目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第17回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークショートコース実踏

2019-06-25 11:38:23 | ウォーキング
毎年梅雨真っ最中のこの時期に行われるので雨に見舞われることが多いのですが、今年はパラパラ程度の雨で済んでラッキーでした。


芝公園から東京タワー
ショートコースのスタート地点、当初とある大学にお願いしようと交渉を進めていたのですが今年は実現できず、芝公園4号地をスタート地点に決めました。寛永寺の多くの敷地が上野公園になったのと同様に、増上寺の敷地は明治維新後芝公園となりました。私の中で芝公園は、都立芝公園、港区立芝公園、プリンス芝公園の三つの芝公園なのですが、Wikipediaでは二つの芝公園について言及しています。Wikipediaから一部引用します。
芝公園(しばこうえん)は、東京都港区にある公園である。一般的に、都立芝公園と港区立芝公園の総称。また、「芝公園」は港区の町名でもあり、芝公園一丁目から芝公園四丁目まで存在する。この記事では、公園と町名の双方について述べる。

概要
芝公園は増上寺を中心とした緑地帯(都立公園)であり、1873年(明治6年)の開園と、東京都内でも上野恩賜公園などと並ぶ古い公園である。元々は増上寺境内の敷地を公園としていた。しかし戦後の政教分離の考えにより、増上寺の敷地とは独立して宗教色のない都立公園として新たに遊具や運動施設などが設けられ、整備された。そのため、現在の公園の敷地は増上寺を取り囲むような形状になっている。
公園内にホテル、学校、図書館などの施設が点在するほか、グラウンドや散策路などがあり広大な公園施設となっている。また、園内には前方後円墳の芝丸山古墳、丸山貝塚もある。
東端には港区役所、西端には東京タワーが建ち、特に東京タワーを正面に望む東側の散策路はデートスポットとして、ロケ撮影地として親しまれる。
また、芝公園の名称は周辺一帯の町名(芝公園一丁目から芝公園四丁目)としても使われている他、地下鉄の駅名(都営地下鉄三田線芝公園駅)や高速道路の出入口の名称(首都高速都心環状線芝公園出入口)にもなっている。

歴史
古くはこの地は飯倉御厨と呼ばれる伊勢神宮の荘園であった。
江戸期の増上寺の総構えのわずかに東に位置する芝大神宮がかつては増上寺や東京タワーの場所にあった。芝大神宮は天照皇大御神 - 伊勢神宮内宮の主祭神、豊受大御神 - 伊勢神宮外宮の主祭神を奉る。

沿革
1598年(慶長3年) - 増上寺が徳川家康によって麹町から現在の芝の地に移される。
1873年(明治6年)10月19日 - 芝公園が開園する。また、公園敷地が芝公園地1-25号地の計25区画に振り分けられる。


伊勢神宮の荘園だっとは意外でした。「芝公園4号地」とは一般的になじみのない呼び方ですが、開園初期に振り分けられたのですね。4号地の詳細を見ると「芝公園4号地 港区芝公園三丁目2番、 御成門駅、港区立みなと図書館。御成門小学校、都立芝公園」となっており、4号地にある芝公園をお鷹狩りウォークのために目黒区が借りたということになるようです。ちなみに増上寺は2号地、東京タワーは20号地となっています。


芝丸山古墳
芝公園をスタートし御成門、有章院霊廟二天門と見どころが続きます。ロングコース実踏の時、二天門は覆われて見ることができなかったのですが、今回はきれになった姿を少し見ることができました。お鷹狩り本番の際には覆いがすべて取り払われた奇麗な二天門を見ることができるでしょう。
日比谷通りを南下して増上寺三解脱門、台徳院霊廟惣門、港区立芝公園平和の灯を見て、芝丸山古墳をかすめるようにしてプリンス芝公園へ進み、赤羽橋交差点へ至ります。ここからロングコースは桜田通りを南下しますが、ショートコースは外苑東通りを西へ向かいます。


首都高芝公園入口
入口手前に横断歩道がありますが、事故が起きないよう細心の注意が必要です。


新一の橋交差点

暗闇坂
新一の橋交差点を横断し、鳥居坂下で左折して暗闇坂を上るルートを設定しました。暗闇坂は歩道が狭いところに工事で出っ張っていて余計狭くなっています。実踏後の実行委員会で検討した結果、実踏通り暗闇坂を上ることになりました。


西町インターナショナルスクール
Wikipediaから引用します。
西町インターナショナルスクール(Nishimachi International School)は、東京都港区にあるインターナショナルスクールである。

概要
1949年(昭和24年)に松方種子によって設立され、現在はWASC認定校、CIS認定校となっている。男女共学であり、5歳から15歳(キンダーガーテンから9年生)までの生徒を受け入れている。学校の教育理念は、「国際的な視野を与え、 人間性の豊かな育成を通して、人間相互の違いと多様性を受け入れる精神を育てる事」。
群馬県桐生市にある黒保根中学校と黒保根小学校との交流事業があり、運動会・もちつき大会などに招待し、また小学校から中学校にかけてホームステイ交流も行っている。

松方ハウス
敷地内にある松方ハウスは、もともとは松方正熊の邸宅であった。ウィリアム・メレル・ボーリズにより設計され、竹中工務店によって建設された。太平洋戦争に伴い松方家が疎開することになったため、邸宅は在日本スウェーデン大使館に貸し出されることになった。その後、さまざまな国の在外公館などとして転用されたのち、松方家に返却された。正熊の娘である松方種子が西町インターナショナルスクールを設立したことから、教室などとして転用された。2000年に、東京都選定歴史的建造物に選定された。


暗闇坂を上り切って一本松坂を進みますが、今回は仙台坂上まで直進せずに西町インターナショナルスクールの前を通り西側の車の通行が少ない裏通りを歩きました。一本松坂の通りは一方通行の割に車道は広く歩道が狭い歩きにくい通りになっています。


有栖川公園
公園についてWikipediaから引用します。
有栖川宮記念公園(ありすがわのみやきねんこうえん)は、東京都港区南麻布にある公園である。
かつての有栖川宮の御用地(有栖川宮御用地)に造られた公園で、現在は港区が所管している。単に「有栖川公園(ありすがわこうえん)」とも呼ばれる。

概要
有栖川宮記念公園は、都心には稀な閑雅な地であり、園内は起伏に富み、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっている。公園の西端にあって外苑西通りや広尾駅方面からの入口となる『有栖川公園前』交差点付近が最も標高が低く、その周辺から右手には南部坂、左には木下坂という、いずれも急坂が公園に沿って上っている。
丘陵より渓谷を下って池畔に至る地形やその周辺に茂る樹木は、日本古来の林泉式の修景による高雅な自然趣味の庭園を呈する。また、園内にはウメやスイレン、ハナミズキなどをはじめとする四季折々の花も多く、秋にはカエデの紅葉も楽しめる。
南東側のドイツ大使館に面した広場には、騎馬像の「有栖川宮熾仁親王銅像」をはじめ、「笛吹き少年の像」、「新聞少年の像」がある。東側の高台には、東京都立中央図書館が併設されている。
所在地は広尾地区に隣接し、最寄駅は広尾駅である。

