目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

第16回将軍お鷹狩りウォーク ショートコース実踏

2018-06-27 08:52:44 | ウォーキング
繰り返しになりますが、今年も11月3日に「めぐろウォーキングマーチ将軍お鷹狩りウォーク」が開催されます。6月24日に実行委員によるショートコース実踏が行われました。天気予報では曇りだったのですが、あいにくの雨になってしまいました。ショートコースの実踏はいつも雨に降られている印象がありますが、この時期なので仕方がないですね。お鷹狩りウォーク本番はこれまで15回雨で中止になったことはなく、ショートコース実踏のジンクスとともに、本番のジンクスも継続して16回目のお鷹狩りウォークが無事行われることを祈ります。今回は事務局で下見を行った5月12日の写真も交えて掲載します。


ヒマラヤスギの松ぼっくり

明治神宮外苑聖徳記念絵画館
ショートコースのスタートはここ絵画館前となります。コースはロングコースの後半と全く同じにしたので、本番ではショートコースの参加者がすべてこの場所をスタートした後に、ロングコース参加者が休憩場所として利用することになります。
あまり見たことがない光景だったので写真に撮りましたが、「杉の松ぼっくり」はちょっとツッコミたくなるフレーズですね。ヒマラヤスギは杉という名前とは裏腹にマツ科で、松ぼっくりは「シダーローズ」と呼ばれ、11月頃に落果するシダーローズを乾燥させ分解するとバラのような形が現れるようです。お鷹狩り本番で落果したシダーローズを見つけたら、持ち帰って観察したいですね。
ちなみに杉の木はヒノキ科で、ヒノキ科の木にも松ぼっくりのようなものが出来るようですが、日本で見られる種類ではそれほど大きな松ぼっくりはないように思います。ヨセミテ国立公園のマリポサグローブで見たジャイアントセコイアはヒノキ科ですが、大きな松ぼっくりが落ちていました。


建設中の新国立競技場
絵画館前をスタートし、お鷹の松を見て、新国立競技場の工事現場を見ながら歩きます。「御鷹の松」の説明書きには、
御鷹の松(お鷹の松)
大正7年(1918)明治神宮外苑競技場(現国立霞ヶ丘競技場)造成のために買上げた霞岳町の敷地内に境妙寺という古寺があった。昔、徳川3代将軍家光(1603~1651)が鷹狩の途中この寺に休息していたところ、江戸城から飛び去っていた、「遊女」と名づけた愛鷹が飛んで来て、庭前の松の枝に止まったので家光は大へん喜び、この松をその鷹の名をとって「遊女の松」と名づけたと伝えられる。後の世の人々が「お鷹の松」或いは地名をとって「霞の松」とも呼んだ。碑文にある2代目の松(樹齢推定200年 高さ4メートル)は昭和39年(1964)、東京オリンピック開催のための拡張工事の際に取り去られ、碑石は競技場代々木門内に移設されていたが、このたび現在地に移し、新たにこれに黒松を配したものである。
 昭和54年(1979)10月 明治神宮外苑

この場所とは関係がありませんが、目黒不動について書かれた目黒区のページにこのような記述があります。
弘治3年(1557年)に堂塔の修理造営を行ったが、元和元年(1615年)に火災のため、ほとんど焼失してしまった。しかしながら本尊と本尊所持の「天国の宝剣」は奇跡的に難を逃れた。
その後、寛永7年(1630年)に上野護国院の末寺となり、将軍家の保護を受けるようになった。そのきっかけとなったのが、将軍家光が鷹狩りで目黒の辺りに来ていた時、可愛がっていた鷹が行方不明になるということがあり、そこで不動の僧に祈らせたところ無事に戻ってきたという。喜んだ家光は不動を深く尊信し、焼失していた堂塔を再建したという話である。
以来、幕府の保護が厚く、江戸近郊における有数の参詣行楽地となり、門前町もにぎわった。
近くには、行人坂上の夕日が丘などの景観地もあったし、俗に蛸薬師と呼ばれる成就院や、蟠龍寺もある。少し足を延ばせば、名刹祐天寺もある。江戸の三富と呼ばれた富くじが行われたことも、目黒不動繁栄の一因となった。

