目黒区北部地区 すこやか歩こう会

東横線中目黒駅周辺を拠点に活動するウォーキングクラブです。みんなで歩くと楽しいですよ!時々遠出もしています!!

ウォーキング塾地区活動(北部) 菅刈、東山、上目黒コース 約5.4Km

2017-05-29 13:45:24 | ウォーキング
金曜日の夜がめぐろウォーキング塾。土曜日午前中に地区活動。日曜日午前中にこまエコ散歩のお手伝いとウォーキングイベントが目白押しです。ついでに言ってしまえば来週は加賀百万石ウォーク。次の週は将軍お鷹狩ウォークの実踏と週末はほぼウォーキングのイベントが占めています。
ということで本日の地区活動にはウォーキング塾から四名の塾生が参加して、中目黒GTをスタート。目黒川舟入場でストレッチをし、水分補給をしてからウォーキングスタートです。


写真:菅刈公園日本庭園

写真:菅刈公園

写真:ヒメヒオウギ

写真:ヘビイチゴ

写真:シロツメクサ

写真:カヤツリグサ?

写真:オニタビラコ

写真:ドクダミ

写真:ハコベ
菅刈公園は西郷従道の屋敷があった場所で、西郷山公園よりも後に整備されました。Wikipediaに詳しいので抜粋してみましょう。
当地一帯は江戸時代は豊後国岡藩藩主・中川氏の下屋敷であったところであり、特に当家の回遊式庭園は名所として当時の地誌にも載っており知られていた。その後明治時代になって西郷隆盛の実弟・西郷従道が兄隆盛の再起を願って当地付近を購入した。しかし、西南戦争により隆盛が他界したためそれが実現されず、当地は従道自身の別邸として利用されることになった。当地にはフランス人デスカスの設計による洋館と書院造りの和館が並んでいた。その後西郷家は1941年に渋谷に移転し当時の国鉄の手に渡った。
また第二次世界大戦による空襲により和館が焼失するなど次第に西郷邸があったころの面影は薄くなっていった。なお残された洋館は1963年に愛知県犬山市にある明治村に移築され、現在は国の重要文化財に指定されている。その後、邸宅跡地の東側にあたる台地の部分が公園として整備され、当地付近の通称であった「西郷山」(西郷従道にちなんでいる)の名を付した西郷山公園として1981年5月28日に開園している。
菅刈公園のあった場所は戦後しばらく、国鉄職員の宿舎などとして使用されていたが、1997年に目黒区が土地を取得、公園として整備され2001年3月31日に開園した。当公園付近は、江戸時代の回遊式庭園があったところで、公園整備の際の調査で、その遺構が良好に保存されていたことから、公園の一部を当時の回遊式庭園を復元する形で整備された。

一部花の名前がわからないので、ご存知の方は教えてください。


写真:ミキモトのバラ
公園を出ると装飾品のミキモトの本社があり、バラの花がきれいに手入れされており、近隣住民に愛されています。


写真:目黒川
山手通りを少し歩いてから目黒川沿いを遡ります。


写真:東山銀杏並木
東山貝塚公園を見た後、区境を歩き池尻に残る帝国陸軍の馬糧庫を過ぎると東山公園。このあたり東山公園が点在しているのですが、この場所にはかつて国土地理院がありました。東山小学校は校舎の新築工事が終わり、旧校舎の解体が行われているようです。


写真:寿福寺
区内で一番古いお寺は黒仁王の円融寺(九世紀の創建と伝えられている)と言われているのですが、この寿福寺もけっこう歴史があるようです。地元の割にはあまり知らないことなので、様々な資料を引用してみましょう。
目黒区教育委員会掲示による寿福寺の縁起
「新清山観明院壽福寺」といい、天台宗でご本尊は阿弥陀如来です。元和元年(1615)鳳算大阿闍梨が創建されたと伝えられていますが、当境内にある鎌倉時代の板碑から、草創はさらにさかのぼるものと推定されます。この寺は、享保の頃(1716-1735)中興の英主といわれる孝順大和尚のとき、上野護国院の末寺として大いに栄えました。
現在の本堂は、昭和50年に、建替えられましたが、それまでの本堂は明治13年に行人坂の明王院念仏堂を移建したもので、その「念仏堂」の由緒ある扁額は今も掲げられています。また、本堂には木彫彩色の青面金剛立像が安置されています。
門前には、相生地蔵とよばれ信仰されている2體の延命地蔵尊や庚申塔などが立っています。また、宿山の烏森稲荷は元禄の頃(1688-1703)に当寺境内の稲荷社を移したものです。(目黒区教育委員会掲示より)


