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目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

すこやか推奨駒場コース 約5.4km

2025-04-24 12:24:06 | 東京都目黒区、世田谷区
暑くもなく寒くもなくといってもこの日は少し気温が高く、ザックを背負った背中はびっしょりという会員も。


駒場の公園のヤエザクラ
ソメイヨシノ花吹雪が去ると新緑が街を彩り始め、春本番というより初夏を思わせる気温の中ヤエザクラがきれいなピンクを躍らせています。


騎兵山から三軒茶屋方面

騎兵山の斜面工事
駒場東大前駅で集合し、駒場野公園へ移動。ストレッチ後スタートして南へ。淡島通りを東へ向かい、大橋通りに入り南へ。第三機動隊を過ぎて東邦大橋病院の手前騎兵山の縁を西へ向かいます。


馬神碑
騎兵山の南西の縁にこの碑があります。山といっても山ではなく台地を北沢川や目黒川が削った崖の上です。騎兵山は日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古が所属した騎兵第一連隊があった場所(のちに習志野へ移転)と聞いていますが、それを裏付ける確かな資料は見当たりません。同じ一角に秋山好古が揮毫した石碑が残されており騎兵第一連隊がここにあったものと信じています。馬神碑は日清・日露戦争や日ごろの訓練でで犠牲なった馬を鎮魂するため昭和五年に建てられたものです。
駒場の地は江戸時代徳川家の鷹狩り場として管理され、江戸末期に幕府はここを練兵場にしようとしましたが一揆に拒まれ、明治政府はある程度の保証を払い駒場農学校や陸軍の施設としました。



騎兵山の崖のハナミズキ

目黒川緑道のキハナショウブとクルメツツジ

シャクナゲ

ジャーマンアイリス?

花畑
騎兵山を下ると目黒川緑道を東へ向かいます。暗渠の上に水を流して川をイメージさせ、きれいに手入れされた花々が通行人を楽しませています。



目黒富士

上目黒氷川神社
目黒川緑道は玉川通りまで、大橋という地名の通り江戸時代目黒川の川幅が広く大きな橋が架かっていたのでしょう。玉川通りを北東へ進み大橋交番のわきにある目黒富士登山道を登ると上目黒氷川神社。目黒富士は代官山にある元富士の流れを受けています。江戸時代代官山のキングホームズが建っている場所には丸旦という名の富士講が富士山から持ち帰った溶岩などを積み上げた築山を造り江戸からの物見客でにぎわっていました。近くに択捉探検で有名になった旗本近藤重蔵が別の築山を築き観光地となったことから代官山の築山を元富士、別所の築山を新富士と呼ぶようになりました。明治時代になり丸旦組の元富士は明治政府のものとなり岩倉具視の別荘が建てられました。築山は壊されて氷川神社へ運ばれ、末社の浅間神社に祀られたことから氷川神社の崖に目黒富士登山道が設けられることになりました。現在氷川神社から富士山を拝むことはできませんが、かつては富士山が見え遥拝所となっていたそうです。



駒場バラ園のモッコウバラ
氷川神社で少し休憩した後北へ向かい淡島通りを東へ。松見坂から駒場一丁目の住宅街に入ってゆくと井の頭線の線路にあたりそこが駒場バラ園。さすがバラ園、モッコウバラも見事です。




東京大学構内
さらに北へ向かい炊事門から東京大学駒場キャンパスに入り構内を歩きます。


駒場公園前田邸和館

前田邸洋館
駒場キャンパスの野球場とラグビー場の間を歩いて北門から通称行幸通りへ出て西へ向かうと駒場公園。ここは昭和初期の加賀前田家の邸宅跡です。江戸時代加賀前田家の江戸上屋敷は本郷にありました。東京大学の赤門です。帝国大学拡張に伴い前田家は駒場の地に等価交換で移ってきて現在国の重要文化財に指定されている和館と洋館を建てました。


