
暑くもなく寒くもなくといってもこの日は少し気温が高く、ザックを背負った背中はびっしょりという会員も。

駒場の公園のヤエザクラ
ソメイヨシノ花吹雪が去ると新緑が街を彩り始め、春本番というより初夏を思わせる気温の中ヤエザクラがきれいなピンクを躍らせています。

騎兵山から三軒茶屋方面

騎兵山の斜面工事
駒場東大前駅で集合し、駒場野公園へ移動。ストレッチ後スタートして南へ。淡島通りを東へ向かい、大橋通りに入り南へ。第三機動隊を過ぎて東邦大橋病院の手前騎兵山の縁を西へ向かいます。

馬神碑
騎兵山の南西の縁にこの碑があります。山といっても山ではなく台地を北沢川や目黒川が削った崖の上です。騎兵山は日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古が所属した騎兵第一連隊があった場所(のちに習志野へ移転)と聞いていますが、それを裏付ける確かな資料は見当たりません。同じ一角に秋山好古が揮毫した石碑が残されており騎兵第一連隊がここにあったものと信じています。馬神碑は日清・日露戦争や日ごろの訓練でで犠牲なった馬を鎮魂するため昭和五年に建てられたものです。
駒場の地は江戸時代徳川家の鷹狩り場として管理され、江戸末期に幕府はここを練兵場にしようとしましたが一揆に拒まれ、明治政府はある程度の保証を払い駒場農学校や陸軍の施設としました。


騎兵山の崖のハナミズキ

目黒川緑道のキハナショウブとクルメツツジ

シャクナゲ

ジャーマンアイリス?

花畑
騎兵山を下ると目黒川緑道を東へ向かいます。暗渠の上に水を流して川をイメージさせ、きれいに手入れされた花々が通行人を楽しませています。


目黒富士

上目黒氷川神社
目黒川緑道は玉川通りまで、大橋という地名の通り江戸時代目黒川の川幅が広く大きな橋が架かっていたのでしょう。玉川通りを北東へ進み大橋交番のわきにある目黒富士登山道を登ると上目黒氷川神社。目黒富士は代官山にある元富士の流れを受けています。江戸時代代官山のキングホームズが建っている場所には丸旦という名の富士講が富士山から持ち帰った溶岩などを積み上げた築山を造り江戸からの物見客でにぎわっていました。近くに択捉探検で有名になった旗本近藤重蔵が別の築山を築き観光地となったことから代官山の築山を元富士、別所の築山を新富士と呼ぶようになりました。明治時代になり丸旦組の元富士は明治政府のものとなり岩倉具視の別荘が建てられました。築山は壊されて氷川神社へ運ばれ、末社の浅間神社に祀られたことから氷川神社の崖に目黒富士登山道が設けられることになりました。現在氷川神社から富士山を拝むことはできませんが、かつては富士山が見え遥拝所となっていたそうです。


駒場バラ園のモッコウバラ
氷川神社で少し休憩した後北へ向かい淡島通りを東へ。松見坂から駒場一丁目の住宅街に入ってゆくと井の頭線の線路にあたりそこが駒場バラ園。さすがバラ園、モッコウバラも見事です。



東京大学構内
さらに北へ向かい炊事門から東京大学駒場キャンパスに入り構内を歩きます。

駒場公園前田邸和館

前田邸洋館
駒場キャンパスの野球場とラグビー場の間を歩いて北門から通称行幸通りへ出て西へ向かうと駒場公園。ここは昭和初期の加賀前田家の邸宅跡です。江戸時代加賀前田家の江戸上屋敷は本郷にありました。東京大学の赤門です。帝国大学拡張に伴い前田家は駒場の地に等価交換で移ってきて現在国の重要文化財に指定されている和館と洋館を建てました。

駒場野公園正門

ケルネル田圃
駒場公園が前田家から寄贈された公園なのに対し、駒場野公園は東京教育大学の敷地跡が公園になったもので、お雇い外国人ケルネルが研究に使った田んぼが残されています。手前の木で見にくいですが田んぼはまだ田植えが行われていません。五月になると東京教育大学の流れをくむ筑波大学駒場の生徒たちによりもち米の田植えが行われます。
駒場野公園でストレッチをして解散、久しぶりに渋谷のライオンでおいしいビールを飲みながらの反省会となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
参加を希望される方はご一報ください。

