目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

善福寺川公園コース 約6.6Km

2019-01-31 11:31:15 | ウォーキング

西永福駅
京王井の頭線の西永福駅が集合場所のため、メンバーにとっては、家を出る時間が読みにくいコースだと思います。更に、この日は寒波の影響で気温も低く、13名と普段よりはかなり少なめの参加となりました。


大宮八幡鳥居

大宮八幡

アンパンマン

白鷺
先ず、大宮八幡宮に参拝し、境内の隅をお借りしてストレッチを行いました。八幡宮を後に、善福寺川に向いましたが、善福寺川に隣接する和田堀池は、河川工事のためか、善福寺川の水を大量に流し込んでいて、川幅10~20メートル流れの強い川のように見えました。その対岸に大きな白鷺を見つけましたが、やはりスマホのカメラではなかなか焦点が合いません。池の周りには、スマホと違って立派な望遠レンズ構えているカメラマンを大勢見かけました。どうも白鷺ではなくカワセミを狙っているようです。




善福寺川
善福寺川の両岸にある遊歩道と公園には、寒さ知らずの親子が遊びまわり、ジョギングやサイクリング楽しむ人々を沢山見かけます。地元の人々にとっては貴重な緑道公園なのだとわかります。



カモの群れ
善福寺川を遡上しながらのウォーキングでは、川面に鴨の群れや大型の鯉を度々見る事ができ、おしゃべりと共に楽しいひと時を過ごしました。



荻窪商店街
ゴール地点荻窪駅に至る手前の、小さな公園の片隅をお借りしてストレッチを行いましたが、この周辺は与謝野晶子、鉄幹のゆかりの地との事で、商店街の街路灯、ストレッチをさせて頂いた公園内にも、晶子と鉄幹夫妻のゆかりの地としての紹介が行われています。


地下鉄丸ノ内線
地下鉄丸ノ内線荻窪駅から新宿三丁目経由副都心線で中目黒に無事到着しましたが、地元に帰ってもアルコール会の誘惑が勝って、有志4名焼き鳥をつまみながらの懇親となりました。男性4人の宴でしたが、飲み食いに歓談で大いに楽しむ事ができました。

吉井

すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下馬太子堂三宿コース 約6.8Km

2019-01-31 10:50:52 | ウォーキング
二十四節季の大寒の前日とあって、朝方から強く風が吹き体感温度はかなり低いと感じられ、少し心配しましたが、スタート時間の午後1時頃になると風もおさまり、幸いなことに絶好のウォーキング日和に変わっていました。


祐天寺駅
今日のスタート地点である祐天寺駅のビルは、建替が終わり昨年10月1日「エトモ祐天寺」の名称で開業したばかりです。立替え前は、古くてぱっとしない駅ビルだったのですが、これで少しは格が上がるのではないでしょうか。



謡坂
謡坂(うたいざか)を登り、葦毛塚之碑に立ち寄ります。目黒区の資料によると、「謡坂(うたいざか)」の名前の由来は定かではないとの事です、この名前の坂は、近畿以東に40余りもあると言われており、そのひとつが目黒区にあるこの坂です。


葦毛塚
葦毛塚之碑は、源頼朝が、葦毛の馬に乗ってこの地を通ったとき、その馬が何かに驚いて沢に落ちこんで死んだという説と、鎌倉将軍の世ここの地の領主北条左近太郎が仏経をもって出かけたとき、その葦毛の乗馬が突然たおれたのでここに埋めたとの説があります。この近辺には、上馬、下馬と言う地名が残っています。どうも鎌倉街道沿いであった事との関連が有りそうです。


蛇崩川緑道

駒繋神社
蛇崩川緑道を伝って駒繋神社に到着します。この神社は天喜四年(1056)四月、源義家が父頼義公とともに朝廷の命をうけ奥州に向かう途中、この地を通過するさいに、祈願参拝休憩したと伝えられているとの事。また、文治五年(1189)七月源頼朝が藤原泰衝征伐のため立ち寄り祈願したさい、愛馬を繋いだ松を駒繋とよび、のちに駒繋神社と称するようになったとされています。




西澄寺
西澄寺の山門は、大正11年本堂の改築の時、港区三田四国町にあった旧蜂須賀家屋敷門を移築したと伝えられており、5~10万右の大名の屋敷門の形式、構造、装飾等を備える数少ない武家屋敷門の遺構として貴重なものです。


大山道道標

キャロットタワー
三軒茶屋駅のランドマークキャロットタワーとかつてのランドマーク(大山道 道標)です。赤坂見附から始まる大山道の新道と旧道の分岐点が三軒茶屋です。かつての大山道の新道は世田谷通りと名称が変わり、そして旧道は国道246号線となっています。



目青不動
教学院にある不動明王像は江戸五色不動の1つので「目青不動」と呼ばれています。世田谷線の線路ぎわにあり、門前の、道が狭くて目立ちにくいのは、世田谷線が門前を塞ぐように横切るようになったからなのでしょうか。江戸五色不動と言われた名刹にしては参拝客も少なく質素なお不動様に見えてしまいます。