駒場野公園正門

ケルネル田圃
駒場公園が前田家から寄贈された公園なのに対し、駒場野公園は東京教育大学の敷地跡が公園になったもので、お雇い外国人ケルネルが研究に使った田んぼが残されています。手前の木で見にくいですが田んぼはまだ田植えが行われていません。五月になると東京教育大学の流れをくむ筑波大学駒場の生徒たちによりもち米の田植えが行われます。

駒場野公園でストレッチをして解散、久しぶりに渋谷のライオンでおいしいビールを飲みながらの反省会となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。
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大倉山獅子ヶ谷市民の森コース 約5.4km

2025-04-08 15:33:34 | 横浜市港北区、鶴見区
獅子ヶ谷市民の森は横浜らしい起伏が激しい場所で、この地形が海まで続いていることを考えると江戸時代後期に横浜が国際港となった理由がわかります。集合は大倉山駅改札、港北区役所まで移動し空いたスペースをお借りしてストレッチをしてスタートします。 港北消防署 役所の隣の消防署、標高は5.7m。 環状二号線沿いのお宅 緑地保存地区 スミレ 環状二号線を東へ進み、右に折れて初めの山越え。このスミレの咲いている山は16.6m。 永昌禅寺 桃源郷 このあたりから桜や桃の花でうっとりする景色。この日は風が強いせいかウグイスの声が聞こえません。 旧横溝家住宅のソメイヨシノ レンゲ 旧横溝家住宅 オドリコソウ タツナミソウ シャガ シラユキゲシ ヒメキンポウゲ ボケ カイドウ 屋敷前の田んぼには今年もレンゲが咲いていました。屋敷内も花盛り。標高5.7m。 水路 シモクレン 神明社 光明寺 ハナニラの斜面 ボケ 会員がきついと嘆くゴルフ練習場横の坂を避け新たなルートの開拓です。光明寺前で9.7m、階段を上りきって39.5m。 ツクシ 上郷神明社 車地蔵 車地蔵  (獅子ヶ谷町164)  この地蔵は、享保3年(1718) に建立されたもので、お堂の中で道行く人達を温かく見守り、人々からは、「子授け地蔵」とか「車地蔵」として親しまれてきました。  お堂の左側の柱には、小さな木の車が取り付けられています。昔から、この峠道を通る人たちは、この車を回す習慣が在りましたので、車地蔵の名が生まれたのでしょう。  この車は、「地蔵車」または「後生車」とも呼ばれ、これを回すことによって六道の苦難から救われると信じられ、後生安楽に成仏するといわれてきました。  伝説によると、時おり、人びとの寝静まった夜半に、この車がひとりで回る音がして、これはお地蔵さんが回されるのだと、久しい間村人たちは信じてきました。  この車地蔵が建っている峠道は、江戸時代、鶴見から師岡・綱島方面に至る唯一の街道でした。 平成16年9月 鶴見区役所 神明社の急な石段は標高差15m。 灰ヶ久保広場のソメイヨシノ 歴史とみどりの散歩道 灰ヶ久保広場でトイレ休憩。広場の入り口は10.2m、その後説明板がある44.1mまで登る。 最後の下り階段 一度19.4mまで下ってから再度の登りでこの階段上は42.2m、下は35.2m。 フキに覆われてしまった屋敷の庭 ストレッチで境内をお借りした菊名神社 神社で解散となりました。何度も酒屋階段を上ったり下りたりのこのコース、いつまでも歩くことができるよう体力を維持しておきたいです。 すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。 まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。 sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。 すこやか歩こう会活動スケジュール 参加を希望される方はご一報ください。
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呑川コース 約7.4km

2025-03-24 11:52:31 | 東京都目黒区、世田谷区
開花宣言が待たれる中この時期恒例呑川緑道を歩きます。1964年の東京オリンピックで駒沢競技場はサブ会場となったため水洗トイレ用下水道の整備が急務となり、呑川が暗渠化されソメイヨシノが植えられました。60年が経過しソメイヨシノの老木が目立つようになりました。