新編武蔵風土記稿による寿福寺の縁起
(上目黒村)壽福寺
除地3段7畝12歩、小名宿山組にあり。天台宗下目黒龍泉寺の末なり。新清山と号す。開基は下馬引澤村の人民勝五郎といひしもののよし。今も其子孫吉兵衛と称して、現に其地に住居すれども、当寺草創の年代及び開山和尚の名さへも傳へず。中興の開山を法印高順と云。享保12年10月23日示寂せり。客殿8間に6間半。本尊阿弥陀如来を安置せり。(新編武蔵風土記稿より)


天台宗東京教区の公式サイト
壽福寺は正式には新清山観明院壽福寺といい、元和元年(1615)、大阿闍梨鳳算大和尚によって現在地に創建されたと伝えられていますが、その草創は更に朔り、室町時代末期の頃にはすでに草庵が結ばれていたと推察されます。
壽福寺周辺の地は武蔵野の一角とはいえ、無人の原野ではなく、縄文・弥生時代から人びとの生活が営まれていた土地で、中世時代には相当な生産力のある素朴な文化をもつ地域でした。永禄2年の「小田原衆所領役帳」に「江戸廻目黒本村」と記されていますが、この江戸廻目黒本村とは、のちの上目黒・中目黒・下目黒の三村を指すもので、後北条氏の時代には村落が形成されていたことを物語っており、当寺境内から板碑も発見されています。
寛永7年、三代将軍家光の外護により瀧泉寺が中興され、天海大僧正によって護国院と瀧泉寺の両寺一主の令書が下されましたが、壽福寺が瀧泉寺と本末関係を結んだのはこの頃と思われます。

本堂に安置される青面金剛木造は、寛文3年鎌倉の仏師、法橋三橋靱負と弟子伝之丞によって刻されたもので、寛文6年10月建立の庚申供養が、周辺地域における庚申信仰の中心となっていた事を如実に物語っています。
門前に安置される相生地蔵や石像の多くに第五世智皎と刻され、智皎代の寺運隆昌が偲ばれます。
明治に「神仏分離令」が公布され、壽福寺も子の権現、烏森稲荷の別当職を解かれ、境内地は官有地となり宗教活動に支障をきたす状態に陥りました。
明治8年2月本堂、庫裏を焼失しますが、明治13年12月孝乗和尚によって、行人坂、明王院の念仏堂を移し本堂としました。ここから壽福寺の現代史が始まります。良勉、良雄代に大正大震災と戦災の二大災害を乗り越え、昭和50年10月本堂、庫裏・山門を良文代に新築落慶、由緒ある「念佛堂」の扁額は今も掲げられています。



写真:蛇崩川緑道

写真:バラ

写真:ユリ
予定になかった川井権兵衛さんのお墓を見て、蛇崩川が削った崖路を下り蛇崩川緑道で中目黒駅方面に戻ります。上目黒二丁目公園でストレッチをし、一回目の地区ウォークは終了です。

その後有志は気になった韓国料理おばんざいソウル小町でランチ。生ビールはエーデルピルスで、サッポロ黒ラベル一缶350円とリーズナブルなお値段。今度は夜、チジミを食べに来たいと思います。


すこやか歩こう会ではひきつづき会員を募集しています。目黒区在住以外の方も歓迎いたします。
まずは一緒に歩けるか、試しに一度参加してください。
sukoyaka[アットマーク]v08.itscom.net([アットマーク]は@へ変換してください)宛にメールをいただければ、直近の活動予定をお知らせいたします。


すこやか歩こう会活動スケジュール
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こまエコ散歩春

2017-05-29 10:35:24 | ウォーキング
毎年春と秋に行われるこまエコ散歩のお手伝いに行ってきました。


写真:駒場体育館の入り口にいる“ケルネルッジ・飛鳥”
環境についてとウォーキング運動についての講習の後、体育館を出てウォーキングの実習です。でも今回はほぼ散歩のペース。気候と花に恵まれてゆっくり自然を楽しまなければもったいない。



写真:駒場野公園バラ園とバラ
駒場には現存する中では日本最古のバラ園「駒場バラ園」があり、現在はボランティアにより運営されています。駒場バラ園が規模を縮小する際に、駒場地区の様々なところにバラが移され、ここ駒場野公園のバラ園もその一つです。


写真:チェリーセージ

写真:アジサイ

写真:ハナショウブ?

