目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】文化財めぐり(三田・青葉台コース)

2017-11-30 14:14:10 | ウォーキング
すこやか歩こう会では目黒区内の文化財を見る定番コースとして庚申塔を巡る二種類(北東部・南西部)があるのですが、網羅できていない庚申塔があったり、距離が長すぎるという思いがあり、再編を考えていました。たまたま区のホームページで「文化財めぐり」の案内を見つけ、これまでの庚申塔に限らず名所などを含めることが出来るので下見をすることにしました。文化財めぐりは十コースが紹介されており、シリーズ化すると区内を巡るルートの大幅増加にもつながり期待は大きいのです。今回下見をした「三田・青葉台コース」の概要を目黒区のホームページから引用します。
このコースは、旧下目黒村から三田村、上目黒村とよばれた地域の東側を旧三田用水に沿って遡るコースです。
この地域は淀橋台という台地の上にあり、他の目黒の地域とは目黒川で区切られています。目黒川に沿った西側は急な崖で、東側は渋谷川に向かってゆるやかに下っています。この尾根状の台地の一番高いところを三田用水が流れていました。
また江戸時代のこの地域は、目黒地域の中でも人の居住は少なく寺社等も見られませんが、目黒川に沿って高台となっていることで、千代ヶ崎、鑓ヶ崎など景勝地として知られ、江戸庶民が目黒方面に来る時は休息した場所でした。
三田用水は、今から350年ほど前、江戸時代初期に飲料用の上水として作られましたが、後に農業用水として利用され、さらに明治期以降、工業用水に転用され、恵比寿ビールを始め工場で活用されこの地域の発展を担ってきました。しかし、昭和49年にその流れが止まり、今ではその痕跡はほとんど見られません。



写真:目黒川沿いの紅葉

写真:中里橋に埋め込まれたレリーフ
中里橋のこのレリーフの正体は調べたけれどわかりませんでした。撮り損ねましたがもう一種類レリーフがあったようで、そちらは葛飾北斎の「富嶽三十六景 下目黒」のようです。



写真:田道橋のレリーフ
田道橋のレリーフは二種類あり、鷹の方は出所がわかりません。もう一方は「江戸名所図会 富士見茶屋」で行人坂の上にあった茶屋からの風景のようです。


写真:田道広場の銀杏
坂を上り区立三田公園を目指し、ここからが本番です。


写真:千代ヶ崎
千代ヶ崎  三田2-10-31
 JR目黒駅近くの権之助坂から恵比寿方面に向かう目黒川沿いの台地は、かって「千代ヶ崎」と呼ばれ、西に富士山を、東に品川の海を臨む景勝地で、その様子は『江戸名所図会』にも描かれています。
 目黒区目黒一丁目、三田二丁目と品川区上大崎二丁目の区境あたりの地に、江戸時代、九州の肥前国島原藩松平主殿頭の抱屋敷がありました。2万坪あまりの広大な敷地の庭には、三田用水を利用した滝や池があり、景色のあまりの見事さから絶景観と呼ばれた別荘がありました。
 屋敷地の一角(現、目黒1-1付近)には、かって「千代が池」という池がありました。これは南北朝時代の武将新田義興が、多摩川矢口の渡しで非業の死を遂げ、それを悲しんだ側室の千代が身を投げた池と伝えられています。千代ヶ崎の地名は、この「千代が池」が由来といわれています。
    平成22年3月 目黒区教育委員会




写真:三田春日神社
同名の神社が港区三田2-13-9にあり、目黒区三田と港区三田のつながりを示しています。三田の元は「御田」で、天皇の領地だったとどこかで読んだ気がします。


写真:三田二丁目の紅葉

写真:陸軍境界石柱
区立茶屋坂児童遊園近くに帝国陸軍の石柱を見ることが出来ます。現在の艦艇装備研究所がある軍の施設で、三田用水を利用した水車で火薬が作られ、白金自然園にあった火薬庫まで運ぶための鉄道が敷かれていて、その境界を示すものだそうです。


写真:茶屋坂
茶屋坂と爺々が茶屋 三田2-12-14
 茶屋坂は江戸時代に、江戸から目黒に入る道の一つで、大きな松の生えた芝原の中をくねくねと下るつづら折りの坂で富士の眺めが良いところであった。
 この坂上に百姓彦四郎が開いた茶屋があって、3代将軍家光や8代将軍吉宗が鷹狩りに来た都度立ち寄って休んだ。家光は彦四郎の人柄を愛し、「爺、爺」と話しかけたので、「爺々が茶屋」と呼ばれ広重の絵にも見えている。以来将軍が目黒筋へお成りの時は立ち寄って銀1枚を与えるのが例であったという。また10代将軍家治が立ち寄った時には団子と田楽を作って差し上げたりしている。
こんなことから「目黒のさんま」の話が生れたのではないだろうか。
平成3年3月
目黒区教育委員会



