目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

【下見】箱根・小田原

2024-06-22 15:47:23 | 神奈川県箱根町
アド街ック天国の小田原の会を見て「久しぶりに小田原を歩いてみようか」という気になりました。目黒区の保養荘があるときは箱根にたびたび泊で行っていたのですが、保養荘がなくなってからは「いい宿がないかなぁ」と足が遠のいていました。
今回の下見はホテル花月園。目黒区の契約施設で宿泊費もちょうどよい感じなので様子を確認したい。できれば箱根と小田原のウォーキングコースを確認したい。


仙石原文化センター前バス停
箱根ビジターセンターに車を置いてバスに乗り仙石原文化センター前へやってきました。箱根のウォーキングコースは仙石原湖尻自然探勝道。ずいぶん前に歩いたことがあるのですが、新任の企画員に様子を感じてもらうための下見です。バス停から自然探勝道スタート地点まで1.3kmを歩きます。


早川に架かる橋
箱根湿生花園前を通ってゆくのでこの案内の通り進みましたが、この先に案内はなく結果的には遠回り。


ミヤコワスレ

ホタルブクロ

箱根湿生花園

仙石原湖尻自然探勝道スタート地点
箱根湿生花園でトイレを借りることが出来るのですが、スタート地点まで1.3kmは距離がありすぎなので何とかしたいところ。


ニワフジ

マーガレット

アジサイ

道標
仙石原浄水センターあたりで手元の地図と道標のルートが異なるのですが、地図は2011年に作成されたもので道標の通り進みます。


展望案内図

モミジ

早川に架かる橋


早川
浄水センターの裏で早川を渡ります。コースは早川沿いを進みます。早川は芦ノ湖を水源とする川なので上流部から水量があります。


ウツギ

檜木立

サイクリングロードに合流

分岐点
サイクリングロードをそのまま行くか山へ入ってゆくかの分岐になります。登り坂嫌だなぁと思いながら、山へ入ってゆきました。


スイカズラ

たくましく育つ木

展望案内図

ヤブヘビイチゴ

探勝道

マタタビ
山道を30分くらい歩いたのかなぁ?



耕牧舎跡
一般社団法人Jミルクのサイトから引用します。
困難をきわめた仙石原の開墾
1880(明治13)年に渋沢栄一は、箱根・仙石原の広大な草原を牧場経営の適地と考え、江戸時代以来、村民共同の秣場(まぐさば)であり、既に神奈川県が牧畜試験地として買収していた約700ha余りの土地の払い下げを受け、牧場にした。三井物産の益田孝、東京株式取引所の小松彰、栄一の従兄である渋沢喜作とともに設立した、「耕牧舎」による牧畜開拓の始まりである。

 栄一の従弟である須永伝蔵を総支配人に松村泰次郎、新原敏三が牧場経営を始めた。新原敏三は、小説家・芥川龍之介の実父に当たる。

 この耕牧舎の所有地は、酸性の火山灰土のやせ地で、冷涼多雨の気象条件に冬季の厳しい寒気や強風により一面に萱が繁茂していた。そのため土地を開墾し、牧草の栽培をするため、力仕事に使う牛や馬を購入して耕し、収穫から脱穀、運搬や収納に使用する農機具を購入して、西欧式の家畜を活用した畜力農機具を酷使して大規模な開墾が行われた。

しかし、西欧式農法は、千葉の下総牧羊場で伝習を積んだ須永伝蔵や松村泰次郎でも経験がなく、従業員も不慣れなこともあり、大規模な開墾作業は困難をきわめ、開墾できた土地はわずかであった。

耕牧舎経営に一生を捧げた須永伝蔵
 須永伝蔵は、耕牧舎の総支配人として、牧草や乳牛の改良、牛乳販売も行い、牧場経営に一生を捧げた。そして仙石原の村民にも慕われ、村会議員のみならず村長にも推挙された。しかし、芦ノ湖からの引水による開田計画のため奔走した水利権紛争(逆川事件)では敗訴し、収監されている。この計画は、牧場経営の傍ら水田開発を行い、米で経営の安定化を図る遠大な構想でもあったが、当時の牧畜政策は大型牧場の経営を推進するためには多くの課題を抱えていたのである。

 伝蔵は、耕牧舎と仙石原村のために奔走したが、1904(明治37)年に病死。さらに、翌年には耕牧舎も、閉鎖を余儀なくされた。

 渋沢栄一は、伝蔵の牧畜事業の功績を称えて彼の故郷である群馬県成塚(明治39年)と、箱根仙石原(昭和6年)の2か所に伝蔵の石碑を建立した。当時が偲ばれる仙石原の石碑は、耕牧舎の跡地に現存している。