写真:ユウゲショウ

写真:シモツケ

写真:ミモザの実

写真:ホザキアジサイ
目黒川緑道は花盛りで、散歩する我々の目を楽しませてくれます。そして花だけではなく、動物も。


写真:蛇

写真:アオサギかな
普段あまり近くで目にすることの無い動物がいました。



写真:天空庭園入り口
公園の入り口とは思えないビルのエントランスを通り天空庭園へ。


写真:里山を再現した田んぼ

写真:三軒茶屋方面を望む


写真:ナデシコ

写真:九階の入り口となるマンション

写真:ミニトマト

写真:ブドウ

写真:ハマナス
天空庭園も出来た当初は「造成しました」感がありありのちょっと違和感がある空間でしたが、三年の時を過ごし少し落ち着いてきました。ブドウはワインを醸造し、収穫祭のときには試飲させてくれるそうです。美味しいかどうかはともかく、目黒のワインも試してみたいですね。



写真:目黒富士

写真:上目黒氷川神社
玉川通り大橋交番の脇から目黒富士に登ります。氷川神社の縁起と目黒富士について、Wikipediaから抜粋してみます。
当神社は天正年間(1573年~1592年)に当地の旧家加藤氏が甲斐国・上野原の産土神をこの地にむかえたものであるといわれている。その後、明治11年(1878年)に上目黒1-8にあった浅間神社を当神社に遷座、明治45年(1912年)に北野神社を合祀したものといわれている。

目黒富士
江戸時代、富士山を対象とした民間信仰が広まった。人々は富士講なる集まりを作り、富士山に登頂したほか、身近な所に富士山を模し塚(富士塚)を築き、祠を作った。目黒区内では現在の上目黒1-8付近に文化9年(1812年)に築かれたものがあり、高さは12mあった。文政2年(1819年)に現在の中目黒に新しく富士塚が築かれたことから、上目黒にある方を「元富士」と呼び、中目黒に造られた方を「新富士」と呼んだ。いずれの富士も歌川広重の「名所江戸百景」にも描かれた名所であった。元富士は1878年に取り壊され、同時に元富士のところにあった浅間神社も上目黒氷川神社内に遷座した。祠や石碑は1943年に上目黒氷川神社に移された。その後、1977年に上目黒氷川神社内に新たに目黒富士が築かれ毎年7月には山開きの例祭が行われている。



写真:駒場バラ園

写真:ペンステモン

写真:アカンサス


写真:バラ
目黒区北部ウォーキングでは欠かすことのできない駒場バラ園。隣に三階建ての住宅が新築されるということで、日当たりなどが心配です。いい関係を構築できるといいのですが。
その後東大駒場の構内へ。正門前には駒場バラ園から移設した薔薇があり、こちらもきれいに手入れをされて私たちの目を楽しませてくれます。


写真:東京大学駒場キャンパス一号館

写真:東京大学駒場キャンパス講堂

写真:東京大学駒場キャンパス構内

写真:東京大学駒場キャンパスホッケー場
東大の構内を通り、その後駒場公園に行く予定を割愛して駒場野公園に戻りました。これまではウォーキングを主体に考えてもっと急がせて歩いていたのですが、ウォーキング塾の園原先生の講習を聞いて、「景色を眺めながらの散歩でいいじゃないか」という気持ちになりました。これまで以上に目黒区北部の環境を楽しめたかもしれません。

今回参加者が少なかったのですが、いいコースだと改めて感じました。この気持ちをどのように拡散してゆくのか、これからの課題だと思います。


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平成29年度めぐろウォーキング塾

2017-05-28 16:38:01 | ウォーキング


写真:
5月26日、今年度の目黒ウォーキング塾が始まり、会場の八雲体育館へ向かう途中でアジサイが咲いていることに気づきました。昨年もウォーキング塾会場の碑文谷体育館へ向かう時にここでアジサイを撮りました。



写真:
初回はバルセロナ五輪競歩代表 園原 健弘先生による「オリンピアンから見た健康ウォーキング」という講習と実技でした。酸素を取り入れないと脂肪が燃焼しないこと。ながら歩きで活動を長続きさせることなど、楽しい講習で塾生は皆さん笑顔で実技に取り組んでいらっしゃいました。