家光の鷹はいたるところで伝説を残しているようです。


南青山三丁目の裏路地
スタジアム通りを経て青山通りに出て、外苑西通り交差点の次の信号で青山通りを横断しこの裏路地に入ってゆきます。以前このあたりを歩いた時には表参道駅の先まで行って青学会館の前を通ったのですが、今回は初めて通る裏路地を採用してみました。



サニーヒルズ南青山店
裏路地を抜けた角にユニークな外観の建物があります。お店のページから引用します。
東京メトロの表参道駅を降り、おしゃれなデザイナーズショップやカフェ、スイーツのお店が立ち並ぶみゆき通りを南に向かって歩くと、突き当たりには建築家の隈研吾氏が設計した根津美術館があります。その途中にあるガラス細工のようなプラダビルの向かいの一本路地を入ると景色は一変し、真新しい店と緑との間の影に昭和風の民家が見え隠れします。その中でひときわ目を引くヒノキの角材に覆われた建物が微熱山丘の東京支店「SunnyHills at Minami-Aoyama」です。
隈研吾氏が新たに手がけたこの三階建ての建物は、地獄組みと呼ばれる伝統的な組木格子を熟練の職人の手で一本ずつ立体的に組み上げて作られました。店の中に入ると、森の中に迷い込んだかのように細かく交差する木組みの隙間から木漏れ日がお客様を包み込みます。光と、ヒノキの独特の香りが時とともに移ろいます。日が暮れると建物全体が灯篭のように闇の中に浮かび上がります。
台湾の山中に育った私たちには、東京のような都会に来てもやはり木々が必要です。森のような姿をした建物の中で、ご近所と挨拶を交わし、遠来の友人たちと語り合えればと考えました。あの山にいるとき、自分の家にいるときと同じように。

やっぱり隈研吾さんでしたね。


青南小学校

フレンチレストランFiGARO
青南小学校のある場所は渋谷区だとばかり思っていたのですが、先ほど歩いていた青山通りを含めて港区なのですね。住所に「青山」が含まれるのはみな港区ですが、青山学院大学は渋谷区です。神宮外苑も渋谷区だとばかり思っていたら、いちょう並木は港区、絵画館や神宮球場は新宿区でした。明治神宮が渋谷区なので、このあたりもみな渋谷区だと思っていました。
青南小学校についてはWikipediaから概要を引用してみましょう。
明治時代以降、青山は将官や官僚などが居住する地域として大きく変容するのに伴い、隣接する青山小の児童数も急激に膨張、そのため1906年(明治39年)に青山小の一部の児童を引き取る形で創立された。そうした地域柄もあり、進学熱はこの頃より高く、文京区の誠之小などと並び、府立一中(現・日比谷高校)や四中(現・戸山高校)など上級学校への進学率が高い学校として知られていた。この頃より越境入学生も後を絶たず、1921年(大正10年)着任の下川兵次郎校長の時代以降の戦前において、上級学校を目指して進度別授業を展開していた時期もあった。
1931年(昭和6年)、中村草田男が母校の青南小学校を訪ねた折に詠んだ「降る雪や明治は遠くなりにけり」の句碑が、現在、学校正面玄関前に建っている。
戦時中の逸話として、山本五十六が戦死した際、校庭にて海ゆかばの大合唱と共に、その子女らが在学中、またかつて通っていた関係で、他校が著名な将官が亡くなると改称したのに倣い、一時「山本国民学校」と改称する案がでて、真剣に討議されたこともあった。戦後も当校から青山中学校 - 日比谷高校のコースを辿ることが、いわゆる番町小 - 麹町中学校コースと並び、東大へ進学するエリートコースとされたこともあった。かように公立小御三家として「番町・白金・青南」などと謳われたこともあり、港区内では現在でも白金小や赤羽小などと並び、学区外からの越境通学者が多く、また著名人の子弟も見られる。
2006年(平成18年)に創立100周年を、また、2016年には創立110周年を迎え、創立記念日の11月18日に記念式典が行われた。

出身者から知っている名前をピックアップしてみます。岡本太郎、斎藤茂太、北杜夫、松本隆、オノ・ヨーコ、吉本多香美、合原明子など。




岡本太郎記念館
岡本太郎記念館(おかもとたろうきねんかん)は、東京・青山にある美術館である。芸術家・岡本太郎がその父・岡本一平から相続して自宅兼アトリエとして使用していた南青山の資産を記念館としている。

