飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

世界各地に散在するアスカについての伝承をまとめたYou Tube番組へのコメント

2021-05-20 21:59:07 | 日本論と宗教論
氷河期氷期は中緯度以北が現在の高緯度地帯と同じように冷帯で、人が住める場所にはなっていませんでした。そして赤道地帯は、現在のような常夏ではなく常春で、海水面が現在のそれより100メートルも低くなっていました。結果、人が文明を築ける地域は当時は高原地帯となっていたアフリカの赤道地帯から北に下り当時は平原地帯となっていた現在の地中海域と、海抜の低い平原地帯になっていたスンダ陸棚を中心としてインドから東南アジア、東アジア、列島、列島から当時は細長い陸地帯になっていた南東諸島まで続く地域に絞られていました。後者の文明がムー文明で、その圧倒的に活発な活動の地球全土に至る影響がインドではレムリア、地中海世界ではヘラクレイトスの柱の彼方の海中にあるアトランティスという名前によって記憶されたのでしょう。

今回はこの後者の文明とアスカの密接な関連性をあなたの番組から教えて貰ったことになります。

因みにアスカは、ゾロアスター教とペルシャ語では白黒斑の鳥=斑鳩のことも表しているそうですよ。また、白黒斑はあのフリーメーソンでも重要なシンボルとして扱われていますよね。

最後に、これは余談ですが、ヘラクレイトスとはギリシア語でヘラがくれた子でヘラ-クレ-スとそのまま日本語に変換できる不思議な言葉になっています。

日本が東洋の島国以上の、地球規模の何かと根源で結びついた文化圏であることがここでも仄かに見えてきます。

邪馬台国に関する渡邉説の紹介You Tube番組へのコメント

2021-05-20 16:43:15 | 邪馬臺国
私も渡辺氏とは独立に、渡辺説と同じような説をインターネット上で発表しています。理念としての女王国の位置の規定と実際の女王国の位置の規定の区別が必須という考え方です。

ただし、皇帝の威光の及ぶ範囲を二層に分け、第二層の果てに近い位置に邪馬台国を観念的に持ってきたという主張と、敵国呉を牽制するために呉の東側に位置させる必要があったという主張は端的に間違いだと思います。

前者においては第二層において第一層の極限である帯方郡までの方位と帯方郡から邪馬台国までの方位が大きくずれているので、都からの直線距離は5000里+12000里とならず、実際は5000里+12000×cosθと短くなることが理由として挙げられます。また、いくら体面があっても実際と違う情報を記載したら実用にならず困ることから、このような類の書物でそのような虚偽は記載しないはずということも挙げられます。

ところで、魏志倭人伝の里程記事では確かに「帯方郡から邪馬壹国までの距離は東南に12000余里」と書いてあります。九州説はこの記述を見て、「帯方郡から邪馬壹国までの直線距離を当時の人が出せるはずがない。従ってこの数字は総計によって出したものに違いない」と、こんなふうに考えたようです(「消去法を真理判定の決定的な基準と誤認するな」の原則に反す)。しかし、当時の中原王朝の官吏には、帯方郡から邪馬壹国までの直線距離を比較的容易に割り出す手段があったのです。中原内の凡ゆる位置関係の、詳細な地図に依拠した正確なデータ群と、北極星の角度測定を基礎にした普遍的で正確な緯度測定法です。当該2地点の緯度と大まかな方角さえ分かれば、中原内の既存のデータの中から類似のデータを取り出して、その対比から大まかな直線距離を割り出すことができたのです。魏志倭人伝のかの記述「帯方郡から邪馬壹国までの距離は東南に12000余里」は間違いなく直線距離の大まかな推定値です。しかも、かなり実態値に近い。従って、魏志倭人伝の地理観の中で邪馬壹国は決して九州国内になかったことが確認できます。概数の足し算は番組の解説によると渡辺氏もやっているようですが、これは学問としては絶対にやってはいけないことです。

また、後者に関しては、紀元前1300年頃と特定できる論衡の記述から、紀元前数千年の歴史を持ち、江南とも密接な関係を構築していたことが明らかな大国倭国の歴史と、呉の孫権が、琉球や奄美大島、南九州と、船で侵攻させた軍団が大敗して戻ってきたので、激怒したという三国志の記述などから、呉は伝統的に西南諸島の邪馬台国のことは熟知していたと断定できることが、それを間違いと判断すべき理由として挙げることができます。呉は、公孫燕の隣国高句麗にも大船で出向き、高句麗から馬を何百頭も輸送したと三国志に書いてるくらいの海洋大国だったのです。

そもそも、呉の牽制を実質的に行うのに実は女王国の位置はそれほど重要ではありません。何故なら、邪馬台国の大陸からの玄関口であり、邪馬台国の大陸向けの顔であり、邪馬台国の中で最も先進的な地域であり、更には大陸に軍隊を送る際の軍隊の必然的な集結地になるのは九州であって、その情報さえ正確であれば、実用にそぐわないということはまったくないからです。不弥国以降の行程が里数表記ではなく日数表記となっていることや、本来なら直接投馬國まで水行したらいいはずの魏使が大陸に最も近い末羅に一旦上陸し、九州の中心地を視察するような動きをし、不弥国以降は実際には足を運んでいないような書き方で終わっているのも、上記の理由で説明が付きます。

魏志倭人伝では、女王国の位置に関して、行程記事では近畿とも奄美大島とも取れるような曖昧な書き方になり、総括記事と風俗記事、江南との歴史的な関わりの紹介記事では奄美大島にあるかのような書き方になっています。つまり、あえて曖昧にしているし、曖昧にできる歴史的な背景もあるのです。その理由としては、九州の位置さえはっきりすれば実用に支障が出ることはないから女王国の位置に詳細は必要ないという消極的な理由に加えて、ある重大な衝撃的な理由を挙げることができますが、その説明は別の機会に回したいと思います。