6月2日:ReebokONEアンバサダー 鳥光 健仁先生「インターバルウォーキング」

6月16日:健康長寿医療センター副部長 青柳 幸利先生「健康長寿を実現するウォーキング術」

6月23日:日本ノルディックウォーキングマスタートレーナー 長谷川 佳文先生「ノルディックウォーキング」

6月30日:日本ノルディックウォーキングマスタートレーナー 長谷川 佳文先生「運動結果と今後のウォーキングの取り組みについて」

に加えて、一回の合同ウォークと三回の地区ウォーク、合計九回の講習・実技を約ひと月かけて行ってゆきます。

本年度の募集はすでに終了していますが、興味がある方は来年度4月に募集がある「めぐろウォーキング塾」にご応募ください。


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目黒区南西部の庚申塔めぐりコース 約8.3Km

2017-05-21 10:42:23 | ウォーキング
このコースの集合場所は、目黒駅から目黒通りの権之助坂(平均斜度2.8度・高低差10.8メートル)を下った所にある大鳥神社です。この日は、最高気温28度の予報が出されており、夏日のウォーキングとなりました。大鳥神社のお社の左奥に石塔群があります。ここでは、屋根付型青面金剛(1688年)駒形青面金剛(1704年)等4つの庚申塔を見る事ができます。又、神社の境内には、他に千代が崎にあった肥前島原藩主松平主殿守(まつだいらとのものかみ)の下屋敷にまつられひそかに信仰されていたと伝えられているキリシタン灯篭もあります。

写真:大鳥神社庚申塔

写真:キリシタン灯篭

目黒通りを下って2Kmほど歩いた先に東急バス渋谷71系統のバス停の名前になっている「清水庚申」(1854年)があります。

写真:清水庚申

さらに1Km弱を歩いた碑小学校前には、文字だけの庚申塔があります。この庚申塔は、昭和31年に再建さてたもので、旧碑は円融寺東門に建っていました。

写真:碑小学校前庚申塔

円融寺で小休止。こちらの古い釈迦堂は、室町初期の建立とされ、東京都区内最古の木造建築として知られています。絶妙なカーブを描く屋根、それを支える木材の色やひびわれに、経てきた時の長さが感じられます。
また、永禄2年(1559)の作「黒漆塗りの仁王像」は東京都の有形文化財に指定されています。

写真:釈迦堂

高木神社内、子の神庚申塔(子の神の子(ね)とは北のことで、北辰の神との事です。

写真:子ノ神庚申塔

次の目的地は、桜森稲荷庚申塔です。舟形青面金剛(1720年)は蛇が頭をぐるぐる巻いています。駒形青面金剛(1810年)

写真:桜森稲荷庚申塔 ラスカルもいる!

鉄飛坂庚申塔群は、6体納められていますがその内4体は堂内に収められていて非公開になっています。保存状態が良いとの話を聞きますが、残念ながら見る事ができません。

写真:鉄飛坂庚申

大辻の庚申塔は、昭和のはじめまで柿の木坂の畑のあぜ道にあったそうです。耕地整理などで幾度も移され63年に柿の木坂ゴルフガーデン脇に移設、平成23年マンション建設工事に伴い氷川神社拝殿裏に移設されました。波乱万丈の運命を辿った庚申塔です。氷川神社には先代(?)のご神木も祀られています。

写真:大辻にあった庚申

写真:先代のご神木なんでしょうね

本来のゴール地点は、碑文谷公園ですが、この日は気温も高く、ゴールにたどり着くと8.3Kmの長丁場になるため大辻の庚申塔を見学した氷川神社の境内をお借りしストレッチを行い、解散する事にしました。暑い日の中で長距離を歩いた参加者の皆さんは汗だくでしたが、1人の落伍者も無く全員無事にゴールする事ができました。


