「『八咫烏』という名前の漢波羅(かんばら=カッバーラ)の秘密組織が、1世紀のエルサレム陥落後2~5世紀の400年間に渡って中央アジアや華北、半島を経由し、中東から列島まで密かに移動した後、下鴨神社の隠された奥の奥に日本国建国当初から現在に至るまでずっと潜伏している。陰陽道も中東からこのようにして伝わった秘術であった。この組織は、3人の「大鴉」からなる「裏天皇」を中心としてその周囲に9人、さらにまたその周囲に70人、合計82人の構成員からなる組織だが、聖書でもペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人を中心とする12使徒と、それを取り囲む70人、合計82人のイエスの弟子達の組織として、この全く同じ組織のことが記録されている。イエスを重大な結節点とした太古からの聖なる秘教の流れを直接受け継いだ、極めて根源的な霊性を帯びた秘教組織なのである。日本建国時にこの列島で「国仕掛け」を行い、天皇をその表に据えつつその後もずっと天皇と共に、この日本国の霊的な礎を守り続けて来たのである」。このような説があります。飛鳥昭雄という研究者が唱えた説です。私は何年か前に彼の著作を通してこれを知り、大いに信憑性を感じました(因みに飛鳥昭雄氏は「秦氏」所縁の文化財が全て百済様式ではなく新羅様式となっている点を踏まえて、秦氏百済渡来伝承を、秦氏自身による情報操作の結果と断定していますが、「秦氏」と呼ばれているからと言って全てが単一の氏族なのではなく、新羅系秦氏を初めとするいくつかの氏族の合流の結果出来上がった複合的な特殊巨大氏族という考え方を採用している事情から、私は、この点については飛鳥氏に同意せず、伝承を真実としてそのまま採用しています)。
その一方で、そんな彼らを中核としているはずの日本の隠れた支配層について、次のような主張も聞こえてきます。「(彼らによる)『日本国民』への、私利私欲に駆られ悪意の籠った無残な仕打ちの数々が事実として確認できる。明治以降の日本での欧米系悪魔崇拝秘教組織による暗躍が最近盛んに喧伝される中、その陰に日本古来の、ある意味でその欧米系のものにも全く劣らぬ悪魔性を持った悪魔崇拝秘教組織の、必ずしも明治以降にのみ限定されない非道の数々が日本と日本人を不幸に陥れてきたということが、事実として厳然と確認できるのだ。この事実やその組織のルーツの謎にもきちんと目を向けるべきなのだ」。
このような主張を聞くと私はいつもその主張に、上の飛鳥説と同じくらいの信憑性を感じるのです。「下鴨神社が安土桃山時代に、火薬の入手に拘るあまり何万人もの日本人女性を、ヨーロッパ人の性奴隷としてイエズス会に売り渡していた」という未確認情報もあり、何とか確認しようと気を張っている最中でもあります。
秦氏を巡る二つの非常に意味合いの異なった、しかし同じように信憑性のある情報。これは紛れもない矛盾です。ここに至って私は、この矛盾をどう考えたらいいかという問題に直面することになりました。その際に瞬間的に閃いたのは、この矛盾を見かけ上の矛盾と捉え、この見かけ上の矛盾を解消してくれる隠れた構造体を探る必要がある。そうすることで飛鳥説をより精密かつ包括的に発展させる機会にもなるという展望でした。
例えばこれは、「よくない」教師に出会った時に学生が取らなくてはならない態度と共通していると言っていいかもしれません。こんな時多くは、陰でその教師への批判を撒き散らしながら、かと言ってその教師の元から立ち去ることもできずに、気持ちを鬱屈させ続けるようです。あるいは諦めて、その授業時間を何の感情も込めずに遣り過すようです。
しかしながら実際は、その教師に対するそのような評価が真実と確認できる以上は直ぐに、そこから静かに立ち去って他の教師を探しさえすればいいはずです。反対にそうでない場合には、教師に対するそのようなマイナス評価が自分の主観から出たものに過ぎないかもしれないという可能性をもちゃんと考慮に入れつつ、まず自分が、どこからも非難されないような最高の学生でいるよう心掛けなければなりません。そうすることで、何らかの理由で現象としての「無能」の背後に隠れているその教師本来の能力も、いつしか発揮されるようになるかもしれないわけです。このような学生としてのあるべき最高の態度を十分に続けても結局その教師の能力が発現して来ないということになったりしたら、それこそ無駄ではないかなどと考える向きがあるかとは思いますが、実際はそういうことにはなりません。その時は、一旦は現象と見なしていた教師の無能も実は、その教師の本質そのものでしかなかったのだと考えればいいからです。隠していた無能が自ずから露呈することで、その教師の側が、教師としての虚飾を自ら剥ぎ取られてその本来の相応しい場所に戻されるだけなのです。こちらには存在のどのレベルにおいても傷が付くことがありません。ましてや私の経験上、どんなに「酷い」教師も、学生の側が今述べたような積極的な態度を示す際には、不思議なことに、教師としての能力を生き生きと発揮し始めることが多いようです。教師の良し悪しは、大抵は、学生の良し悪しによるということのようなのです。
