すぷりんぐぶろぐ

桜と絵本と豆乳と

素志を持つとは

2011年06月04日 | 読書
 松下幸之助の本など読んだことがあったろうか。

 PHP誌は何度も手にしたことがあるので、その文章に触れていることは確かだが、まとまって読むのは初めてだろう。

 『リーダーになる人に知っておいてほしいこと』(松下幸之助 PHP研究所)

 確かに含蓄のある語りである。
 「松下政経塾の未公開テープ 約百時間から厳選された成功の知恵」ということだが、構成の良さもあって読みやすい。

 素志貫徹

 政経塾の五誓の一番目に挙げられるこの言葉は、シンプルだけれども考えさせられる。

 「初志貫徹」ではなく「素志貫徹」。
 「初志」と「素志」の違いは、奥深く思える。
 簡単に解釈できないかもしれないが、流れからいえば初志がある程度堅くなった姿としての素志、集中した強いイメージと細いけれど長いイメージ、単発と継続、発想と経験…そんな対比も思い浮かぶ。
 素志とは、ある程度の積み重ねや持続的な願いを感ずる言葉だ。

 語った言葉として「素志」が表されている部分はない。
 文中から拾って解釈しようとすれば、次のようになるだろうか。

 初志を貫くこと

 自分の思いというものは、その思いそのものにまちがいがなければ必ず達成できる

 行動の善なることを信じてやる


 素志を持つとは、つまり行動している姿である。

窓は閉ざしても

2011年06月03日 | 雑記帳
 学校の窓を大きく開けてみたら、
 声をかけてくれたり
 通りすがりに、にこやかにほほ笑んでくれたり
 そんな人がほんの少しずつ増えた気がしていた

 もちろん、素知らぬ顔を見せたり
 足早に過ぎ去ってしまったりする人も多い
 そして、なかにはきっと
 そんなに開けたら様々な矢が刺さってしまうではないかと
 少し苦々しい思いを抱いていた人もいたはずだ

 苦々しい思いそのものが
 実は矢になって飛び込んでくるのであれば

 それはくいとめねばならないだろう

 窓を閉ざすか
 開閉に工夫をするか
 直接、矢を振り払う手立てをとるか

 教室の窓であれば、
 子どもたちが窒息するような手立てはとられない
 職員室であっても、
 それゆえの息苦しさが大きくなったら
 それは校舎のあちこちを支配することになる

 校長室であれば…
 自分が保てるという思いがあれば

 ひとまず閉ざすことに、ためらいはない

 その窓から向こうを見つめる目を伏せるわけではない。

そうすれば、で始める六月

2011年06月01日 | 雑記帳
 結構長いように感じた一ヶ月だった。
 ゴールデンウィークさなかに弘前の桜を観に行ったあの顛末が、やはり象徴的か。
 苦労の道のりもあり、それに負けない喜びや嬉しさもありと、まあ公私ともに全体的に騒がしい月だったように思う。
 多様で複雑な思いを抱くことが多かった。指を折って数えてみても結構ある。

 できなかったのは読書。
 連休であまり波に乗れずに勢いがついていない。なんと3月に購入して読みかけの本もあるし(○先生、ごめんなさい)、横になったまま書棚で眠ってしまったような状態の本も数冊。

 そうすれば、どうする?

 と、書いていてごく自然にわき上がって来た言葉なのだが、これは秋田県独特の表現であることを、先日読んだ『秋田県民は本当に〈ええふりこぎ〉か?』(日高水穂 無明舎出版)に書いていた。
 これも五月に出会った驚きの一つである。

 この「そうすれば」の扱いの広さは、他県には見られないと書いてある。
 「~~しよう。そうすれば・・・・・」や「~~しなさい。そうすれば・・・・」といった使い方が一般的だが、私の周辺では様々な場合に、これが使われる。
 
 例えば職員室の会話で

 「今日の○○は、□□なので、できません」

 「そうすれば、○○の△△はどうなりますか?」

 などはごく普通である。違和感がまったくない。他県人にはしっくりこないだろう。

 著者は、こちらに引っ越してきた県外人は、まず「そうすれば」攻撃?にあい、強く印象づけられるだろうと言う。

 強引に言えばこの「そうすれば」は、「じゃあ」と置き換えられる。
 私たちぐらいの世代だと「そうすれば」も使うが、もっと訛って「ソウシェバ」「シェバ」「シタラヨ」といった使い方をすることが多いと思う。

 いずれにしても、この「ば」が曲者であることは想像がつく。
 これも、先日メモしておいた「場」と同じで、なかなか深いと見た。
 この後もちょっとつきあってみるか。

 そうすれば、六月に何かいいことあるかもしれない。
 
 こんな使い方もする。