写真:八幡様

吉井


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箱根・小田原旅行 二日間で14Km程度

2017-05-15 18:44:32 | ウォーキング
箱根は身近な保養地で、すこやか歩こう会でも度々旅行に訪れていた場所です。今回平成23年以来六年ぶりに箱根への旅行となりました。忘れていたのですが、その年の旅行については鮮明に思い出しました。
平成23年つまり2011年3月11日に東日本大震災がありました。計画停電が行われており4月16日に予定してた八ヶ岳への旅行の確認のため原村の小松山荘に電話をしてみると、中部電力管内のため停電などはなく、地盤が固いのか地震の影響もなかったとのこと。山の幸での宴会で出た蕗味噌がとてもおいしく、旅行に参加できなかった会長が大いに悔しがっていました。
秋の旅行はこの年度限りで閉鎖が決まっていた保養所強羅目黒荘を最後に訪れるために計画された10月1日から2日の一泊二日。箱根町から芦ノ湖西岸を歩き、桃源台からロープウェイで早雲山、そこから歩いて上強羅にある保養所に泊まったのでした。二日目は歩かずに午後早い時間のロマンスカーで帰途に着いていますが、はつはなで自然薯そばでも食べて、早川のほとりでビールでも飲んでいたのでしょう。強羅目黒荘は売却後改装され「強羅花扇 円かの杜」という宿になり、一泊35,000円から60,000円の高級温泉旅館になってしまいました。敷地内に二本の源泉を持っていたのでいい保養所だったのですが、建物が古くなり貧しい目黒区には維持することが難しかったのです。

六年ぶりの今年は、芦ノ湖東岸を歩く予定だったのですが当日は大雨。三月から三回大涌谷に来ているのですが、初回は雪、二回目は大雨、今回も大雨ということでこの雨は私のせいでしょうか。




写真:箱根湯本駅
今回はクラッシックなスタイルのロマンスカーでした。今も昔も子供に人気があり、箱根旅行は乗り物すべて楽しめますね。若いころには芦ノ湖スカイラインのコーナーを攻めることが楽しかったのですが、今は何より公共交通機関。



写真:箱根登山鉄道

写真:箱根ケーブルカー
雨が降り、立っている人がいるくらい混雑している登山鉄道の窓は曇って外が見えません。エアコンが入り宮ノ下あたりで少し外が見えるようになりました。ケーブルカーも座れません。半分が外国人といった感じでしょうか。




写真:箱根ロープウェイ
メンテナンスのため運休していた早雲山・大涌谷間のロープウェイはやっと再開されましたが霧で何も見えません。桃源台へ向かってゆく方は、少しはましでしたがやはり霧の中です。こちらのロープウェイは5月22日よりひと月間メンテナンスで運休となります。休日は混んでどうしようもないかもしれませんね。







写真:海賊船
桃源台から海賊船に乗りましたが、混んでいて座れません。雨が降っているのでデッキへ行く人がいないせいもあるのでしょうが、こちらのルートの方が混んでいるようです。箱根町港で別の海賊船に乗り換え、元箱根港経由で再び桃源台へ。ビールを飲むくらいしかやることが無い。


写真:大涌谷の黒玉子
ほっかほっかの黒玉子美味しかったです。


写真:国民宿舎箱根太陽山荘
アキさんにこちらのお風呂がいいと聞き、値段も手ごろなので「一度泊まってみましょう」と今回の箱根旅行が実現しました。一般的な国民宿舎の画一的な部屋のイメージとは違い、床の間に大黒様が鎮座しているようなしっかりとした作りの旅館で、建物は登録有形文化財に指定されています。Wikipediaで紹介されていてもよさそうな感じですが、ページがないので「文化遺産オンライン」というページから引用します。
神奈川県
大正/1912-1925/1953増改築
木造2階一部3階建、瓦葺一部鉄板葺、建築面積168㎡
1棟
神奈川県足柄下郡箱根町強羅1320-375
登録年月日:20061129
登録有形文化財(建造物)
本館西に道路を挟んで建つ木造3階建。東下りの傾斜に従って床高に差があり,本館3階から別館2階への渡廊下を道路上に架ける。2階以上が客室で,3階に10畳と6畳の続き間座敷を設ける。切妻造,桟瓦葺で,南面中央に入母屋屋根を突出して変化をつける。

お湯については宿のホームページを引用しましょう。
源泉掛け流しのにごり湯。
木風呂と岩風呂、
趣の異なる風呂が疲れを癒します。

太陽山荘の湯は、大涌谷を源泉とする掛け流しの湯です。
泉質は白濁の硫酸塩泉で、腰痛・肩こり、関節痛、冷え性、皮膚病、傷などに効果があるとされています。

総檜造りの温泉棟は、穏やかな「木風呂」と、野趣豊かな「岩風呂」と、雰囲気の異なる二つのお風呂があり、晩と朝に男女を換えておくつろぎいただけます。

源泉名 : 大涌谷温泉
泉 質 : 酸性-カルシウム・マグネシウム-硫酸塩・塩化物泉
(旧泉質名 酸性-含塩化土類石膏泉)
泉 温 : 源泉 59.2℃
pH   : 2.2