 この地に耕牧舎が誕生したことは、仙石原の村民にとってそれまでの箱根細工用に立木の伐採や搬出などを主とした生活から、季節的に集中する青草刈りや牧場における牛馬の管理など、新たな事業に雇用されたことで、村民にとって重要な収入源にもなり、村を豊かにすることができたのである。

乳牛改良と飼育状況
耕牧舎の開設から25年間(明治13~37年)で牛の飼養状況は、洋牛と和牛の合計で多い時には200頭以上にもなった。箱根町立郷土資料館々報第10号によると、最初から洋牛を基礎牛として事業を起こしており、明治政府の勧農局からショートホーン種(短角種)の牛2頭を借用し、1881(明治14)年にも短角種を再び借用、その後にデボン種(ハワイ産)も導入した。当時の輸入牛は乳肉兼用のショートホーン種及びデボン種が中心であり、耕牧舎では、優良な雄牛を種付け用の牛として、洋牛と雑種牛など和洋の牛を掛け合わせるなど交配改良し、雌牛を乳用牛として飼養した。そして、耕牧舎の各支店に乳用牛を移動させ、牛乳を搾乳販売したのである。同時に同業者をはじめ関係者に乳牛を貸与や売却もした。

 明治初期の輸入牛はジャージー種、ショートホーン種、デボン種、エアシャー種であった。ホルスタイン種については、「輸入種牛馬系統取調書」(農商務省農務局)によると、1885(明治18)年に、津田出が米国からホルスタイン種を導入したというのが定説となっている。しかし岩手県岩泉地方で飼育された岩泉牛の由来についての記録に「『ホルスタイン』種ノ輸入モ亦岩泉村ヲ以テ嚆矢トス。」という記述がある。さらに「東京耕牧舎ヨリ『ホルスタイン』種牝牡2頭ヲ購入ス、該牛ハ明治17年渋沢栄一氏ガ米国ヨリ輸入セル和蘭産純血種ノ血統ナリト云フ。(原文)」と書かれており、とすると渋沢栄一は津田出より1年早くホルスタイン種を輸入したことになる。

牛乳事業の概況
当時、箱根へは、幕末から外国人居留地のあった横浜などから、豊富な温泉と富士山の景観を求めて避暑に訪れる外国人が多く、耕牧舎は積極的な牛乳の製造販売を行った。

 明治14年にはバターも製造販売した。その証拠として勧農局よりバターチャーンを購入している。明治14年の1,358㎏から逐次伸び、明治20年には3,422㎏と倍になっている。ただし、明治22年の7,030㎏をピークに、その後は次第に減少している。

 明治20年には箱根・宮ノ下まで道ができ、さらに東海道線や小田原馬車鉄道の開設により多くの顧客から牛乳の需要が高まった。明治23年には富士屋ホテルからの支援を受け、宮ノ下支店を設けて雌牛5頭を飼育して牛乳を販売した。このように牛乳販売が伸びた理由は、外国人をはじめ、上流階級の多くの人が季節によって箱根を訪れ保養地として滞在したことであった。

 当時珍しい箱根にあった入浴用の牛乳についても、中外物価新報(第521号、明治15年)に、「避暑入浴の御方牛乳御入用の節は」と、牧場から牛乳を届ける旨の広告がある。また須永伝蔵からの栄一あての書翰(明治16年)には「当時井上勝之助様湯本ヘ御入浴ニ付日々牛乳相送り居申候」と記述がある。入浴用の牛乳を販売したのは耕牧舎が我が国で初めてあった。これは温泉療法の研究に度々きて、指導的役割を果たしたエルヴィン・フォン・ベルツ(ドイツ人、東京医学校教師)の影響によるものである。

 耕牧舎は、支舎(店)を東京、神奈川、山梨、静岡などに設けた。当時は生乳を運搬する手段がなかったので、仙石原の牧場は乳牛の育成に専念し、乳牛を各支店に移動させた。そして各支店が牛乳を搾乳・販売した。このように渋沢栄一は営業主流の経営方針による都市商圏における利益率の高い牛乳販売に力点を絞ったものと思われる。