写真:新茶屋坂


写真:三田用水と茶屋坂隧道
三田用水跡と茶屋坂隧道跡
三田用水は寛文4(1664)年、飲用の上水として作られ、玉川上水 から北沢で分水し、三田村を通り白金、芝へ流れていた。
享保7(1722)年この上水が廃止になった時、目黒の4か村をはじめ14か村はこれを農業用水として利用することを関東郡代に願い出て、享保10年に三田用水 となった。
農耕、製粉・精米の水車などに用いられた用水も、明治以降は工業用水やビール工場の用水など、用途を変更し利用されてきたが、やがてそれも不用となり、昭和50年にその流れを完全に止め、約300年にわたる歴史の幕を閉じた。
茶屋坂隧道は、昭和5年に新茶屋坂 通りを開通させるため、三田用水の下を開削してできた全長10mほどのコンクリート造りのトンネルで、平成15年に道路拡幅に伴い撤去された。
平成21年3月 目黒区

茶屋坂隧道の揮毫は西郷従道の次男「侯爵 西郷従徳」でした。西郷山トンネルにはプレートはなかったのかなぁ?過去の画像でも確認できませんが、今度通った時に探してみます。



写真:みちしるべは避難中
道しるべ 恵比寿南三丁目11番17号
 江戸時代中期の安永八年(一七七九)に建てられたこの道しるべは、中央に南無阿弥陀佛、その右側にゆうてん寺道、左側には不動尊みちと書いてあります。ゆうてん寺道とは、目黒方面から別所坂を登り麻布を経て江戸市中へ通じる最短距離の道、不動尊みちとは、目黒不動へと続く道のことです。そして台座には道講中と刻まれています。このことから、単に道路の指導標というだけではなく、交通安全についても祈願し造られたものであると考えられます。この地域は江戸時代、渋谷広尾町と呼ばれた小規模な町並みが存在していただけでした。町並みから外への道は、人家も少ない寂しいところであったため、このような宗教的意味をもった道しるべが必要だったのでしょう。
 渋谷区教育委員会




写真:馬頭観世音
馬頭観世音 恵比寿南三丁目9番7号
 このお堂に、馬頭観世音菩薩がおまつりしてあります。縁起によると、享保四(一七一九)年、このあたりに悪病が流行し、これを心配した与右衛門という人が、馬頭観音に祈って悪病を退散させました。その御礼に石で観音をつくり、祐天寺の祐海上人に加持祈祷を願い、原(当時、このあたりを原といった)の中程へ安置した、と伝えています。そして村の人は毎年二回、百万遍念佛を唱え祈願をしたので、その後、このあたりに悪病は流行せず、住民は幸福にくらしたとのことです。
 この道は、目黒・麻布を経て江戸市内に入る最短の道で、急な別所坂をおりると目黒川が流れ、すぐ近くに正覚寺があります。別所坂上には、庚申塔(六基)と、広重が江戸名所百景に画いた「目黒新富士」などの旧跡があり、昔の主要道路であったことがわかります。
 渋谷区教育委員会




写真:別所坂上庚申塔
庚申塔
「庚申塔」は、 庚申を信仰する庚申講の仲間たちが建てたものである。 仲間たちは60日に一度来る庚申の日に、眠ってしまうと、「三尸(さんし)」という虫が体から抜け出し、天の神に日頃の悪事を報告され、罪状によって寿命が縮められので、集まってその夜は眠らずに過ごしたという。
江戸時代には豊作や長寿、家内安全を祈るとともに親睦や農作業の情報交換の場ともなり、盛んに集まりがもたれた。庚申講の仲間たちは3年、18回の集まりを終えると共同で庚申塔を建てた。 形や図柄は様々だが 多くは病気や悪い鬼を追い払うという青面金剛像、その他に三匹の猿や日月、二羽の鶏が彫られている。別所坂上庚申塔の昭和51年の調査では、紀年銘、寛文五乙巴天~明和元年(1665~1754)である。
                  平成九年七月吉日  設置







写真:新富士
新富士 中目黒2-1
 江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まり、各地に講がつくられ、富士山をかたどった富士塚が築かれた。
 この場所の北側、別所坂をのぼりきった右手の高台に、新富士と呼ばれた富士塚があり、江戸名所の一つになっていた。この新富士は文政2(1819)年、幕府の役人であり、蝦夷地での探検調査で知られた近藤重蔵が自分の別邸内に築いたもので、高台にあるため見晴らしが良く、江戸時代の地誌に「是武州第一の新富士と称すべし」(『遊歴雑記』)と書かれるほどであった。
 新富士は昭和34年に取り壊され、山腹にあったとされる「南無妙法蓮華経」(「文政二己卯年六月健之」とある)・「小御嶽」・「吉日戊辰」などの銘のある3つの石碑が、現在この公園に移されている。
                         平成18年10月
                       目黒区教育委員会