太子堂八幡神社

七草

太子堂八幡神社の神楽殿
太子堂八幡神社の手水舎には、今年も七草のざるが置かれていました。そう言えばここの所何年も七草粥を口にしていない事を思い出しました。


聖徳太子参道

林芙美子

円泉寺

太子像


騎兵第一連隊

秋山好古
この後は、聖徳太子参道に入り林芙美子旧居(「放浪記」「晩菊」等の作者)、円泉寺(太子堂のあるお寺)、三宿神社、「騎兵第一連隊碑」(司馬遼太郎の作品「坂の上の雲」の主人公秋吉好古が連隊長)を訪ねました。(この碑に秋山好古の名前を確認し写真に収めたのですが名前の左半分が欠けてしまいました)相変わらず写真はど下手だと痛感しております。


目黒川基点

目黒川のカモ
烏山川緑道を下り烏山川緑道と北沢川緑道の分岐点へ、この二つの川が合流し下流が目黒川となります。目黒川を更に少しくだれば、ゴール地点の池尻大橋に到着です。

天候にめぐまれ、この時期にしては珍しく少々汗もかきましたので、ゴールの後、アルコール好き?且つ喉の渇きが強い有志5人、大橋の餃子の店で生ビールとハイボールをたらふく飲んで大いに喉を潤しました。

吉井

すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【下見】古代の青龍、野川下りコース二子玉川編

2019-01-24 09:39:53 | ウォーキング
前回喜多見まできた野川下りの続きとなります。喜多見編で書いたブログで、厳密にいえば二子玉川編は野川下りではなく、「旧入間川改め野川」下りであることが判明していますが、とりあえず前回の続きでこちらを歩く必要を感じて、このコースを設定します。


喜多見にごりや
世田谷通りは古くからある街道でところどころに古くからありそうな商店が点在しています。外見「料理屋かな?」かなと思った“にごりや”は不動産屋さんで元は石屋さんだったようです。世田谷通りは大山道だと解釈していたのですがそれは誤りで、町田へ至る甲州街道の裏街道とのことですが、生活道路として大いに活躍していたようです。誤認識でしたが、大山道についてWikipediaから大山道のうち矢倉沢往還を引用します。
矢倉沢往還
江戸から大山への経路として代表的なものである。矢倉沢往還の街道は、律令時代より東海道の本道にあたり、鎌倉時代に湯坂道(箱根峠)が開かれるまで官道として機能していた。江戸時代に入って大山講が盛んになる享保年間から、江戸から大山へ、あるいは足柄から大山への道としても機能する。急峻な箱根峠に対して足柄峠は緩やかであり、また、江戸-沼津間の短絡路であったために、東海道の脇往還としても発達した。神奈川県内の区間は大正時代になると県道1号線に指定され、後に国道246号となり、幹線道路として機能している。

青山通り大山道
矢倉沢往還の別名で、江戸から大山へ向かう経路上で青山を通ることから、東京都内の一部箇所にて局地的に「青山通り大山道」と呼ばれる。江戸時代には江戸からの参詣道として盛んに利用され賑わった。途中の下鶴間宿に、大山阿夫利神社の分社が存在する。
現在でも神奈川県内で「大山街道」の名が定着している道である。
経路:赤坂(以降、東京都) - 青山 - 渋谷 - 三軒茶屋 - 二子の渡し(多摩川) - 溝口(神奈川県川崎市) - 荏田(横浜市) - 長津田 - 下鶴間(大和市) - 国分(海老名市) - 厚木の渡し(相模川) - 厚木(以降、厚木市) - 愛甲 - 下糟屋(以降、伊勢原市) - 上粕屋 - 石倉 - 田村通り大山道を経て大山へ


大山道、現在の目黒区では玉川通りですが、律令時代の東海道だったのです。覚えておきましょう。


雁追橋付近の野川

アオサギ

次太夫堀公園

六郷用水の再現

小泉次太夫巡検図

次太夫堀公園民家園
雁追橋付近では退屈な河川改修後の入間川改め野川ですが、次太夫堀つまり六郷用水をテーマに据えると今回のルートが面白くなります。すこやか歩こう会ではこれまでも六郷用水に関連する場所を歩いてきました。そのほとんどが大田区です。東急多摩川駅から六郷用水の流れが再現され、福山雅治が歌って有名になった桜坂。池上七福神めぐりで池上警察署の脇にある六郷用水の暗渠。かつて池上七福神めぐりのスタート駅とした東急武蔵新田駅は、六郷用水により開発された新田に由来します。桜坂は中原街道の旧道で、徳川家康江戸入府当時の東海道でした。次太夫堀公園についてWikipediaから引用します。
当公園は1983年に開園した公園で、園内のメインは民家園である。当公園ではかつて世田谷区内で見られた農村生活を身近に見られるように名主屋敷(主屋1棟、土蔵2棟)、民家2棟、表門、消防小屋などが復元され、公園内の次大夫堀や水田とあわせて、江戸時代後期から明治時代初期にかけての農村風景を再現されており、かつての暮らしぶりを体験できる。

次大夫堀
園内には公園の名の由来になっている「次大夫堀」という用水が流れており(後年復元されたもの)、これは稲毛・川崎領(現在の神奈川県川崎市)の代官であった小泉次大夫の指揮により、慶長2年から15年の歳月をかけて開発された農業用水の一部である。この用水は正式には六郷用水といい、昭和初期までは周辺農地などに使われていたが、現在大半は埋められたか雨水用の下水に転用されている。世田谷区内では次大夫掘公園内に復元された約600mの流路と、丸子川として一部分のみ残っているのみである。