サイクリングロード



大涌谷

檜木立のサイクリングロード

芝?
遠景に大涌谷が見える光景は箱根らしく雄大です。サイクリングロードと言っても自転車との遭遇は一度もなく、バイクが一台通り過ぎてゆきました。


道標
距離が書いてない道標が多かったのでやっと2/3と感じました。ちょっと疲れてきたのでまだまだあるなぁといった感じです。


早川

ゴールの湖尻

芦ノ湖の水門
最後は登りばかりで結構お疲れでした。あとで調べてみると湖尻の標高は仙石原より120メートルも高いのです。本番は逆にした方がよさそうです。


湖尻周辺散策マップ

箱根ビジターセンター
湖尻からビジターセンターまでまた登り。結構疲れました。


ホテル花月園

部屋からの景色
この日の一番の目的、ホテルの下見です。対応は親切、ご飯もおいしく、宿泊費もすこやか歩こう会の旅行で訪れるには妥当な金額でした。景色も最高です。


翌日の景色
残念ながら雨、この後大雨になりました。小田原の下見はあきらめて、早々に帰京しました。

このコース、来年五月の旅行を予定しています。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


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ウォーキング塾地区活動(北部) 富士コース 約7.1km

2024-06-13 11:35:08 | 東京都目黒区、渋谷区
最近の活動では参加者が20名を超えることが多かったのですがこの日はちょっと少なめ16名でした。ウォーキング日和の曇り空でしたが途中からは少し暑くなってきました。


東京大学教養学部正門

一号館の時計塔
集合は東大駒場キャンパス正門前、井の頭線の駒場東大前駅が最寄になります。ストレッチをして正門からキャンパスの中へ。


キャンパス内のイチョウ並木
開校当時「駒場農学校」だったことを確認し、青々と茂った銀杏並木を歩きます。


駒場公園正門

旧前田邸洋館
野球場のわきを通り北門で東大を出て西へ、今回は駒場公園に正門から入りました。



祖霊社跡地
昭和4年(1929年)、前田利為侯爵が駒場に本邸を建設し、同時に霊社が本郷からこの場所に移築されました。古写真や旧平面図から、霊社本殿、幣殿、拝殿、神饌所、参道などがあったことがわかっています。また、手水鉢、灯籠など石造工作物やコンクリートの基礎部分が、現在も残っています。昭和20年(1945年)に終戦となり、ここ本邸は連合国軍に接収され、霊社は解体されることになりましたが、菅原道真公を祖として仰いできた前田家にとって、ゆかりの亀戸天神が空襲により大きな被害を受け、再建される計画を知り、ここにあった拝殿を昭和22年(1947年)に、亀戸天神社に寄進し、ご本殿として生まれ変わりました。昭和30年(1950年)、亀戸天神社御本殿が再建されることとなり、寄進された社は境内の御岳神社のご本殿として、移築されました。月日は流れ昭和51年(1976年)、御岳神社が再建されることとなり、社は解体され境内各所の建築・修理の用材とされました。こうして、霊社の建造物として長い歴史に終止符が打たれました。なお、前田家は菅原家と同じ幼剣梅鉢紋を家紋としています。
菅原道真公(845-903)は、平安時代の貴族であり、学問、政治、文学にも秀で学者として名が高かった。天神様とは、菅原道真公のことで「学問・至誠・厄除けの神様」として、日本全国から崇敬を集めている。



ケルネル田圃

トマト
駒場公園南門を出て井の頭線踏切を渡り駒場野公園へ。二週間前と違うところは田植えが済んでいる点。駒場野公園内を通り抜け南へ行くと淡島通り沿いに飛び地になった駒場野公園があり、淡島通り向かいには筑波大学付属中高の門があります。この門が明治時代騎兵第一連隊の門として作られたことを説明しました。またこの場所は目黒区と世田谷区の区界にあたりかつては上目黒村と池尻村の村境で、疫病が村に入ってこないよう上目黒川に締め切り地蔵があり今もお参りする人が絶えません。
淡島通りを東へ進みプラウド駒場の先を右折して大橋通りを南へ向かいます。「御用屋敷跡」の説明看板があるので鷹狩りに来た徳川将軍が休憩する御用屋敷があり、管理していたのが綱差し川井権兵衛で、三週間前に寿福寺でお墓を訪れた権兵衛さんの職場であることを説明します。
さらに南へ向かい公務員住宅の大橋住宅の敷地内にある天覧台を見ます。現在の駒場高校陸上練習場を見下ろすこの場所は練兵場で、明治天皇や大正天皇が訪れて帝国陸軍を閲兵した場所となります。江戸時代は徳川将軍、明治になって天皇陛下がたびたび駒場を訪れていたのですね。