吉田茂と書いてあるのかと思ったら、「吉日戊辰」でした。



写真:地蔵・道しるべ
地蔵・道しるべ 猿楽町30番
 地蔵尊 が現世と来世の間に出現して死者の霊を救済するという信仰は、民衆の間に広く信じられてきました。また、小児の霊の冥福を祈る意味でも地蔵尊が造立されました。道の辻などに建てられた場合には、道路の安全を祈ることのほかに、道しるべになることもあります。
 この地蔵尊は、文政元(一八一八)年の造立で、その台座正面には、「右大山道、南無阿弥陀仏、左祐天寺道」と刻んであります。地蔵堂背後の坂道は、目切坂 または暗やみ坂といい、この坂を下って目黒川を渡ったあと、南へ進むと祐天寺方面に達し、北へ進むと大山道(国道二四六号線)に達します。また、堂前を東へ進むと並木橋に達します。
 江戸時代には、人家もまばらな、さびしい道で、旅人はこの道しるべを見て安心したことでしょう。
渋谷区教育委員会





写真:目黒元富士跡
目黒元富士跡 上目黒1-8
 江戸時代に、富士山を崇拝対象とした民間信仰 が広まり、人々が集まって富士講という団体が作られました。富士講の人々は富士山に登るほかに、身近なところに小型の富士(富士塚)を築きました。富士塚には富士山から運ばれた溶岩などを積み上げ、山頂には浅間神社を祀るなどし、人々はこれに登って山頂の祠を拝みました。
 マンションの敷地にあった富士塚は、文化9年(1812)に上目黒の富士講の人々が築いたもので、高さは12mもあったといいます。文政2年(1819)に、別所坂上(中目黒2-1)に新しく富士塚が築かれるとこれを「新富士」と呼び、こちらの富士塚を「元富士」と呼ぶようになりました。この二つの富士塚は、歌川広重の『名所江戸百景』に「目黒元不二」、「目黒新冨士」としてそれぞれの風景画描かれています。
 元富士は明治以降に取り壊され、石祠や講の碑は大橋の氷川神社(大橋2-16-21)へ移されました。
平成22年12月
目黒区教育委員会



写真:代官山ヒルサイドテラス

写真:旧朝倉邸
手前から新旧取り混ぜ、ヒルサイドテラス、旧朝倉邸、キングホームズ、中目黒アトラスタワーと重なっています。代官山交番がある旧山手通りのあたりは「猿楽町」という町名になります。








写真:猿楽塚
猿楽塚(さるがくづか) 区指定史跡
ここにあるこんもりした築山は、6~7世紀の古墳時代末期の円墳で、死者を埋葬した古代の墳墓の一種です。ここにはその円墳が2基あって、その二つのうち高さ5mほどの大型の方を、むかしから猿楽塚と呼んできました。この塚があることから、このあたりを猿楽といい、現在の町名の起源となっております。ここにある2基の古墳の間を初期の鎌倉街道が通っていて目黒川へくだっていました。渋谷区にように開発が早くからはげしく行われた地域に、このような古墳が残されていることは非常に珍しいことです。
渋谷区教育委員会

猿楽神社縁起
古よりこの地に南北に並ぶ2基の古墳があり、北側に位置する大型墳を猿楽塚と呼称している。この名称は江戸時代の文献「江戸砂子」「江戸名所図会」等に見られ、我苦を去るという意味から、別名を去我苦塚と称したとも言われている。6~7世紀の古墳時代末期の円墳と推定され、都市化その他の理由により渋谷区内の高塚古墳がほとんど煙滅したなかで、唯一現存する大変貴重な存在であり、昭和51年3月16日に渋谷区指定文化財第5号に指定された。
この地に移住する朝倉家は戦国時代からの旧家であり、遠祖は甲州の武田家に臣属し、後に武蔵に移り、中代より渋谷に住み、代々、無比の敬神家として、渋谷金王八幡宮と氷川神社の両鎮守への参拝を常とし、また氷川神社改建の折にも尽力している。
朝倉家では、大正年間に塚上に社を建立し、現在、天照皇大神、素戔嗚尊、猿楽大明神、水神、笠森稲荷を祀り、2月18日、11月18日を祭礼日と定めて、建立以来、一族をはじめ、近隣在郷の信仰を集めている。
平成14年11月18日 朝倉徳道 撰

古墳時代の円墳 猿楽塚
主墳と副墳から成る。昔、源頼朝がここで猿楽を催し、それが名前の由来との説もあるが実は二つとも古墳時代の円墳。区境をはさんで主墳は渋谷区、副墳は目黒区にある

源頼朝説を解説しているのは目黒区のみでした。猿楽町の由来は「我苦を去る」が主流のようですね。



写真:西郷山公園

写真:桜島の溶岩

写真:月と紅葉

写真:紅葉
明治の遺構ですが地名として残っているだけです。同級生の中には公園になる前のこの場所で遊んだという者もいるのですが、私にはあまり記憶がありません。太平洋戦争のときに、小笠原からの引揚者の住まいがあったという話も聞きますが、ネットで調べても情報がありません。


