450年以上も前のことである。
坂の途中で、自動車修理工場を営んでいる谷口さん兄弟は、「戦前のこの辺は、じめじめとした湿地で、田んぼが広がり、今の山手通りの立体交差付近からは渋谷一帯が眺望できましたよ。昔、追いはぎが出たという話も聞いたことがあります。それに関係があるかどうかわかりませんが、道の向こう側に、松見地蔵という地蔵様がありましたよ」。この松見地蔵は「目黒町誌」によると、「霊験あらたかなる地蔵」ということで、多くの人が参詣に来ていたという。
今、松見坂には、新遠江橋という橋がある。この橋は、空川にかかっていたものである。もっと以前には、この新道の下にわずかに残っている旧松見坂にあった。この橋は、伊達遠江守が創設したもので、明治に入って、明治天皇行幸に伴い西欧技術を取り入れたドーム型の橋に改築された。大正2年、道路を改修し、現在の松見坂と新遠江橋となった。
田んぼに囲まれていた松見坂。現在は、住宅や中高層ビルに囲まれている。時代とともに自動車・バス・トラックなどが急速に増加し、その需要に応えるべく幾度となく道路開発工事が行われた。
写真:東大教養学部一号館
写真:教養学部のイチョウ並木
写真:東大野球部グランド
松見坂から駒場バラ園の前を通り炊事門から東京大学教養学部に入り、一二郎池を見て、都の文化財に指定されている一号館(旧制一高本館)を見て、グランドの脇を北門から、渋谷区との区界になっている行幸通りへ出ました。
写真:駒場公園旧前田侯爵邸洋館
駒場公園がこのコース四つ目の公園となります。旧前田侯爵邸で明治時代に建てられたものとばかり思っていましたが、昭和初期に建設されたことを最近知りました。これまで「本郷に帝国大学を設置するために、前田侯爵邸が駒場へ移転」と説明してきましたがどうやら間違いだらけだったようです。明治10年に設置された大学の名称は、『東京大学』。大正15年に土地交換により前田侯爵邸が駒場に移り、本郷の土地は東京帝国大学の敷地となりました。東京大学が帝国大学になった経緯はWikipediaから引用します。
帝国大学(ていこくだいがく、帝國大學)とは、1886年(明治19年)に公布された帝国大学令によって設立された旧制高等教育機関(大学)であり、新制大学における国立総合大学に相当する。
1877年(明治10年)創立の東京大学が1886年(明治19年)に同令に基づいて「帝国大学」に改称されたのち、1897年(明治30年)に「京都帝国大学」が創立されると、従前の「帝国大学(旧東京大学)」は「東京帝国大学」に改称された。これにより同令に基く大学が複数となったため、これ以降「帝国大学」は、同令によって設置された大学の総称となり、最終的に、内地に7校(七帝大:北海道、東北、東京、名古屋、京都、大阪、九州)、外地に2校(京城、台北)設置された。
写真:踏切の向こうは駒場野公園
駒場野公園が五つ目の公園です。目黒区で北部とされる菅刈住区の菅刈公園、西郷山公園。駒場住区の駒場公園、駒場野公園。スタート前のストレッチで訪れた目黒川舟入場は東部に分類される中目黒住区になります。北部でさらに公園をあげるとすると拡張された東山公園が加わるでしょうか。東山住区になります。こうしてあげてみると烏森住区には公園がありませんねぇ。宿山など古くからの集落があり、公園になるようなまとまった土地がなかったからでしょうか。
写真:筑波大学駒場中高生徒による田植え
駒場野公園は東京教育大学農学部跡地に整備された公園で、ドイツ式近代農業の研究をしていた証左としてケルネル田圃が残され、現在でも東京教育大学の流れをくむ筑波大学付属校の生徒による田植えが行われます。知っているようであまり知らない、オスカル・ケルネルについて、Wikipediaから引用します。
オスカル・ケルネル
オスカル・ケルネル(Oskar Kellner、1851年5月13日 - 1911年9月22日)は、ドイツの農芸化学者。明治政府のお雇い外国人として帝国大学農科大学で教鞭を執り、日本の土壌学・肥料学の発展に寄与した。
略歴
プロイセンのシレジアで生まれる。プレスラウ大学、ライプチヒ大学で化学を学び、1874年には「エンドウ発芽に伴う化学的変化過程について」で博士号を得た。プロスカウ農業アカデミー動物化学研究所で飼料への砒素添加や羊毛除去がヒツジの代謝生理に及ぼす影響などについての研究に従事し、1875年にはホーヘンハイム農業アカデミー農芸化学研究所の化学者のポストを得て主として動物栄養、飼料の栄養価に関する研究に従事、2年間に11の単著・共著論文を発表し、ドイツ科学協会の年会での講演を行うなど精力的に活躍した。
1881年(明治14年)11月5日 明治政府の招きで駒場農学校の農芸化学の主任として来日した。それまで外国人教師はイギリスから招いていたが、農芸化学、植物化学、動物化学、発酵化学等の分野ではドイツが多数の研究成果を発表してヨーロッパの「化学的研究の中心」として発展していたため、ドイツの日本公使館に勤務していた内務省勧農局長の品川弥二郎の主導により、招聘教官をイギリスからドイツに変更し、ケルネルもその一人だった。
駒場農学校は東京農林学校、東京帝国大学農科大学へと変遷し、ケルネルもそれに合わせて1892年まで11年に亘って教鞭をとった。植物栄養、土壌、肥料、養畜、酪農、農産製造等広く農学全般に亘って講義を行なったが、本来は家畜飼養が専門であったため、当初その方面に力を入れるつもりでいたが、当時の日本ではまだ畜産が主要な産業となっていないことから、主として米麦作とその肥料に関する研究に重点を置いた。
1887年10月10日には河瀬留子と結婚し、1889年1月2日に娘Toniが生まれたこともあり日本永住を決意していたが、1892年(明治25年)春にドイツのメッケルン農事試験場の4代目場長グスタフ・キューンが死去したため、その後任の場長としてケルネルが推挙され、同年12月31日ドイツに帰国した。メッケルン農事試験場は1851年に創設されたドイツの中で最も歴史のある農事試験場で、イギリスのロサムステット農事試験場に次いで資金が多く、機械も完備されておりケルネルの関心が深かった家畜営養試験の設備が充実していた。
1893年1月1日に横浜港を出発し、2月15日メッケルン農事試験場長に就任し、家畜栄養および飼料に関する研究活動で多くの業績を残した。1895年8月6日には息子Maxも生まれたが、1911年9月22日、ドイツ農事試験場第31回総会に出席する途中にカールスルーエ駅で心臓麻痺のため急死した。
ケルネル田圃
ケルネルが研究の際に試験田として使用していたことから命名された「ケルネル田圃(たんぼ)」という田圃が、目黒区駒場野公園に存在する。現在、近隣に所在する筑波大学附属駒場中・高等学校の生徒の水田稲作実習に使われており、同校の入学式および卒業式では、ケルネル田圃で収穫された米で炊かれた赤飯が新入生、卒業生に配布される。
地元駒場で毎年行われている創作かかし大会『かかしコンクール[主催東京都農業協同組合中央会]』の冠は『ケルネルたんぼ』となっており、ケルネルの業績を讃えている。
この日のゴールは駒場野公園。ストレッチをして解散となりました。有志の呑兵衛会員が少なかったので、女性を含めて三宿の夢吟坊でうどんを食べて帰途につきました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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