目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

自由ヶ丘コース 約4.9km

2018-11-28 10:22:21 | ウォーキング
11月の東京は、最高気温20度近くまで上がる日が続くなど例年に無い季節外れの暖かい日が続いていましたが「自由が丘コース」を歩いた25日は、最高気温が12度迄しか上がらない思いの外寒い一日になりました。それにも係わらず、元気と時間の有るメンバー18名が参加してくれました。


東横線踏切

熊野神社

自由が丘の高級住宅街

リバティヒルクラブ
この日のコースは、東横線都立大学駅近くの呑川広場から東横線の線路沿いの道を南下、熊野神社、自由が丘1丁目から3丁目を歩き目黒通りを横断し八雲に向かいます。この辺りは都内でも有名な高級住宅街!大きな豪邸とその車庫に鎮座するロールスロイス、マセラティ、ポルシェ、ベンツSクラス!すごすぎます。目が眩む!ただこのあたりは、、江戸時代には、衾村と言われていた農村地帯でした。衾村と碑文谷村(今私の住んでいる中目黒5丁目も碑文谷村だったようです)は、世田谷城主吉良氏の領地だったとの事、変われば変わったものです。


目黒区民キャンパス

八雲氷川神社
話を本題に戻します。八雲から呑川本流緑道、呑川駒沢支流緑道をたどり目黒区民キャンパス、常圓寺、東光寺(どちらも吉良氏とゆかりの深いお寺のようです)を経てスタート地点の都立大学駅近くの呑川緑道広場にゴールしました。



ビールを求めて
まだ元気が有り余っているメンバーは、寒い中を歩いたにも係わらビールを求めて近くの呑川?ではなく飲み屋さんに飛び込みました。

吉井


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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目黒シティラン1kmウォーキング

2018-11-26 14:51:06 | ウォーキング
11月25日(日)第三回目黒シティランが行われました。10kmマラソンに3,000名、ミニマラソンやウォーキングに1,000人。ボランティアを含めると5,000人規模の区内最大のスポーツイベントです。駒沢通り、自由通りは一定時間全面通行止め、目黒通りと山手通りは車線規制が行われました。
以前10kmマラソン大会に出場した友人からの話では、「アップダウンがあって結構つらい」とのこと。目黒区役所をスタートするとけこぼ坂の上り、環七を過ぎて呑川柿の木坂支流の谷、駒沢公園の角で自由通りに入り呑川駒沢支流の谷につづいて、呑川本流の谷、中根の角で目黒通りに入り再び呑川本流の谷、元競馬あたりから目黒川の谷を下り、山手通りは目黒川の谷筋で、正覚寺の角で駒沢通りに入り、最後は区役所までけこぼ坂の上りと、なるほどつらそうです。


朝の中目黒小学校会場
目黒ウォーキング協会では10名のボランティアがこの大会に協力しています。担当するのは1kmウォーキングの同行で、スタートは9時過ぎなのですが7時半に集合し、日向ぼっこをしながら待機です。この日は今シーズン一番の冷え込みで風もあり、日陰では凍えてしまいそう。長い影が出来る朝日のパワーはいまいちで、積極的に日向を探しにゆかないと寒いです。
10kmマラソンの会場が目黒区役所で、ミニマラソン(2.5km)と1kmウォーキングの会場は区役所の前にある中目黒小学校となっています。ミニマラソンの折り返しが五本木交差点で、ウォーキングより早くスタートしてゆき、ウォーキングスタートの頃にはミニマラソンの先頭が到着してきます。
9時前にようやくスタート準備が始まり、校庭にウォーキング参加者約100名が集合します。本当は地域の歴史などを知りながら歩くイベントとしたいのですが、声が通らず説明することができないので、このブログに書いてゆくことにします。
江戸時代の現在の目黒区には六つの村がありました。明治時代になり小学校が設立されるようになると、1874年衾村に八雲小学校が設立されるのを皮切りに、四か村に一校ずつ小学校が設立されてゆきます。1875年、上目黒村に菅刈小学校。1878年、下目黒村に下目黒小学校。1879年、碑文谷村に碑小学校と五年間で四校が開校しています。旧中目黒村に中目黒小学校が設立されるのは1901年と他の四校と比べると遅いですね。旧中目黒村の人たちにとっては待望の小学校だったのでしょう。ここで「旧中目黒村」となるのは1889年に合併して目黒村の一部となっているからです。中目黒小学校は1901年に目黒高等小学校として正覚寺に開設され、翌年現在の地に移っています。1908年に目黒尋常高等小学校に改名し、1928年に中目黒尋常高等小学校に改名しました。正覚寺も現在の中目黒小学校がある場所も開設当時は目黒村大字中目黒字八幡という住所でした。尋常小学校についてWikipediaから引用します。
歴史
・1886年(明治19年)4月10日 - 文部大臣森有礼により小学校令(第1次)が公布される。
 ・小学校が尋常小学校(修業年限:4年)と高等小学校の2段階となる。
 ・尋常小学校の修業年限が義務教育期間となる。
・1890年(明治23年)10月7日 - 小学校令(第2次)の公布により修業年限が3年または4年となる。
・1900年(明治33年)8月20日 - 小学校令(第3次)の公布により修業年限が4年に統一。
 ・小学校令で奨励されたこともあり、全国的に高等科(2年)を併置し、尋常高等小学校となる学校が増加する(将来的に義務教育期間を6年に延長するため)。
・1907年(明治40年)3月21日 - 小学校令の一部改正により、澤柳政太郎文部次官の下、修業年限が6年に延長。
 ・高等小学校の旧1・2年を尋常小学校5・6年とし、高等小学校の旧3・4年を高等小学校の新1・2年とした。