概要
岡本太郎記念館には、多くの彫刻、デッサン、エスキースなどが展示保存されている。1階には岡本が使用した筆や絵具、2階には油絵、彫刻などが展示されている。館内では写真撮影も自由である。
岡本太郎記念館を運営する財団法人岡本太郎記念現代芸術振興財団は岡本太郎が死亡した翌年である1997年(平成9年)の2月に設立され、岡本太郎記念館は1998年(平成10年)5月に開館した。財団法人の理事長は平野暁臣で、理事として川崎市長・阿部孝夫、実業家・糸井重里、構造家・中田捷夫、資生堂会長・福原義春、美術評論家・山下裕二らが名を連ねている。

歴史
岡本太郎は、この場所に1953年(昭和28年)から84歳で没した1996年(平成8年)まで暮らし、創作活動を行っていた。
岡本が初めに住んだ旧居は1945年(昭和20年)5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)によって焼失している。この旧居には岡本の両親である一平、かの子も共に長く暮らし、一家はここからヨーロッパに旅立っている。住居表示施行前のこの地の住所は、「青山高樹町三番地」であった。
日本の敗戦後に再建された建物は、岡本の友人でル・コルビュジェの弟子でもあった建築家・坂倉準三の設計により建てられたものである。岡本の要望により、積み上げたブロックの壁の上に凸レンズ形の屋根の乗った独自の形象をしており、壁には岡本の描く顔と「TARO」の赤いサインが入っている。1970年(昭和45年)に行われた大阪万国博の太陽の塔の構想もここで練られた。



日本コカ・コーラ本社
南青山六丁目交差点を通過します。このあたりの通りに名前があると分かりやすいのですが、あえて表現するとすれば根津美術館のみちと、フジフィルムへ向かう道でしょうか。相国寺東京別院前の路地を通り、六本木通りに出て、常盤松交番がある渋谷四丁目交差点で六本木通りを横断し、常陸宮邸の裏を通ります。常陸宮邸は薩摩藩島津家下屋敷の後で、篤姫が花嫁修業をしていた場所ですね。


実践女子学園

國學院大學
本番が行われる11月3日には例年通り國學院大學のご厚意により、トイレ休憩の場所を提供していただけるものと思っています。


渋谷氷川神社

氷川の杜公園の土俵
三島由紀夫最後の長編小説「豊饒の海 第二巻・奔馬」で渋谷氷川神社が舞台となるシーンが描かれています。この小説の第一巻・春の雪の書き出しは目黒区青葉台が描写されているので、目黒・渋谷は物語の中心地です。
土俵については渋谷区のページに詳しい解説がないので、「東京都寺社案内」のページから引用します。
金王相撲
渋谷氷川神社の金王相撲は、大井鹿島神社、世田谷八幡宮とともに江戸郊外三大相撲の一つとされていました。
この氷川神社の創建は、区内でも古く、かつての下渋谷村、下豊沢村の鎮守社でした。そのころの祭日は、9月29日で当日は境内で相撲が行われ、その相撲場は今も残っています。
この行事を金王相撲といい、いつごろから始められたか明らかではありませんが、かなり古くから行われていたらしく、近郷はもちろん、江戸の町からも見物人が集まり、凶年などには休業しようとしても見物人が集まるので、やむなく興行したといいます。
ここで相撲をとったのは、本職の江戸の力士ばかりではなく、近郷の若者も大勢参加し、江戸時代の村のレクリエーションの場となっていました。(渋谷区教育委員会掲示より)




氷川みかん公園

氷川つるかめ公園

お庭のバラ
氷川の杜公園から明治通り沿いに南下するのですが、歩道が狭いので東側に平行した路地をルートとして選択しました。5月12日には小さなみかんを見ることができました。渋谷区東三丁目のバラのきれいなお宅は、昭和の町のお医者さんというたたずまいです。


恵比寿ビール坂
途中から明治通りを歩き、恵比寿橋で渋谷川を渡り、恵比寿通りから始まる上り坂には魅力的なサインがあり「もう十分歩いたじゃないか。ガーデンプレイスで一杯やってゆこうよ!」と誘っているようです。

ガーデンプレイス、アメリカ橋、茶屋坂を通りゴールとなる目黒区民センターに到着する頃には雨がやんで、むしむしとした梅雨の暑い日に変わっていました。

今年もよいコースが出来ました。多くの皆さんのお鷹狩りへのご参加をお待ちしております。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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