美島奏城  豊饒の海へ

豊饒の海をめざす、教育と文芸と風流に関する備忘録

日乘  『おらが春』・熊楠忌・露風忌他

2006年12月29日 | 俳人

 

平成18年12月29日

 

 知人の義母様のお通夜に参列。合掌。

 
 1819年(文政2年),小林一茶の句集『おらが春』が成立した。
 俳句をかじったことのある方なら,誰しもが芭蕉・蕪村・一茶の江戸三大俳諧師を知っていて,その作風の違いもなんとなく知っている。特に生涯に2万句を詠んだ一茶の俳風は他の2人とかなり違うなぁ,と感じているはずである。(ちなみに芭蕉は約1千句,蕪村は約3千句)
 一茶の人生と,彼が接した師系の違いによるものである。彼の俳風を真の田舎体とでも呼べばいいのではと考える。

  

『おらが春』から

目出度さもちう位也おらが春

椋鳥と人に呼ばるる寒さかな

露の世は露の世ながらさりながら

麦秋や子を負ながらいわし売り

蚤のあと数へながら添乳かな

這へ笑へ二つになるぞけさからは

故郷は蠅まで人を刺しにけり

蟻の道雲の峰よりつ  きけん

雀の子そこのけそこのけ御馬が通る

我と来て遊べや親のない雀

蟻の道雲の峰よりつづきけん

悠然として山を見る蛙かな

秋風やむしりたがりし赤い花

ともかくもあなた任せのとしの暮

トップ画像は一茶の自画自賛の一部。

 

 

今日は気になる有名人の命日でもある。 

 

南方熊楠
(植物学者・民俗学者)1941年行年74

南方熊楠

 

 まさに異色・異能・異才の学者である。そして,その人生をして伝説の人である。
 
大正6年,自宅の柿の木から新属新種となる粘菌を発見し,イギリスのグリエルマ・リスターによって記載された。学名,ミナカテラ・ロンギフェラ(Minakatella longifera・「ミナカタの長い糸」の意) 。日本ではミナカタホコリとの和名がつけられている。

 昭和4年,昭和天皇が神島に行幸された際,熊楠は粘菌などに関する進講を行った。このとき,キャラメル箱に入れた粘菌の標本を天皇に進献したエピソードはよく知られるところである。

 没後の昭和37年,昭和天皇は海上の神島を眺めつつ「雨にけふる 神島を見て紀伊の国生みし南方熊楠を思ふ」と熊楠を偲ぶ歌を詠んでいる。

 むずかしい題材だがコミックにもなっている。水木しげるの『猫楠』,内田春菊の『クマグスのミナカテラ』,私の記憶に違いがなければ,魚戸おさむの『家栽の人』にも熊楠をモデルにした植物学者が何度か登場している。小説では神坂次郎の『縛られた巨人』(新潮文庫)は読んだ。

 

     

  縛られた巨人 南方熊楠の生涯

 

三木露風

 (詩人『赤とんぼ』) 1964年行年75

 
       露風                『赤とんぼ』碑(龍野市)

 兵庫県揖西郡龍野町(現龍野市)に生まれる。本名・三木 操。

 20歳で代表作の「廃園」を出版し,早熟の天才と認められた。29歳ころから赤い鳥運動に参加し童謡を手掛ける。32歳で,有名な「赤とんぼ」の詩がある「眞珠島」を出版。その作詩中,「赤とんぼとまっているよ竿の先」は中学時代(高等小学校)の俳句からとったという。
 白秋と併称され「白露時代」と呼ばれた。
 童謡『赤とんぼ』本当にいい歌で,私は『ふるさと』と並んで好きな歌である。


山田耕筰
  (作曲家・指揮者『からたちの花』『赤とんぼ』)
    1956年文化勲章   1965年・行年79
 

     Yamada, Kosaku
音楽教室によくあるのが左の肖像,右は当然若い頃

 露風の『赤とんぼ』に曲をつけたのが山田耕作,この命日のシンクロには因縁を感じる。
 本当にいい曲をつけてくれた。

 

石川淳  昭和62年行年88 
 (小説家・昭和11年下期芥川賞 『普賢』『至福千年』)

石川淳

 戦前・戦後の文学界で自己を見失うことなくまっすぐ生きたという印象。昭和42年(1967年),支那(中国)の文化大革命に際して,川端康成・三島由紀夫・安部公房らとともに共同声明を発表し,強く批判した。先見の明があった行動だった。


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