さて目黒六か村の中で一村だけ小学校が作られませんでした。それは三田村。旧三田村の地区には現在でも小学校はありません。田道小学校校区と考えられ目黒区最東端の三田一丁目二番地から田道小学校までは1.2kmの道のりです。一山超えなければならず大変な通学ですね。
小学校開校の歴史を見ると目黒区内でどのように人口が増加していったのか、昔の字名はなんといったのかということがわかり地域の歴史をひも解く大きな手掛かりとなります。1924年油面小学校(中目黒)、1928年大岡山小学校(衾)、1928年烏森小学校(上目黒)、1930年向原小学校(碑文谷)、1931年五本木小学校(上目黒)、1932年鷹番小学校(碑文谷)、1932年田道小学校(中目黒)、1934年月光原小学校(碑文谷)、1934年駒場小学校(上目黒)、1937年緑ヶ丘小学校(衾)、1934年(分校として開校?)原町小学校(碑文谷)、1940年不動小学校(下目黒)、1941年上目黒小学校(上目黒)、1950年東根小学校(衾)、1952年中根小学校(衾)、1958年宮前小学校(衾)、1958年東山小学校(上目黒)となっています。

1kmウォーキングは中目黒小学校前からスタートし、目黒税務署の交差点で折り返します。駒沢通りのけこぼ坂は江戸時代目黒や世田谷のお百姓さんが江戸へ野菜を売りに毎日通った道です。もともとは小学校裏のなべころ坂同様急坂でしたが、主要な道なので切通しにして徐々に坂をなだらかにしました。「けこぼ」には土がボロボロこぼれるといった意味があって、切通しの壁からこぼれる土を表しています。江戸方面へ向かうにはさいかち橋を渡り、別所坂を登り恵比寿へ抜けるルートとなり、現在のさいかち橋から恵比寿へ至る駒沢通りは明治期以降に作られた新道です。駒沢通りと旧山手通りの丁字路となる場所は槍ヶ崎と呼ばれ、渋谷川と目黒川が削り残した台地の幅が狭く急峻だったため迂回したのでしょう。
駒沢通りを境として北側が大字上目黒、南側が大字中目黒です。現在目黒区役所がある場所は字伊勢脇でした。祖母が生前目黒銀座商店街のことを伊勢脇と言っていたので、私にとってはなじみのある地名です。目黒区のページから引用します。
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。
目黒の地名 伊勢脇
伊勢脇は、目黒村、目黒町時代の字名。目黒村が大正11年に目黒村になっても「東京府荏原郡目黒町大字上目黒字伊勢脇」として親しまれていた。それが、昭和7年の目黒区誕生を機に、「東京市目黒区上目黒1919番から2107番地」と改まり、地名伊勢脇は消え去ってしまった。
では、どの辺りを伊勢脇と称していたのであろうか。今日の上目黒二丁目全域と上目黒一丁目24番から26番がそれであり、祐天寺一丁目と上目黒二丁目の境界となっている区道と、蛇崩川(緑道)、目黒川、駒沢通りに囲まれた地域である。
そもそも伊勢脇のいわれは、この地に伊勢神宮の祭神、天照大神を祭る天祖神社があり、境内を俗に「お伊勢の森」といったところからきている。
「伊勢脇」を歩くと馬頭観音に出会う。現在の目黒区総合庁舎辺りに牧場があったからだろうか。明治の末ごろまでは人家もまばらで、現在の伊勢脇通り一帯も畑地であった。道路すらなかったという。それが大正11年に、目黒町制施行後最初の道路計画で、伊勢脇通りが整備されることになり、発展の緒をつかみかけたとき、関東大震災に見舞われたのである。
震災復興の余勢を受けて、天祖神社から祐天寺方面にかけての高台は住宅地に、畑地であった低地は商店街として急激に発展。今日では、東横線と地下鉄日比谷線の乗換駅となっている交通の要衝、中目黒駅を中心に、区役所をはじめとして、事業所・商店・飲食店が数多く集まり、区内でも有数のにぎわいをみせている。

古地図を見ると天祖神社の西側から始まる川筋が確認できます。傾斜地から清水が湧いていたのでしょう。目黒区役所の建物が千代田生命の本社だったことはご存知の方も多いでしょう。それ以前は昭和32年までアメリカンスクールがありました。その前は牧場だったとのこと。江戸時代日本人には牛乳を飲む習慣はありませんでしたが、明治維新以降牛乳の需要が高まり、この場所や正覚寺のあたりも牧場になりました。江戸時代については想像ですが、北側斜面のこのあたりは入会地で吹き替えにつかうカヤなどの草地だったのではないでしょうか。
天祖神社からさらに南へ進むと細いけれども重要な目黒不動と宿山を結ぶ道があります。十七が坂のある道です。ここが字の境目となり、祐天寺側は大字中目黒字谷戸前、北側は大字上目黒字蛇崩です。蛇崩がこの辺りまで顔を出しているのは現在の感覚では驚きです。字谷戸前は祐天寺の存在感が光ります。目黒不動、大鳥神社が千年の歴史を誇っているのに比べると、祐天寺の歴史は浅いと言わざるを得ません。財政が破綻していた江戸幕府は寺社の建立を禁止していましたが、八代将軍吉宗に特別に許され建立されたお寺です。地名としての祐天寺を目黒区のページから引用します。
目黒の地名 祐天寺
「祐天寺」は、比較的新しい地名。昭和43年1月1日の住居表示施行によって、それまでの上目黒四・五丁目、中目黒三丁目のそれぞれの一部分が「祐天寺一・二丁目」となったのである。
付近一帯は、江戸時代に上目黒村と中目黒村に属していたが、明治22年の町村制の施行によって目黒村字蛇崩・田切・原の一部、大正12年には目黒町上目黒四・五丁目と中目黒三丁目の一部となり、昭和7年の目黒区誕生で目黒区上目黒四・五丁目と中目黒三丁目の一部となってから住居表示の施行を迎えたのである。
そもそも地名「祐天寺」の由来は、駒沢通りをはさんで祐天寺一丁目と向かい合っている中目黒五丁目にある名刹「祐天寺」にちなんだもの。
祐天寺は、浄土宗の寺院で、総本山は京都の智恩院。開山は芝増上寺第三十六世法主の祐天上人である。高僧として名高かった祐天上人は、下目黒善久院で念仏を修行した因縁から、この地に念仏道場を建立したいと念願したが、果たせず享保三年(1718年)他界した。その高弟祐海上人が師の遺志をつぎ、江戸幕府に熱心に願い出た結果、八代将軍吉宗はその願いを入れて特別の保護を加えたので、享保五年(1720年)に本堂などが完成し、祐天上人の没年を開山とした。さらに享保七年(1722年)には、将軍家から「明顕山祐天寺」の山号寺号を授けられ、以後、目黒屈指の名刹となったのである。
数ある住居表示名のなかでも、お寺の名称が使われているのはこの祐天寺だけである。