駒場の公園のヤエザクラ
ソメイヨシノ花吹雪が去ると新緑が街を彩り始め、春本番というより初夏を思わせる気温の中ヤエザクラがきれいなピンクを躍らせています。

騎兵山から三軒茶屋方面

騎兵山の斜面工事
駒場東大前駅で集合し、駒場野公園へ移動。ストレッチ後スタートして南へ。淡島通りを東へ向かい、大橋通りに入り南へ。第三機動隊を過ぎて東邦大橋病院の手前騎兵山の縁を西へ向かいます。

馬神碑
騎兵山の南西の縁にこの碑があります。山といっても山ではなく台地を北沢川や目黒川が削った崖の上です。騎兵山は日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古が所属した騎兵第一連隊があった場所(のちに習志野へ移転)と聞いていますが、それを裏付ける確かな資料は見当たりません。同じ一角に秋山好古が揮毫した石碑が残されており騎兵第一連隊がここにあったものと信じています。馬神碑は日清・日露戦争や日ごろの訓練でで犠牲なった馬を鎮魂するため昭和五年に建てられたものです。
駒場の地は江戸時代徳川家の鷹狩り場として管理され、江戸末期に幕府はここを練兵場にしようとしましたが一揆に拒まれ、明治政府はある程度の保証を払い駒場農学校や陸軍の施設としました。


騎兵山の崖のハナミズキ

目黒川緑道のキハナショウブとクルメツツジ

シャクナゲ

ジャーマンアイリス?

花畑
騎兵山を下ると目黒川緑道を東へ向かいます。暗渠の上に水を流して川をイメージさせ、きれいに手入れされた花々が通行人を楽しませています。


目黒富士

上目黒氷川神社
目黒川緑道は玉川通りまで、大橋という地名の通り江戸時代目黒川の川幅が広く大きな橋が架かっていたのでしょう。玉川通りを北東へ進み大橋交番のわきにある目黒富士登山道を登ると上目黒氷川神社。目黒富士は代官山にある元富士の流れを受けています。江戸時代代官山のキングホームズが建っている場所には丸旦という名の富士講が富士山から持ち帰った溶岩などを積み上げた築山を造り江戸からの物見客でにぎわっていました。近くに択捉探検で有名になった旗本近藤重蔵が別の築山を築き観光地となったことから代官山の築山を元富士、別所の築山を新富士と呼ぶようになりました。明治時代になり丸旦組の元富士は明治政府のものとなり岩倉具視の別荘が建てられました。築山は壊されて氷川神社へ運ばれ、末社の浅間神社に祀られたことから氷川神社の崖に目黒富士登山道が設けられることになりました。現在氷川神社から富士山を拝むことはできませんが、かつては富士山が見え遥拝所となっていたそうです。


駒場バラ園のモッコウバラ
氷川神社で少し休憩した後北へ向かい淡島通りを東へ。松見坂から駒場一丁目の住宅街に入ってゆくと井の頭線の線路にあたりそこが駒場バラ園。さすがバラ園、モッコウバラも見事です。



東京大学構内
さらに北へ向かい炊事門から東京大学駒場キャンパスに入り構内を歩きます。

駒場公園前田邸和館

前田邸洋館
駒場キャンパスの野球場とラグビー場の間を歩いて北門から通称行幸通りへ出て西へ向かうと駒場公園。ここは昭和初期の加賀前田家の邸宅跡です。江戸時代加賀前田家の江戸上屋敷は本郷にありました。東京大学の赤門です。帝国大学拡張に伴い前田家は駒場の地に等価交換で移ってきて現在国の重要文化財に指定されている和館と洋館を建てました。

駒場野公園正門

ケルネル田圃
駒場公園が前田家から寄贈された公園なのに対し、駒場野公園は東京教育大学の敷地跡が公園になったもので、お雇い外国人ケルネルが研究に使った田んぼが残されています。手前の木で見にくいですが田んぼはまだ田植えが行われていません。五月になると東京教育大学の流れをくむ筑波大学駒場の生徒たちによりもち米の田植えが行われます。
駒場野公園でストレッチをして解散、久しぶりに渋谷のライオンでおいしいビールを飲みながらの反省会となりました。
すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。
すこやか歩こう会活動スケジュール
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