六郷用水についてもWikipediaから引用します。
多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る用水路であった。 延長は23kmで、49の村、約1500haに、主に農業用水として水を供給した。 多摩川の対岸の川崎市を流れる二ヶ領用水(同じく小泉次太夫が建設指揮監督)と合わせて四ヶ領用水(よんかりょうようすい)とも呼ばれる。
1597年からの14年かけて用水が開削された。開通後100年を経過したころ荒廃したが、1725年に代官田中丘隅(休愚)の手により改修された。この改修は、二ヶ領用水と並行して行われた。この改修後、世田谷領でも六郷用水が利用できるようになった。
廃止されたのは1945年である。宅地化が進み、大半は1970年代までに埋め立てられたか雨水用の下水道となった。流路の大半が失われたため「幻の六郷用水」と呼ぶ向きもある。
一部区間(世田谷区岡本~大田区田園調布)は丸子川として残っている。また、世田谷区喜多見では、同じ場所に野川からの取水により次大夫堀が再現されて次大夫堀公園となっている。大田区内では、中原街道から東の東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近に湧水を使って用水路が再現されていて、残りは歩道になっている。
現在、用水の跡地は、道路、緑道(遊歩道)、次大夫堀公園のほか、未だ更地の場所もある。なお、六郷用水は既存の多くの河川と分合流あるいは交差していた。



外環道工事現場

きしべの路(大正橋付近)

外環と東名のジャンクション工事現場
大規模な工事が行われていますが、歩いているときにはなんだかわかりませんでした。外環道と東名高速がこの場所で交わるための工事でした。首都高新宿線高井戸付近で行われている工事も、外環道の関係なのだと納得したところです。これが開通すると、関越道に行きやすくなり、環八の渋滞も解消されることでしょう。開通予定は「見通せない」とのことですが、2020年のオリンピックには間に合わないようです。


宇奈根付近の庚申塔

サギソウのレリーフ

鯉のレリーフ

けやき?のレリーフ

セキレイ?のレリーフ

宇奈根付近の野川

仙川合流地点
この下見時点では二子玉川まで歩いた後、次の企画は支流である仙川と考えていましたが、宇奈根付近で多摩川に注いでいた旧野川に興味が湧いてきました。仙川を辿り再びこの合流点を訪れるのは、結構先のことかもしれません。


野川と野川水道橋の由来
 野川は国分市東恋ヶ窪に源を発し国分寺崖線に沿って幾多の湧水を取り込み小金井、三鷹、調布、狛江を経て世田谷区に入り、二子玉川付近で多摩川に合流する全長約20km、流域面積約70万km2に及ぶ一級河川です。
 かつては現野川より西側を流れ、宇奈根2丁目あたりで多摩川に合流していたようですが、約400年前に開削された「次代夫堀」による水田開発やその後の大規模自炊事業により現在の位置に姿を大きく変えました。
 また、都区内の河川としては自然環境も多く残されコイやギンブナなどの魚類、カワセミやマガモなどの鳥類が生息し、地域住民をはじめ多くの方々の潤いの場となっています。
 「野川水道橋」の由来は、大正12年当時渋谷町・町営水道が砧下浄水場を造り、多摩川より取水した水を渋谷方面に給水したことから始まります。水を送るための水道本管は初め野川の水底に埋設されていましたが、昭和35年に野川が改修された際水道本管が一旦地上に出て川の上を通ることになり、鉄管を支える目的で「野川水道橋」が架けられ、平成18年までの46年間、「水道管のある歩道橋」として地域の方々に親しまれ生活を支えてきました。
 平成18年の野川改修工事で再び川底を通るようになりましたが、「野川水道橋」の46年間の歴史を残しておくために、新しい橋も「小川水道橋」とすることになりました。
 鎌田の砧下浄水所、水道道路、野川水道橋は、世田谷の水道文明遺産の証人でもあります。

平成20年4月1日 東京都世田谷区 鎌田南睦会 協力:駒沢給水塔風景資産保存会


ここにも駒沢双子の給水塔が出てきましたね。このようにこれまで行ったところとの関連がわかってくると面白いです。渋谷町水道に関連する記述をWikipediaの砧下浄水所の項目から引用します。
明治時代、日清戦争・日露戦争を経て東京市は爆発的な経済発展を遂げており、人口の増加に伴い、水道の整備が急務であった。政府は1909年(明治42年)、中島鋭治博士らに水道需要と建設の計画策定に関わる調査を委託した。これが、我が国において大規模な近代水道を整備する始まりとなった。後に水道整備を加速するため、内務省による水道条例の改正が1913年(大正2年)に行われた。それまでの水道条例では、たとえ民間水道会社が水道を敷設したとしても、一定期間後に当該市町村に水道を移譲しなくてはならない条件がつけられていた。このため、それまで民間水道会社の設立・参入には消極的な向きもあったが、所定期間後の移譲を有償にする等の改正によって、民間水道会社の設立が促された。これにより最も古いのが玉川水道(株)であり、澁谷町水道は二番目である。結局私営は三つにとどまり、公営企業も1932年(昭和7年)の東京市大合併に合わせて東京都水道局に吸収された。