祐天寺はまもなく三百周年を迎えるのですね。
現在の都立目黒高校の北側の道が字境になり目黒高校の場所は大字中目黒字原です。このあたりが蛇崩川支流と目黒川に注ぐ谷戸前川の分水嶺(というほどのものではありません)になっていますが、今回の1kmウォーキングでは目黒高校の先目黒税務署の交差点で折り返します。目黒高校の著名な出身者を見ると向田邦子、白川和子など。以前は福士蒼汰の名もありましたが、削除されています。フェイクニュースだったのでしょうか。泉谷しげるは一週間で中退となっています。泉谷さんは私の小学校、中学校の先輩です。


イベント終了後の中目黒小学校会場
同じ道をたどり中目黒小学校へ戻ってきますが、復路は後ろからミニマラソンの選手が走ってくるので入念に声掛けをしました。
今回の目黒シティランで、ウォーキング協会が関係するイベントが終わり、これからはまた来年度へ向けて準備が始まりますが、ちょっとひと休みといったところでしょうか。すこやか歩こう会の活動は、これからも続きます。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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【下見】協会バスハイク2019年春、メッツァビレッジ

2018-11-20 09:47:15 | ウォーキング
2018年4月に目黒ウォーキング協会での親交を深める埼玉県行田市へのバスハイクが終了すると、「次はどこへ行こう?」と考え始めます。協会のけん引役で副会長の長谷川さんから、「飯能にできるムーミン村でノルディックウォーキングの大会をやる」と伺い、興味を持ちました。長谷川さんは協会の創立メンバーであるとともに、日本ノルディックウォーキング協会で副理事をされています。ノルディックウォーキングについてWikipediaから引用します。
ノルディックウォーキングは、2本のポール(ストック)を使って歩行運動を補助し、運動効果をより増強するフィットネスエクササイズの一種である。もとは、クロスカントリーの選手が、夏の間の体力維持・強化トレーニングとして、ストックと靴で積雪のない山野を歩き回ったのがはじまりである。北欧ではスキーウォーキング、ポールウォーキング、フィットネスウォーキングとも呼ばれる。日本国内ではポールを突いて後方に押し出して推進力にするものをノルディックウォーキング、前方に突いて歩行を補助するものをポールウォーキングやノルディックウォークと呼び、ポールウォーキングやノルディックウォークは本来のノルディックウォーキングとは区別される。
なお、登山にもトレッキング用のポールを用いる類似のスタイルがあるが、ノルディックウォーキングが比較的緩やかな山野のフィールドでフィットネス運動を主目的として行なわれるのに対して、トレッキングを目的とする場合はよりハードな位置付けになっている。それに合わせて、使用するポール自体も衝撃吸収性や強度などを含めて設計が異なる。

発祥
ノルディックウォーキングはオフシーズンのスキートレーニングとして1930年代にはじまった。ポールを持って丘を歩く、この方法が確立し北欧のスキーヤー達は1年中トレーニングができるようになった。ノルディックウォーキングで使用するポールには下肢への負担を減らす役割もあり、北欧では老若男女誰でも親しめるスポーツレクリエーションとなった。 1997年にフィンランドで二本のポールを使用したウォーキングを「ノルディックウォーキング」と定義し本格的に普及活動が始まった。現在では800万人(2007年:INWA資料による)を越える人達がノルディックウォーキングを楽しんでいる。フィンランドでは、総人口の16%以上の人たちが週一回ノルディックウォーキングをしていると言われている。日本においても近年、エクササイズやフィットネスの1つとして広がりを見せている。

利点
ノルディックウォーキングの最大利点は、なんといっても年齢性別を問わず気軽に楽しめ、エクササイズの効率が非常に良いことである。一般的な歩行運動と異なり、上半身の筋肉もより積極的に使われて、首や肩の血行も促進され鍛えることができる。全身の約90%の筋肉を使用する有酸素運動を、疲れをあまり感じることなくより長い時間行える。1分間に110歩程度の速度で歩けば、普通のウォーキングに比べてエネルギー消費量が平均20%ほど高くなる。心拍数が1分間に120~150ぐらいの強度の運動が可能である。ウォーキングでは1時間に約280カロリー程度しか消費しないが、1分間に120歩程度のペースで上半身の力を有効に使って歩幅を大きく取って歩けば、約400カロリー程度まで引き上げることが可能となる。そのためレキなどのポールメーカーの説明書には、エネルギー消費量が40%から50%アップするという数値が載っている。メタボリックシンドローム対策として有効である。
また足首・膝・腰などへの負担が最大40%軽減されたという研究結果が報告されており、足腰に故障を抱える人や心臓病など循環器系の病気のリハビリの運動にも適している。体幹の筋肉群を強化できるので、腰痛の軽減などに効果があるとされているが、間違った歩き方や、ポールの長さの設定が適切でないことが原因で、過剰な負荷が加わる無理な運動をすると、かえって腰痛を悪化させることもあるので、注意を要する。
ポールを持つことにより歩行姿勢が正され、呼吸も整うため、歩行禅のように用いることも可能である。自然環境や街中など、日常生活のなかでどこでも出来る利便性がある。
バランス感覚が落ちている高齢者が用いれば、バランスの維持をサポートして、転びにくくできる。


北欧発祥のスポーツと、北欧のライフスタイルをテーマとしたメッツァビレッジのコラボレーションということで、大使館の後援と聞いたような気がします。メッツァビレッジについてホームページから引用してみます。
湖畔の森で体験する北欧のライフスタイル
北欧ブランド雑貨や新鮮な地元野菜、工芸品などのショッピングを楽しめるマーケットをはじめ、北欧風の飲食を堪能できるレストラン、ものづくりやアートを通じたワークショップ、湖面の散歩を満喫できるレンタルボート、季節や様々なブランドによるイベントと、家族や友人同士での多様な体験による良質な時間を過ごしていただけます。



メッツァの駐車場

メッツァビレッジへの道
メッツァビレッジは11月9日にオープンし、我々が訪れたのは14日でした。駐車場は事前予約ができるので、予約をすれば確実に入場することができます。我々の到着はオープンの10時を過ぎていましたが、この立体駐車場はガラガラでした。昼頃にはひっきりなしに車が来ていて、駐車場も満杯といった感じです。今回オープンしたメッツァビレッジは無料の商業施設ですが、来年3月にオープンするムーミンバレーパークは有料の施設となります。ディズニーリゾートで例えると、イクスピアリとディズニーランドといった感じかな。規模はずいぶん違いますが。



マーケット・ホール


ウーテピルス
駐車場から向かうと右側にマーケット・ホールがあり、その先の屋外飲食スペースにウーテピルス(UTEPILS)があります。丸広百貨店がプロデュースする店や、サイボクハムの店があったり、北欧のブランドがあったり、北欧と埼玉県のコラボレーションです。



ニョロニョロ?