写真:菅刈公園
文化財めぐりでは西郷山公園がゴールとして紹介されているのですが、すこやか歩こう会のウォーキングでは行幸の石碑がある菅刈公園をゴールとするのがいいかなぁと思っています。

個人的には「文化財という視点でじっくり見てみると、見慣れた地元も面白い」と感じました。ウォーキングクラブの皆さんに喜んでいただけるか、楽しみです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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自由ヶ丘コース 約4.9km

2017-11-27 09:27:44 | ウォーキング
立冬を過ぎ、小雪(しょうせつ)も過ぎた11月25日(土曜日)は珍しくも風の無い穏やかな晴れの天気となり、絶好のウォーキング日和になりました。スタート地点である都立大学駅から程近い呑川暗渠の広場には、好天に誘われたのか20名の参加者が出そろいました。

コースは、スタート地点の都立大学駅から、熊野神社⇒自由が丘と八雲の高級住宅街⇒呑川本流緑道⇒呑川駒沢支流緑道⇒めぐろ区民キャンパス公園⇒常圓寺⇒東光寺⇒八雲氷川神社⇒都立大学駅に戻る約5kmの周回コースです。


写真:青ガエル
先ず、東横線の脇を通る道を自由が丘方向に南下します。行き交う電車の中に、旧3000系や青ガエルの愛称で親しまれた旧5000系と同じ緑色の新5050系の電車を見つけました。ラッキーでした。


写真:熊野神社
スタート地点から約1キロ程で熊野神社に到着です。この神社は、かつてこの一帯が「谷畑」と呼ばれていたため、昔から「谷畑の権現さま」と呼ばれて親しまれていたそうです。


写真:セネガル大使館
自由が丘1丁目から三丁目、八雲3丁目から1丁目と高級住宅街の中を歩きます。途中でセネガル大使館を見つけました。


写真:大根畑

写真:小さな柿の木
地価の高い高級住宅街の中に、狭いながらも大根畑とその脇に実る小さな柿の木を発見しました。何億円もする土地で出来た、この大根と柿、味は安い土地で出来た物と変わり無いのでしょうかね。もしかしたら、今まで経験したことの無いような美味しい味がするのでしょうか?


写真:リバティヒルクラブ
町名が自由が丘から八雲に変わる目黒通りを横断するのですが、交差点の斜め左には高級スポーツクラブ、リバティヒルクラブが現れます。なんでも、入会希望者は先ず資格審査を受ける必要かあるとか。入会金と年会費も大変お高いとの噂、一般庶民の我々には、狭き門のようです。


写真:スイセン

写真:アブチロン
呑川本流緑道、呑川駒沢支流緑道を歩きます。緑道では桜の紅葉、水仙、南天等の花々が目を楽しませてくれました。


写真:区民キャンパス

写真:パーシモンホール
目黒区民キャンパスの到着。15分のトイレ休憩を取りました。休憩中、キャンパス内の庭を一回りしましたが、紅葉が見ごろを迎えておりました。


写真:常圓寺の大銀杏

写真:仏前結婚式?
常圓寺は、日蓮宗のお寺として天正18年(1590)に創建され、目黒区八雲の地に420年の歴史を刻んでいるとの事です。大銀杏の紅葉が見事でした。境内では、仏前結婚式をすませた方々の姿がありました。


写真:八雲氷川神社

写真:氷川神社ご神木

写真:頑張る花芽
八雲氷川神社は、旧衾村(ふすまむら)の鎮守であり、祭神は、須佐之雄尊、稲田姫命、大己貴命です。現在の八雲の地名は須佐之雄尊が詠んだ日本初の和歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠みに八重垣作るその八重垣を」に由来しているのだそうです。氷川神社の境内にある赤樫の木は、ご神木だかどうかわかりませんが、木の芯は枯れ朽ちているものの一部残った幹から水分と養分を吸い上げ、かろうじてと言うべきか元気にと言うべきか迷うところですが、花芽も立派につけておりました。

氷川神社の境内の隅をお借りしてストレッチで体をほぐしたうえて、解散です。


写真:万豚記

写真:アルコール会会場
のどの渇きと空腹が気になるメンバーは都立大学駅前の中華屋さん「万豚記」に入り、「歩こう会」から「アルコール会」に名前を変えて大いに懇親を深める事ができました。