ソメイヨシノ胴咲き
集合場所は都立大学駅近くの呑川本流緑道。よく見ると枝先にも何輪か咲いているようです。


ナノハナ

ソメイヨシノ

呑川本流緑道一部工事中
ソメイヨシノ枝にほとんど花はありませんが暖かい日が続くので一週間後には満開でしょう。目黒区内の呑川本流緑道は土の部分が多く石や張り出した木の根でデコボコしています。土は膝への負担が少なくデコボコの道は足の裏の刺激になったり、注意して歩くことにより転倒しにくい足腰が鍛えられるものと思っています。工事後はアスファルトで覆われていました。メンテナンスが容易になるのか埃対策か?


ソメイヨシノ胴咲き

カワヅザクラ

カンヒザクラ

ホトケノザ

ユキヤナギ

エドヒガン?

ハナニラ
目黒消防署八雲出張所を過ぎると世田谷区に入り、目黒区内では緑道の真ん中に植えられているソメイヨシノが緑道の両脇になり緑道の幅が広がり歩きやすくなります。住所としては目黒区八雲から世田谷区深沢へ。駒八通り、深沢学園通り、駒沢公園通りを横断して深沢五丁目の三島公園でトイレ休憩。


呑川親水公園
駒沢通りを横断すると親水公園として整備され水の流れる様子が見えます。


駒沢公園 ストリートスポーツ広場

円形花壇
西山橋で呑川と別れ東へ向かいます。駒沢公園通りを横断し、駒沢5丁目23番地口から駒沢公園に入り公園内を散策。休日なので人出が多い。ぶた公園で再度トイレ休憩。


柿の木坂支流緑道のハクモクレン
東京医療センター側に公園を出て自由通りとの交差点で駒沢通りを横断。目黒十中まえの通りを東へ、柿の木坂通りを横断して呑川柿の木坂支流緑道を南へ向かいます。目黒通りまで来るとゴールは間もなく、都立大学駅近くの呑川本流緑道でストレッチをして解散となりました。
その後我々のクラブハウスといっていい天狗学芸大学店で反省会。お相撲の千秋楽を見ながら盛り上がりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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【下見】神田川遡上、西早稲田から中野坂上

2025-03-23 11:54:51 | 東京都新宿区、豊島区、中野区
以前歩いているのですがずいぶん時間が経つしはっきりとした印象がないので下見しました。


高戸橋

高田馬場分水路

ユキヤナギ
集合は西早稲田駅で戸山公園でストレッチをして明治通りを北へ向かい、神田川にかかる明治通りの橋が高戸橋です。暗渠から合流する流れが高田馬場分水路で、落合から神田川の水を妙正寺川にバイパスして高戸橋合流させている水害対策と思われます。ユキヤナギがきれいな季節になりました。


手塚漫画の壁画
高田馬場駅前、早稲田通りのガード下にこの壁画があります。JR高田馬場駅のメロディーは鉄腕アトムのテーマ曲。このテーマ曲の作詞は谷川俊太郎さんなんです。2003年4月7日アトムは高田馬場にある科学省で誕生します。当時虫プロの事務所があり鉄腕アトムという漫画が誕生したのも高田馬場。二つの意味で高田馬場はアトムのふるさとなんです。


さかえ通り

田島橋の由来
江戸時代、鼠山(現豊島区)に下屋敷があった安藤但馬(たじま)守がよくこの橋を通ったため、「但馬」を「田島」としてこの橋の名がついたといわれています。
この橋は江戸時代初めには既に架けられていたようで、初めは仮橋だったものを後に土橋に改めたと伝えられています。
この橋の上流には犀ヶ淵という深い淵があって、江戸時代には高田十二景といわれる月の名所の一つとして知られていたそうです。