ムーミンバレーパークの灯台

宮沢湖
メッツァビレッジもムーミンバレーパークも宮沢湖に面しています。向こう側に見える白い物体は「ニョロニョロに違いない」と思いました。ニョロニョロを知らない方のためにムーミン公式サイトから引用します。
大きな群れで永遠にさまよい続ける、物言わぬ生き物。地平線を目指して旅をし、その旅は終わることがありません。
白く顔のないニョロニョロは、耳も聞こえませんし、話す事もしません。目はありますが、あまり見えません。食べる事もしなければ、眠る事もしません。それゆえ感覚が研ぎ澄まされ、とても敏感です。ニョロニョロは群れから離れないよう、互いにしっかり捕まり合っては、ゆらゆらと揺れています。ニョロニョロは種からうまれ、夏至祭の前の晩にその種を蒔くとニョロニョロたちが地面から生えてきます。
ニョロニョロは細いキノコのようで、大きくてうつろな目は、環境によって色を変えます。かみなりの時のニョロニョロは、とっても危険。かみなりの電気エネルギーを体に蓄えるので、たっぷりと電気を帯びたニョロニョロの体は、さわらなくてもビリビリきてしまうくらい。スノークのおじょうさんは、ニョロニョロに自慢の前髪を燃やされてしまった経験も。しかし、それ以外では、全く無害な生き物です。
ニョロニョロの島では、夏至祭の日に、毎年恒例の集会が行われます。 『小さなトロールと大きな洪水』にて初登場。

この説明を読んで、余計わからなくなるかもしれませんね。



メッツァビレッジの西側
ビレッジの西側は体験工房があったり、カヌー乗り場があったり。


ムーミンバレーパークの灯台

風船でした
ニョロニョロだと思ったものの正体は、ライティングイベント用の風船でした。「チームラボ 森と湖の光の祭」というイベントが、2018.12.01 (土) - 2019.3.03 (日)の予定で開催されるそうです。
この先の宮沢湖畔の道はムーミンパークバレーの工事のため通行止めになっています。インフォメーションで確認しましたが、ムーミンバレーパークの開園後に現在通行止めになっている道が通れるようになるのか、わからないということでした。我々はバスハイクの時に歩く予定にしている、奥武蔵自然歩道を歩き始めます。


奥武蔵自然歩道
武蔵丘ゴルフコースの中や周辺を歩く道で、ところどころにこのような玉よけのネットがあります。歩き始めのアップダウンはきつかったのですが、この先はどうでしょう。


ウルシの紅葉

イロハカエデの紅葉

奥武蔵自然歩道

高麗峠
イロハカエデの葉の様子から、紅葉にはちょっと早かったのだと思います。自然歩道は幅もあり、アップダウンも緩やかな歩きやすい道でした。高麗峠の標高が177mで二宮吾妻山の136mより高いのですが、海から一気に登る吾妻山と比べると「なんだもう峠か」という感じ。楽勝です。調べてみると宮沢湖畔の標高は122mでした。


道標

西武の森


富士見峠
まわりのゴルフ場はプリンス系列で、このあたりはみな西武系のようです。



ほほえみの丘
このカエデの木だけ紅葉していました。日当たりがいいんですね。



奥武蔵自然歩道宮沢湖の南側
南側は「アップダウンが続く」と書いてあり、登っては下る繰り返し。張ってあるロープを使わないと降りられないような下りがあり、このあたりはウォーキングではなくハイキングです。トレッキングシューズならば楽勝でしょうが、運動靴だときついかもしれません。



ムーミンバレーパーク
再び宮沢湖畔へ戻ってきました。奥武蔵自然歩道で宮沢湖周辺を一周すると約6kmです。バスハイクだと、このコースを歩ききれないような方も参加されるので、きちんと説明をして部隊を分ける必要があります。



カヌー工房

メッツァ・ホール

イベント広場

カフェ&雑貨
メッツァ・ホールではクリスマスマーケットや普段あまり見る機会のない北欧の文具などを販売していました。オープンしたばかりということと、ムーミンバレーパークがオープンしていないということが重なり、昼過ぎになると人であふれています。休日だともっとすごいかもしれません。しばらくすれば落ち着くでしょう。

近くの温泉施設で昼食をとり温泉に浸かりました。露天風呂から宮沢湖が見え、気持ちの良い温泉でした。
理事会で検討しますが、来年春のバスハイクはここに来ることになるでしょう。温泉施設も充実しているので、歩けなければ温泉直行でもいいかもしれません。秩父のウィスキーも飲めるようだし。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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すこやか歩こう会活動スケジュール
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手賀沼・大堀川コース 約7.9km

2018-11-18 11:52:41 | ウォーキング
柏市に住む大学時代の友人から「大堀川にサケが遡上する」という話を聞いて、見てみたいものだと思いました。ネットで調べると鮭の遡上に関する記事が散見されます。

https://www.youtube.com/watch?v=7wVwhhPDfek

大堀川沿いを歩いて、農産物直売所「かしわで」をゴールとするコースを考え地図を見ていると、手賀沼からのコースがよさそうです。下見の時にも引用した記事などを再度引用して、知っているようで知らない手賀沼、柏の歴史を見てみることにしましょう。