吉井

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第2回 目黒シティラン~健康マラソン大会~

2017-11-26 15:06:45 | ウォーキング
協力団体「目黒ウォーキング協会」として、11月26日に行われた目黒シティランのお手伝いをしてきました。最長の10kmは
目黒区総合庁舎⇒駒沢通り⇒(東京医療センター前交差点)⇒自由通り⇒(中根交差点)⇒目黒通り⇒(大鳥神社交差点)⇒山手通り⇒(中目黒立体交差点)⇒目黒区総合庁舎
というルートで、昨年走った友人の話によると「坂が多くて結構きつい」とのことでした。スタートしてすぐに目黒川が削った谷から目黒台を上るけこぼ坂。環七を過ぎると、呑川柿の木坂支流の谷。自由通りでは、呑川駒沢支流と呑川本流の二つの谷。目黒通りでも呑川本流の谷を越えるといわゆる柿の木坂の環七までののぼり。最後に駒沢通りへ戻ってきて再びけこぼ坂を上ってゴールと、起伏の激しいコースですね。
目黒シティランの定員は10kmが3,000名、2.5kmミニマラソンが850名と我々がお手伝いする1kmウォーキングが150名にボランティア1,000名を加えた5,000人規模の大会です。当日までの準備は入念に行われ、当日の運営も多くの人の協力により実現しています。


写真:朝の目黒区総合庁舎


写真:まもなく規制が始まります


写真:スタッフ集合時間の中目黒小学校会場
スタート会場は10kmが目黒区総合庁舎で、2.5kmミニマラソンと1kmウォーキングは中目黒小学校でした。


写真:ボランティアは日向ぼっこ

写真:ゆるキャラ登場
ウォーキングのスタートはいちばん最後で9時頃となるので、とりあえずは手持無沙汰。お日様の暖かさはありがたく、みんな並んで日向ぼっこです。


写真:2.5kmミニマラソンの整列風景
10kmの参加資格は「2002年4月1日以前に生まれた健康な方」となっています。高校生以上ということですかね。ミニマラソンは駒沢通りでスタートし、五本木の交差点で折り返して駒沢通りを戻ってくるコースで、小学校の校庭で整列した後、スタート地点の駒沢通りへ向かいます。親子ペア、小学生、中学生以上の三つのカテゴリーに分けていて、中学生以上となると陸上部のユニフォームを着たような本格的なランナーもいます。
1kmウォーキングは二歳の幼児もいたりして、年齢幅はバラエティ豊か。歩くスピード、先頭は抑えているものの、後ろの方は自由奔放。10分以上差がつきました。


写真:ユリート君

写真:ゆるキャラと記念撮影
無事誘導を終え、デニーズで早昼の打上げをしました。


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こまエコ散歩(秋) ~駒場・東山いちょう並木コース~

2017-11-15 13:21:42 | ウォーキング
11月12日、駒場体育館主催によるこまエコ散歩が行われました。このイベントは春と秋の二回行われ、すこやか歩こう会は第一回からお手伝いをしています。コースに変化を持たせようという話はあるのですが、目黒区の北のはずれにある駒場体育館を出発し、目黒区内を歩き、駒場体育館へ戻るコースではおのずと限界があり春は目黒北部の見所を巡り、秋はいちょう並木を歩くコースで固定しています。


写真:駒場野公園の紅葉
駒場体育館に10時に集合し、「エコ活動の事例紹介」、「ウォーキング講座」のあと、実際にウォーキングを行います。


写真:馬神碑
駒場野公園を出発して南へ向かい、筑波大学付属駒場高・中の西側を歩くのでこの部分は世田谷区。馬神碑は池尻四丁目の崖の上に設置されています。この場所は明治期に帝国陸軍騎兵第一大隊がおかれ、現在の筑駒の正門の場所に大隊の門がありました。騎兵の訓練や、日露戦争で犠牲になった馬を供養するため建てられた碑です。南側を目黒川が削った崖になっており、かつては騎兵山と呼ばれていました。


写真:目黒川緑道のツワブキ
騎兵山の階段を下りると目黒川です。池尻と三宿の境で北沢川と烏山川が合流して目黒川になります。支流を含めこの辺りは暗渠となっており、私が子供の頃は緑道はなく立ち入りもできませんでしたが暗渠だった記憶があります。正確な経緯はわかりませんが、東京都による1995年の「城南三河川清流復活事業」をきっかけに緑道が整備されたのかもしれません。世田谷区のHPから引用してみましょう。
「北沢川緑道」と「烏山川緑道」の2つの緑道が合流する地点から、遊歩道は「目黒川緑道」と名前が変わり、2つの緑道を流れる「せせらぎ」もここで合流し、「目黒川緑道」のせせらぎとして流下していきます。せせらぎの流れに沿って下流に歩くと、間もなく、緑道は目黒区に入り、せせらぎと共に目黒区の緑道に引き継がれていきます。国道246号線まで続く目黒区の区間は、平成21年3月に完成しました。
「北沢川緑道」から続く「せせらぎ」には、護岸に水生植物が育ち、昔、ここが川であった頃を偲ばせる水辺の環境が形作られています。
また、緑道には、樹木の他に数々の草花が植えられ、遊歩道を含め、地域の皆さんによる熱心な手入れが行われており、四季を感じさせる緑道として、ここを通る人々を和ませています。




