先日、建築関係の仕事をしている友人から、とても興味深いエピソードを聴きました。
大工さんが「自分でイチから加工した柱」と「プレカット(事前加工)され、仕上げだけ施した柱」だと、彼らの仕事に対する熱量が、明らかに違うんだって。後者を扱う際には「オレがやったんちゃうし」という意識が透けて見えるらしい。
これを聴いて、とっさに「あ、これって数秘でいう〈6〉じゃん!」と膝を打ったよ。伝統的に、6には「愛と責任」というキーワードが当てられているのだけど、その意味がストンと腑に落ちたの。
愛があるから、最後まで責任が持てるんだ。
愛がないものには、なかなか「自分ごと」として責任が持てない。無理に持とうとすると、しんどくなる。あるいは「無責任な自分」に罪悪感を感じたり、ね。
さらに6は「美」や「アート」とも関連が深い。
先の大工さんのように何かの「プロフェショナル」でなくても、その人が心を込めてしつらえるものは、きっと美しい。「料理の盛り付け」とか「洗濯物のたたみ方」とか、そんな小さなことにも美は宿るのだと思う。昨日より自分自身のことを少しでも愛おしく思えるなら、化粧水をもっと丁寧につけたいと思うかもしれない。鏡に映る自分が、より可愛く見えるヘアスタイルや笑い方を、研究したくなるかもしれない。
自分が大事に思うものだからこそ、満足がいくまで見届けたい。
そんな「愛ある責任の取り方」のためなら、わたしは喜んでエネルギーを差し出しちゃうよ。むしろ「責任が取れない(取りたくない)ものへ愛を注ぐ」なんてもうムリ。できない(笑)
振り返ってみれば、わたしが後々「あーー失敗したなあ」と思うものって、たいていこの「気の進まない注力」の結果、起きたことばかりかも。
オーラソーマだと〈6〉は上下レッドの「エナジーボトル」。キーノートが「人生に対する情熱と愛」っていうのがイイでしょ。本人の「エナジー」を「どのように注ぐべきか」を端的に示唆してくれてますよね。アファーメーションは
「私は、私のなすこと全てが、人生に愛を育てます。」
愛、というとなんだか大層に聞こえるかもしれないけど、ただシンプルに「好き」とか「夢中になれる」とか「なんだかんだ言いつつもやってしまうし、そんな自分がキライじゃないw」という感覚があればいいんじゃないのかなー
大工さんが「自分でイチから加工した柱」と「プレカット(事前加工)され、仕上げだけ施した柱」だと、彼らの仕事に対する熱量が、明らかに違うんだって。後者を扱う際には「オレがやったんちゃうし」という意識が透けて見えるらしい。
これを聴いて、とっさに「あ、これって数秘でいう〈6〉じゃん!」と膝を打ったよ。伝統的に、6には「愛と責任」というキーワードが当てられているのだけど、その意味がストンと腑に落ちたの。
愛があるから、最後まで責任が持てるんだ。
愛がないものには、なかなか「自分ごと」として責任が持てない。無理に持とうとすると、しんどくなる。あるいは「無責任な自分」に罪悪感を感じたり、ね。
さらに6は「美」や「アート」とも関連が深い。
先の大工さんのように何かの「プロフェショナル」でなくても、その人が心を込めてしつらえるものは、きっと美しい。「料理の盛り付け」とか「洗濯物のたたみ方」とか、そんな小さなことにも美は宿るのだと思う。昨日より自分自身のことを少しでも愛おしく思えるなら、化粧水をもっと丁寧につけたいと思うかもしれない。鏡に映る自分が、より可愛く見えるヘアスタイルや笑い方を、研究したくなるかもしれない。
自分が大事に思うものだからこそ、満足がいくまで見届けたい。
そんな「愛ある責任の取り方」のためなら、わたしは喜んでエネルギーを差し出しちゃうよ。むしろ「責任が取れない(取りたくない)ものへ愛を注ぐ」なんてもうムリ。できない(笑)
振り返ってみれば、わたしが後々「あーー失敗したなあ」と思うものって、たいていこの「気の進まない注力」の結果、起きたことばかりかも。
オーラソーマだと〈6〉は上下レッドの「エナジーボトル」。キーノートが「人生に対する情熱と愛」っていうのがイイでしょ。本人の「エナジー」を「どのように注ぐべきか」を端的に示唆してくれてますよね。アファーメーションは
「私は、私のなすこと全てが、人生に愛を育てます。」
愛、というとなんだか大層に聞こえるかもしれないけど、ただシンプルに「好き」とか「夢中になれる」とか「なんだかんだ言いつつもやってしまうし、そんな自分がキライじゃないw」という感覚があればいいんじゃないのかなー