歴史
江戸時代には陸奥盛岡藩下屋敷であった。1896年(明治29年)に、有栖川宮威仁親王が霞ヶ関の御殿から移動する運びとなり、代替地として御用地となった。威仁親王の生母(有栖川宮幟仁親王の側室)・森則子の住居等が設けられた。御用地は有栖川家が断絶すると、1913年(大正2年)には同家の祭祀を引き継いだ高松宮に継承され、高松宮御用地となった。
児童の健康や自然に格別の関心を持っていた高松宮は1934年(昭和9年)1月5日、有栖川宮の没後20年の命日にちなんで御用地約11,000坪(36,325m2)を公園地として東京市に下賜された。東京市はただちに整備工事を開始。有栖川宮記念公園と命名され、同年11月に開園・開放された。
1973年(昭和48年)4月1日、有栖川宮熾仁親王の銅像から北東部の一帯、東京都立中央図書館や港区立麻布運動場等が位置する31,235m2が公園に編入された。その後、1975年(昭和50年)には東京都から港区に移管され、区立公園となった。


この公園でショートコースのトイレ休憩とします。
ナショナル麻布スーパーマーケットの交差点に出て、広尾橋交差点、広尾商店街をぬけて広尾5交差点で明治通りを横断します。そのまま恵比寿通りまで直進せずに広尾病院裏の路地を歩き、社会教育館交差点を横断して、その先右折してサッポロビール本社前へ至ります。


ムサシノキスゲ?
サッポロビール本社前に咲いていたのがキスゲなのか、ゼンテイカなのか、カンゾウなのかわからないので、それらしい名前にしておきました。見分けるのが難しいですよね。
歩道の広いクスノキ通り、恵比寿南橋、茶屋坂を歩き田道ふれあい館でゴールでした。ストレッチ後実行委員会を行い、原案通りコースは承認されました。

有志はガーデンプレイスへ戻りライオングラススクエア店で美味しいビールをいただきました。前回あてまくった三角くじのただビールを飲み、今回もブーツグラスで三角くじに挑戦しましたが、思ったほど当たらず。前回運を使い果たした?そういえばオリンピック観戦も誰もあたらなかったようだし。。。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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めぐろウォーキング塾地区合同ウォーキング

2019-06-24 11:11:50 | ウォーキング
目黒ウォーキング塾はこの日の地区合同ウォーキングを含めて残り二回となりました。心配していた雨も中止を検討するほどでもなく、ウォーキング中にパラパラと降っていたものの無事実施することができました。
この週末は目黒ウォーキング協会の事業で土日が占められてしまうため、すこやか歩こう会の活動はありません。


碑文谷体育館
ウォーキング塾は碑文谷体育館で行われているので、集合は碑文谷体育館です。中央地区の体育の拠点として様々な活動が行われている碑文谷体育館ですが、かつては第一勧業銀行の施設で、勧銀女子バスケットボール部の拠点でした。このクラブについてWikipediaから引用します。
第一勧業銀行DKBハーティーズ(だいいちかんぎょうぎんこう―)は、かつて存在した女子バスケットボールチームである。母体は第一勧業銀行(現・みずほ銀行)。本拠地は東京都目黒区。

歴史
1951年、日本勧業銀行女子バスケットボール部として発足。
1968年の第1回日本リーグに参加。
1973年にオールジャパン優勝を果たし、日本リーグでも第8回(1974/75)と第14回(1980/81)を制した古豪として知られた。

その後低迷し、2部落ちとなるものの1988年に元全日本の北原憲彦がヘッドコーチに就任すると、1989年の日本リーグ2部優勝、1993年の1部復帰し1シーズン目で3位と健闘する。
北原の退任後は再び2部落ちとなり、復帰後の2000年にチーム名に「DKB」を加えて、W1リーグ優勝を果たすも本社のリストラにより廃部。
なお第一勧銀とともに後にみずほ銀行・みずほコーポレート銀行の母体となる富士銀行・日本興業銀行も女子バスケットボールチームを持っていてともに日本リーグに参加していた。


ストレッチの後南部、中央、西部、東部、北部の順番でスタートしてウォーキング開始です。碑文谷体育館は中央地区といってもすぐ西側は世田谷区下馬となり、住所は碑文谷六丁目です。碑文谷一丁目には円融寺があり、村社の碑文谷八幡宮は碑文谷三丁目です。かつてこのあたりが碑文谷村の中心で、碑文谷体育館に隣接する碑文谷公園と共に下馬牽澤村との村境に位置しています。体育館テニスコートの西側の道はかつての鎌倉街道です。碑文谷公園についてもWikipediaから歴史を引用します。
公園の中心になっている碑文谷池は古来より水田灌漑用の貯水池として地元の人々に大切に維持・管理されてきた池で、まだ当地付近が農村であった頃は現在よりも大きく、地元の人々にとって欠かせない存在であった。昔は当時の地名をとって「三谷の池」と呼ばれていた。また、この池は同じ区内にある清水池公園にある清水池と共に立会川の水源にもなっている。近代以降付近が住宅地へと変化していく中、碑文谷池の永久保存を条件に、1932年当時の東京市に付近の土地と共に寄贈され、公園として整備され1933年11月15日に碑文谷公園として開園した。1950年10月1日に目黒区に管轄が移り、現在に至っている。碑文谷池を中心に遊具や樹木があるほか、一角にはポニーやウサギなど動物に触れられる「こども動物広場」がある。2001年には公園に隣接してあった旧第一勧業銀行碑文谷グラウンドも公園用地として取得し、野球場やテニスコート・体育館も併設され(目黒区立碑文谷体育館)目黒区内でも有数の規模の公園になった。

歩き始めるとすぐに世田谷区下馬となり、環状七号線と駒沢通りの交差点を渡ります。この交差点を渡った先は目黒区柿の木坂でこの部分は世田谷区が南に突き出している感じなのは、下馬牽澤村と碑文谷村の力関係?環七野沢交差点から駒沢通りにかけて品川用水が流れていたので、品川用水が村境でもよかったと思うのですが、用水の南側に世田谷区が突き出しているのですよね。
柿の木坂はどの坂をさすのかよくわかりませんが、どの坂にしても呑川の谷が作った坂になります。駒沢通りに呑川柿の木坂支流の谷があるのですが、底部はかさ上げして谷を緩くしているようです。ウォーキングは柿の木坂支流を遡ります。東が丘一丁目に芳窪街かど公園がありそれを目印に駒沢公園方面へ左折します。呑川柿の木坂支流はかつて芳窪川と呼ばれていたと説明しました。このあたり町名が東が丘で小学校名が東根です。地名の由来を目黒区のページから引用してみましょう。
目黒の地名 東が丘(ひがしがおか)
更新日:2014年2月3日

「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 東が丘
「東が丘」という地名が誕生したのは、昭和39年7月1日、東京オリンピックが開催された年である。同年から住居表示制度が本区でも実施されることになり、この東が丘は、八雲と同時に、初名乗りを上げたのである。
その昔この辺りは、衾村字東根の一部であったが、明治22年に町村制が施行されて碑衾村大字衾字東大原・字東上芳窪・字東下芳窪・字東下原となった。昭和2年の碑衾町を経て、目黒区が誕生した昭和7年からは、大原町・芳窪町と呼ばれてきた。
では、なぜ東が丘という地名が生まれたのであろうか。住居表示化に先駆けて地元住民にどのような名称にするかを諮ったところ、良い案もなく区は、町村制施行まで親しまれていた「東根」を提案した。ところが、「東根」は現代感覚に合わないという声が住民から上がったので、それならばと区は、昔からこの地域は「東」という文字が多く使われていたことから、「東」を用いた近代的な名称をということで、「東が丘」を考え出した。
これに対して地元住民の間では、「いや東根でいいのだ」「東が丘で構わない」といった賛否両論が渦巻き、学識経験者を交えて賛成派・反対派の意見を区が聴取するまでに問題は発展したが、結局、東が丘に落ち着いた。ところで、東が丘の「が」を今まで使われていた「ヶ」という文字にしなかったのは、「…できるだけ読みやすく、かつ、簡明なものにすること。」という「住居表示に関する法律」に基づいたからである。
目黒地域の開発は昭和とともに始まったともいえるが、この東が丘一帯は、交通の不便さもあって開けるのが遅れた。宅地化されたのは、戦後になってからのことである。こうした遅れが幸いしてか、今日でも緑が濃く、閑静な環境にあり、住宅地として好適地となっている。なお、「東根」は住区名として使われている。



