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桜と絵本と豆乳と

その里に限界はあるのか

2022年09月03日 | 読書
 今年の初め頃に新潮社PR誌『波』を読んだ時、著者と川本三郎氏の対談が載っていて、ちょっと気になった小説だった。先日、書架に並んでいたので借りて、一晩のうちに読みきってしまった。奇抜な?設定が面白く社会状況にマッチしているし、環境は違うが同世代の価値観がじわりと心に沁みてくる作品だった。


『母の待つ里』(浅田次郎  新潮社)



 自分なりの作品のハイライトは、お寺にある忠魂碑にかかわる語りだ。様々な昔話をする「母」から、先人たちがどんな世の中を想ってこの土地から出発し、離れていったか、想像できる。そして、今この国にある地方の疲弊した姿が情けなく思えてくる。この構造をつくりあげた、あまりに無為無策な来し方よ…とうな垂れる。


 読了後、改めて先述の二人の対談を読み直してみて、「限界集落」という語が気になった。一般的になった「行政用語」であるが、頻度が増すほどに滅入ってくる。昨日、NHKの東北版で放送された「限界集落 住んでみた」を観たこととも関係あるだろう。取材を進める女性ディレクターに、ある一人の漁師が呟いた

「限界って何だ。ここは限界なんかじゃねえ」

 海で漁ができる、島以外からも漁仕事をしに人が来ている場面が映され、その意味を支えた。しかし漁師の呟きが示しているのは、いわば数字で括る社会への批判だ。「限界」は人の心の中で生じるもので、今は用語が先にあり、住民を、集落を縛っているイメージがする。「界」を超した所に何を見るかが肝心ではないか。


 番組では「お裾分け」がキーワードとなった。それを小説に当てはめれば、日本社会は経済のお裾分けが機能せず、現在のような状態を作り出した。「里」に多く残る自然や情感の質量も「限界」に近づきつつある。その中で個として何を残すべきか、よく吟味する日常こそ忘れてはならないと結んでいる気がした。