写真:建設工事中の東山小学校
玉川通りを渡ると目黒川は開渠になり、春に桜の名所となります。ここで大山街道、鮎飛脚、大橋の由来、大坂の由来と首都高速大橋ジャンクションの話をして、東山貝塚公園へ向かいます。目黒区のHPを引用してみましょう。
◆海から遠く離れた貝塚跡
区内の遺跡の中で最も有名なのは、目黒川をのぞむ台地縁辺から斜面にかけて集落のあった東山貝塚遺跡(東山二丁目・三丁目一帯)である。この遺跡は、縄文時代後・晩期を主体とする集落跡であるが、近年の発掘調査により縄文時代中期や弥生時代後期の集落跡も発見されている。この斜面地部分に貝殻や、魚、動物の骨などを捨てた貝塚が存在する。
北区の西が原貝塚や港区の丸山貝塚と並んで東京市三大貝塚といわれた東山貝塚は、わが国人類学の祖、坪井正五郎博士によって、明治の中ごろに発掘された。この貝塚からは、ハマグリ・アサリ・ツメタガイ・ヤマトシジミなどの貝殻や、クロダイ・アジ・フグ・コイなどの魚の骨、イノシシ・シカなど動物の骨も発見されている。
海から遠く離れた東山に、なぜ海水産の貝や魚が残されていたのだろうか。そのわけは、縄文時代には、今の目黒川の低地が入江となっていて、海水が東山のすぐそばまで入り込んでいたからである。このことから、狩猟と同時に漁猟も行われていたのである。

◆住居跡は区画整理中に発見
時代は移り、大正12年の関東大震災後、東山辺りにも、移り住む人びとが増えてきた。同15年、区画整理作業中に、13軒の竪穴式住居跡が発見され、鳥居龍蔵博士を中心とする考古学者の手によって発掘されたのである。このことは当時の新聞や考古学誌に発表され、東山の名は一層有名になった。
発掘された竪穴式住居は、7本から10本程度の柱穴をもつ直径6メートル、深さ30センチメートルから40センチメートルの円形状を呈するものであり、床の中央部分には石を囲って作られた炉も存在したとの記録がある。

◆昔をしのぶ東山貝塚公園
今日、これらの貴重な遺跡は、都市化の進む中で住宅や工場・道路に代わり、その面影を残すものはほとんどなくなってしまったが、東山貝塚遺跡の出土品は、めぐろ歴史資料館(旧守屋教育会館郷土資料室)や國學院大学考古学資料室などに保存展示されている。
区では、貝塚の近くに、区立東山貝塚公園(東山三丁目16番7号)を造成する際、國學院大学名誉教授、樋口清之氏の指導を受けて、同公園入口横に、縄文時代の竪穴式住居を擬製復元した。内部には、古代生活の様子が伺えるよう、炉を囲んで夫婦と子どもの3人が座り、石おの・土器・ヤジリ・鹿皮などが展示されている。また、今なお、こんこんとわき出る水を利用して造ったせせらぎは、訪れる人びとに安らぎを与えている。
今から約5,000年以上もの昔、私たちの祖先は、わき水など地の利を得て、この地に生活を展開していたのである。


公園を出発すると区界を南へ進み、加藤家の墓地と帝国陸軍の馬糧庫を見て、国土地理院跡地にできた東山公園へ。加藤家についての記事が見つからないので、ゆかりのある上目黒氷川神社の記事を「東京近郊ぶらり散歩日記」のHPから引用します。
旧武蔵国荏原郡上目黒村の鎮守神「上目黒氷川神社」。
創建は天正年間(室町後期・安土桃山時代)。武田信玄の家臣だった加藤家が現在の山梨・上野原より産土神をこの地にむかえいれたと言われています。
この地域を流れる目黒川は、支流も含め古くから水害をもたらしていたそう。そういう意味でも、この地に「氷川神社」(素戔嗚信仰)はぴったりだったのでしょう。
その昔この氏子は疫病知らずと言われ、今では「厄除けの神様」として親しまれています。
現在の御祭神は素戔嗚尊、天照大神、菅原道真。
表参道にあたる石段は、もともとはもっとなだらかだったそうですが、前を走る大山街道(国道246号線)の拡張に伴い傾斜がきつくなったそう。江戸時代の絵図にもこの(改修前の)石段が描かれています。



写真:菅刈公園
東山小学校、東山中学校経由で菅刈公園へ。東山は宿山の東にあることに由来します。宿山についての記事が見つからないので、目黒区のHPから小川坂についての記事を引用します。
中目黒駅から山手通りを大橋方面へ向かって歩くと、上目黒交差点から西へ斜めに入る道がある。東山一丁目と上目黒三丁目の境を、烏森小学校のほうへと上るこの道が小川坂。弓のような弧を描く緩やかな坂で、周辺に旧家小川家所有の土地が多かったのが、名前の由来ときく。
小川坂上の寿福寺辺りは、小高い丘陵地帯で、旧小字名を宿山と呼んだ。鎌倉街道のひとつがここを通過していたから、その宿駅という意味であろうか。
小川坂も鎌倉街道の一部で、坂を下ると目黒川に架かる宿山橋から目切坂を経て渋谷へと続き、坂を上ると寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通ずる。昔、坂東武者が鎌倉目指して駆けたこの坂も、現代の馬「自動車」にとっては下りだけの一方通行路である。