駒沢公園にある聖火台

池のカルガモ
駒沢公園に入り聖火台を見に行ったのですが、カルガモがふた家族いてその愛らしい姿に癒されました。スロープを上るカルガモを撮り損ねたので、Youtubeで探してみました。
2019年6月5日 駒沢公園のカルガモ親子2雛が無事家族のもとへ



東京オリンピックメモリアルギャラリー
ギャラリーについて東京とスポーツ文化事業団のページを引用します。
1964年の第18回オリンピック東京大会を中心に、オリンピックの諸資料を展示しています。常設展では、聖火リレートーチ(1.2kg)など競技に使われた用具に直接手で触れて、その重さを体感できるほか、種目別の特別企画展を一ヶ月毎に開催しています。また、スポーツを体験・体感できるゾーンがあり、世界の記録などを身近に感じることができます。小中学校などの団体入場の場合は、事前に申し込みがあれば説明や案内などに対応しています。


駒沢公園の給水塔
ギャラリーでのトイレ休憩を終えてウォーキングを再開。第一陸橋で駒沢通りを渡り、公園内を南下しました。正面に見えていた巨大マンション群は都立大学跡地の都営住宅ですね。呑川駒沢支流から東へ向かい衾町公園、八雲の高級住宅街を抜け、柿の木坂通りを渡り、呑川柿の木坂支流の谷へ下りてゆきます。川沿いにさかのぼり駒沢通りからは元来た道を戻りましたが、碑文谷体育館隣にある日大水泳部合宿所前にある古橋廣之進のモニュメントを見学し体育館に戻りました。ストレッチ中に雨が強くなりましたが、傘をささずに歩いてゴールできたのはラッキーでした。
体育館三階会議室で目黒ウォーキング協会の成り立ちを説明した後、北部、東部、中央、南部、西部の順番で各クラブの特徴をアピールするプレゼンテーション。塾生の心を打つプレゼンテーションはあったでしょうか。

反省会はすこやか歩こう会のone of クラブハウス、天狗でおこのみ宴会。大いに飲んで食べました。


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【下見】仙川上流部

2019-06-17 16:41:57 | ウォーキング
野川シリーズとして支流である仙川を歩こうと思っています。実際に歩くのは9月以降ですが、涼しい日がある今のうちに下見をしておきます。

地図で辿ってみるととぎれとぎれに川がありGoogleマップで見ても様子がわからないところが多く、下見が必要と判断しました。


小金井市本町の公園
武蔵小金井駅は本町にあり、この町に市役所があることから小金井の中心地と見て間違いないようです。小金井は「黄金」のような貴重な水源を意味しており、国分寺崖線からの湧水により古くから人が住むのに適していたのでしょう。武蔵の国の国府、府中とも隣接しており家康が江戸を開発する前は、東国の中心地でした。遊んでいる子供が多いので微妙ですが、ここでストレッチが出来るかな。


けやき通り

学芸大学
公園がある上之原通りの一本北側にけやき通りがあり、その突き当りが東京学芸大学になります。大学についてWikipediaから概観を引用します。
1949年(昭和24年)にそれまでの東京府立の東京府師範学校や東京府女子師範学校から派生した4つの師範学校(東京第一師範学校・同女子部、東京第二師範学校・同女子部、東京第三師範学校、東京青年師範学校)を母体に統合してできた大学である。
全国の教員養成機関は、それまでの「師範学校」(ノーマル・スクール)から米国のリベラル・アーツ・カレッジに倣って大学に昇格したため、それを日本語に訳した「学芸大学」・「学芸学部」を名乗っていたが、1966年(昭和41年)の法律の改正により、より大学の性格を明瞭化した「教育大学」・「教育学部」へと一斉に改称した。しかし、都内には東京教育大学(現・筑波大学)がすでに存在していたため、大学名「東京学芸大学」はそのままで、「学芸学部」を「教育学部」に、「学芸専攻科」を「教育専攻科」(1988年(昭和63年)廃止)に変更するにとどまった。
また、同年には大学院教育学研究科(修士課程)が設置された。
1988年に、それまでの幼稚園・小学校・中学校・高等学校などの教員を養成する「教育系」に加えて、教員免許状の取得を必須としない「教養系」(いわゆるゼロ免課程)が発足した。これにより幼・小・中・高の教員だけでなく、多様な方面へも人材を輩出している。
1996年(平成8年)には、本学・埼玉大学・千葉大学・横浜国立大学の教育学部(教育人間科学部)および教育学研究科からなる「東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科」が設置された。これは、兵庫教育大学大学院連合学校教育学研究科(兵庫教育大学、上越教育大学、鳴門教育大学、岡山大学)とともに、国内で初めて教員養成系大学・学部に設置された博士課程である。
教育学の実践研究および教育実習を行う機関として、附属幼稚園1園(2園舎)、附属小学校4校、附属中学校3校、附属高等学校1校、附属国際中等教育学校1校、附属特別支援学校1校、合計12の附属学校・園を併設している。


大河ドラマ「いだてん」が女子体育教育を進めているのが東京第二師範学校女子部(通称竹早)は学芸大学の流れですが、嘉納治五郎が校長を務めるのは東京高等師範で東京教育大学、筑波大学の流れですね。私が小学生の頃には「先生は青山師範の出で」なんて話を聞いたことがあります。中学時代の恩師山川先生は東京学芸大学の出身でした。


仙川上流端

裏から見た様子
小金井市貫井の新小金井街道沿いにこの上流端はあります。ここから野川合流点まで歩けば、仙川制覇となるでしょう。


本町住宅内の仙川
このあたり水は流れていません。暗渠になっていないということは、雨水が流れ込んだりするのか、このあたりの住宅開発時、下水として転用する必要がなかったのか。


本町住宅内のユリ

山王窪の築樋

山王稲穂神社
玉川上水から引いた用水と仙川を交差させるための築樋があったようです。


仙川
このあたりも水の流れはないのですが、ぎりぎりまで住宅が建ってしまっているので川沿いを歩けないところが多く出てきます。



大松木之下の稲荷
小金井街道と北大通りの交差点にありました。大松が目印だったのかもしれませんね。


本町三丁目の仙川
北大通りからほぼ直角に北へ流れを変えます。ここも川沿いの道がないので、川と並行している道を行きました。


南陣屋橋
桜町と緑町の境にあるこの橋から、川沿いに細い通路がありました。ここを歩くかどうかちょっと微妙ですが、ここを歩かないとまたまたけっこうな遠回りとなるので考えどころです。



ネムノキ

浴恩館

じろうばし
浴恩館は小金井市の文化財センターです。小金井市のページから引用します。
文化財センターは、市内から発見された考古資料・古文書・民具等の文化財を保存・展示し、身近な郷土の歴史に親しんでいただくための施設です。
この建物は、「浴恩館」と呼ばれ、昭和5年(西暦1930年)から青年団講習所として使われた由緒のある建物です。講習所長であった下村湖人の小説『次郎物語』の舞台としても知られ、空林荘と共に、市史跡に指定されています。