入浴時間が夜十時までと早いのですが、一度お湯を抜いて新しい源泉が注がれ、新鮮この上ない温泉です。








写真:国民宿舎箱根太陽山荘
建物に趣があり、ご飯もおいしく、清潔で愛想が良く、本当にいいお宿です。すこやか歩こう会の旅行で、また利用させていただきたいと思います。



写真:強羅公園

写真:前日の雨のなごり

写真:苔

写真:ヒメジョオン
翌朝はウグイスの声で目覚め、二日酔い解消に散歩をしてきました。


写真:強羅駅近くの宿




写真:強羅駅
強羅駅まで下り、登山鉄道を待ちます。








写真:箱根登山鉄道
一番前に陣取り、スイッチバックを堪能しました。


写真:小田原駅西口の北条早雲公像
この日は「歴史と文化の香るまち散策コース 8Km」を歩きます。今回、箱根・小田原旅行を企画した一因はこの方の子孫、というより大河ドラマ真田丸で北条氏政を演じた高嶋政伸の怪演にあります。あのドラマを見て総構えの小田原に興味を持ち総構えを見てみたくなったのです。




写真:浄永寺
小田原駅西口を出て西に向かうと切通しの上り坂があり、その途中にある日蓮宗のお寺です。小田原城の北側に当たるこの辺りはお寺がたくさんありました。本堂の前のシダレザクラはその時期には見事だと思います。





写真:大久保神社
さらに西へ山を登ってゆく感じです。小田原には坂のイメージを持っていませんでしたが、結構なのぼり。せっかく登ったと思ったら大久保神社の参道まで結構な下り坂。また戻ることを考えたら、下りたくない!参道を振り返れば相模湾です。



写真:小田原高校南の忠魂碑など
大久保神社の隣というよりも、小田原高校の海側に東郷平八郎揮毫の忠魂碑と、俳句文学之碑がありました。俳句は調べたけれど誰のもので、何と書いてあるのかわかりません。


写真:牧野信一文学碑


写真:井上康文詩碑
文学碑が多くあるのですが、私にとってはあまり聞いたことが無い人たちでした。




写真:小峰の大堀切
これこそまさに小田原城総構えの痕跡で、今回楽しみにしていた場所です。説明書きを小田原市のホームページから引用しようと思ったら、あまり面白みがないので現地にあった看板を移し書きします。
 小田原北条氏時代の小田原城は、全国でも稀にみる規模の大きな縄張りを持った城郭として知られている。
 その構築法は、内城(本丸、二の丸、三の丸等)と城下町を囲んだ大外郭を設けて、城下町を戦火から保護するとともに、城外に雄大な防御線を張ろうとする構えであり、当時これを「総構」「総曲輪」と呼ばれ、また大外郭は土塁とその外堀とで作られているところから「総堀」ともいわれている。
 小田原城総曲輪は、おそらく小田原北条氏三代氏康の永禄年間頃から作り始められ、上杉謙信、武田信玄などによる再度の来攻の経験などにより次第に拡大され、五代氏直のとき、豊臣秀吉の小田原陣が始まる直前の、天正十八年(1590)早春に完成したものと思われる。
 現在ここに見られる空堀遺構は、小田原城中にある三丘陵即ち、谷津丘陵、八幡山丘陵、天神山丘陵の分岐点であり、小田原城にとって最も重要な所と思われる、この空堀、土塁は小田原城の残存遺構の中で最大のものである。