我孫子駅前八坂神社
中目黒に集合して中目黒→日比谷線→霞ヶ関→千代田線・常磐線各駅停車→我孫子と乗り継いでやってきました。距離は長いのですが、ほぼ座れるので楽勝です。八坂神社の脇を通り、手賀沼へ下ってゆきます。


手賀沼

水鳥やカモメ

葭原と手賀沼
10分もかからず手賀沼に到着し、公園の四阿でストレッチをしました。三日前の天気予報まで傘マークが出ていたのですが、この日は晴天になりました。斜めからさす秋の陽はまぶしくて、結構暑い。皆さん厳重に着込んできた防寒具を次々と脱いでゆきました。半袖Tシャツくらいがちょうどいいかな。
Wikipediaから手賀沼の歴史の一部を引用します。
享保12年(1727年)、江戸幕府(八代将軍徳川吉宗)は勘定吟味役であった井沢弥惣兵衛為永の建議で沼全体の干拓を計画し、江戸町人の高田茂右衛門友清に工事を着手させたが、その後工事計画を変更。沼を上・下に分け、中央に千間堤(浅間堤)を築き、下部のみを干拓した。これにより、約200町歩の新田が拓かれたが、上部沿岸の村々は排水不良となり、毎年のように洪水の被害を受けた。元文3年(1738年)に千間堤は決壊し、新田は水没。その後、老中田沼意次や水野忠邦の時にも干拓の努力は続けられたが、洪水と老中失脚とにより成功しなかった。
当時の手賀沼はカモなどの水鳥やコイ、ウナギなどの魚介類に恵まれ、特に水鳥とウナギは江戸の人々に美味として珍重されていた。現在でも我孫子市内には江戸時代から続くウナギ屋や、コイやフナ料理の店が多い。

中略

大正時代、湖畔には志賀直哉や武者小路実篤らの別荘もあり、手賀沼は白樺派ゆかりの地であった。
干拓事業の2年前の1944年(昭和19年)11月22日に、我孫子中央国民学校の教諭・生徒をはじめとした、44名が手賀沼を渡船で横断中、大風に煽られて転覆し、17名の死者を出すという水難事故が発生した(手賀沼の悲劇)。市内には「手賀沼殉教教育者の碑」として、記念碑が建てられている。
第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)農水省の直轄事業として大規模な干拓事業が再び着手され、1968年(昭和43年)に完成。約500ヘクタールの水田が造成され、沼の面積は著しく減少している。沼では競艇場建設、1964年東京オリンピックボート競技の誘致、手賀沼ディズニーランドの建設などの開発計画が持ち上がったが、いずれも失敗している。



菜種畑?
10月に下見した時はこの場所にヒマワリが植えられていました。今芽を出しているのはひまわりには見えないので、菜種かなぁと想像しています。菜の花と手賀沼の景色もきれいでしょうね。


新田
地図で見ると○○新田という地名がたくさんあり、干拓事業の成果であることがわかります。手賀沼について柏市のページから引用してみます。
手賀沼と開墾
東京に最も近い湖沼
「東京よりわずか一〇里にして、山中的の仙境あるかと驚喜いたし候。手賀沼は印旛沼よりも風致大に優り申し候」明治大正期に、多くの旅行記を描いた文人大町桂月の言葉です。桂月の娘さんが手賀沼沿いの鷲野谷に嫁いでいたため、我孫子から船で手賀沼を渡った時の感想でしょう。
実際には日本橋から7・8里で、足の強い人なら水戸街道を歩いて半日余で呼塚・手賀沼に到達します。江戸時代には、手賀沼周辺からウナギや雑魚・鴨や鶏卵・野菜などが江戸に運ばれ、江戸人の台所を潤してきました。また木下から出た「木下茶船」は八人乗りで、香取・鹿島の三社参りや潮来・銚子までの行楽として江戸人に人気がありました。手賀沼周辺は、成田山と共に最もポピュラーな観光スポットだったのです。また利根川沿いの木下・布佐は銚子九十九里からの魚を運ぶ、鮮魚(なま)街道の荷揚場でもありました。

手賀沼の開墾
鮮魚(なま)街道の要所であり、手軽な観光地として知られた手賀沼は、江戸の商人たちの新田開発の意欲も誘ったようです。江戸初期の寛文一一年(一六七一)、江戸小田原町の海鮮問屋海野屋作兵衛ら十七人の商人による開墾も偶然ではなかったのでしょう。
これ以前には、手賀沼は布佐地先の字川口で、自然の水路で香取の海と結んでいました。高瀬舟も手賀沼に入り込み、平塚河岸や沼最奥端の戸張河岸で陸揚げし、江戸川水系まで、馬の背で運びました。しかし沼と利根川の水位の差はほとんどなく、利根川の水位の上昇はすぐに沼に逆流して洪水となります。このため寛文期には堤を築いて利根川と沼を遮断し、図のような圦樋という逆流止め水門で繋ぎました。高瀬舟は入れなくなりましたが、圦樋 は普段は扉が開いており、ウナギやボラなどは1メートルほどの落差をものともせずジャンプして沼に入り込みます。生態系はこの圦樋 によって保たれていたわけです。 戦後の昭和三十年代まで、手賀沼のウナギが「青」と呼ばれ江戸・東京で珍重されたのはこのためです。江戸時代の中頃には盛んだった鴨猟も、江戸人の贅沢な贈答品として珍重されたようです。
手賀沼のアキレス腱はしかしこの圦樋 にありました。利根川の水位が頻繁に上がるようになると、圦樋 は何日も閉ざされ、沼は内水氾濫に襲われます。時にはこの圦樋 が破壊されたり、堤が切れて沼沿岸は大洪水に見舞われました。排水の可否が手賀沼開墾の死命を決めたのです。
開発は思うように進まず、当初の17人の仲間は、海野屋作兵衛を除いて全員が手賀沼から撤退するという難しい開墾となりました。新田請方は次々と変わって、新しい江戸の商人たちが新田地を購入し、発作に居住して開墾に加わります。

享保の新田開発 
享保一二年(一七二七)に始る手賀沼の新田開発は、八代将軍吉宗が呼んだ紀州流の土木巧者井沢弥惣兵衛の設計によって、沼中に千間堤を築いての開墾といわれてきました。しかしこれには疑問が残ります。井沢が手賀沼開墾に加わったという史料は、いずれも半世紀以上も後世のもので、同時代史料にはその形跡はありません。井沢弥惣兵衛は元文三年(一七三八)に死去しますが、二代目の井沢弥惣兵衛(楠之丞)が翌四年から手賀沼新田方として任命されています。父の名を襲名し、事実手賀沼に関わったため混同した可能性があります。 
千間堤は、確かに沼中央(布瀬下と中里の間)に築かれたのは事実です。しかしこの千間堤は全く役に立たないまま、数年後享保一九年には洪水で切れ、以後一度も修理される事もありませんでした。
手賀沼の洪水は、利根川からの逆流です。堤が切れなくとも、圦樋 をしめれば内水氾濫が頻発します。沼中央の堤は上流からも、下流からも水が押し寄せ、総越の状態が続き決壊します。誰の設計か解りませんが、手賀沼の事情を知らない人の設計としか言いようがありません。
千間堤が竣工して翌年、享保十五年に検地が行われていますが、これは「検地帳」の表紙に記載されているように、「手賀沼古新田」1500石余の検地です。つまり六十年以前の海野屋作兵衛などの開墾の成果だったのです。千間堤が出来た翌年に検地が出来るはずもありません。吉宗と井沢・高田という紀州トリオによる享保開発は、ほとんどが後に創られた伝説です。残念ながら「千間堤」は、文字どおり「無用の長物」だったというべきでしょう

明治維新以降の手賀沼
薩摩・長州政権(新政府)は、戊辰戦争の戦費を賄った三井などの政商に小金牧の払い下げと手賀沼の開墾も許します。開墾会社が手賀沼は辞退すると、入札に付そうとするなどの動きもありました。この様な動きに地元民と印旛県は、手賀沼の入札をやっとの想いで中止させます。明治十六年には剣豪山岡鉄舟などが仏教の教田として開墾を申し出るなど、手賀沼は争奪のるつぼの様相を示します。しかし排水の困難さは変わらずいずれも成功していません。圦樋 で排水する状況下では限界があったと思われます。利根川との間の堤を堅固にし、機械排水する以外に手賀沼の干拓は無理なことが解ってきたのです。
大正期に手賀沼の一部を堤で囲い、機械排水する相島新田の井上二郎の指導による開墾は一定の成果を上げました。
第二次世界大戦後ふたたび、食糧難と復員者の「食と職」を賄うため、手賀沼の干拓が国の方針となります。印旛沼と共同で東京湾に排水する案が追求されますが、費用の点などで難航し、昭和二十八年やっと手賀沼単独で利根川に機械排水する事が決まります。こうして手賀沼の約半分五百五十ヘクタール余が干拓されたのは、昭和四〇年代に入ってからでした。手賀沼は往時の約半分になりました。折りしも減反政策で、沼周辺の谷津田が埋められ、沼の汚染が問題になり始めます。沼の洪水は克服されましたが、あらたな課題が生まれます。汚染度ワースト一を長く続けた手賀沼も、現在は北千葉導水道によって利根川の水が導水され、少しきれいになってきました。においはなくなり、2006年にはトライアスロンの会場になるなど、沼に人々が戻りはじめています。



北柏ふるさと公園

公園の住人、ハクチョウ

ススキ
公園は手賀沼の西端にあり、大堀川の河口です。この公園自体が干拓により作られた新田で、地図を見ると根戸新田、呼塚新田となっています。


ウォーキングイベントの参加者
この日は「手賀沼ふれあいウォーク2018」が行われていて、黄色いバンダナを目印に参加者がそれぞれのペースで歩いています。手賀沼一周20km、手賀沼大橋を渡る10km、その他4kmのコースが用意されていました。


大堀川

水戸街道の下をくぐる

木崎橋
ここからは大堀川沿いを上流へ向かってゆきます。目を凝らしてサケを探すのですが、サケなのかコイなのか見分けがつきません。冒頭で書いたように大堀川にサケが遡上するという情報は大学時代に友人からもたらされたものです。大堀川の近くに畑を持っていて、大学時代の仲間との「農業体験」を提供してくれる友人です。その畑近くを歩いているとき我々の姿を見つけて、電話をくれました。


高田小学校付近
鮭の遡上について柏市のページから2012年11月15日の記事を引用します。
毎年恒例となった「大堀川の鮭の遡上」。今年も鮭が遡上してきました。
11月14日(水曜日)の午後は、天気が良く、高田小学校付近を散歩していた多くの市民のかたたちが鮭の遡上に見入っていました。
例年、12月ごろまでは見ることができるそう。
水産法令で、市民のかたが鮭を捕獲することは禁止されていますので、温かく見守ってあげてください。また、住宅街の中にあるため、駐車場等はございませんのでご了承ください。


近くでよく見るとサケではなくコイでした。産卵後のサケの死骸なども見られないので、遡上はなかったのかもしれません。


さんち家
この日のゴールは農産物直売所かしわでです。ストレッチをして解散すると、ほとんどの会員さんがさんち家へ食事に行きました。
さんち家について柏市のページから引用します。
柏産の朝採り新鮮野菜が並び、ほぼ午前中でなくなってしまうほどのにぎわいをみせている農産物直売所「かしわで」。
平成16年6月の直売所オープンから12年、柏の農産物のおいしさをもっと多くの人に伝えたいと、今年6月11日に農家レストラン「さんち家(さんちや)」をオープンさせました。
店名には「産地」と「○○さんの家」の意味が込められています。
野菜を知り尽くした地元農家の主婦がシェフを務める「野菜だけ」のこだわりのレストランとなっていて、直売所直営とあって、それぞれの野菜のおいしさを最大限に引き出したメニューを提供。約50種類の料理がビュッフェ形式で楽しめます。
体も心も大満足!ぜひお試しください。