梶野町の仙川
緑町内は川沿いにほとんど道はなく、梶野町へ移動してきました。この写真の右側に母校の高校があるのですが、私が通っていたころは移転前の文京区後楽にあったもので、母校という意識は持っていません。


ブルーベリー
小金井公園に近いこの辺りは畑が多いですね。



桜堤の仙川

ユリ
現在は巨大マンション群となっていますが、かつて公団の団地があったようです。いつの間にか水が流れ、川で遊ぶ家族の姿がありました。


武蔵野市境の仙川
亜細亜大学の中を流れてゆくので、このあたりも川沿いを歩くことができません。この日の下見はここまで。川沿いを歩けないことを確認した下見となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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第17回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク実踏

2019-06-12 09:17:49 | ウォーキング
以前にもお知らせしている通り11月3日に500人を集めて皇居から目黒まで歩く通称「お鷹狩りウォーク」を目黒区主催、目黒ウォーキング協会主管で実施します。ショートコースを設定するので500人全員が皇居から歩くわけではありませんが、この企画は2003年江戸開府400年を記念する事業として始まり現在まで続いています。
江戸時代の目黒は武蔵国に属する江戸への野菜供給地であり、江戸庶民の日帰り観光地でもありました。現代のイメージでいうと高尾山や千葉県の大多喜くらいのイメージでしょうか。筍の供給地でもあったし。徳川将軍が目黒に来る目的は鷹狩りです。その鷹狩りを再現する意味を込めて、皇居(今回は日比谷公園)から目黒まで隊列を組みマーチ形式でウォーキングするイベントです。実行委員が誘導するマーチ形式なので、フリーウォークでは設定できないような普段通ることの無い道を歩くことができるのがお鷹狩りウォークの魅力です。

昨年まで16回、幸いなことに中止になるほどの雨にあうこともなく実施してきましたが、同じコースを歩いたことは一度もありません。近年は協会事務局が作成したコース案を実行委員が「実踏」と称し実際に歩いて評価しコースを決定しています。この日は40名弱の実行委員がお鷹狩りのロングコースを実踏しました。



日比谷公園雲形池

アカンサス
日比谷公園健康広場に集合し、コース案の説明、ストレッチをしてスタートしました。日比谷公園を帝国ホテル方面へ抜けることが多いのですが、今回はあまり通ることがない雲形池を見ることにします。松本楼についてWikipediaから引用します。
概要
1903年に東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、銀座で食堂を経営していた 小坂梅吉が落札し、日比谷松本楼として6月1日にオープンした。当時としては珍しい洋風レストランに人気が集まり、1906年秋には「東京料理店番付」で西の関脇に選ばれたほどだった。
日比谷公園が日比谷焼打事件など、度々政治活動の舞台となっていたこともあり、大正初期の第一次護憲運動ではバルコニーから憲政擁護の演説が行われた。
1923年に関東大震災により焼失。その後バラック住宅から復活し、これを機に小坂光雄が2代目社長となる。梅吉はその後1936年に貴族院議員に当選している。太平洋戦争に突入するまで、引き続き人気のあるレストランとして日比谷公園の顔になった。
しかし1942年に東京に空襲が始まると日比谷公園が軍の陣地となり、1945年2月、遂に松本楼が海軍省の将校宿舎となった。終戦後には進駐してきたGHQの宿舎として接収され、約7年にわたり営業できない日々が続いた。1951年11月にようやく接収が解かれ、松本楼は再スタートを切る。
その後も日比谷公園で営業を続けていたが、1971年11月19日、沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し(日比谷暴動事件)、その中で中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、2代目建物も焼失の憂き目にあう。3代目松本楼のオープンは1973年9月26日と再建に約2年を要した。これを機に10円カレーが始まる(後述)。
3代目建物には結婚披露宴会場、大小の宴会場やフランス料理コースの個室など、様々なニーズに応えた設備も登場。2度の焼失にあいながらも1983年には創業80年記念に1日店長として森繁久弥を迎え、2003年には創業100年を迎え、現在に至っている。
第二次世界大戦前には、日本に亡命していた中華民国初代総統の孫文やインド独立活動家のラース・ビハーリー・ボース、また2008年には中華人民共和国の胡錦濤国家主席も来店した。文学の面では高村光太郎の智恵子抄をはじめ、夏目漱石、松本清張などの作品にも松本楼が舞台として登場し、時代を超えて公園の象徴的存在の一つであり続けている。毎年4月2日には高村光太郎の忌日「連翹忌」の集いが行われている(1999年の第43回から、松本楼に会場が移された)。

10円カレー
1971年の2度目の焼失では、警備員1人が犠牲になるなど被害も大きかった。歴史あるレストランが焼失したこの知らせに全国から再興の願いが集まり、3代目松本楼がオープンできた。これに感謝の意を示す記念行事として、松本楼は「10円カレー」セールを始めた。通常は880円(2015年時点)のハイカラビーフカレーが、1973年以来毎年9月25日に限り、先着1500名に限り10円で振る舞われ、現在も毎年この日には大勢の来客があり、度々ニュースでも取り上げられている。10円を受け取るのは「無料ではお客様としてもてなすことにならない」という趣旨であり、代金以外に寄付金を置いていく人が多い。カレーの売上や寄付金は交通遺児育英会や日本ユニセフ協会などに渡され、1995年には阪神淡路大震災の義援金として贈られた。「10円カレー」は秋の季語にもなっている。

本店
1階は洋食レストラン「グリル&ガーデンテラス」、3階はコース料理が主の仏蘭西料理レストラン「ボア・ド・ブローニュ」、2階と3階は個室・宴会場として営業。

支店
東京都に6店、横浜市に1店、さいたま市に1店が営業中。
 有明 (東京ビッグサイト北コンコース1階) - カフェテリア式
 本郷 (東京大学工学部2号館1階)
 目白 (学習院大学目白キャンパス中央教育研究等12階)
 西池袋 (立教大学池袋キャンパス内セントポールズ会館1階)
 若松河田 (東京女子医科大学病院総合外来センター3階)
 三鷹 (杏林大学医学部付属病院外来棟6階)
 横浜 (相鉄ジョイナス地下1階)
 大宮 (大宮ルミネ2 4階)

エピソード
現在の取締役副社長である小坂文乃の曾祖父・梅屋庄吉(日活の前身のひとつであるM・パテー商会の創業者)が孫文と交流があった。


その他今回見たものについて引用します。
首かけイチョウ
首かけイチョウ(くびかけイチョウ)は、東京都千代田区の日比谷公園内に生育するイチョウの巨木である。樹齢は推定で400年以上とされ、かつての生育場所は現在の日比谷交差点付近であった。1901年(明治34年)、日比谷通りの拡幅工事に伴って伐採されようとしていたこの木を、本多静六(日比谷公園の設計者として知られる)が「私の首をかけよう」と強く主張して救ったのがその名の由来である
1971年(昭和46年)11月19日、すぐそばにあるレストラン「松本楼」が過激派組織が投げた火炎ビンの被害を受けて全焼した際に、この木も類焼して黒焦げになった。それでも翌年春には新芽を吹いて回復の兆しを見せ、火災で受けたダメージから無事に蘇った。日比谷公園内ではもっとも幹周の太い木であり、公園を代表する樹木として人々にも親しまれている。しばしば「首賭けイチョウ」とも表記される。
引用元:Wikipedia

