うつろ舟奇談
「常陽芸文センター」が発行する『常陽芸文』の近着号(2023/2月号)に,「常陸の国うつろ舟奇談の謎」という記事が載っていて,おもしろかったので紹介する。
この話は,滝澤馬琴が『兎園小説』(文政八年・1825年)に発表して知られるようになったという。『兎園小説』は,江戸の好事家たちが集まり,奇妙な話を持ち寄って発表し合ったものをまとめたものである。
馬琴による話の梗概は次の通りである。
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享和三年・1803年3月22日の午後,常陸の国「はらやどり」という浜の沖合に舟のようなものが見えた。浦人が小舟を漕ぎ出してその舟を浜辺まで曳いてくると,直径三間・5.5m余りの丸い形状で,上半分にガラス障子の窓が三つあり,下半分は筋金で補強されていた。舟には奇妙な文字が記されていた。
舟の中には,異様な服装の女性が一人いた。眉と髪の毛は赤く,顔色は桃色で,頭髪は背中に伸びていた。
言葉は通じない。女性は約二尺・60㎝四方の箱を抱えていて,一時も離さない。
古老の話では,この女性は異国の王の娘で,結婚したが不貞を働いたために相手は罰せられ,女性は「うつろ舟」に乗せられて流された。箱の中には愛人の首が入っているに違いないので,肌身離さないのだ。
このことがお上に聞こえるといけないので,もう一度舟に戻し,沖合まで曳いて行って流してしまった。
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この話について,民俗学者の柳田邦夫は,恐らく空想によるものであろうとしているが,その後各地に続々と資料が見つかり,あながち空想によるものとは言い切れなくなっている。
例えば,2012年に確認された「日立文書」にはほぼ同様の事実経過が記され,しかも文末には享和三年3月24日と文書作成の日付が明記され,事件は同年の2月22日に起きたと書かれている。この日付を真とするならば,事件から一か月後に文書に記録されたことになる。
また,2014年に発見された「伴家文書」と呼ばれる資料には,うつろ舟の漂着場所として,「常陸原舎り濱」と記されていて,これは実在の地名であって,うつろ舟奇談を歴史に近づける証拠と,研究者たちは色めき立っているという。
わたしにはことの真偽を云々する資格はないが,海を越えて他国の空に気球を飛ばしたり,それをまたミサイルで撃ち落としたりするような話より,「常陸の国うつろ舟奇談」は,はるかに想像力を刺激するロマンのある伝説だと感じる。
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