鎌田付近の野川

多摩川河川敷

多摩川河川敷内の野川

コヤマドライビングスクール

兵庫橋

野川と田園都市線
私が使用している昭文社の地図ソフトMappleは少し古いので、野川の流れが変わっていました。地図では野川を下流に向かって右側にコヤマドライビングスクールがありますが、実際には左側です。洪水対策で大規模な河川改修が行われたのでしょう。
上流から来ると野川に最後に架かるのが兵庫橋です。多摩川河川敷に兵庫島公園があり、そこへ渡るための橋となります。多摩川河川敷も空が大きく見えて気持ちがいいです。このコース、三月に設定するかどうか。私のスケジュール次第といった感じです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

古代の青龍、野川下りコース喜多見編 約6.3km

2019-01-15 11:06:28 | ウォーキング
野川シリーズの五回目となります。


渋谷で建設中のビル群
建設中の一番高く見えるビルが「渋谷スクランブルスクエア東棟」です。東棟が2019年度竣工予定、中央棟、西棟は2027年度竣工予定となっており、東棟が一番高く47階230m地下7階です。サンシャイン60が60階240mなので、階数の割には高さがありますね。屋上は屋外展望施設となり、人気となるでしょう。
手前で建設中のビルは「道玄坂一丁目駅前地区」で「渋谷フクラス」という名称が決定しているそうで、2019年秋竣工予定です。東急不動産のニュースリリースから引用します。
道玄坂一丁目駅前地区市街地再開発組合と、同組合の組合員および参加組合員として参画している東急不動産株式会社(本社:東京都港区、社長:大隈 郁仁)は、共に事業を推進している「道玄坂一丁目駅前地区第一種市街地再開発事業」(以降、本プロジェクト)のビル名称を、「渋谷フクラス(SHIBUYA FUKURAS)」(以降、本ビル)に決定したことをお知らせいたします。

「渋谷フクラス」という名称には、「膨らす(膨らます)」という日本語から、渋谷および本ビルを訪れるすべての人々の幸福を大きく膨らませていきたいという思いを込めました。
本ビルの建築コンセプトは「小さな物語の集積」です。多様な人や文化が混在し、集まり成長していく過程で小さな物語が生まれ、その集合体が街をかたどっていく渋谷のように、小さな結晶体が集まりビルの外観が形成されていきます。ロゴマークは、街のエネルギーが凝縮された、結晶体のような本ビルの外観から「膨らむ結晶体」を表現。ロゴカラーのシルバーは、洗練・品格・先進の印象を打ち出すとともに、すべての色(個性)を輝かすことのできる柔軟性や多様性を表現しました。
これまで多くの流行や文化を生み出し、成長してきた渋谷において、現在、東急グループは「エンタテイメントシティSHIBUYA」を掲げ、100年に1度と言われる再開発を関係者と協力して推進しています。渋谷の魅力である「多様な人・文化・個性の混在」を活かし続け、世界を牽引する新しいビジネスやカルチャーを発信することが渋谷再開発のビジョンです。
本プロジェクトが目指すのは新しいだけの渋谷ではなく、これまで渋谷という街で生み出されてきた結晶体のような小さな物語を集め、さらには世界中のあらゆる人や企業を受け入れながら、そこに集う人々の「幸福」を未来に向けて「膨らませていく」場所です。渋谷を訪れる国内外の多くの人々を迎える玄関口として、来街者の快適さを重視した街と人をつなぐ仕掛けを取り入れ、多くの交流を生み出し、街ににぎわいを創出します。


「日本語かよ」とツッコミたくなります。渋谷東急プラザにしてくれればよかったのに。ときどき「ヒカリエ」の名前もシニアモーメントで出てこないのに、渋谷にできるビルの名前を覚えきれるかどうか。
右側にちらっと見えているのが昨年9月に開業した「渋谷ストリーム」です。スクランブルスクエアとストリームの事業主体は東急電鉄で、フクラスは東急不動産です。かつて渋谷戦争と言えば東急と西武でしたが、現在は電鉄と不動産の身内で競い合っている構図ですね。名前の付け方では、電鉄が一歩リードという感じがします。


調布市菊野台の野川
柴崎駅に着いたのは予定より10分遅れでした。京王線の快速などがどの駅に停車するのか理解していないので、明大前で悩んだ結果各駅停車に乗ったため、事前に調べた時間に到着しなかったようです。20分の準特急に乗って、千歳烏山で快速に、つつじヶ丘で各駅停車に乗り換えれば予定してた34分に到着したようです。それ以前に渋谷駅で井の頭線の急行電車ではなく、13:01発の各駅停車に乗れば、明大前で快速に乗ることができ、つつじヶ丘で各駅停車に乗り換えれば予定通りに到着しました。明大前に行くのに急行にこだわったのが間違いかな。
川沿いの児童公園をお借りしてストレッチをしウォーキングスタートです。


箕和田橋付近の野川
下見で歩いた時は平日、曇り空のうすら寒い日ででしたが、この日は休日で快晴。風が少し冷たいものの、川沿いを散歩している人がたくさんいました。野川では白鷺を多く見ました。コサギとチュウサギかなぁと思っていたのですが、この二羽は一緒に行動しているようなので、親子なのかもしれません。