かしわで

稲わら?
かしわでのホームページから引用します。
柏染谷農場・染谷茂氏(TOP画面の田んぼでの写真)を中心とした15名の農家が集まってオープンしたのが「かしわで」です。
平成16年6月にオープンし、5年後の平成21年6月に来客数200万人を突破、平成27年6月で11年目になります。
柏市を中心に千葉県及び近隣の約230名の生産者による農産物がお店に並び、新鮮な野菜を提供しています。
柏の特産品、ねぎ・かぶ(生産量日本一)・ホウレンソウやチンゲン菜(柏で最初の栽培が確率された)をはじめとした各種野菜・果物・お米・花卉が豊富です。
代表の染谷茂、農事生産法人柏みらい農場は休耕地だった土地を開墾して108haもの農地にして、米・麦・じゃがいも・大豆等を作られています。
その農場で作られたお米(コシヒカリ・フサオトメ・フサコガネ)やその米を原料とした日本酒(柏自慢)なども販売されています。
柏みらい農場ではじゃがいも堀りの体験、お店の前にある「かしわで田んぼ」では小学生の植えた稲が穂を実らせています。
「かしわで」は単なる直売所ではなく、農業に関する情報の受発信基地として広く消費者に利用される施設を目指しています。
体験学習をはじめ、学校給食への食材の提供、行政等の農業に関するイベントへ積極的に参加し、さまざまな形による「地産地消」に取り組み、地域への貢献を図っています。
「お客様は直売所に元気をもらいにきているんだ。自然への感謝、お客様への感謝を忘れずに・・・」と染谷は提唱しています。


さんち家のお食事はおいしいですがアルコールの提供がありません。歩いた後のビールを楽しみにしている呑み助にはちょっと残念です。近くの和食レストランでビールを飲みながら、「こっちの方がいいや!」と負け惜しみのようなことを言っていました。さんち家で食事したこともないのに。

手賀沼、大堀川ウォーキングは天候にも恵まれとても楽しい体験でした。季節を変えて、再チャレンジがあるかもしれません。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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こまエコ散歩2018年秋

2018-11-15 11:59:52 | ウォーキング
「こまエコ散歩」は区立駒場体育館の主催で年に二度行われているウォーキングイベントです。すこやか歩こう会では十年以上このイベントをお手伝いしています。


ミライトワとソメイティ
駒場体育館に貼ってあったポスターです。来年のラグビーワールドカップ、2020年の東京オリンピックと世界的なスポーツイベントが目白押しで、体育館の利用者も増えている。のかどうかわかりませんが、体を動かして健康になる人が増えるといいですね。病気になった人のために税金が使われることは必要だと理解していますが、運動をして医療費を抑制している方々への金銭的な支援はもう少しあってもいいんじゃないかと思います。特に体育館の職員をしながら、活動を続けるアスリートが安定した生活を築けるようになるといいですね。


気象予報士の池田洋人さん
エコ散歩で歩く前に「楽しい観天望気のお話」というテーマで、お話されました。「観天望気」はなじみのない言葉ですが、「天気のことわざ」というとなじみ深いでしょうか。いくつか例を挙げてお話されていましたが、中には科学的な裏付けがなくよくわからないものもあるようです。一点資料から抜粋してみましょう。
Q 猫が顔を洗うと、その後、雨になる
【イエスかノーか?】

A ノー??
 これも本当かどうか、よく分かっていません。でも、晴れの日が続くと空気が乾燥するので、猫の目や鼻が乾いて、顔を洗って水気を与えるという説もあるようです。
  晴が続いたので、近いうちに雨が降るということだそうですが、今度、観察してみてください。



駒場野公園のカリン
駒場体育館は駒場野公園内あります。駒場野公園の開園は昭和61年なので比較的新しい公園と言えるでしょう。近くに駒場公園があり、昭和42年に都立公園として開園し、昭和50年に目黒区へ移管されました。小学生の頃、徒歩遠足で訪れたことがありますが、その頃は都立公園だったのですね。駒場野公園の歴史について目黒区のページから抜粋します。
駒場野公園の歴史
この一帯は、かつて人の背ほどもある笹が一面に生え、ところどころに松林がしげる広い原野で、駒場野と呼ばれていました。
明治になると、農業の近代化を図るため、この広い原野を利用して駒場農学校が開校し、近代農業の総合的教育・研究の場となりました。明治14年この農学校にドイツ人ケルネル氏が農芸化学の教師として着任し、土壌や肥料の研究を行って大きな成果をあげました。 園内にある水田はこの実験を行った場所で、農学発祥の地「ケルネル田んぼ」と呼ばれ、稲作は筑波大学付属駒場中・高校の生徒さんによって今でも行われています。
駒場農学校はその後東京農林学校、東京帝国大学、農科大学等を経て、東京教育大学農学部となり、昭和53年に筑波へ移転しました。その移転跡地に造成されたのが駒場野公園です。



駒場野公園のバラ園
淡島通り沿いの駒場野公園は拡張部分で平成19年にオープンしました。駒場バラ園のバラの一部がこちらに移され、駒場バラ会の皆さんがお世話をされています。駒場バラ会について会のホームページから引用します。
駒 場 バ ラ 会 は、目黒区駒場 1丁目に古くからある「駒場ばら園」のバラ達と、バラを愛する心を、この地の文化的財産として保存し、伝えてゆくことを目的とした会です。
「駒場ばら園」は明治44年開園で日本最古のバラ専門店とされ、日本中の愛好家に親しまれています。平成17年に駒場ばら園 は敷地の縮小されることになりました。駒場ばら園とオーナーである入澤夫妻を慕う人たちが中心となって、その縮小を惜しみ、地元の人達の協力を得、目黒区と東京都のご理解と入澤夫妻のご好意を頂いて、縮小部分のバラを「駒場公園」内の旧前田邸西洋館前に移植しました。
その後、バラは、駒場東大正門横、目黒区立駒場小学校、目黒区立第一中学校、渋谷区立加計塚小学校にも寄贈されました。これらの駒場地区のバラを、維持育成して行くためにできたのが『駒場バラ会』です。



目黒川緑道のキバナコスモス
〆切地蔵、筑波大学付属中高、騎兵山遺跡、馬神碑を見て、目黒川緑道を歩きます。こちらの花壇もボランティアの方たちが手入れをして、季節の花々を楽しませてくれます。ちょっと広域の説明になりますが、目黒区のページの「歴史を訪ねて」から駒沢練兵場の項を引用します。
更新日:2013年9月5日
「歴史を訪ねて」は、「月刊めぐろ」昭和54年6月号から昭和60年3月号の掲載記事を再構成し編集したものです。