写真:相模湾のビューポイント

写真:フキ畑と竹林

写真:シャクナゲ

写真:箱根登山鉄道
城山公園から南に向かって坂を下り国道一号にぶつかります。












写真:居神神社
東海道に面したこちらの神社の境内をお借りしてお弁当をいただきました。タケノコが出ていたり、珍しいシダがあったり。紺色のきれいな鳥がいて「アオバト」かなぁと思いましたが、かえって調べてみるとアオバトではなかったようです。神社の御由緒は参拝の栞から引用します。
鎮座地 小田原市城山四丁目二十三番地二十九号
御祭神 三浦荒次郎義意公、木花咲耶姫命、火之加具土神
御由緒 創立年月等旧記焼失して詳ならず。古老の口碑に永正年間の勧請と伝えられる。陸奥守従四位下、三浦道寸義同公の息子荒次郎義意公(弾正少弼)は、当年二十一才の若武者・筋骨たくましく八十五人力といわれ、白樫の八角棒を打ち振り群がる北条軍五百余人を次々と薙倒し、獅子奮迅の働きもむなしく永正十五年(一五一八年)七月十一日、早やこれまでと自刃したが、その首級が飛んで当山の古松の枝にかかった。そして三年の間眼を開いたまま落ちなかったと言う。路往く人々これを見て気絶をなし、死に至れる者さえも出たといわれ、この事を聞いた小田原久野総世寺の忠室和尚が、「うつつとも夢とも知らぬ一眠り、浮世の隙を曙の空」と詠んで手向けたところ、首は松の枝から落ち、その時中空に声あり「今より禍いを福に転じ、永く当所の守護神となるべし」と聞こえたという。その松の下に祠を建て荒次郎公の霊を祀ったのが当神社であると伝えられている。 
当町十字二丁目、三丁目、四丁目、大窪村板橋の鎮守で、明治六年七月三十日、旧足柄県に於て村社に定められ、明治四十三年九月十日、大窪村板橋浅間神社・同村同字秋葉神社を合併する。



写真:御組長屋
鉄砲組の長屋があったようです。



写真:大久寺
大久保彦左衛門や、烏山藩大久保氏とも関連があるようです。お寺のページから引用します。
小田原藩主大久保家菩提寺 寳聚山隨心院大久寺

 天正十九年(1591年)、徳川家康の忠臣であった小田原城主大久保忠世公が建立したお寺です。忠世公は三河出身の戦国武将でしたが、秀吉の小田原征伐の後に家康が関東を任されるにあたり、遠州二俣から相州小田原へ移封せられました。その際、二俣時代に帰依していた僧の自得院日英上人を請招し、大久保家の菩提寺として大久寺を開基しました。
 その後、二代忠隣公が政治の謀略によって小田原城を改易されると、小田原大久寺の法灯は一旦途絶えてしまいます。しかし、忠世公の伯父の玄孫の大久保新八郎康任が箱根入湯の道中、大久寺が廃れていることを惜しみ、同地に再興し、今日に至るまで前期大久保家の廟墓を守り続けています。

 境内は、東海道線・箱根登山電車・ロマンスカー・新幹線などの線路に囲まれ、歴史のみならず時代の流れも感じることができます。史跡巡りやハイキング、日頃のお散歩の際などは、是非お立ち寄り下さい。また、何かお困りの際はお気軽にご相談下さい。皆様のご来山を心よりお待ちしております。




写真:小田原用水
早川から取水しており、早川上水ともいわれ日本最古の水道。



写真:西海子小路
「西海子」が変化し「サイカチ」となったそうで、その漢字が「皀」なのでしょうか。


写真:ういらう

写真:ういろうの前にある薬屋さん
歴史のある薬屋さんういろう。お菓子のういろうも売っています。その前にも趣のある薬屋さんがありました。ういろうの説明で面白そうなところをWikipediaから抜粋しておきましょう。
江戸時代には去痰をはじめとして万能薬として知られ、東海道・小田原宿名物として様々な書物やメディアに登場した。『東海道中膝栗毛』では主人公の喜多八が菓子のういろうと勘違いして薬のういろうを食べてしまうシーンがある。歌舞伎十八番の一つで、早口言葉にもなっている「外郎売」は、曾我五郎時致がういろう売りに身をやつして薬の効能を言い立てるものである。これは二代目市川團十郎が薬の世話になったお礼として創作したもので、外郎家が薬の行商をしたことは一度もない。










写真:小田原城
時間の制約があり終盤は少しルートを変更して小田原城へ向かいました。大手門から入ると趣があり、最後に天守を見ることが出来ていいルートだと思います。帰りは北へ抜けて駅にも近いので、いいですね。

今回の箱根・小田原旅行は初日雨で歩くことが出来ず残念でしたが、公共交通機関での移動も楽しめるので雨でも楽しむことが出来ました。この点は箱根ならではですね。ブラタモリも見て、箱根の魅力を再認識してまたいろいろと歩いて見たいと思います。
小田原も坂がきついけど、知れば知るほど魅力的な街です。またいつか企画してみようと思います。

この後有志は新宿の千草で反省会。美味しい日本酒をいただきながら大いに反省しました。(なにを?)


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