小金橋付近の野川
小金橋の北側は調布市西つつじヶ丘で南側は狛江市西野川です。この先まっすぐに改修された野川を離れて、旧野川が暗渠化された岩戸川緑地公園を歩きます。


大橋
「これが大橋?」とツッコミたくなるような小さな橋で、目黒川の大橋と比べても1/4くらいでしょう。かつての野川は氾濫を繰り返し、川幅も広くて大きな橋があったものと思われます。地図で見るとこの付近には子の権現三島神社、御岳神社、八幡神社と広い境内を持つ神社が集中していることから、かつての狛江集落の中心地だったのでしょう。大橋の道は大橋通りで、集落を結ぶ重要な橋だったものと思われます。


野川緑地公園
岩戸川緑地公園がどこで野川緑地公園に変わるのかよくわかりませんが、御台橋あたりでしょうか?市役所東通り付近の野川緑地公園は河川改修されまっすぐになっていました。この付近の河川が改修されたのは昭和初期だそうです。


石橋供養塔
区役所東通りからイチョウ並木通りを通って世田谷通りの一の橋交差点へ来ました。この供養塔はその交差点に建っており、これを調べるうちに多くの疑問が解けました。
市役所付近の野川は昭和初期に河川改修が行われており、もとの野川の痕跡はほとんどありません。市役所から先、野川緑地公園からのびる暗渠は、小田急線沿いに喜多見駅方面へ向かっているようにも見えます。(未確認の単なる印象です) 世田谷通りには一の橋、二の橋などの地名が残り、これらの橋が何川にかかっていたのかわかりませんでしたが、供養塔を調べるうちに野川と六郷用水が合流し世田谷通り沿いに流れていたことがわかりました。この供養塔について狛江市市民協働課発行の●狛江市民活動・生活情報誌●わっこ、2007年5月号から引用します。
北多摩郡でいちばん早くコンクリート製になった一の橋
曽我宗一さん(85歳)の話
ウチは祖父の代から橋の横でよろず屋をやっていました。昔は一の橋は石の橋で、二の橋は木の橋で、ウチの屋号は石橋というんですが、二の橋の横にあったよろず屋の屋号は板橋と言ってました。新一の橋は、世田谷通りが造られたときに架けられて、バスも通るようになり、人通りも増えました。その後、軍需工場ができたときに、湘南の橋が造られました。明治23年生まれの父が若いとき、一の橋を石橋からコンクリートに改修するのを手伝ったんですが、コンクリート製の橋は北多摩郡ではいちばん早かったと聞いてます。いまある石橋供養塔はウチの父が屋根をつけたり、花を飾ったりして、守っていたんです。この橋は六郷用水がなくなるまで使われましたが、橋の幅が3mぐらいありましたね。用水と野川の水が合流するので、一の橋の辺りは川幅が道より広かったんです。子どものころは、水もきれいで、橋の上から飛び込んだり、よく遊んだものです。



古地図 ●狛江市民活動・生活情報誌●わっこ、2007年5月号から引用
現在の野川は二子玉川付近で多摩川に合流していますが、元々の野川は宇奈根で多摩川に注いでいました。我々のこの日のルートはもともとの野川を歩き、一の橋から野川と合流後の六郷用水沿いを歩いたことになります。この地図がわかりやすいですね。この付近の様子を狛江市のホームページから引用します。
昭和40年 六郷用水 用水・道路・下水道
 江戸時代初期に造られ、田畑の灌漑用水路として大切に管理されてきた六郷用水も、昭和前期には下流の六郷地区が宅地や工場用地になったため田圃が少なくなり、ほとんど使われなくなったことと、多摩川の砂利を乱掘したため河床が下がり、水が入らなくなったこともあって、昭和30年代後半には流れる水が少なくなった。そのため水が停滞し、悪臭を放つことなどがあり、昭和40年には地域の住民から、暗渠にし、上を道路にしてほしいという請願が出されている。まもなく多摩川住宅ができるというのに、町の中心である狛江駅からバスが通れる道がなく、地域の住民にとっても不便な状態であった。
 一方、一の橋付近の世田谷通りも昭和30年代後半には幅8mで歩道がなく、大型車も通る。その上、南側は六郷用水(旧野川)の急崖(きゅうがい)で、北側には民家が連なっていた。だから家から出るのも、道を歩くのも命がけだった。そこで昭和40年に拡張計画が立てられ、六郷用水を暗渠にし、その下に下水道管も埋設して、幅16mの歩道付きの道路にするのである。
 しかし、両計画とも下水道管を敷設するというが、終末処理場が定まらない。町内は平坦で、どこにも家が建ち、下水処理場を造る場所がない。特に屎尿処理は切羽詰まっていた。
 自分の町の中に処理場を造れないのは多摩地区のどこの市や町も同じである。そこで昭和43年に、都は流域下水道計画を策定し、都が多摩川と荒川の川岸に処理場を造り、各市や町から処理場までの幹線を敷設する。各市や町の中の下水管はそれぞれの市や町が敷設するというのである。そのとき狛江町は世田谷区境で森ヶ崎幹線に接続し、大田区にある森ヶ崎処理場で処理することになったので、翌年から工事を開始し、昭和44年には第一地区の工事が完成し、下水道を使えるようになった。
 工事を終えた六郷用水跡には下に下水管が敷設され、上は「六郷さくら通り」と、拡幅された「世田谷通り」として今は利用されている。
 六郷用水は無くなったが、長年使い慣れてきた地名はぜひ残したいものと、橋は無くなっても田中橋、新一の橋、一の橋、二の橋の名は地名として今も残り、駄倉橋の親柱は市役所前交差点の歩道に残されている。
 また、六郷さくら通りを泉龍寺裏から西河原公民館に向かって行くと、左側に何カ所か歩道が広くなったり、樹木や草花が植えられた場所がある。それは、かつての六郷用水がカーブしながら高度を落とさぬようにして水を流し、遙か六郷の村々に水を送っていた跡であり、六郷さくら通りを拡幅し直線状にしたときにはみ出した部分でもある。
  井上 孝(狛江市文化財専門委員)