石橋
 この石橋は、芝増上寺霊廟の旧御成門前桜川にかけてあった石橋の一つで、市区改正(現在の都市計画事業)の道路構築の時、ここに移したと伝えられています。
 素朴なうちにも力強く、江戸時代の彫りの深さを漂わせています。

馬の水飲み
 日比谷公園開設当時(明治36年)の照明灯(アーク灯)と、同じデザインで作られた鋳鉄製の水飲みです。陸上交通の重要な部分をになっていた馬が、水を飲んだといわれています。

京橋の欄干柱
 この石柱は、明治8年(1875)築造された京橋の欄干柱(らんかんばしら)で、大正11年(1922)架け替えの際にここに移されたものです。
 当時は、橋名を刻んだ親柱もありましたが、昭和9年(1934)京橋の橋台地が整備されたときそちらへ移されました。

雲形池
 心字池と共に日比谷公園開園当時からの面影を残すドイツ風庭園様式の池です。池内には、はばたく姿の『鶴の噴水』が置かれ、緑に覆われた静けさの中で、心地よい水音を響かせています。冬になると、その広げた翼からいくつものつららが下がり、その姿は公園の冬の風物詩になっています。

鶴の噴水
 この噴水は、明治38年頃東京美術学校(現在の東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声両氏に依頼製作したもので、公園等での装飾用噴水としては、日本で3番目に古いものとのことです。
 ちなみに1番目は長崎諏訪神社、2番目は大阪箕面公園
 当初は、鶴と台座とも銅製でしたが戦時中の金属回収で台座が石造りとなったものの、水面に薄氷が張り鶴の像につららが下がる景色は、当公園の冬の風物詩となっています。
引用元:http://tokyochiyoda.blog.shinobi.jp


日比谷公園を霞門から出て「東京都道301号白山祝田田町線」を南南西方面へ向かいます。この通り、地図上でも様々な名称となっており面白いですが、何が正式なのかわからないとので、この部分は祝田通りとしておきましょう。外堀通り交差点から南は愛宕通りとなっており、休日のビジネス街は人が少なく歩道が広いこの通りはとても歩きやすいです。ただ、交差点ごとに信号待ち。


虎ノ門ヒルズ

愛宕山NHK放送博物館
御成門中学の交差点は歩行者用の横断歩道がなく、歩道橋を避けて東へ向かい日比谷通りの信号を渡って、芝公園に入り一度目のトイレ休憩です。ここまで30分でトイレ休憩には早いのですが、あとのことを考えるとここを利用するのが賢明でしょう。この芝公園はショートコースのスタート地点に予定しており、開会式の時間的制約を考えなくてはなりません。


芝公園より東京タワー
再スタート後は御成門を見て改修中の二天門、増上寺三解脱門、台徳院霊廟惣門の前を通り港区立芝公園へ向かいます。三解脱門についてWikipediaから引用します。
三解脱門(さんげだつもん、重要文化財) - 戦災を免れた建物の1つで、元和8年(1622年)建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

プリンス芝公園で平和の灯を見て、芝丸山古墳を下から眺めてからプリンス芝公園の広々とした庭を歩きます。これらも引用します。
平和の灯
平成17年8月15日、「港区平和都市宣言」を行ってから20年が経ちました。これを記念し、区立芝公園に設置しました。ここに灯された「火」は広島市の「平和の灯(ともしび)」、福岡県八女市の「平和の火」、長崎市の「ナガサキ誓いの火」をあわせたものです。
この灯(ひ)を通じて、戦争の惨禍と平和の尊さを後世に伝えてまいります。
引用元:港区のホームページ

芝丸山古墳
築造は5世紀中頃過ぎ(4世紀後半との説もある)とみられ、墳丘長125メートル(案内板では106メートル前後)という都内では最大級の規模である。江戸時代には後円部頂が崩され、広場になっていたとみられている。
1892年(明治25年)、3年間の欧州留学を終えた自然人類学者坪井正五郎は日本へ帰国する船上、故郷の風景を思い浮かべていると芝公園内にある丸山の高さに不自然さを感じた。翌年の1893年(明治26年)に坪井が調査をしたところ埴輪や須恵器などの遺物を発見した。しかし遺構らしいものは確認できず、発見された遺物も周囲の小型円墳由来である可能性も否定できなかった。
1979年(昭和54年)3月31日に東京都指定史跡に指定された。
引用元:Wikipedia



高輪皇族邸
赤羽橋から桜田通りを南下し、聖坂を上ります。亀塚公園、御田小学校前、伊皿子を通り、高輪皇族邸を過ぎたところで右に曲がり北西へ進路を変えます。このあたりも引用してみましょう。
聖坂(ひじりざか)は東京都港区三田四丁目にある坂。田町側から上ると内陸側に、三田中学校、クウェート大使館、阿含宗関東別院が存在し、同方角から潮見坂、幽霊坂から注ぎ込む形で交差し、海側に済海寺、亀塚公園、御田八幡神社が存在する。そのまま進むと伊皿子坂と魚籃坂からなる道路と交差して二本榎通りと名称を変える。

名称の由来
高野聖が開いた古代中世の通行路で、その宿所も同所に存在したためこの名称が付けられたとされる。「竹芝の坂」もしくは「竹芝坂」とも呼ばれた。

歴史
本道は古奥州街道にあたり、江戸が開府して東海道が開かれるまで、東国と西国を結ぶ主要道路であった。江戸時代まで坂は斜面ではなく緩やかな階段状を成していた。この階段の存在は『江戸名所図会』によっても確認することが可能である。
引用元:Wikipedia

亀塚公園(かめづかこうえん)は、東京都港区三田四丁目16番20号にある児童公園。隣に済海寺が、また敷地内に亀塚公園前交番(三田警察署管内)がある。 

名称の由来
亀塚の名称の由来は複数伝えられている。
 円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
 竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。

歴史
縄文時代の住居跡が発掘されている。
江戸時代は上野沼田藩土岐伊勢守、下屋敷で明治維新後は皇族華頂宮家が日本橋浜町の元諏訪藩邸跡から本所に移る。大正13年同宮家断絶後は一時期内大臣邸となったが昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園は破壊される。その後公園として整備され昭和27年11月3日港区立亀塚公園として開園するに至る。

今日の姿
円墳上部には登ることができ、かつてはそこから360度の方角で東京全体を展望できたが(昭和30年代までは房総半島を視認することが出来たとのこと)、現在は御田八幡神社側に樹木が生い茂り遠望は望めない。華頂宮邸時代の外壁はそのまま存在し、公園を取り囲んでおり独特の雰囲気を醸し出している。
公園内にあるフラーレン型の遊戯具はもともと御田小学校内に敷設されていたものだが、昭和40年代に同所に移設されたものである。公園の南西部のフリー・スペースは、元は防衛庁の官舎群が存在したが、港区に払い下げられ、その維持・管理については地域住民が計画初期から参画するワークショップ方式が採用され運営されている。そうした試みにもかかわらず現在、平日では公園で遊んでいる子供の姿は殆ど見られず閑散としている。
引用元:Wikipedia