さかえ通りは学生向けの居酒屋が並ぶ魅力的な通りです。


田島橋から上流を眺める
川を渡る通路は東京富士大学。


川跡?
川跡のように見えるので調べてみようと写真に撮ってきました。どうやらこれが高田馬場分水路の始まりのようです。



伊良コーラ(いよしコーラ)
クラフトコーラで人気のようです。


東京都下水道局 せせらぎの里公苑

東京都下水道局 落合水再生センター
目黒川、呑川、渋谷川の清流復活事業ではこちらのセンターから送られる水を流しているというつながりがあります。


小滝橋の由来
神田川に架かっているこの橋は、江戸時代には上戸塚村(現新宿区)と中野村(現中野区)の間に架けられていた板橋でした。
小滝橋という名は、かつてこの橋の下に小さな堰があり、そこに水が流れて小さな滝となっていたことから名付けられたといわれています。
今はもうこの堰は残されていませんが、吉祥寺にあった油屋の小僧が大蛇を切ってしまい、その下アゴの骨がこの堰まで流されてひっかかったという昔話が伝えられています。



神田川の桜並木

カワヅザクラ

ユキヤナギとサクラ
ソメイヨシノが植えられ花見の時期は見事だと思います。




鎧神社
鎧神社
   東京都新宿区北新宿三丁目十六番十八号
祭神  日本武命   大己貴命   少彦名命   平将門公霊
縁起
当社は江戸時代迄、鎧大明神と称し此の辺りの古社として人々の尊崇を受けて来たが、鎧の社名には日本武命御東征のおり、甲冑六具の内を蔵めた事により社名起こると伝えている。天慶三年(九四○) 関東に威を称えていた平将門公、下総猿島に亡びし時、士族の公を追墓して天歴元年(九四七)将門公の鎧も亦此の所に埋めたという。別説によれば将門軍残党を追ってこの地に来た藤原秀郷、重病を得て悩み苦しんだ時、是将門公の神霊の怒り也と怖れ、薬師如来を本尊とする円勝寺々内に公の鎧を埋め、一祠を建てて厚くその霊を弔ったところ、病悉く癒えたという。これを聞いた里人達その神威のあらたかなるを畏み、柏木淀橋にかけての産土神、鎮守の社として深く信仰してきたものである。明治初年将門公は朝廷に反したものとして官の一作で未社に移されたが大戦後氏子全員の願いで本社に復する。
氏子地
北新宿全域及び西新宿七丁目七番地

はじめにこのコースを設定した際にどうしてこの神社によるようになったのか記憶にありません。行ってみてもなぜだか思い出せません。


圓照寺
篠山紀信さんのご実家とのこと。


謎の人魚

いきいきウォーク新宿

神田川歌碑

桃園川緑道

モクレンと新宿のビル

淀橋
淀橋は神田川にかかる青梅街道の橋でした。私が初めに知ったのはカメラ店、次が浄水場、橋が一番最後です。



淀橋さくら公園
こちらでストレッチができそう。



マンションストーンミル
石うす屋さんの跡地のマンションなのでしょうが、調べても不動産情報ばかりで情報得られず。
中野坂上駅で下見を終え帰宅しました。


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小江戸川越コース 約6.4Km

2025-03-20 11:59:12 | 埼玉県川越市
毎年楽しみにしている遠征コースですがこの日は夕方雨予報の寒い日だったので10人をちょっと超えるくらいとこじんまりしたウォーキングとなりました。