滝下橋緑道

世田谷区喜多見の野川
滝下橋緑道も六郷用水の暗渠になります。六郷用水については、次回の野川シリーズで触れることにしましょう。野川の川沿いへ下りて、世田谷通りをくぐります。


河川改修工事中
我々は小金橋から暗渠上を歩いてきましたが、河川改修されたまっすぐの野川はもともと入間川という別の川でした。狛江市東野川で調布市入間町から流れてくる入間川が野川に合流していますが、現在野川と言っている部分はもともと入間川を河川改修したものです。そして現在もまた、きたみふれあい広場付近で河川改修が行われています。
我々は広場をお借りしてストレッチ後、喜多見駅で解散となりました。

有志は神泉の串カツ田中で反省会。たこ焼き職人の後継者もできてよかったです。帰宅途中にONCEへ突入しだらだらと飲み続けました。この反省会こそ、一番の反省点かもしれません。「わかっちゃいるけど、やめられない!」


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

目黒七福神コース 約7.0km

2019-01-09 14:17:18 | ウォーキング
あけましておめでとうございます。年始の定番コースです。
今年になって初めてのウォーキングは5日と松の内なので七福神コースは混んでいるかと思いきや、思ったほどではなかったのでよかったです。すこやか歩こう会の参加者は27名で、通常よりちょっと多めといった感じです。



大鳥神社
下目黒村鎮守だった大鳥神社は九世紀の建立と言われています。境内掲示から引用します。
 御由緒
景行天皇の御代(71~130)当所に国常立尊を祀った社がありました。景行天皇の皇子である日本武尊は、天皇の命令で熊襲を討ち、その後、当国の蝦夷を平定しました。この東夷征伐の折当社に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らんことをお願いなされたところ、東夷を平定し、部下の目の病も治ったことから、当社を盲神と称え、手近に持っておられた十握剣を当社に献って神恩に感謝されました。この剣が天武雲剣(あめのたけぐものつるぎ)で、現在当社の社宝となっております。
東征の後、近江伊吹山の妖賊を討伐になられましたが、病を得て薨ぜられました。日本書紀に「尊の亡骸を伊勢の能褒野に葬したところ、その陵より尊の霊が大きな白鳥となられ倭国を指して飛ばれ、倭の琴弾原、河内の舊市邑に留り、その後天に上られた」とあり、このことから日本武尊を鳥明神と申す訳です。当社の社伝によると「尊の霊が当地に白鳥としてあらわれ給い。鳥明神として祀る」とあり、大同元年(806)社殿が造営されました。当社の社紋が鳳を用いているのはこのためです。江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。
 酉の市(八つ頭と熊手の由来)
当社の酉の市は都内でも古く、江戸時代に始まります。酉の市が毎年十一月の「酉の日」に行われるのは、尊の熊襲討伐の出発日が酉の日だった為その日を祭日としました。酉の日の当日、御神前に幣帛として「八つ頭」と「熊手」を奉献します。「八つ頭」は尊が東征の時、八族の各頭目を平定された御功業を具象化したもので、「熊手」は尊が焼津で焼討ちに遭われた時、薙ぎ倒した草を当時武器であった熊手を持ってかき集めさせ、その火を防ぎ、向火をもって賊を平らげ、九死に一生を得た事を偲び奉るためのものです。ここから古来より、「八つ頭」は人の頭に立つように出世できるという縁起と結びつき、「熊手」は家内に宝を掻き込むという意味で縁起物として広く信仰を集めました。大鳥神社の社名「おおとり」は、「大取」に通ずる為、宝物を大きく取り込むという商売繁昌開運招福の神徳として、多くの人達の信仰を集めております。また、酉の市当日は、社殿において、この縁起のもとになる「開運熊手守」が授与されます。


稲荷神社の総本社は伏見稲荷大社、八幡神社の総本社は宇佐神宮とあるので、大鳥神社の総本社も調べてみました。大阪府堺市にある大鳥大社だそうです。Wikipediaから引用します。
日本武尊は西征して熊襲を平定し、東征して東国を平定したが、伊吹山で病に倒れ、伊勢国能褒野で薨去する。遺体はその地に葬られたが、その陵墓から魂が白鳥となって飛んでいき、大和国琴引原で留まり、また飛び立って河内国古市に降りたが、最後に大鳥の地に舞い降りたので、社を建てて祀った。これが大鳥神社の始まりだとされる。神域は千種森(ちぐさのもり)と呼ばれ、白鳥が舞い降りた際、一夜にして樹木が生い茂ったと言われる。
延喜式神名帳記載の名神大社であり、とくに防災雨祈の祈願社として知られた。本殿は大鳥造といい、「切妻造・妻入社殿」という出雲大社造に次ぐ古形式を保っている。