兵営が続々と出現
幕末期に持ち上がった駒場野演習場拡張計画は、周辺農民たちの激しい抵抗に遭い、とうとう実現しなかった。いわゆる駒場野一揆の一件である。
しかし、明治政府が富国強兵策を進めるに至って、駒場野周辺は、軍用に適した土地として、再び注目を浴びた。幕末の動乱で、軍事力強化の必要性を痛感していた明治政府は、差し当たって諸外国から自国を守るために軍備を固めた。やがてそれは、アジア大陸への領土拡大をもくろむものへと変わっていった。「富国強兵」の旗の下に、わが国は、軍国主義の道を歩き始めたのである。
明治の初めには、旧大名屋敷が兵営に充てられていたが、明治6年に徴兵令が敷かれて以後、兵隊が増えたこともあって、兵営は郊外へ移転を始めた。また新しい兵営も続々と建てられた。その適地として目をつけられた土地のひとつが駒場野であった。帝国陸軍用地として買収の話が持ち上がったときには、幕末の駒場野一揆のような動きは起きなかった。むしろ、招致運動さえあったという。何の補償も示されなかった幕末のときとは違い、今度は幾ばくかの土地代金が与えられたし、買い上げられた土地の用途は、増強に増強を続ける帝国陸軍の用地である。軍事施設が出来ることによる地元発展への期待も、人びとの中にあったのかもしれない。
最初に現れた軍事施設は、明治24年に移転してきた騎兵第1大隊(のち連隊)の兵営であった。翌年にはその東に、新しく創設された近衛輜重(しちょう)兵大隊第1中隊(のち大隊)が兵営を築いた。輜重(しちょう)兵とは、弾薬や食糧の輸送を任務とする兵隊である。これらの兵営の北、駒場野の一角に駒場練兵場が置かれた。
明治30年、駒場野の南に置かれた駒沢練兵場は、現在でいうと南北は国土地理院跡から三宿病院、東西は東山中学校から池尻小学校にまで及ぶ広大なものだった。その後、駒沢練兵場の西側一帯に、野砲兵第1連隊営、近衛野砲連隊営、砲兵旅団司令部、野戦重砲兵第8連隊営が続々と建てられた。駒沢練兵場で訓練を受けたのは、主にこれらの兵隊であった。

三宿辺りのにぎわい
軍事施設が出現して、三宿辺りには兵隊やその家族相手の店や旅館が軒を並べるようになった。兵隊たちが「員数屋」と呼ぶ店には、軍服の肩章やベルトなどこまごました物が並べられ、紛失した兵隊はそこで買い揃えた。
兵営の周辺が、ことににぎわったのは、兵役の交替期であった。兵役を終えた兵隊と家族が再会を喜び、新しく入営する者の親類縁者は「祝入営」と書いたのぼりを立てて見送った。遠くから入営する者は、入営前夜は兵営近くの旅館に家族とともに泊まり、別れを惜しんだ。

つらかった急坂路訓練
駒沢練兵場では、さまざまな訓練が行われたが、東山の傾斜地での急坂路訓練は、大砲を6頭立てや8頭立ての馬に引かせて、坂を駆け上がり、下りてはまた上がるというものだった。後には牽引車が登場した。馬や牽引車が故障したという想定で、兵隊たちが引き上げるという訓練もした。
急坂路訓練は人にとっても馬にとってもつらい訓練で、鍛えられていたはずの兵隊も恐れたほどという。ときには事故もあったのだろう、東山中学校脇にある馬頭観音には、苫良号と福宮号という2頭の軍馬が祭られている。軍馬は非常に大切にされたのである。



東山公園の紅葉
東山公園は東山小学校周辺、二か所に分かれていますが、こちらの公園にはもともと国土地理院がありました。国土地理院が筑波へ移転した跡地や、統合して空きスペースになった官舎の跡などが、東山公園として整備されました。


東山いちょう通り
南北方向の東山いちょう通りは紅葉が始まっていますが、東西方向の通りはまだ緑色です。南北方向の通りは西側が自衛隊三宿駐屯地で開けていて、日当たりが良いせいでしょう。目黒区のページから東山の項を引用します。
更新日:2014年2月3日
「目黒の地名」は、「月刊めぐろ」(昭和55年8月号から昭和58年4月号)の掲載記事を再構成し編集したものです。

目黒の地名 東山
古い歴史を持つ地名が次第に姿を消し、忘れ去られていくなかで、今も脈々と生き続け、ときとともにかえってその比重を増していく地名も幾つかある。「東山」は、そんな数少ない地名の一つである。
今日、住居表示としてはもちろん、小・中学校名、さらに住区の名称となって広く知られる「東山」は、もとは、旧目黒六カ村の一つ、上目黒村の小字名。当時の字「東山」は現在よりかなり狭く、また、その地名の由来も、今は地名としては姿を消した。旧上目黒村の中心的集落「宿山」の東方の地という程度の理由から名付けられたものといわれている。
ところで、この「東山」の歴史を語るときに欠かすことができないのは、東山貝塚と旧駒沢練兵場。東山貝塚は、明治の中ごろからその存在を知られていたが、大正15年、土地区画整理の工事中に、現在の東山貝塚公園の南側から縄文時代のタテ穴住居跡や縄文後期を中心とする土器、石器などの遺物が発見され、これが新聞紙上で大きく報道されて、貝塚とともに「東山」の名が一躍知れ渡ることとなった。
また、明治の中ごろから終戦まで、東山の丘陵部のほぼ全域を占めていたのが、旧駒沢練兵場。西は世田谷の三軒茶屋近くにまで及ぶ広大な施設で、旧陸軍の近衛第一師団五千人の将兵が、千三百頭の軍馬とともにこの地で日夜訓練に励んでいた。現在、東山三丁目の大半を占める国家公務員住宅群や防衛庁などの広大な施設は、この練兵場跡に建設されたものである。


このあと菅刈公園、西郷山公園、三田用水跡、松見坂、駒場バラ園、東京大学教養学部をめぐり、駒場野公園に戻りました。エコ散歩秋のお楽しみはなんといっても焼きいも、参加者とともに我々も焼きいもをいただき、秋の味覚を楽しんだウォーキングとなりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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