川越アトレのからくり時計
出発時間の13時ちょうどでからくり時計が作動していました。アトレのロゴに「MARUHIRO」が入っているので、JR東日本のアトレと川越の老舗デパート丸広のジョイントなのかと調べたらそうではないようです。正式名称は「アトレマルヒロ」、Wikipediaから引用してみます。
第三セクターの川越都市開発が運営管理するアトレの核テナントとして1990年(平成2年)5月16日開店。百貨店としては丸広百貨店アトレ店が正式な店名である。名称の「アトレ」とはフランス語で「魅力」を意味し、公募によって名称を決定した。他には「アピコ」「ケリア」などが候補に挙がっていた。日本で最初に“アトレ”と称したのは当店であり、JR東日本の首都圏にある駅ビルのアトレとは無関係、JR川越駅ビルはルミネである。
丸広百貨店川越店とは500mほどしか離れていないが、中高年層に強い川越店に対しアトレ店では若者を意識した品揃えを徹底することで川越店と差別化をはかり、丸広が苦手としてきた若い世代の顧客獲得と川越商圏の拡大で丸広百貨店は川越2店体制を確立、川越地区での売上を急拡大させたことで注目された。紙袋や包装紙は丸広百貨店で使われている埼玉県花「さくら草」が描かれたものではなく、当初から独自のatre MARUHIROロゴが入った白と青のものが使われていたが、食品売場のみ2000年代初頭から他の丸広百貨店と同じさくら草の袋に変更された。
2012年に改装工事が行なわれ、2012年9月15日に「新・川越ライフスタイル発信ステーション」をストアコンセプトにリニューアルされ、百貨店機能は川越本店に集約してショッピングセンターに転換した。リニューアル後の年商目標は140億円としている。唯一の丸広直営売場であった地下食品売場も2015年8月に、ザ・ガーデン自由が丘(セブン&アイ・ホールディングス)としてリニューアルオープンした。そのため、全国百貨店共通商品券と丸広のポイントカードが使用できなくなった。ザ・ガーデン自由が丘は2018年3月25日に閉店し、同年4月6日からYasuno Foodestが新たに開店した。





川越八幡宮
川越駅から北へ向かいお参りした後境内をお借りしてストレッチをします。末社の稲荷神社は足腰の神様でこちらにもお参りしなくてはなりません。



民部稲荷神社
まんが日本昔ばなし
 民部稲荷神社
御祭神 倉御魂神

 お稲荷様は、衣・食・住すべてを守ってくださる神様です。
 また、当社は「相撲稲荷」とも称され、特に「足腰の健康」にご神徳があるとされています。
 昔、八王子に住んでいた老狐が、人間に化け「民部」と名のり暮らしていたが、老僧に正体を知られたため、川越の梵心山に移り住んだ。この民部は、相撲が得意で、老僧に「捻挫や打ち身」の手当の仕方を教えて去っていったとの伝説があり、「まんが日本昔話」でも「民部稲荷」として紹介されました。足腰は身体健康の基本です。神様のご神徳をいただき、お守りを身に付けて、健やかな日々をお過ごしください。



小仙波のマメザクラ

中院のアセビ

中院のミモザ

中院のサンシュ
八幡宮から東へ向かい、大友康平さんが卒業した川越工業高等学校の前を通り中院へ。エドヒガンの枝垂れ桜には少し早かったようですが、ミモザが見ごろでした。開山は慈覚大師円仁、浅草寺や目黒不動など関東の古刹はみな円仁が開山と伝えられています。