くし塚
「くし塚」由来と参拝のご利益
日本では古来より「くし」は幸運のシンボルと考えられてきました。
日本最古の歴史書「古事記」によると、神祖伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は愛する妻伊邪那美命(イザナミノミコト)の死を悲しみ「黄泉国(死の世界)」へ会いに行くと、何と身体は腐って、蛆がたかっているので「この世」へ逃げ帰ります。
暗闇の死の世界から逃げるために髪に刺していた「竹くし」を抜いて火をつけ、松明代わりに道を明るく照らし生還されました。弟橘媛命(オトタチバナヒメノミコト)と東国へ渡る際、浦賀水道で波風が荒くなり海神の怒りを鎮めるため、妃は海に身を投げ、身代わりなった妃の「くし」は浜に流れ着いて、今も祭られています。
「くし」はこのように人生の歩む道を照らし、身代わりになる力を持っています。
「くし塚」にお参りすると開運、無病息災、家内安全が得られます。
特に目黒大鳥神社の御祭神は目の病、成人病、糖尿病、ボケにかからない為に、又お苦しみの方々をお救いする神様です。
大勢の方々のご参拝をお待ちしています。
  平成元年9月4日「くしの日」
  奉納 美容習慣実行委員会




蟠龍寺(岩屋弁天)


おしろい地蔵
 このお地蔵さまは関東大震災で被災をしたために、浅草より当寺へ移って来られたもので、お顔がかけている珍しいお地蔵さまです。
 言い伝えによると、その昔、顔に痘痕(あばた)のある娘さんが、そのために人並みの結婚ができず悩んでおりましたが、このお地蔵さまに願掛けをしたところ痘痕が消え、幸せな生涯を送ることができたという故事にならい、若い女性がお参りに来られるようになったと言われております。
 江戸時代には、歌舞伎役者がおしろいに含まれる鉛の害に悩み、おしろいをお地蔵さまのお顔につけ願を掛けたと言われており、現在でもこのようにしてお参りをされる方を時折お見かけします。
 いつの世も美しくなりたいという願いは変わらないようですが、一番大切なことは、心を常に美しく養い保つことで、美しい心が美人をつくるということではないでしようか。
  霊雲山 幡龍寺



目黒不動尊参道入口






蛸薬師 成就院

成就院(天台宗)
 下目黒3-11-11
 天安2年(858)慈覚大師の開山で、本尊は大師の自作と伝えられ3匹の蛸にささえられる蓮華座に乗る薬師如来像です。俗に蛸薬師とよばれ疫病除の仏として人々にあがめられています。
 この寺の所有に浮世絵師鳥居清長(1752-1815)筆の歌舞伎十八番の一の出し物を描いた「矢の根五郎」の額がありますが、国の重要美術品に認定され国立博物館に保管されています。
 境内には、徳川2代将軍秀忠の側室、お静の方がわが子保科正之の栄達を祈願し、大願成就のお礼に奉納された「秋葉大権現」が併祀されています。この他に江戸時代の地蔵尊や庚申塔が建っています。
  平成3年3月
  目黒区教育委員会


ロウバイが咲いています。以前はこの盆栽にフクジュソウが植えられていたのですが最近見ることがなく残念です。




安養寺


ロウバイ
石仏が多く、インド的な特徴を持つ狛犬が印象的です。葉を落としてロウバイが咲くものと思っていたのですが、多くの葉に花が混じっているは珍しいですね。


目黒不動瀧泉寺(恵比寿)

水かけ不動

大日如来坐像
露店が出ており一番お正月らしい感じでした。目黒台の台地を羅漢寺川が削った上に本堂があり、崖からは水が湧いています。かつては滝ほどの勢いがあったようで、江戸末期には渋谷常盤台の薩摩藩邸詰めだった西郷吉之助が、島津斉彬の病平癒を願い水ごりをしました。
大日如来坐像のまわりには四天王が配置されお守りしています。


青木昆陽墓
青木昆陽 墓
国指定史跡
所在地 目黒区下目黒3-20-26滝泉寺内
指 定 昭和18年5月1日
 江戸中期の儒者。通称は文蔵。元禄11年(1698)に生まれ、京都の儒者伊藤東涯に学ぶ。幕臣大岡忠相の知遇を得て幕府に仕え書物方となり、のち評定所儒者・書物奉行となる。
 彼は八代将軍徳川吉宗 の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、『和蘭文学略考』『和蘭貨幣考』『和蘭語訳』などを著述する。また、『蕃薯考』を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために”甘藷 先生”と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和6年(1769)歿。行年72歳。
昭和62年3月21日建設
東京都教育委員会



目黒区みどりの散歩道

目黒雅叙園
太鼓橋
太鼓橋は1700年代初頭に木喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が資材を出し合って1764(宝暦14)年から6年の歳月を経て完成した。広重はこの太鼓橋を浮世絵に描いており、こうしたアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、目黒の欧風文化の第一号とさえいわれたが、1920(大正9)年9月1日に豪雨により石橋が濁流にのまれたため、1932(昭和7)年架設された。現在の橋は、目黒川流域の都市整備計画により平成3年11月に完成した。


小学生の頃に見ていたのは太鼓でしたが、二代目だったのですね。コンクリートで作られていたように思います。その後川幅を広げたためアーチ型の橋が架けられなかったものと思われます。



妙円寺(福禄寿・寿老人)
紅梅が数輪咲いていました。色のない季節に紅梅やロウバイが良いアクセントになります。こちらの紅梅、昨年より花の数が少ないようですが、今年の花は少し遅めなのかな?