ミヤコグサ

オミナエシ

ネジバナ

春秋共演
玉川通りを横断する歩道橋の上で上目黒氷川神社に富士登山道と浅間神社があることを説明し、クロスエアタワーのエレベーターに乗って目黒天空庭園へ。ミヤコグサは菅刈公園の和風庭園にもありますが鳥が種を運ぶのかな?秋の七草のひとつオミナエシと初夏の花ネジバナが並んで咲いているところが面白くて共演写真をとってみました。


ヤマボウシ

ブドウ

ハマナス
エアクロスタワーをバックにヤマボウシの風景はいかにも天空庭園らしい風景です。


猿楽神社

旧山手通りのジャガランダ
目黒川沿いを歩き山手通りを横断して菅刈公園。坂を上り西郷山公園を見て旧山手通りを南東に向かいます。猿楽神社は代官山ヒルサイドテラス内にある古墳です。頼朝がこの場所で猿楽を催しその道具を埋めたので猿楽塚と聞いたことがあるのですがその説は最近見かけません。この先代官山交番近くで元富士の説明をしてさらに南西に向かいます。


別所坂公園
鎗ヶ崎交差点から目黒区渋谷区の区界になる路地を南下してゆきます。私が代官山山脈と呼んでいる淀橋台地の縁が鑓のように狭くなっていたのが鎗ヶ崎で、最初はトンネルが掘られました。路面電車玉川線を通すにあたりトンネルを崩し切通しにしたので、渋谷川の谷と目黒川の谷を行き来するには比較的坂がゆるい通りとなりました。
別所坂公園が目黒新富士であることを説明し富士コースは終了となります。ストレッチをして解散。

めぐろウォーキング塾の地区ウォークはこの日が最後となるので塾生もお誘いして鳥元でランチを食べながら懇談しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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ウォーキング塾地区活動(北部) 南東部公園コース 約7.0km

2024-06-05 14:57:03 | 東京都目黒区
この日は地元から目黒区南東部を目指します。かつての目黒六か村で言えば、上目黒村から中目黒村、下目黒村を通り碑文谷村へ。


アトラスタワーと目黒川
中目黒GTに集合して目黒川船入場へ移動してストレッチ。暑くなりそうなので熱中症予防の水分補給を促しスタートしました。



目黒区民センター
中里橋を渡り目黒川東岸を歩くとすぐに一つ目の公園、中目黒公園。中里橋から新茶屋坂通りを少し歩いて目黒清掃工場緩衝緑地をぬけ、区民センターで一回目のトイレ休憩です。


目黒不動
大鳥神社前で山手通りと目黒通りを横断し目黒通りを少し歩き寄生虫館の手前で左折して南へ向かい大鳥中学校の前で区立中学校の変遷を解説しました。
新制中学は戦後の仕組みなので昭和22年5月3日に目黒一中から目黒十一中が開校します。一中の生徒数増加に伴い開設された分校が東山中学となりしばらく十二校体制が続きます。やがて生徒数の減少により二中、五中、六中が統合され中央中学へ。その後三中と四中が統合され大鳥中学が開校しました。今後七中と九中が統合して目黒南中学校、八中と十一中が統合して目黒西中学校が誕生します。そのころには古い順に一中、十中、東山中、中央中学、大鳥中、南中、西中の公立中学校七校体制。半減とは言いませんが、生徒数は半減どころかかなり少なくなっているようです。


林試の森公園

円融寺西門

釈迦堂


黒仁王
目黒不動を出るとすぐに都立林試の森公園があります。目黒区と品川区にまたがるためか都立公園となっています。この場所に林業試験場が設けられたのが明治33年、昭和53年に試験場が筑波へ移転して跡地が公園として整備されました。
東門から入園して林試の森公園内を歩き北門を出ると羅漢寺川の暗渠、六畝川(ろくせがわ)プロムナードから通称補助26号(都道420号)に出ます。碑文谷ベーカリーの横を入り碑さくら通りを西へ向かうと清水池公園。七中の先左折して南へ向かい円融寺。


碑文谷八幡宮
円融寺を参道から出て立会川緑道。目黒区を流れ海に流れ込む川が三本あり、目黒川、呑川とこの立会川です。立会川、目黒区内はすべて暗渠かもしれません。緑道の行き着く先が碑文谷八幡。碑文谷村の名の由来となった呑川から引き揚げられた碑文石は拝殿の横に展示されています。


雀のお宿緑地公園
碑文谷八幡に隣接する雀のお宿公園で休憩、古民家の縁側に座ります。再スタートして碑さくら通りを東へ向かいサレジオ教会。サレジオ通りを北へ向かい目黒通りを横断してさらに北へ行くと碑文谷公園。このコースのラストを飾る公園です。隣接する碑文谷体育館がゴール、ストレッチをして解散しました。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
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