菅刈についても目黒区のHPを引用してみます。
十世紀の初めごろに作られた「倭名抄」によると、大化の改新以降の菅刈の地域は東海道武蔵国荏原郡覚々志(かがし)郷に属していたと考えられる。また、江戸初期の「新編武蔵風土記稿」によると、現在の目黒区の西半分と世田谷区の東半分にかけての地域を「菅苅荘」「菅苅庄」と呼んだとある。
事実を示せば、世田谷区の九品仏浄真寺境内の鐘銘に「荏原郡菅苅荘」の名が刻まれており、また、天正年間に書かれた旧上目黒村の「加藤家家譜」には「荏原菅苅庄免畔地(めぐろのち)」とある。現に、玉川通りに面した大橋氷川神社石段下には「武州荏原郡古菅苅荘目黒郷、文化十三年九月」と刻まれた石橋があり、当時の上目黒一帯が菅苅庄に属していたことは明らかである。
ところで、この菅苅庄だが、鎌倉時代には荘園に当たる地域を「庄」と呼んだといわれることから、菅苅庄もやはり、なにがしかの荘園に由来するものと思われ、故に、それが地名になったのではなかろうか。菅刈といえば、今日の菅刈小学校辺りを想像しがちであるが、実は前述のとおり世田谷の一部と旧上目黒一帯の総称なのである。
このことは菅刈小学校の沿革をみれば明らかになる。同校は旧目黒村初の公立小学校として、明治8年5月15日、上目黒字宿山の烏森稲荷神社の近くで創立し、明治31年寿福寺のそばに移転した。青葉台三丁目(旧上目黒八丁目)の現在地に移転したのは、さらに十年後の明治41年のことである。学校名はその昔、菅苅庄に属していたことから創立時にその名を付けたといわれる。今日、菅刈の名は目黒、世田谷両区の中で、この菅刈小学校と、菅刈住区の二つに見られるだけになった。
祖先が歩み続けた郷土の歴史的な意味とあすへの大いなる発展を秘めた菅刈の名は、この目黒の地に末長く残ることであろう。



写真:西郷山公園からの景色
菅刈公園でトイレ休憩を取り、坂を上って西郷山公園。三田用水跡の道を西へ向かい松見坂。




写真:東大正門前のバラの小径
松見坂から細い道に入り、駒場バラ園の前を通ります。「バラの小径」をはじめとする駒場地区の公園などに点在するバラは駒場バラ会の方がお世話をして、奇麗な花を見せてくれています。


写真:旧制一高の本館



写真:東大キャンパス内の紅葉
最後に東大キャンパス内のいちょう並木を見て、駒場野公園へ戻りました。ゴールでは駒場体育館の方々が準備してくれた焼き芋をいただき、こまエコ散歩(秋)は解散となりました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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とことん烏山川コース水源編 約5.2Km

2017-11-13 14:15:44 | ウォーキング
とことん烏山川シリーズの三回目で、芦花公園より上流を歩き、水源の一つと言われている高源院の弁天池を目指します。


写真:暗渠の再開

写真:芦花小学校・中学校
前回は芦花公園まで烏山川をさかのぼり、名前のわからない都営八幡山アパートの脇を流れる支流を辿り、京王線八幡山駅で解散しました。この日は八幡山駅で再集合し、烏山川が環状八号線を離れて西へ向かう地点から川をさかのぼり始めます。芦花公園で環八にぶつかった烏山川は、環八沿いを北へ向かった後、西に向かいます。環八沿いの暗渠の上は歩けないのですが、写真の「暗渠の再開」としたあたりからかつて川だった場所を歩くことが出来ます。上流の割には意外と広いです。芦花小学校・中学校の通学路となっているからでしょうか?こちらの学校は小中学校が併設されていますが、一貫校というわけではないようです。我々の世代と比べると公立の学校にも多様性が見られます。これまで「蘆花公園」だと思っていましたが、公園の名前も駅の名前も「芦花公園」でした。公園全体は芦花公園で、徳富蘆花の死後夫人から東京都に寄贈された部分の都立公園は「蘆花恒春園」というそうです。


写真:細くなった暗渠

写真:この先は行きどまり

写真:無人販売している農家
芦花小中学校を過ぎるととたんに暗渠が細くなりました。少し上流の感じが出てきましたね。UR芦花公園団地内に暗渠が残されているのですが、その先京王線を渡るすべがないので一度川から離れます。踏切の先の大きな木があるおうちは農家で、野菜の無人販売をやっていました。


写真:再び川と合流

写真:暗渠と思われる道路
旧甲州街道で再び川と合流すると、その先は明確な暗渠ではないのですが暗渠と想定される道路があります。車が通れないような場所もあり、ここが川跡と考えて差し支えないでしょう。


写真:烏山中学校

写真:甲州街道
中学校脇では欅の紅葉のグラデーションがきれいで写真に撮ったのですが、いまいち絵になりませんでした。烏山川は現在の甲州街道にぶつかると少しのあいだだけ道路沿いに西へ向かいます。このあたりで烏山川の本流支流を合わせて四本の川筋があるようですが、徐々に明確な暗渠が見つけにくくなってきています。





写真:西之谷公園
支流の一つを辿ると西之谷公園にたどり着きます。池や川を模した様子など、かつてここに川が流れていたことが偲ばれます。


写真:昭和大学烏山病院裏の暗渠

写真:里芋畑

写真:大根畑

写真:キャベツ畑
Googleマップにアップされている「世田谷-川の地図」によると、大根畑や里芋畑のあたりが水源の一つになっているようですが、それとわかるようなものはありません。湿地を開墾して畑にしたのでしょうか。



写真:集会所の柚子
中央高速の高架下を横断し、寺町通り区民集会所でトイレをお借りしました。



写真:浄土真宗常栄寺
烏山寺町通りは一度歩いて見たいと思っていたところです。多くのお寺があり他とは違う雰囲気を醸し出しています。常栄寺のホームページから引用します。
常栄寺は世田谷の小京都とも呼ばれる烏山寺町の中にあります。
寺町は浄土真宗の東・西、浄土宗、日蓮宗、法華宗、真言宗、臨済宗の寺院26ケ寺で構成されています。これらの寺院は、関東大震災以降、都心部より漸次移転してきたものです。
地域では「烏山寺町環境協定」が締結され、木々が多く、高源院の弁天池には冬になると鴨が飛来するなど、都内では貴重な自然環境が残されています。

また寺町では烏山仏教会を結成し、毎年4月にお釈迦様のお誕生を祝う「花まつり」を行っています。烏山の「花まつり」は80年以上の歴史があり、稚児行列や法要の他、お子様向けの余興などもあります。

詳しくは烏山仏教会のHP(http://www.teramachi-ziin.com)をご覧下さい



写真:浄土真宗妙祐寺
妙祐寺について烏山仏教会のHPから引用してみます。
当寺は、弘安9年(1286年)一遍上人建立から時宗であった。当時は、天護山円証寺と称していたが大永年間(1521~27年)に兵火の災を受けて廃絶した。その後、寛永2年(1625年)浄土真宗の僧、了頓が渋谷の土中より阿弥陀仏像を発見し、これを本尊として満歳山学恩寺と称した。寺では了頓を中興の開山とする。その後延宝5年(1677年)寺号を妙祐寺と改めた。昭和20年の世界大戦の際、戦火により全堂を消失し、現在地に昭和23、4年にかけて墓地を移転し現在に至っている。
すべてが関東大震災により移転してきたわけではないようですね。


写真:法華宗妙寿寺
銀杏の紅葉が見事です


写真:臨済宗高源院


写真:弁天池

写真:ナンテン

写真:ツワブキ

写真:季節外れのアヤメ

写真:ホトトギス
本日の主要な目的地である高源院の弁天池。寺町通りと烏山川がつながりました。池にはコウホネが一面にありますが、下見に来た9月にはきれいに花が咲いていました。弁天池は都会のオアシスのような場所ですね。コオホネの花期は6月から9月とのこと。一面に咲いていることにまた来たいと思います。

写真:9月のコオホネ
あまり良い写真が無かったのですが、下見のときに撮った写真を載せておきます。


写真:北烏山四丁目の暗渠
弁天池から東へ向かい二本の暗渠がありました。弁天池には豊富な湧水があったのでしょう。


写真:烏山北住宅の水路
烏山川の水は農業用水として使われていて、水量不足を補うため玉川上水からの分水を受けていたそうです。この直線に作られた開渠は、分水した水を烏山川に流すための水路だったものと考えています。


写真:玉川上水と道路工事
都営久我山一丁目アパートにある空き地をお借りし、ストレッチをして解散となりました。玉川上水脇では放射第五号線の道路工事が行われています。人見街道など細い道が多いので幹線は必要なのでしょうが、うっそうとした玉川上水のすぐわきに道路とは野暮です。以前から論争はあったようですが、実際に目にしてみると「なんだかなぁ!」

有志は渋谷へ移動し山家へ。いつもの昼過ぎの山家とはちょっと雰囲気も変わり、300円のビールが450円になります。瓶ビールをたくさん飲んで一人二千円以内なので、この時間でもまだまだ安いです。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
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