瑞聖寺(布袋尊)
昨年はなかったと思うのですが、新しい建物が出来上がっていました。水盤に移る本堂がきれいです。


毘沙門天

覚林寺の水かけ地蔵
昨年病平癒をお願いしたお地蔵さまに、お礼参りが出来ました。



覚林寺(毘沙門天)
港区指定有形文化財 建造物 清正公堂 及び山門

 覚林寺は弘化二年(一八四五)の大火で全焼し、山門は安政三年(一八五六)、清正公堂は慶応元年(一八六五)に再建されたものです。
 清正公堂は拝殿(はいでん)・幣殿(へいでん)・本殿(ほんでん)からなる権現造形式です。拝殿は間口三間奥行三間、幣殿は間口一間奥行三間。本殿は土蔵造で明治中期頃の再建と考えられますが、伝統的な意匠をもちます。山門 は覚林寺の表門で、木造・銅板葺の薬医門(やくいもん)であり、両側に脇戸が付きます斗に皿斗が付くほかは装飾的要素の少ない簡素な門です。
 清正公堂は本殿部分を土蔵造とする権現造で、近世の建物構成を継承しています。拝殿・幣殿は本格的な禅宗様形式を採用し、本殿も伝統的な意匠を引き継いでおり、近世以来の技術を伝えるものとして高く評価されます。また山門は現在の境内において最古の建築であり、同時期の建設になる清正公堂とともに、近世以来の境内の構成を伝えている貴重な建造物です。
平成十九年十月二十三日指定
港区教育委員会



明治学院白金チャペル

東京消防庁 高輪消防署二本榎出張所
東京消防庁のページから引用します。
昭和8年に建てられた二本榎出張所(旧高輪消防署)が、平成22年3月26日に「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。
第一次世界大戦後に流行した「ドイツ表現派」の建築設計で、そのレトロな外観から、地域のシンボル的な存在となっており、年間約1,200人の方々が見学に訪れています。





池田山公園
雪つりのきれいな品川区立の公園です。近くに旧正田邸があり「池田山公園へ行ったら、旧正田邸にも行ってみよう」と思っていたのですが、この看板を目にしなかったら忘れていたかもしれません。こちらのロウバイは昨年同様まだ蕾でした。東向き斜面なので、この時期日照時間が短いためでしょうか。


インドネシア大使館



ねむの木の庭(旧正田邸)
『ねむの木の庭』について
 この公園は、皇后陛下美智子様のご実家・正田邸の跡地に開設したものです。
 昭和9年10月20日、正田家の長女としてお生まれになった皇后さまは、昭和34年4月10日、民間初の皇太子妃として皇太子殿下(現・天皇陛下)のもとへ、この地より嫁がれました。
 品川区は、平成15年にこの土地を譲り受け、皇后さまがお誕生からご成婚までを過ごされた場所にふさわしい公園として整備しました。この公園には、ご成婚当時の門を再現している他、皇后さまゆかりの樹木や、お歌の中で詠まれた樹木・草花を多数植え、訪れていただいた方それぞれが皇后さまに思いを馳せていただけるようにしました。
 またこの公園の園名は、皇后さまが高校生時代におつくりになった詩『ねむの木の子守歌』や、皇室に入られた後にお詠みになったお歌の中でも使われたゆかりの樹木「ねむのき」にちなんで命名いたしました。
平成16年8月 品川区長 高橋久二


産経新聞からも引用します。
両陛下、旧正田邸跡の公園ご散策
2018.6.24 18:35
 天皇、皇后両陛下は24日夕、皇后さまの生家である旧正田邸の跡地に整備された東京都品川区の公園「ねむの木の庭」を私的に訪れ、散策を楽しまれた。

 園内には、皇后さまのお印であるシラカバなどがあり、皇太子妃時代に英国から贈られたバラ「プリンセスミチコ」が花を咲かせていた。

 案内をした浜野健品川区長によると、天皇陛下はシラカバについて「大きくなりましたね」と述べられ、皇后さまは公園管理者からプリンセスミチコの花びらで作ったポプリを受け取り「いい香りですね」と喜ばれていたという。



タイ大使公邸
目黒駅近くの児童公園をお借りしてストレッチをして解散となりました。都バスの操車場跡地の東京建物の大きなビルがオープンして、目黒駅の東口はずいぶん雰囲気が変わりましたね。

天狗目黒西口店(外国人店員が多いので『天狗インターナショナル』と呼んでいます)で、いつもの飲み仲間と新年会をして、解散となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする