『斬(ざん)』

移転しました。
移転先:http://souryuusei.blog61.fc2.com/

教師は毎年、同じ授業をしているよね 2

2006年05月28日 | 想った事、感じた事
 初めて読む方は『教師は毎年、同じ授業をしているよね 1』からお読みください。

 以前オレは、『『むだづかいにっき』のリピートネタに思う。』で、リピートできるネタを90件持っていればいいんじゃないかと書いた。それをループさせて、その時の思いを付け加えてアレンジして最新記事として出せば、半永久的にやっていけるんじゃないかと。

 それで、ちょっと前まで話題になってた過去記事のお勧め記事表示の有効性の話になるんだけど、そう考えると同じ記事を繰り返し、過去記事は、過去記事として埋れさせておくのがいいのかもしれないと思った。

 受動的な人には、最新記事。能動的な人には、過去記事(検索などから)から同じ情報を得ればいい。既に過去に書いてあるので、そちらを参照とするよりも、過去記事を今の状況に書き直して、最新記事にする方が断然有効なんじゃないかと思った。静的から動的に Web サイトが変わったのだから、いつまでもそこに留めておくのではなく、常に過去記事を練り上げていき、生きた記事に再生するほうがいいのではないかと。

 ただ、問題は書く側にあって、一度書いた過去記事を練り上げる作業が、新記事を書くよりも、この上なく億劫で手間になるであろうことは言うまでも無い。

つづく

教師は毎年、同じ授業をしているよね 1

2006年05月26日 | 想った事、感じた事
 ふとした思いつき。「歴史は繰り返される」とか「話題がループしてる」なんて事をよく聞くけどさ。考えてみれば各科の教師って、ほぼ毎年毎年同じ教科書で同じ授業をするんだよね。そりゃー、毎年少しつずつ練りこまれてよくなっていくだろし、その時の空気によっても少しずつ変わってくるんだろうケドさ。ベースは変わらない。

 毎年、生徒が変わるから通用するってか、その時に教えることが決まっているからそうなるんだよね。でも、ブログとか Web 上で何かを書いたり、論じたりする場合は、一回だけ表に出ただけで、後は過去記事に埋れやすい。

 Web には、生徒と呼べる(その情報を知りたいと思ってる)人が不特定多数バラバラにいるだろう。しかし、それらがいつ見るか分らない。生徒は受動的ではなく能動的にならないと、辿り着けないのが、今の Web 環境。しかも、かなり熟練した検索をしないと、ピンポイントに欲しい情報(授業)に辿り着けない。

つづく

追記(2006.05.30)
全文表示はこちらです。

オレが更新を休止した理由 9(■結局(まとめ))

2006年04月24日 | 想った事、感じた事
 初めて読む方は『オレが更新を休止した理由 1(■三年目に向けて)』からお読みください。

■結局(まとめ)

 1~8まで書いてきましたが、結局のところ、多忙と行き詰まりなどの複合要素が原因でした。今後の方向性及び運営方法についてじっくり休んで考えようと思います(補足:この記事は2006年4月7日に書いています)。

 いろいろと、ご心配をおかけしたかもしれませんが、たぶん、この記事をご覧になっているということは、更新を再開したということでして、差しあたって閉鎖というのは、回避されたかな、と。

 これからも、まったりとやっていこうと思います。また飛ばしだしたら休止するでしょうが、温かい目で見守っていただきたく思います。

 この度は、お騒がせいたしました。これからもどうぞよろしくお願いいたします。


souryuusei

相手に伝えるということを意識しよう

2006年03月28日 | 想った事、感じた事
感度の高さ:後日乗

を読んでの触発です。

優れた人は、皆「感度が高い」ということだ。
 知人に優れた人がいる。これはオレが優れたと感じているだけで、他人がどう思っているかは知りません。

 優れた人は感度が高い。確かに。

 その知人も感度が高い。仮にその知人をTさんとしよう。

 Tさんの感度の高さは、対人能力にある。
 Tさんは営業マン。まさに対人能力がそのままビジネスに直結している。
 Tさんの営業は、全ての人に対して営業スタイルだ。社内でも社外でも、とにかくオレの知ってる限りのTさんは、常に営業スタイルを崩さない。

 その気の配り方は半端ではない。一人一人に対して全て一対一で考えて対応する。相手が何を求めているか、何に不満を持っているかなどを把握して先手を打って、その要求や不満を見出し解決していく。中途半端な数字重視で、社外ではへーこら営業スタイルだが、社内では別人格という三流営業マンではない。そして、そのTさんが凄いと思ったのは、コミュニケーションを図る時。

 相手が理解できるように、相手に合わせた会話をする

 ともすると、自分の言ってることは、全て伝わると勘違いしがちだけど、コミュニケーションにおいて、一番大事なことは、相手に自分の考えや思いがちゃんと伝わり理解してもらえることだと思う。多くの人は話を聞く場合において、相手の言ってることが例え分からなくても聞き返したりせず、分かったフリをして、その場を収めてしまいがちである。しかし、相手に伝わるように話すと相手にはそれが伝わり、相手の思いや伝えたいことを理解しようとする。

 つまりTさんには、相手が理解しようとする話し方が出来るのです。言うまでもなくTさんの営業成績は常にトップです。オレはこの能力を持っている人は感度の高い優れた人だと思います。
 
 一流の高級クラブのママやNo1ホスト、人気占い師。

 これらの人を当て嵌めてみてください。全てこの能力に長けている人たちといえるのではないでしょうか。しかも全て高給取りです。そこで、コレをブログに当て嵌めるとすると、

“相手は読者”

“伝える方法は記事”


ということになりますね。
 読者に伝わる記事を書くこと、読者の求める記事を書くこと。これを意識することが大事だと思います。ただ、これは読者に媚びるということではありません。自分が納得できる記事が即ち読者の求める記事でしょう。なぜなら、読者はあなたの記事を読みに来ているからです。

 後は、いかに読者に伝わる、読者の心を揺さぶるような記事を書けるかを考えていけばいいでしょう。

 それは『やりたい事をやりたいようにを優先する』のコメント欄で☆YAS!☆さんが仰った
コメントやTBが貰えるような文章を書いてみたいと思っています。コメントって勢いが必要な気がしているので、読み手をそういう気持ちにさせるような、思わず突き動かすような文章を書けたら……と思うのですが
 と、同じことが言えると思います。

 そして、「感度の高い人」とコミュニケーションをとっていくことも重要だと思います。そーゆー交流先をブログで見つけることも必要だと感じます。また、ブログでそーゆー気持ちで記事を書いていると、普段でも自然に相手に伝わる文章が構成できるので、それが言葉に変換されて、相手に伝わる話し方が出来るようになっていきます。

 それは少しだけ

「感度の高い人」

に近づけるのではないでしょうか?


[参考]
304 Not Modified: ブログは3人に向かって書け。
BLOG STATION:書く文章は誰のため?
webdog: 衆院選が終わって思うこと
シナトラ千代子 - ブログで語りかける相手は四人でいい。
Life is beautiful: 「書くように生きる」ことのススメ
[V]: 伝えたい人に、伝わる言葉で

[TB:感度の高さ:後日乗]

「差別」の意味を考える

2006年03月18日 | 想った事、感じた事
■副題:「さてつ」と「キャベツ」

『斬(ざん)』:「詳しくは Web で!」という差別』には、たいへん濃いリアクションをたくさん頂き、とても嬉しいです。
[参照]
はてなブックマーク - 『斬(ざん)』:「詳しくは Web で!」という差別
:fellows: - 50歳のデジタル・ディバイド
明日は明日の風が吹く - 「詳しくは Web で!」という差別 [『斬(ざん)』]
無題ドキュメント - クウちゃん見たさにパソコンを買う時代になるのかな
まなめはうす:ニュース
夜の魚は干物になりました。: テレビとネットと環境と・・・
あれとかこれとか (Lefty):なぜ「詳しくは『 Web』 で!」なのか

などなど。特にはてなブックマークでは、コメント率が非常に高い。思ってた以上の反響です。そこで、これらのご意見、感想等を含めて感じた事や、思ってる事を書きたいと思います。

まず、副題にある「さてつ」と「キャベツ」ですが、なんのこっちゃと思ってる方が多いかと思いますが、これは「差別」のイントネーションをどう捉えるかということです。

差別】goo 辞書より

(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。
(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。
・差別には、意味が3つあるようですが、この中の2つを取り上げます。

(1)=「さてつ(砂鉄)」

(2)=「キャベツ」


と同じイントネーションだと思います。ここからは表現がややこしくなりますので、

(1)を「さべつ」

(2)を「サベツ」

の意味で表記しますね。

で、『「詳しくは Web で!」という差別』での「差別」は、どっちの「差別」か?という点。
 実は記事を書いたときのタイトルでは、「差別」の部分はまだ決めていませんでした。つまり『「詳しくは Web で!」という (ほにゃらら)』とカッコ部分は適切な言葉が見当たらなかったのです。そして、あえて「差別」をインパクトを与える意味で選び、入れました。

 記事を読んで気が付いた人もいるかもしれませんが、文中には「差別」という単語は一つも出てきません。つまりは、タイトルで先入観を与えたという事です。

 それは、多くの人(オレもそうですが)にとって、「差別」と書いてあると、「サベツ」(例:人種差別など)のほうを、思い浮かべ、「さべつ」(差をつけて区別するほう)と読む人は少ないという結果ではないでしょうか。

 で、改めて、「さべつ」の方で、タイトルを読んでみてください。そのイメージで記事を読み直すと、読んだ感想が、ずいぶん違うんじゃないでしょうかね?(オレだけ?)

 と、実は、これは全て後付な考えでして、実際に記事を書いたときは「サベツ」のほうで、書いています。しかし、自分で辞書を引いて「さべつ」で読んだ時に、『この記事のタイトルの「差別」は「さべつ」の方です。』と、誤魔化そうかなって考えました。つまり、なぜそうしようかと思ったかと言うと記事文中には「サベツ」の意味で断定してないからなんですよね。表現には「サベツ」な部分もありますが。

 ということで、この記事を「さべつ」で読んでみて、まだ「サベツ」と感じますでしょうかね?って、問いかけてみたいです。

 で、「詳しくは Web で!」という、CM での表現は、数々のご意見から厳密に言えば「サベツ」では無いと、思うように今はなっています。ただ気になるのは、
ネット環境を持たない母親曰く「PCやらない人は要らないのね」
はてなブックマーク - toyaのブックマーク/ 2006年03月16日より
のコメント。理屈では「サベツ」ではなくても、そう感じる人達が実際存在して、興味を持った人達が、不満を抱いていたとしたら、それが果たして CM として、どうなのか?と言うのが引っ掛かります。感情で「疎外感」を与える事が CM として、いいのか、悪いのか。もしメーカーなら、その切り捨てられたような「疎外感」は、その後の他の商品にも、影響しないのかな?と感じたものです。今回のリアクションでも、「サベツ」かどうか微妙と感じてるコメントが見受けられます。

 オレも以前、某 CM で、その疎外感を存分に味わって、記事にも書いているのですが、未だに忘れる事は出来ず、ちょくちょく様々な場面で、書いています(あえて今回、その記事へのリンクはしませんが)。TV CM の与える影響と言うものを、もう少し考えた方がいいのではないか?と警鐘を鳴らしたいですね。

 あ、今思いついたのだけれど、記事タイトルを『「詳しくは Web で!」という疎外感』にすると、一番ぴったりしますね。でも、それだとこれほどのリアクションは望めなかったでしょう。「差別」という単語のもつ重さみたいなものを感じます。

 最後に当該記事に出てきた知り合いについてですが、40代の女性と言うことだけお伝えしておきます。

メダルの価値

2006年03月07日 | 想った事、感じた事
 あまりにも予想以上にメダルが取れなかった今回のトリノオリンピックを見ていて、ふと感じたこと。

 結果として、荒川静香さんの金メダル一個だったのだけれど、日本としては、あれが銀でも銅でも注目度はそれほど変わらなかったんじゃないかと思った。 もちろん、女子フィギュアのオリンピック金メダリストってのは、世界的に見るととんでもない価値というか権威があり、その後の可能性も凄すぎるんだけど、それはこの際置いといて。

 ねー、前回の夏季五輪の柔道女子は金メダルラッシュだったけれど、全ての人の顔と名前を覚えてますか?参考

 オレ自身、まったく覚えてない。

 これは仮定で考えるけど、もし今回のオリンピックで、日本のメダル獲得数が無名な選手の銅メダル一個だけだったとしたら、その人は銅なのに国民から名前を覚えてもらえるし、日本に帰れば、これまでのオリンピックで活躍した銅またはそれ以上のメダリスト達よりも、ちやほやされただろうことは想像にがたくない。

 この差ってなんだろうな?って思った。希少価値という価値基準。この考え方って、他にも流用できそうだな、と感じた。

 地味目なカーリングが今回やたら目立ったってのも何か関係ありそう。そーいえば、以前視たドラマだか映画だかを思い出した。内容は、何の競技でもいいからオリンピックに出たくて、近々正式種目になる無名なカーリングに目を付けてやり始めるって話。何だか視点が似てるなって感じた。断片しか覚えてないけど、あれはなんだったかなぁ?


※注意:メダルが何個とか何色がどうのと言う考えは本来好きではありません。今回の記事では、希少価値ということを分りやすく表現するため、引き合いに出しました。その辺り誤解なきようお願いします。

ネットのバーチャルは打ち上げ花火の切なさ

2006年02月17日 | 想った事、感じた事
 ネットはバーチャルという基本スタンス。それと乖離するネットはリアルなスタンスな方々。ネットには、今、二つの世界が混在している。

 ネットがバーチャルな立場な方々は、リアルでは無名な人が多い。でもネットでは、そんな無名な人が、時に世間で見れば小さいけど、個人から見たら大きなコミュニティの、ちょっとした人気者になり注目を集めることもある。それは、とても楽しく嬉しいサプライズ。たとえそれが幻想だと分っていても。否、分っているからこそ、ネットはバーチャルだと言い切れるのだろう。遊び心でちょっとした優越感を得られる場所。そんな居場所があれば、それはとても大切で貴重な場所なんだ。

 しかし、ネットにリアルを持ち込むと、そこには人気者がより人気者となるためのツールとしてネットが利用される。元々才能のある人たちが、さらに表現する場を得て、水を得た魚の如く、その才能を伸ばし有名になって、さらに人気者となっていく。

 それは、バーチャルな立場な方々にとって、居場所を無くされる危険を感じる。リアルの上下関係をそのまま持ち込まれてしまうから。そして遊び場が失われれば、また違う遊び場を探さなければならない。しかし、ここよりいい環境なんて今のところ存在しない。

 バーチャルな立場な方々にとって、ネットの繋がりは儚いモノ。そこにあるのは、その時の一瞬一瞬の刹那を共有する面白さである。たとえ、長い間交流してきた相手がいたとしても…… 

 打ち上げ花火のような、ひとときの輝きを大事に大事に、何回も何回もこれが最後となるかもしれない花火を打ち上げる。

 それは、儚くも一期一会の最大のエンターテイメントである。

 さー、明日はどんな花火を打ち上げようか!

「居合いの間」へのお返事

2006年01月17日 | 想った事、感じた事
このブログの存在価値を考えさせられた』にトラックバック頂いた『不備日報: 居合いの間』へのお返事が長くなったので、記事にします。
まずは、貴重なアドバイスありがとうございます。たいへん楽しく読ませて頂きました。

「居合いの間」の小見出しで
 要は居合いの「間」なんです。迷いがあれば次の瞬間首を刎ねられます。迷いを生じさせない、あるいは断ち切る修練が必要です。
とご教示頂いたのですが、仰ることはごもっともです。しかし、このブログ、どーゆーわけか、その迷いをネタにしてるトコロがありまして… そして、その手の記事が意外と好評を頂いております。なので、この断ち切る修練の必要性やその努力が大切なのもたいへんよく判り、実践していきたいトコロなのですが、どうしても、読者に好評頂いてる、この迷走系の記事を捨てる勇気がございせん。というか、またここでどうしようかと悩ましく迷ってしまいますよ。

 たとえば自分が書こうと思っていたことと同じ内容を他の人が書いていたとする。そうしたら、どういう変更をすれば違うものになるかを急いで考えるんです。早くしないと他の人がガンガン記事を上げて自分に許される発想の幅が狭まって行く。そういう場面になったら、決断をするんですね。今まで温めてきたものを生かすか、思い切って捨てて別のものを探すか、その判断のスピードを、どんどん上げて行くんです。コメントの返事をどうしようかとか、トラックバックしようかすまいかとかにもこの間は当てはまると思います。
以前、仰られているようなことを実践してたときもあるのですが、どうもオレには合いませんでした。もう飽和しちゃって、いっぱいいっぱい。寝る間も惜しんでブログブログですよ。そうなったら、もう依存症どころじゃない。なので、のんびりまったりモードになるよう、極力自分に言い聞かせるようにしてるんですけどね。

ブログはよほどバカなことをしない限り、間違った決断をしたからといって実生活に深刻な影響を及ぼしませんから、「間」の練習にはもってこいです。
これは、実名かどうかという問題も絡んでくるようにも思いますが、ハンドルネームだけなら、実生活への影響は少ないでしょうね。しかし、精神的なトラウマやネット恐怖症になる場合もあると思いますので、あながち軽率に考えるのもどうかと思いますよ。まぁ、過激発言さえ注意すればよいと思いますが、「斬る」となるとそうもいきませんからぁ~

 だから、自分のブログの存在価値などという、有って無いようなものを考える時間は非常にもったいないと思いました。「間」の練習をしたほうがいいです。
閣下のように、存在価値などというモノに囚われない、その境地を目指していきたいと思います。まだまだ勉強不足であります。「間」の練習は、「タイミング」と置き換えて、素敵なタイミングに記事、コメント、TBが出来るよう精進していきたい所存です。


 副題については、先述してるように、このブログは、迷走してるトコロがよかったり、自虐や斬られちゃうのもアリと考えてます。というよりも、斬られたら斬り返すってのも、出来ますので誘ってる部分もあるのです。あの副題の意図としては(って、副題の意図は今思いついた)。

幸いにして今までは、とてもいい斬られ方をどなたもされているので、斬りがい、斬り返しがいが非常にあります。


 ちゅーか、ぶっちゃけブログタイトルは当初想定した方向性とかなり違っていて、失敗してますんで、そこんとこ突っ込まれると何ともですわ!


お許しあれ!!


それと、ご提案頂いた副題は、感謝と敬意を込めて、日替わりで使わせていただきたいと思います。


あ、真に受けちゃった!

[TB:不備日報: 居合いの間]

このブログの存在価値を考えさせられた

2006年01月15日 | 想った事、感じた事
他人の不幸は蜜の味: むだづかいにっき♂批判

observation: 考えるために書いた文章と考えた結果を書いた文章

 実は、この両記事とほぼ同じような発想の記事が、草稿中の中にあります。そして、この両記事と出合ったときに同じように感じたことが、

「うわ、ネタ被った!」

では無くて、

「同じ発想じゃないか!」

でした。
 以前は、同じような発想や視点で書かれた記事を読むと、

「同じようなこと考えてる人がオレ以外にもいるんだなぁ」

と、ちょっと嬉しく思ってましたが、今回は、

「う~ん、同じこと言うブロガーがいるなら、オレ要らないんじゃない?」

と、ちょっとネガティブな考えを持ってしまいました。丁度そのころタイミングよく(?)、『趣味のWebデザイン:備忘録の緩やかな変化』の記事を読んでいて、その中で
 それはやはり、以前書いた通り、主流派には名文書きがたくさんいて、基本的に私の出る幕はない。自分がそれを読み満足して、おしまい。……ということなのですね。ブロガーが激増した結果、視界の中に「少数派としての私」の主張を代弁される方が増え、その記事を読むだけで充足してしまうのです。屋上屋を架す意欲がわかない。

 となるともはや「少数派の主張」を声高に訴える道はほとんど閉ざされ、いっそうニッチなテーマについて書く他ない。「価値観対立にどう折り合いをつけていくべきか」は備忘録の開始当初から折に触れ書いてきたテーマですが、他に書くことがなくなってきたので、相対的に目立ってきたように思う。
と述べられているのに影響を受けた面もあるのですが。

 話は少し逸れますが、はてなブックマークについても、最近同じようなことを思っています。それは、1GET などのいわゆる早押しゲームに近いブックマークについてです。有名ブロガーの記事の場合、多くの人に読まれます。その中で、この記事はイイ!!と特に感じた記事は、多くの場合、読者も同じように感じるはずです。だから、その記事のブックマーク数が膨れ上がるのは、ある程度予測できます。つまりは、それを最初にブックマークすることには、それ程の価値は見出せないのです。それは新着で早く読んだか読まないかだけでしかありません。最近、そのことが気になっていることもあり(それ以外にもいくつかあるのですが)、はてなブックマークをあまり利用していません。つまり、有名人ブロガーのブックマークの1GET についても、誰でもいいんじゃないか?と思うのです。ただ、はてなブックマークの魅力はそれだけでは決して無いのですけどね。

 それで、あまりにネガティブな発想で考えを進めるのも何だなと思い、いろいろと思考を廻らせてる中で出た、今の答えが、

「LSTY さん(他人の不幸は蜜の味)や yosiyama さん( observation )と同じような発想が出来るということは、それなりに自己評価してもいいんじゃないか?」

という事。自信とまではいかずとも、未だ彼らと同等の新たな良記事を書ける可能性があるんじゃないか?と思えたのです。

 少しだけ気持ちが楽になりました。これからもたとえ発想がダブったとしても記事を書いていこうと思った次第です。

 あ、草稿中の記事が気になる方がいるかもしれませんが、気まぐれで上げるかもしれないし、上げないかもしれません。気長にお待ちくださいね。

(追記)2006.01.17
[関連]
「居合いの間」へのお返事

オンラインでナイトね…

2006年01月11日 | 想った事、感じた事
タイトルは、いきなり IME の誤変換が、こんな結果になって面白かったので思わず採用したもの。
実際は「オンラインでないとね…」です。

最近、ネット環境から少し長い期間(といっても一週間未満なんだけど)離れる機会があり、そんな中で気が付いたこと。

どうせオンラインに繋げられないなら、PC 内のファイルやフォルダの整理。草稿中の記事の推敲、校正。さらには、じっくり編集したり、まとめたり。と、いつもは巡回やネットサーフィンしてて、纏まった時間がとれずなおざりにしてるので、こんな時こそじっくりと出来なかったことでもしようかと思っていました。他にもやろうと思えばやることはいっぱいありそうですが。