伊皿子坂(いさらござか)は、東京都港区三田四丁目、高輪二丁目の間に存在する坂。

地形
泉岳寺から上り坂に入り、頂上で魚籃坂に繋がる。江戸時代には、この坂から江戸湾が一望に見渡せた。付近には高輪皇族邸(旧高松宮邸)がある。

名称の由来
およそ1600年頃に、来日した明人が当地に帰化し、当時の外国人の呼称「エビス」「イベス」から自らを「伊皿子」(いびす)と名乗ったという。この帰化人の名が「伊皿子」という町名の由来とされる。
明国人「伊皿子」の墓所は高輪の浄土真宗本願寺派正源寺にある。
引用元:Wikipedia

高輪皇族邸(たかなわこうぞくてい)とは、東京都港区高輪にある宮内庁管轄の施設。大正時代に東宮御所が置かれ、戦前は「高輪御殿」と通称された。1931年(昭和6年)から2004年(平成16年)まで高松宮宣仁親王(1987年薨去)と宣仁親王妃喜久子の住まいだった。

歴史
宣仁親王は8歳で「高松宮」の宮号を下賜されたあとも引き続き、1904年(明治37年)築の青山東御殿(皇子御殿、明治時代は『皇孫御殿』と通称)に住まい、1922年に威仁親王妃慰子が薨去したあとは東京市麹町区三年町(現・東京都千代田区永田町、内閣府庁舎付近)にあった有栖川宮邸を継承した。
昭和に入り、三年町の本邸が外務大臣官邸に転用されることに伴い、高松宮邸は芝区高輪西台町(現・港区高輪一丁目)の高輪御殿(高輪御所)に移転した。高輪御殿は熊本藩細川家の下屋敷跡地の一部で、1891年(明治24年)、明治天皇第六皇女・常宮昌子内親王と第七皇女・周宮房子内親王の住まいに定められ、1915年(大正4年)から1924年(大正13)までは皇太子裕仁親王の東宮御所だった。
高松宮邸となった高輪御殿には1931年(昭和6年)、宮内省内匠寮の設計による洋風の本館と和館が竣工。本館の外観はチューダー様式、内装は折衷様式とし、1階は公室として謁見室、大食堂、新食堂(茶会・晩餐会用)などが、2階は私室として殿下御書斎、妃殿下御居間などが設けられた。また庭園には神殿(有栖川御霊殿。戦後、近江神宮に移築)を鎮座した。
幸い、太平洋戦争の空襲被害には遭わなかったが、広大な敷地は戦後、財産税物納のため半分に縮小され、払い下げられた場所には港区立高松中学校や都営高輪一丁目アパートなどが建てられた。
また本館は1949年(昭和24年)、貿易庁の迎賓施設「光輪閣」として改装。かつて宣仁親王の国際関係特別秘書官であった川添浩史を支配人に据え、連合国軍最高司令官総司令部の高官や大公使などを接待したり結婚披露宴を催す施設に転用された。夏季は、邸内のプールを近隣の子供たちに開放した時期もあった。
光輪閣を出た宣仁親王夫妻は木造平屋建ての和館で起居していたが、光輪閣は老朽化で1972年(昭和47年)に解体され、翌年、跡地に再び鉄筋コンクリート造平屋建の宮邸本館を建設。2004年(平成16年)に宣仁親王妃喜久子が薨去するまで使用した。

宣仁親王及び宣仁親王妃喜久子薨去後
現在、宮邸敷地および邸宅は「高輪皇族邸」として無人のまま宮内庁の管理下におかれている。職員住宅が建てられていた敷地南東部の約1,800平方メートルは喜久子妃薨去後に払い下げられ、住友不動産が2007年(平成19年)、高級分譲賃貸マンション「クラッシィハウス高輪」を竣工。一室に高松宮妃癌研究基金の本部事務所が入居し、事務所内には宮邸の居室が再現され、宣仁親王や喜久子妃が愛用した調度品が展示されている(非公開)。
また、高松宮は有栖川宮から翁島別邸(福島県耶麻郡翁島村他)・葉山別邸(神奈川県三浦郡葉山村)と麻布御用地(東京市麻布区、現在の東京都港区麻布盛岡町他)を引き継いだが、麻布御用地は間もなく東京市に払い下げられ、有栖川宮記念公園として整備された。翁島別邸も1952年(昭和27年)に福島県に払い下げられ、現在は天鏡閣および福島県迎賓館として公開されている。葉山別邸のみ昭和後期まで継続して保有されたが、宣仁親王の薨去に伴う相続税支払いのため、喜久子によって金融機関へ売却された。跡地には現在、神奈川県立近代美術館・葉山館が建設されている。他には、1933年(昭和8年)に宮ノ下御用邸を取得して宮ノ下別邸として所有していた。この別邸は1946年(昭和21年)に富士屋ホテルへ譲渡、同ホテルの別館「菊華荘」として現存する。西園寺公望の別荘であった坐漁荘も一時期高松宮が所有していた。

今後の予定
2019年(平成31年)4月30日に第125代天皇明仁が譲位し上皇となった事に伴い、仙洞御所(従来の東宮御所を2019年(平成31年)5月1日に即位した第126代天皇の赤坂御所として使用した後に、天皇一家が皇居内の吹上御所に移転後に改修の上で改められる予定)が整備されるまでの間、仙洞御所の假寓「仙洞仮御所」として、当地が使用される。仙洞御所の整備が終わってからは、これまで赤坂東邸が担ってきた皇族共用の邸宅として使用される方針としている。
引用元:Wikipedia


高輪皇族邸近くにある「大石良雄外十六人忠烈の跡」をWikipediaから引用します。
大石良雄外十六人忠烈の跡(おおいし よしお ほか じゅうろくにん ちゅうれつの あと)は東京都港区高輪にある旧跡で、かつては肥後熊本藩江戸下屋敷がここにあった。

概要
元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細川家の下屋敷において赤穂浪士の大石良雄(大石内蔵助)ほか16人が切腹した。三田の伊予松山藩屋敷跡(現:イタリア大使館)には大石主税良金ら十士切腹の地がある。大石父子の切腹は、ほぼ同時刻であったといわれている。
浪士たちは、江戸高輪の泉岳寺(曹洞宗)に葬られている。12月13・14日には義士祭が催されている。この碑は平成10年(1998年)に東京都港区教育委員会によって設置された。

自刃した義士
  1.大石内蔵助(良雄)
  2.吉田忠左衛門(兼亮)
  3.原惣右衛門(元辰)
  4.片岡源五右衛門(高房)
  5.間瀬久大夫(正明)
  6.小野寺十内(秀和)
  7.間喜兵衛(光延)
  8.礒貝十郎左衛門(正久)
  9.堀部弥兵衛(金丸)
 10.近松勘六(行重)
 11.富森助右衛門(正因)
 12.潮田又之丞(高教)
 13.早水藤左衛門(満尭)
 14.赤埴源蔵(重賢)
 15.奥田孫太夫(重盛)
 16.矢田五郎右衛門(助武)
 17.大石瀬左衛門(信清)


旧細川邸のシイについてもWikipediaから引用します。
旧細川邸のシイ(きゅうほそかわていのしい)とは港区に存在する東京都指定天然記念物である。 東京都港区高輪の旧熊本藩細川家下屋敷に植えられていたスダジイであり、現在も当時のまま残っている。
東京都教育委員会の提示した説明によれば、樹高10.8メートル、幹周り8.13メートル、枝張りは東に6.7メートル、西に2.7メートル、南に5.56メートル、北に5.8メートルを測るとのことである。