仙波東照宮
日本三大東照宮の一つでかつて中院だった場所に創建されました。童謡「あんたがたどこさ」の「仙波山」であるという異説があります。それについてWikipediaから引用してみましょう。
「あんたがたどこさ」を関東地方の童歌とする資料・研究が多方面からなされている。実際、唄われている歌詞は熊本弁ではなく完全な関東方言である、と古くから研究者の指摘が多い。熊本のことが触れられているだけで、熊本で生まれた童歌ではない、とする熊本の研究家も少なからずいる。
この童歌の発祥地は、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)とする説である。
「あんたがたどこさ」のような「問答歌」は、幕末から明治時代初期に生まれた手鞠歌の形式である。
太田信一郎『童謡を訪ねて』によると戊辰戦争に出兵した熊本人が川越市の仙波山に駐屯した際の現地の子供たちとのやりとりが元になっているという。薩長軍は彰義隊の残党である振武隊を追って川越城に進駐し、城に隣接する仙波山に駐屯していた。仙波山とは仙波古墳群のある周辺一帯の別名である(熊本には船場川はあっても船場山や仙波山という地はない)。仙波山付近の子供たちが兵士にどこからきたのか尋ね、熊本藩出身の兵士が答える様子が歌詞に描かれているという。「肥後どこさ 熊本さ」という問答は肥後(熊本)に不案内な関東だからあり得る会話で、官軍に帰順した川越藩の子供たちが立派な銃を所持している官軍兵士のご機嫌を取っている場面が唄われている、などの説である。
川越の仙波山は、「古狸」と呼ばれた江戸幕府開祖の徳川家康を祀る「日本三大東照宮」のひとつ仙波東照宮がある。また川越城内には「通りゃんせ」の発祥の地とされている三芳野神社(異説あり)もある。異説の根拠としては肥後の地元住民同士が出身を聞きあうのは不自然で、熊本の船場から来た人に対して川越の子どもたちが「川越の仙波山にも狸がいる」と返答するほうが自然とみる。
これに対し、2016年3月19日放送のNHK『ブラタモリ』で熊本市が取り上げられたときは、熊本市新町付近は堀が作られ、その堀を作ったときの土を盛り上げた土塁を「せんば山」と呼んでおり、そこに狸がいたことが示されている。
なお、この異説の元となっている太田信一郎『童謡を訪ねて』には、この説について「地元川越市の郷土史研究家によって明らかにされています」とのみ説明しているが、その出典は明らかにされていない。一方、川越郷土史研究家で川越市史の編纂に当たった岡村一郎は、川越でなく「熊本城下の洗馬山のほうが正しい」としている。



喜多院


成田山川越別院

おびんづるさま


大師堂
成田山にお参りしてさらに北へ進みます。


川越城本丸御殿

川越城 中ノ門堀跡

川越市役所太田道灌像
現存する本丸御殿は江戸時代の建物ですが、太田道灌の川越城、また江戸城との関連についてWikipediaから引用します。
室町幕府より関東の押さえとしておかれた鎌倉府は、代を重ねるごとに独立志向を強める鎌倉公方足利氏と、その補佐役でありながら、中央政権である室町幕府を支持する関東管領上杉氏との内部対立が生じていた。
そしてついに1454年(享徳3年)、第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を謀殺した事をきっかけとして、関東を戦乱の世とした享徳の乱が勃発した。
鎌倉公方であった足利成氏は、自身が遠征中で不在となっていた本拠地・鎌倉を上杉氏援軍の今川範忠勢によって制圧されてしまう。足利成氏は鎌倉に戻るのを断念して下総国古河に拠点を構えた事から以後古河公方と呼ばれ、室町幕府の支持を得た上杉氏と関東を二分する争いになった。
武蔵国東部の低湿地帯は、上杉氏と古河公方の対立の最前線となったため、古河公方の勢力(古河城や関宿城・忍城など)に対抗する上杉氏の本拠地として、1457年(長禄元年)、扇谷上杉氏の上杉持朝は、家宰の太田道真、太田道灌父子に河越城(川越城)の築城を命じ、自ら城主となった。加えて、上杉持朝は南方の下総国との国境に江戸城も築城させ、道灌を城主とし、両城を軍事道路(後の川越街道)で結び、古河公方への防衛線を構築した。



蔵造りの町並み

時の鐘

埼玉りそな銀行

大正ロマン通りうなぎ 小川菊
西へ向かい元町休憩所で菓子屋横丁を散策する眺めの休憩を取りました。団子よりビールと地ビールを飲んでいたら雨も降りだし冷え切ってしまい失敗。
南へ向かい出世稲荷の境内を借りてストレッチをした後、川越市駅まで歩きFライナーで中目黒へ。遠くても座って一本で帰ることができるので川越ウォーキングは好きです。


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