しかし、実際、その時が来ても、なぜかノらないんですよね。どうも、オンライン状態じゃないと souryuusei のスイッチが入らない。

いつも記事を書く時には、オンライン上の記事から触発されることが多く、そこから記事が生まれることが多い。そして、その場合の多くは触発された記事や関連記事をリンクする。しかし、オフラインの場合は、そのリンクする記事が直ぐに見つけられない、また読めないという気持ちがあるため、どうも記事を書いたり、草稿中の記事を推敲したりといったことが進まない。

現にこの記事は、そのオフライン中に書いているのですが、いつもなら一気に書き上げることが多いのに対して、この記事はココまで書くのに何度も休みが入っている。実際、この記事は、アップする内容に完成するんだろうか?という疑念さえある。

そして、今、新たに気乗りしない理由がまた1つ見つかった。それはオンライン辞書が使えないということ。記事を書く時に難しい漢字や意味の曖昧な単語を用いる時は、その単語を使う毎に、オンライン辞書で調べている。おもにgoo 辞書(これもリンクできないので今とてもストレスとなっている)で調べているのだが、ほんとこれが出来ないと落ち着かない。その場で疑問や問題が解決していかないと、なんとも気持ち悪いものだ。ただですら、文章の表現方法が出来ていないのに、さらに意味が曖昧な単語をそのまま用いて、あとで推敲時に再度調べる手間を考えるとイヤになる(実際、意味合いが自分の思ってたことと異なれば、文章を変えなければならない場合が出てくるからね)。あ、だんだん愚痴が増えてきた。さらに脱線しすぎだ。ちなみに脱線ついでに、今調べようと思った単語は、“疑念”についてです。

で、話を元に戻すと(ここでまたキー打ちが止まる)、これは、常にオンライン状態でいることに慣れ過ぎているせいではないかと思った。実際、オンライン中で記事を書いているときでも、検索や関連先のリンク記事を読み直したりして、記事を途中で止めることもある。オフラインでは記事を書きにくいという思い込みがいけないのだ。ここは、考え方を変えて、オフラインで書くということを、たまには取り入れるほうがいい刺激になるのではないかとポジティブに考えよう。もちろん、オンライン上の記事についての事は書きにくいが、記事はなにもオンラインにばかりあるものではない。もっと、視野を広めて視点を変えてオフラインの話題でも探せばいい。ネタはオフラインでもいっぱいあるはずだ。

しかし、慣れていないので、予想以上に記事を書くことが難しいと判った。たぶん、ネタ探しも慣れるまで大変だろう。オフライン状態でも、ストレス無く書く方法を見出して、ネタ探しも含めて、もっと取り扱う記事の幅を広けようと思った次第です。それには、まず休ネット日を設けないと駄目だろうケドね。でもそれが一番の苦痛かもしれない。
ふぅー。何とか記事、仕上がりました。ばんざい!!

新着記事を読める「幸運」

2006年01月03日 | 想った事、感じた事
有名ブログの運営者でも、ふとしたきっかけで、やめたくなる事があります。

それは、ネガティブな批判だったり、トンチンカンなコメントだったり、スパムだったり、内的、または外的要素によってもその影響を大きく受ける。
琥珀色の戯言 - WEB日記を書き続けられる幸運』のなかでも、「書き続けられる理由」として
<内的要因>

(1)自由に使えるパソコンを持っていて、ネットができる環境にあること。

(2)文章を書くという作業が好きであること、最低限、苦痛ではないこと。

(3)自分の文章を他人に読まれたいという欲求があること。

(4)多少の理不尽な誹謗中傷に耐えられること。

(5)逆に、あるていどの「無反応」に耐えられること。

(6)ネット上のコミュニケーションに「違和感」をあまり感じないこと。

(7)ネット上のコミュニケーションにばかり依存しないこと。

<外的要因>

[1]読んでいる人や他のサイトからの反応があること。

[2]アクセスの数が適正であること。

[3]悪質な誹謗中傷や荒らしの標的にならないこと。

[4]身内バレなどで、リアルにおいて困った状況にならないこと。
を上げておられ、
一番大事なのは、この<内的要因>と<外的要因>のバランスがとれている、ということなんですよね。
とあり、
サイト管理人にとって「適度なやる気と適正な反応」というのは、ものすごく微妙なバランスの上に成り立っているんですよね。長年個人サイトを観ていると、まるでボンベイの火山灰に埋もれた人々のように、「傍からみればうまくいっていたようなのに、前触れもなく突然更新が止まってしまって、そのままになってしまっているサイト」というのがたくさんあることに気付きます。閲覧者としては、「なぜ?」と、いろいろ想像するばかりなのですが、一見すると順調にみえるサイトも、実は、ものすごく微妙な内的要因と外的要因のバランスの上に立っているのでしょう。
と、サイト(ブログ)運営がいかに微妙な真理の上に成り立っているかがよくわかります。これは運営者の一人して非常に共感を覚えるものです。fujipon さんは運営者の立場で「幸運」と書かれていますが、読者の立場で考えても同じようなことが言えます。いつも観ている好きなサイト(ブログ)のファンの一人として、過去ではなく現在の更新状態を、生で知ることが出来、毎回新鮮な新着記事を読めるのは、とても「幸運」なことだと思えるのです。

・書き続けられる「幸運」



・読み続けられる「幸運」

この二つの「幸運」を常に感じていきたいなと思うのです。

今読んでるこの記事も fujipon さんが記事を更新している中で、読めたという「幸運」によって生まれたもの。もし、これが、既に閉鎖されてしまっていて、埋もれている過去記事で読む機会に恵まれなかったり、オレが今、ブログをしていなければ、ありえない記事なのです。

だから、この記事がとても「幸運」の上に成り立っている、と言うことを肝に命じて読んでくださいね。

この記事を新着で読めるということは、とてもありがたい事なんですからねっ!!


ねっ!!


(って、そんなオチかよっ!台無しっーー!!!)


[参考]
弁護士 落合洋司 (東京弁護士会) の 「日々是好日」 - ブログを続けるためには
304 Not Modified: 更新するということ



[TB:琥珀色の戯言 - WEB日記を書き続けられる幸運]

気分転換に自分の過去記事でも読んでみる

2005年12月25日 | 想った事、感じた事
何気に今、草稿中の記事を見たらカテゴリーのほとんどが、「ブログの話」でした。

あかん。こりゃー煮詰まってるわな。


ちゅーことで、気分転換。

昨年の今頃は何考えてたんだろうかと、『2004年12月』の過去記事を読み返す。そこにある『とりあえず生きてます。』を読んで、同じようなことを繰り返してるだなぁーと感慨にふけっておりましたら、この記事を書くことに繋がりました。ほんと笑えるくらい昨年の今頃と心理状態が似てるのだ。

やっぱり、何だかんだいっても、ブログってのは、自分が一番の読者であり、自分のためにやってんだなぁーと、思ったりした次第。

この記事自体も、自分のために上げるようなもの。煮詰まったら過去記事でも読んで振り返ったり、立ち止まったりしてみるのも大事だよ、ってことの備忘(来年の今頃も読んでたら笑える)。

定番記事を書くことのススメ』なんて、肩に力の入った記事を上げてしまったもんだから、自分で自分を縛り付けてたようです。

ま、「定番記事」は、目標でして、それに一歩一歩近づけていこうということで、息抜きと気合の入れた記事を、微妙にブレンドしたブログにしたほうが、運営してくのも楽だろうと。メリハリもあるほうが、面白いかもしんないからね。

と、結局最後はブログの話してるのだな。だははっ


[関連」
スローブログのすすめ

[参考」
★☆★じゅん吉ブログ!!★☆★:自分の記事を読み直そう!
FPN-ニュースコミュニティ- 自分のためにブログを書く

人類ってホントは凄く残酷だよね

2005年11月27日 | 想った事、感じた事
やっぱり、そーゆー場所も必要なのかなぁ?

ん、何がって…?

… それは、ネット社会が殺伐としてるという環境。


どうもね、何でもかんでも過保護化しつつある、日本の現代社会。

イチゴ狩りを通して子どもに何を教えるか』とか『おれはおまえのパパじゃない - 動物殺し』とか『「で、みちアキはどうするの?」:■「死んだら終わり」と考えない人たち 』とか、生物の生き死にを考えさせられた時、人間ってのは、やっぱり残酷に出来てる上に成り立ってるよな、って思った。ってか生き物そのものがなんだろうケドさ。

動物の食物連鎖ってな事はよく言われてる話だけど、その中に人間が入ってるのって、何か他人事ってか入ってないような感覚ってないかな?

で、そんな中で何か隠して、どこか知らないフリして生きてる事があるし、イチゴ狩りを通して子どもに何を教えるかにリンクされてたについてのこともなんだけど、実際場って見たこと無いし、何処にあるかも知らないんだよね。

これってオレが無知なだけなのかな?牛や豚や鶏がトラックに乗って運ばれていく風景はよく見ているけど、その先にある場ってのは、イメージとしてあるだけで、何処か現実に無いような錯覚をしてる。そう知らないフリをしてる。やっぱり残酷な場所って事で、そうそう話題にはしないし。そーゆー現実はあるんだけど、見るのは勇気が入るからね。想像してたよりも衝撃が強すぎて、深刻な場合もあるだろうから、覚悟のある、または意識した上でその場所に行くなり、その光景を見るなりしなければいけない。だから普段では気付かないよう、配慮されているのかな、と思ったりしたわけ。

「残酷だから、避ける」ってのは正解でもあるし、逃げでもあるようにも思える。

とかく今の日本は、残酷なシーンについては規制が厳しいと思う。オレの周りにも昔、飼ってた鶏を親が絞めて、その光景を見てから鶏は食べられなくなった、って人がいるくらいだから、全ての人に見せるのはどうかと思うけど。
その上で人間が生きてるって現実はもっと知っておくベキだと思う。

先日実写版でドラマ化してた「火垂るの墓」を見てて思ったんだけど、「戦争」ってのは、誰が考えてもバカなことなんだよ。どれでだけ偉くなろうが、小学生だろうが「戦争」は良くないなんて事は分かってること。でもやめられない止まらないのが「戦争」なわけで、それは人類がおバカだって証明してるに、人類はバカじゃないと思い込んでるってか知らないフリしてるわけで。

それで、結局戦争とかの極悪環境に人間が追い込まれて、食うものも住むトコも着る物にも不自由になれば、四の五の言ってられない。本性剥き出しで、自分と自分の家族を守る為には何でもするよってのが「火垂るの墓」で伝えたい「戦争」ってことの残酷さや人類の愚かさ残忍さでしょ。それは、環境が人類を動物化させたって事で、そんな環境は人間が人間じゃなくなるから良くないゾって事だろう。

でもね、逆をいえば、いつ「戦争」以外でも、そーいったことが起きるか、わかんないんだよね。津波や地震などの自然災害でもそーなることはあるわけで、その場合、それが地球規模で起きちゃえば、震災地に救援なんてことは言ってられないわけですよ。そん時はやっぱ人間本性でちゃうんだろうから、常日頃からそーいった本性が体験できる場所ってのは必要なんじゃないかと思えたんですよ。

で、一皮向けば人間って単なる動物に過ぎないんだよね。なんか特別な生き物みたいな錯覚してるけど、人類を滅ぼそうとする何かが出てきたら、それは敵なわけで、それは自己防衛でもあるわけで、その場合は、その相手を殺さないようにとか、傷付けないとか、悠長なこといってるヤツなんていないわけで、そうなったら生き物殺しちゃいけないなんて事は成り立たないよな。全力で排除、撲滅は生きるためにはまさに必死な優先事項なわけで。

でも、人類は種の絶滅ができる立場にいるわけで(そのなかに人類自身も入ってるわけだが)、その上で偉そうに種の絶滅から守ろうとかいったり、エゴから滅ぼしちゃったりしてるんだよね。

