飛鷹満随想録

哲学者、宗教者、教育者であり、社会改革者たらんとする者です。横レス自由。

カントの超越論的弁証論

2021-05-09 06:04:06 | 日本論と宗教論
カントによる超越論的弁証論。

ここでは、矛盾するふたつの説の両方を上げて、どちらも間違えていることを論証する訳ですが、注意しないといけないのは、このどちらも間違えていると言っていることです。この三次元の世界が全てという考え方も間違いだと言っているのです。どちらも設定された立場からの仮の表現だと言っている。これは単なる不可知論ではありません。この世しか語れないと言っているのではないのです。そうではなく、どちらも違うと論じている主体は、そう語ることでいかなる語りも受け入れないあるものを語り得ているということなのです。これが超越論的ということです。超越論的 transcendental とは超越的なもの a transcendent との関わりをのみ表現し、超越的なものの直接的な表現を否定することです。超越的なものの直接的な表現を否定することでいかなる表現も不可能な超越的なものとその否定する主体との関わりを表現し、そうすることで超越的なものの真正の表現を得るという意味です。従ってカントは唯物論者ではありません。

そもそも、宇宙の創造や宇宙を作るという日本語は誤訳です。本来は生むと訳されなければならなかった。宇宙を生むとは宇宙として顕現するの意味です。create されたものは create したものの本質を受け継がない限り、create されたものとは決して表現できません。人間の行為としては生殖と芸術活動以外に create と表現されません。子供も芸術作品ももう一人の自分という側面を持つものです。

宇宙すなわち時間空間として顕現したものは時間空間の至るところに存在者として顕現する、いかなる存在者とも異なる、或るものとは決して表現できない、Seinとしか表現できないもののことです。英語では Be としか表現できないドイツ語ですが、英語は Be という表現を受け入れないので、結局はドイツ語で Zein と言う以外に方法がないのです。日本語の存在は或る意味この Zein と一致していると言えます。

これは実は nothing とも表現できません。nothing とは not ...... anything の意味でいかなるものでもないということの表現です。これを名詞と勘違いして無や空などと翻訳すると、本当は間違いになります。仏典のサンスクリット語から漢語への翻訳の際にも同じ間違いが起こったに違いありません。

I am what is. ならぬ I am who am. とそれ自身によって表現されれば、その限りにおいて、この世のいかなるものでもないがこの世のいかなるものの根底にも内蔵しているそれ自体のことが比較的よく表現されています。いかなる物象でもないという意味で人間の精神に似ていることの表現にもなっているからです。

因みに、ヤハウェとはこのありてあるもののと言語的に同じこと言われていますが、私は違うと思います。ヤハウェとはヤーべー即ちベーという名前のヤー、カナンの言葉ではベーという名前のエル即ちベーエル、バールのことだと思います。ありてあるものとは本来は関係ないものに違いありません。