旧公衆衛生院
港区高輪コミュニティぷらざでトイレ休憩をとりました。ひとグループ程度がトイレ休憩をとるにはよい場所ですが、複数のグループがたまらないよう工夫したいと思います。再び桜田通りを歩き、目黒通りに折れて日吉坂を上ります。日吉坂上にある港区の複合施設「ゆかしの杜」でトイレ休憩をとりました。Wikipediaから国立公衆衛生院の項目を引用します。
国立公衆衛生院(こくりつこうしゅうえいせいいん、The Institute of Public Health)は2002年(平成14年)に改組・廃止された、日本の公衆衛生の向上を目的とした調査研究機関であった。
公衆衛生院の建物および設備は、アメリカ・ロックフェラー財団から日本政府への寄贈である。援助額は当時のお金で総額350余万ドル。世界保健機関 (WHO) は国立公衆衛生院を「School of Public Health(公衆衛生大学院)」として紹介している。
2002年(平成14年)4月1日付けで組織が改組され、国立感染症研究所の一部などと共に国立保健医療科学院となり、多極分散型国土形成促進法により現在は埼玉県和光市に移転している。
旧建物は文化財的価値から保存され、ゆかしの杜として2018年にオープンした。


公衆衛生院を設計した内田祥三元東京帝国大学総長の設計した建物は目黒区内に多く残り、目黒区にゆかりの深い方でした。元総長についてWikipediaから引用します。
内田 祥三(うちだ よしかず、1885年2月23日 - 1972年12月14日)は、日本の建築学者、建築家。元東京帝国大学総長。

人物
東京帝国大学建築学科で構造計算法と鉄骨および鉄筋コンクリートの講義を担当。佐野利器の建築構造学を引き継ぐ形で発展させ、建築構造、防災、都市計画、文化財修復など数多くの分野に業績を残すとともに、東京帝国大学営繕部長も兼務し、多くの後進を育てた。
関東大震災(1923年)後の東京帝大構内の復旧を主導。正門から続く銀杏並木などキャンパスに明快な軸線を導入し、「内田ゴシック」といわれるデザインパターンの建物を数多く建設した。
1943年に東京帝国大学総長に就任。平賀の死後、興亜工業大学(現・千葉工業大学)顧問を引き継ぎ同大の運営に尽力。敗戦前は、帝都防衛司令部として東京帝大を使用したいという軍部の強硬な申し出を断固として断り、終戦直後にはアメリカ軍が連合国軍総司令部、第8軍司令部として東大を接収要求した際に、各方面に働きかけて止めさせる。
代表作は東京大学本郷地区キャンパスの東京大学大講堂(安田講堂)である(震災前に着工し、1925年竣工。弟子岸田日出刀との共同設計)。
子に内田祥文、内田祥哉がいる。娘の美柯は弟子の松下清夫に嫁いだ。
東大サッカー部「アソシエーション式蹴球部」の部長を務めていた。

略歴
 1885年 東京深川に生まれ。4歳の時に父を亡くす。
 1901年 旧制開成中学を卒業、旧制第一高等学校に入学。
 1904年 東京帝国大学工科大学建築学科入学。在学中に三菱ビジネス街で建築実習。
 1907年 同大学建築学科卒業(共に市街地建築物法の起草に関わった笠原敏郎は同期)。三菱合資地所部(現三菱地所)に入社し、13号館などオフィスビル等の建設に従事。
 1910年 東京帝国大学大学院に進む。佐野利器の下でコンクリート・鉄骨等の建築構造を研究。
 1911年 同大学講師(嘱託)、陸軍経理学校講師。
 1916年 東京帝国大学助教授。
 1918年 論文「建築構造特に壁体および床に関する研究」で工学博士号を授与される。
 1921年 同大学工学部教授。
 1923年 同大学営繕課長を兼務、関東大震災後のキャンパス復興を指導。
 1924年 財団法人同潤会理事(中之郷アパートを設計)。
 1935年 日本建築学会会長を務める。
 1943年 東京帝国大学第14代総長(1945年12月まで)。
 1972年 文化勲章を受章。


休憩後自然教育園裏の港区、品川区、渋谷区の三区界を見て、その先の目黒区、品川区、渋谷区の三区界を見て、目黒区渋谷区の境をウエスティンホテル方面へ上ります。ガーデンプレイス側に横断し、恵比寿神社の前を通り、そのあとはおなじみのサッポロビール本社前を通り、恵比寿南橋を渡り、茶屋坂を通り、田道ふれあい橋でストレッチを行い実踏は終了。実行委員会でコースの承認を得て、第17回めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォークロングコースが決定しました。

打上げのライオンで三角くじを当てまくり、伊勢五本店、ONCEとはしごしてかなり飲みすぎたのは反省材料でした。6月23日にショートコース実踏を行います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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ウォーキング塾地区活動(北部) 南東部公園コース 約7.0km

2019-06-10 11:15:10 | ウォーキング
雨が予想されていたので気をもんでいましたが、やませの影響で湿度は高いものの涼しく、雨にも降られず快適なウォーキングとなりました。


近所のブドウ
つい先日小さな実をつけていたと思ったらすくすく育って葡萄らしくなってきました。いつものように中目黒GTに集合し、時間になると中目黒舟入場へ移動してストレッチを行います。



アメリカデイゴ
先週はまだ蕾だったアメリカデイゴが一週間たって奇麗に咲いています。デイゴを見るとやっぱり島唄を口ずさみたくなります。島唄に歌われているデイゴは沖縄県の県花でこれとは種類が異なるようです。デイゴについてWikipediaから引用します。
県花
沖縄県の県花でもあり、1967年(昭和42年)に県民の投票によって「沖縄県の花」として選定された。デイゴが見事に咲くと、その年は台風の当たり年で、天災(干ばつ)に見舞われるという言い伝えがある(THE BOOMの楽曲「島唄」の歌詞にも書かれている)。また、県内では「やしきこーさー(屋敷壊さー)」とも呼ばれることもあるが、これは根の力が強く、家の近くに植えると根が伸びて家を傾かせてしまうからであるという。
琉球大学で学生が配る合格電報の文面は、「デイゴ咲く」となっている。


アメリカデイゴは鹿児島県の県花です。こちらもWikipediaから引用します。
特徴
南アメリカ原産の落葉低木。日本では庭木として使われる。寒さに弱いため関東以南で栽培可能。花期は6~9月頃で赤い花を咲かせる。また、鹿児島県の県木であり、アルゼンチン、ウルグアイの国花である。