「弱肉強食」って言葉は凄く残酷だけど真理な四字熟語だよなって改めて思った次第。

で、かなーり話が遠回りしたんだけど、今の日本においてこーゆー「臭いモノには蓋」的なぬるい生活環境にあって、ネットってのはある意味、自然環境なんだなって思える。


無知なヤツがアホな事すると叩かれて晒されたり、炎上したり。


世の中(特に日本の場合)知らなさ過ぎて平和馴れし過ぎてるから、こーいった危機管理ってか危険予知ってのが、疎かになってるんだよね。


何だか、そーゆー誰も教えないで、気が付かない(知らない)ヤツが悪いっていうネットの環境は、頭でっかちで防衛本能を忘れた日本の人々にとっては、イイ薬になるような気がしてきた。多くの「祭り」における炎上ってのは、祭られたほうに「祭られる」それなりの原因がある場合が多いわけで、その「祭り」が盛大なら盛大なほど、「祭られる」本人に問題があることが多いでしょう。

ネット社会ってのは、人類の本能を目覚めさせ、本性を自覚させる環境として必要なのかもしれないと思った。そして、いつ何が起こるかわからない、この不安定な文化社会にとっては、人類を動物としての本性を体験できる貴重な場所にも思えてきた。仮名でやりさえすれば、その体験は自然社会の厳しさを教えてくれるでしょう。実名でやっちゃった人は、現実体験しちゃったって事で、今後の有事に適応能力が磨けるでしょう。現実は、一歩足場踏み違えると地獄があるんだよって事を教えてくれるわけで。その細くて脆い足場を歩いていくスリルってのもあるような気もするし。


物事の道理ってヤツをズバッとストレートに体験で教えてくれるネット社会もあっていいんじゃないかな?

って、ちと言い過ぎかもな。

[参考]
otsuneの日記 - はてなブックマークコメントで嫌な思いをしている人たちは、ネタとして「仲間内でお互いに罵詈雑言を浴びせるハートマン先任軍曹遊び」をしていないのだろうか


[TB:備忘録2005年11月04日:イチゴ狩りを通して子どもに何を教えるか]
[TB:おれはおまえのパパじゃない - 動物殺し] *TB先無かった
[TB:「で、みちアキはどうするの?」:■「死んだら終わり」と考えない人たち]

はてブのクリップ基準がどんどん厳しくなっていくぞ!

2005年11月16日 | 想った事、感じた事
まーたまた、はてなブックマークのことなんですがー

クリップの基準ってみなさんどうしてるんでしょうかね?

オレの場合は、気になったモノ、特に自分の記事に使えそうなものとか、ネタとして面白いモノ、あと資料的にまとまったモノだったり、リアクションしたくなるモノなんですが、余り深く考えてクリップはしてないんです。

だから、タグを付けるのにちと迷う事も度々で、今安易にタグを増やしすぎて、どーしようかと思っているのですが。はてはて。

で、今日何げに気が付いた、ちょっと困った問題を発見。

それは、各ブロガーに対する記事のクリップ基準が違うというもの。いわば期待値みたいなモノが自然と出来上がってしまっている事に気が付いた!!

既に交流先にも数多くのブックマークを獲得しているブロガーが多く見受けられるのですが、そういったブロガーには、段々クリップする基準が上がっていく事に気が付いたのですよ。

これは、ちょっと問題。つまりは、今まで以上、または同等の記事レベルを無意識のうちに要求してるってことで、こうなるとなかなかクリップできなくなる。普通ならクリップする記事だけど、

「このブロガーの記事としては、ちとレベルがなぁ~、今回は見送り」

といった状況が起きてるんですよ、オレの中で既に!!

やばいよ、やばいよ!

どんどん、厳しい基準が作られてくよ。
しかも、はてブの裾野が広がって、多くの良記事が増えてきているから、目が肥えてきて、なかなか昔のように気軽にクリップしなくなっちゃってますよ。

そんなことって無いですか?

オレだけならいいのですが、今後も温かい目でクリップしていこうと、あまり期待値に対する基準を上げないように心がけようと思いました。


できれば、オレの記事も同様に考えて甘~い基準でやさしい気持ちでクリップしてくださいね。お願いします。

追記(2005.12.13)
[参考]
はてなブックマーク - 『斬(ざん)』:はてブのクリップ基準がどんどん厳しくなっていくぞ!
追記(2006.06.03)
[参考]
明日は明日の風が吹く - はてブのクリップ基準がどんどん厳しくなっていくぞ! [『斬(ざん)』]
こんな世界のはしっこで・・・ :[ピックアップ]はてブのクリップ基準がどんどん厳しくなっていくぞ!

更新休止報告は必要か? 2(完結)

2005年10月19日 | 想った事、感じた事
前回の『更新休止報告は必要か?』では、疑問をそのままぶちまけた形になってしまいましたが、貴重なコメントを頂き、それがヒントとなって、何となく自分なりの答えが見つかりましたので、その事について書きたいと思います。


結論から先に書きますと


更新休止報告は必要ではないが、重要


です。では更新休止報告の必要、不必要の分かれ目となるポイントについて考えてみました。

【1】実名運営or仮名運営
【2】読者からの視点で考える
【3】運営者からの視点で考える


の、3つが浮かびました。


【1】実名運営or仮名運営*1

 * 実名運営の場合
  ・リアルと繋がっている
  ・交流先もリアル
  ・関係者が見ている場合がある
  などにより、更新休止を知らせる事は本人の状況を知らせることに繋がりますので、必要性が高いと思います。故にアリです。

 * 仮名運営の場合
  ・必要な場合と必要ではない場合がある

では、仮名運営において必要な場合と必要ではない場合についてですが、まず読者からの視点で考えます。


【2】読者からの視点

◆仮名運営での必要、不必要とは?
 
 定期更新or不定期更新

 * 定期更新の場合
  ・必要な場合と不必要な場合がある

 *不定期更新の場合
  ・不必要
   理由:不安にならない

では、

◆定期更新での必要、不必要とは?

 単一or汎用

 * 単一の場合(単一とはこの場合、オリジナリティ、独創性など)
  ・小説、漫画などのストーリ性のある創作物サイト
  ・個人の日記サイト
  ・運営者にパーソナリティがあるサイト
   などで、必要がアル

 * 汎用の場合
  ・多くの人が同じような似たサイトを運営しているサイト
  例)個人ニュースサイト、各ジャンルを重視したサイトなど、単一で上げたサイト以外はほぼこちら側です。

以上が、簡略化した項目です。

では、詳しい説明です。
読者から見て、定期更新(この場合、毎日や一日おきなどのほか、2~3日とか、1、2週間に一回でも可と考えます)でその周期が崩れた場合は、違和感を感じるはずです。しかし、その中でも汎用の場合は、そのサイトが休止したとしても、代わりとなるサイトが存在する為、閲覧者からすれば、更新休止報告は、あっても無くてもそれほど気にはならないでしょう。なので必ず要るということで言えば不必要という事になります。

しかし、汎用サイトであっても、運営者自体がコンテンツ化している場合は、必要性があると考えます。この事については、運営者からの視点で後述します。

単一の小説、創作物の場合で定期的なもの(わかり易く言えば週刊漫画などを思い浮かべるとよい)は、続きが読みたくなりますので、更新が途絶えると不満に感じます。また単発物でも、主人公が同じものなどはストーリー性があると考えますので、これも含みます。また個人の日記についても、運営者=主人公となりますので、更新休止は日記の主人公(運営者)にとって重大事であり、当然記すべき内容ですので、更新休止報告が無く休止されれば、読者は不安になるでしょう。だからこれらの場合は、必要となります。

以上が読者からの視点での必要性です。


【3】運営者からの視点

■運営者の報告したい理由
 1 読者に対する説明
 2 自分を納得させるため


の2つだと思います。では

1 読者に対する説明
 これは、サイト運営者として更新周期が崩れる事により読者を不安にさせないために予め報告する運営者の読者に対する心配りですね。

2 自分を納得させるため
 これは、更新を休止させる理由を書く事により運営者自身が踏ん切りを付けるためと、更新休止により読者が減ってしまう不安から更新再開後には訪れてくださいね、という運営者自身の期待と不安があると思います。


さらに詳しく

1は、読者との交流を重視し、休止してごめんなさい、再開後もよろしくという読者へのメッセージなのですが、実は多くの場合、1の必要性があるサイトというのは読者からすると、パーソナリティのある運営者以外は必要がありません。まなめさんが『更新休止報告は必要か?』のコメント仰られた
中の人に興味を持っているかも一考の余地あり。
が、これに当たります。

しかし、多くの場合、運営者自身に興味を持っていることは少ないです。運営者の書かれる内容に感心や興味が強いとしても、仮名運営で運営者の実像が見えない場合、更新休止によって不安、心配になるということは余程その運営者に興味が無ければありえないでしょう。もちろん、特例的にそのサイトが大好きで大好きでしょうがない読者がいるケースはあると思いますが。

こんな事を書くとsouryuuseiは薄情者だと思われるかもしれませんが、オレが尊敬していて、交流もさせていただいている、某個人ニュースサイター兼ブロガーさんが、たとえ更新休止宣言をしないで、ほぼ毎日更新している個人ニュースサイトをいきなり報告無しに休止したとしても、1~2週間なら、何かがあったのかな?くらいでしょう。どうしちゃったんだろう、なんかあったのかなぁ?と、親身になるほど心配などしないでしょう(ネット上では、これ位の距離感のほうが良いと考えてます。逆に感情移入のしすぎは、仮名同士の場合どうかと思います。)

たしかに、おかしいな、どうしたのかな?と気にはなります。そしてその休止の間は、主要なお気に入りの巡回先が減ってちと不便になったと感じるでしょうが、某個人ニュースサイトが更新されなくても、他のニュースサイトや情報収集先がありますので、とても困るということはありません。そして、再開後に「これこれこーゆー理由でした。」と書かれていれば、「あ、そうだったんだ」で済んでしまうでしょう。裏を返せば、先に更新休止報告する事は、読者に好印象を持たれようとする、運営者のサイト運営テクニックの1つと言えるでしょう。つまりそれは読者の為ではなく運営者のためなのですよ。

多くの仮名ブログの場合はコレが当てはまるのではないでしょうか。もちろんオフ会などで、すでにリアル交流があれば別ですよ。それはもう実名の場合と変わらないですからね。

と、かなり、厳しい事を書いていますが、それが現状じゃないでしょうか?

そして、2なのですが、運営者としては、心配してくれる読者がいて欲しいという願望が含まれているのです。自分は更新休止報告が必要なパーソナリティのある運営者であって欲しいという願望が更新休止報告記事を書かせるのです。なので、この自意識過剰が重要なのです。いるのかいないのか分からない(実際多くの場合は後者)心配してくれる読者がいる事を期待(信じて)して、運営者は更新休止記事を書く事で休止でき、再開のためのモチベーションを維持しようとするのです。


【結論】

だから、(仮名サイト)運営者にとって自分自身と(仮想心配してくれる)読者のために

更新休止報告は必要ではないが、重要

なのです。

ちなみに、このブログが暫く更新もぜず音信不通でしたが、心配した人っていますか?たぶん、気にされた人はいたかと思いますが、心配までする人は…… だと思います。


*1… この場合の「仮名」は、匿名・仮名・実名論についての悪魔の辞典(ポイント整理) [絵文録ことのは]2005/05/30にある「仮名」の定義とします。