北部すこやか歩こう会の地区活動、一回目二回目は北部地区(菅刈住区、駒場住区、東山住区、烏森住区)を歩きました。三回目となる今回は東部地区、南部地区、中央地区を歩きます。この住区というのは小学校の区割りに準拠しているように思います。集合場所は中目黒GTで上目黒二丁目1番地から4番地にあたり中目黒住区で東部地区となります。中目黒駅は上目黒三丁目4番地にありこちらも中目黒住区です。上目黒三丁目は4番地と5番地のみ中目黒住区で、それ以外の番地は烏森住区となります。
中目黒舟入場(中目黒住区)でストレッチをして目黒川右岸を歩き、解体工事中の清掃工場(田道住区)を通り、区民センター(下目黒住区)でトイレ休憩をとります。下目黒小学校が下目黒村に初めにできた小学校であることを説明し、大鳥神社(下目黒住区)は立ち止まれなかったので目黒区で一番古い神社であることは説明できませんでした。目黒区立大鳥中学校の前で、中学校の変遷を説明します。戦後のシステムである中等学校ですが、目黒区では昭和22年5月3日に目黒一中から目黒十一中までが一斉に開校します。昭和31年に一中の分校が開校し33年に東山中学となりました。平成18年に二中、五中、六中が統合した目黒区立目黒中央中学校が開校。平成27年に三中と四中が統合して大鳥中学が開校しました。この際目黒区東端の三田一丁目から遠くなりすぎないよう、三中校舎が大鳥中学になったとのこと。
目黒不動尊(下目黒住区)にお参りし、都立林試の森公園(不動住区)を気持ちよく散策しました。林試の森公園についてWikipediaから引用します。
概要
西ヶ原(現・東京都北区)にあった農商務省林野整理局樹木試験所(1878年(明治11年)設立)から、目黒川支流の羅漢寺川谷戸南側の北斜面の現在の地に植樹を移し、1900年(明治33年)6月に「目黒試験苗圃」を設置した。当時の広さは約45,000坪であった。
1905年(明治38年)に林野庁「林業試験所」、1910年(明治43年)に「林業試験場」と名称を変えた。また、この試験場の周辺に明治から大正にかけて多くの研究所が置かれた。戦後にかけても、北里研究所目黒支所、津村研究所、石炭綜合研究所、国立予防衛生研究所など、18の研究所が置かれていたことが見える。
試験場は1978年(昭和53年)につくば市に移転(現・独立行政法人森林総合研究所)し、跡地は東京都に払い下げられて公園として整備、1989年(平成元年)6月1日に「都立林試の森公園」として開園した。開園面積は120,762平米(約36,000坪)である。

園内
林業試験場当時の樹木がそのまま残されており、都内でも屈指のケヤキ、クスノキ、プラタナス、ポプラ、スズカケノキなどの巨木がある。その他、カイノキ、トチュウ、シナユリノキ、チンタオトゲナシニセアカシア、ベニカエデ、ヒマラヤゴヨウ、レバノンスギ等の外国産樹木やアベマキ、ハナガガシ、ニオイドロ、シマサルスベリ、ヨコグラノキ、ナナミノキ等の珍しい木などもあり解説のプレートもつけられている。
園内で最も太い木は幹周が3.82mのケヤキ。最も高い木は高さ35.5mのポプラ。
園内のアベマキの古木にはミズイロオナガシジミが発生する。都区内での自生は珍しい。
園内中央を南北に小さい谷地形が走る。これは、かつて小山台を流れていた品川用水(玉川上水の分水)を羅漢寺川に通水していた名残であり、当時を偲ばせる水車が復元されている。
大木の揃った森の他、芝生広場、デイキャンプ施設、夏期に子供が入れるじゃぶじゃぶ池、西側には野球やサッカーの練習(要申込で試合は不可)にも使用できるグラウンドも整備されている。
毎朝、朝早くからジョギング、ウォーキング、ラジオ体操など運動をする人が多い。



円融寺釈迦堂
林試の森公園を出て羅漢寺川緑道を歩き、補助26号線を渡り碑さくら通り。清水池公園(月光原住区、南部地区)を横目に見て、碑小学校(碑住区)で小学校の説明をします。明治7年衾村に八雲小学校が開校、明治8年上目黒村に菅刈小学校が開校、明治11年下目黒村に下目黒小学校が開校、明治12年碑文谷村に碑小学校が開校します。明治初期五年間でめぐろ六ヵ村(上目黒村、中目黒村、下目黒村、三田村、碑文谷村、衾村)の四ヵ村に一校ずつ小学校が開校しました。五番目は中目黒小学校が明治34年に高等小学校として開校しますが、明治22年上目黒村、中目黒村、下目黒村、三田村が合併し目黒村となっているので、中目黒村、三田村には小学校は開校しなかったことになります。三田村地域には現在に至るまで公立小学校はありません。
円融寺(碑住区)釈迦堂がかつて区内唯一の国指定重要文化財だったことを説明します。円融寺についてWikipediaから引用します。
歴史
かつては、妙光山法服寺と称し、天台宗の寺院であった。寺伝では853年(仁寿3年)円仁(慈覚大師)が法服寺を建立したという。1283年(弘安6年)日蓮の弟子・日源により、日蓮宗に改宗し、妙光山法華寺と改称した。中世から近世にかけては吉良氏や徳川氏の外護を受け、坊舎18、末寺75箇寺を数えた。1630年(寛永7年)身池対論には法華寺から日進が臨んでいる。法華寺は不受不施派の寺院として江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なくされ、1698年(元禄11年)再び天台宗の寺院となった。1834年(天保5年)経王山円融寺と改称する。不受不施派とは、法華経信者以外からは施しを受けず、与えずという一派で、日蓮宗本山の久遠寺と対立し、江戸幕府からも弾圧された。日源の法脈は、当寺の改宗をもって完全に途絶えていった。当寺の尊像など、祖師像は妙法寺、三宝尊像は立源寺、釈迦如来涅槃之図は常円寺、法華門は妙法寺、摩耶夫人像は摩耶寺など、所縁寺院に引取られていった。

文化財
重要文化財(国指定)
釈迦堂 - 室町時代の建立。入母屋造、銅板葺き。
東京都指定有形文化財
木造金剛力士(仁王)像 - 永禄2年(1559年)の作
目黒区指定文化財
仁王門
日源上人五重石塔
その他
梵鐘 - 寛永20年(1643年)鋳造(重要美術品)



碑文谷八幡宮
立会川緑道を通り、碑文谷八幡宮(大岡山東住区)にお参りします。神社についてWikipediaから引用します。
碑文谷八幡宮
碑文谷八幡宮(ひもんやはちまんぐう)は、東京都目黒区碑文谷三丁目にある神社(八幡宮)。かつての碑文谷村の鎮守として知られる。

由緒
創建年代は不詳であるが、鎌倉時代に源頼朝の家臣、畠山重忠の守護神をその家臣筋で当地に住んでいた宮野左近という人物が祀ったのが始まりであると言われている。現在の社殿は延宝2年(1674年)に造替したものを明治5年(1872年)に再建し、同20年(1887年)に改築したもの。神仏分離令が出るまで、別当寺として近辺にある円融寺の子院である神宮院が置かれていた。 また神社には畠山重忠の家臣榛沢六郎という人物を祀った稲荷社と「碑文谷」の名の起こりともいわれている、碑文石が保存されている。そのほかにも勝海舟直筆の「八幡大神」の額なども保存されている。また、桜の時期になると一の鳥居から二の鳥居までの間が桜の花で溢れ、桜の見所にもなっていることでも知られている。

境内社
稲荷社

碑文石
この碑文石は高さは約75cm、横は最大で約45cm、厚さは約10cmで現在は暗渠化されているが付近を流れていた呑川の川床の石を材料にしている。石には中央に大日如来を示す梵字が、左には勢至菩薩を示す梵字が、右には観音菩薩を示す梵字がそれぞれ刻まれている。室町時代の頃の作と言われているが、その趣旨等は伝わっていない。一説にはこの碑文を彫った石がある里(谷)ということから、当地の地名「碑文谷」が生まれたとも言われている。この碑文石は当時の人々の信仰を知る上での貴重な資料として現在でも境内に祀られている。



すずめのお宿公園の竹林



若竹


アジサイ

モミジの翼果

旧栗山家住宅
すずめのお宿公園(大岡山東住区)でトイレ休憩をして、旧栗山家住宅の縁側に座りました。
サレジオ教会(碑住区)を見て、目黒通りを渡り碑文谷公園(鷹番住区、中央地区)を抜けて、碑文谷体育館前でストレッチをして解散としました。


ユリ
帰り道に見事なユリがあったので写真に撮りました。ユリの季節となりましたねぇ!


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