日本の古来からの隠された支配層を巡る上記のような矛盾に対してもこれと同じ手法でしか対処できないというのが、私の基本スタンスです。なぜなら、日本を創ったのは彼らであり、我々はまさにそこから生まれてきたのですから。彼らと我々では存在の次元が大きく異なっています。彼らに対する批判は、私たちひとりひとりが神と直接結ばれた存在であるという、私も形而上学的な真実として敬っている信念からすると、たとえどれだけ厳しくなったとしても悪くはないとは思いますが、同時に、上記のような正しい自己認識を弁えて慎重に行うのでなければ結局は、自分の存在基盤を毀損してしまい、取り返しのつかない悲惨な事態を招く可能性が高いと考えるのです。
まずは我々ひとりひとりが真っ当な日本国民となった後で、隠れた裏社会の本質が自ずから悪魔性として現れてくるのか、それとも神聖性として現れてくるのか、泰然自若として眺めるというのも、取るべき方策のひとつと言っていいのではないかと考えます。
今後暫くはこのスタンスの下、『「三人の天皇」を検証する』を初めとする一連の著作を行っていくつもりでいます。
その一方で、そんな彼らを中核としているはずの日本の隠れた支配層について、次のような主張も聞こえてきます。「(彼らによる)『日本国民』への、私利私欲に駆られ悪意の籠った無残な仕打ちの数々が事実として確認できる。明治以降の日本での欧米系悪魔崇拝秘教組織による暗躍が最近盛んに喧伝される中、その陰に日本古来の、ある意味でその欧米系のものにも全く劣らぬ悪魔性を持った悪魔崇拝秘教組織の、必ずしも明治以降にのみ限定されない非道の数々が日本と日本人を不幸に陥れてきたということが、事実として厳然と確認できるのだ。この事実やその組織のルーツの謎にもきちんと目を向けるべきなのだ」。
このような主張を聞くと私はいつもその主張に、上の飛鳥説と同じくらいの信憑性を感じるのです。「下鴨神社が安土桃山時代に、火薬の入手に拘るあまり何万人もの日本人女性を、ヨーロッパ人の性奴隷としてイエズス会に売り渡していた」という未確認情報もあり、何とか確認しようと気を張っている最中でもあります。
秦氏を巡る二つの非常に意味合いの異なった、しかし同じように信憑性のある情報。これは紛れもない矛盾です。ここに至って私は、この矛盾をどう考えたらいいかという問題に直面することになりました。その際に瞬間的に閃いたのは、この矛盾を見かけ上の矛盾と捉え、この見かけ上の矛盾を解消してくれる隠れた構造体を探る必要がある。そうすることで飛鳥説をより精密かつ包括的に発展させる機会にもなるという展望でした。
例えばこれは、「よくない」教師に出会った時に学生が取らなくてはならない態度と共通していると言っていいかもしれません。こんな時多くは、陰でその教師への批判を撒き散らしながら、かと言ってその教師の元から立ち去ることもできずに、気持ちを鬱屈させ続けるようです。あるいは諦めて、その授業時間を何の感情も込めずに遣り過すようです。
しかしながら実際は、その教師に対するそのような評価が真実と確認できる以上は直ぐに、そこから静かに立ち去って他の教師を探しさえすればいいはずです。反対にそうでない場合には、教師に対するそのようなマイナス評価が自分の主観から出たものに過ぎないかもしれないという可能性をもちゃんと考慮に入れつつ、まず自分が、どこからも非難されないような最高の学生でいるよう心掛けなければなりません。そうすることで、何らかの理由で現象としての「無能」の背後に隠れているその教師本来の能力も、いつしか発揮されるようになるかもしれないわけです。このような学生としてのあるべき最高の態度を十分に続けても結局その教師の能力が発現して来ないということになったりしたら、それこそ無駄ではないかなどと考える向きがあるかとは思いますが、実際はそういうことにはなりません。その時は、一旦は現象と見なしていた教師の無能も実は、その教師の本質そのものでしかなかったのだと考えればいいからです。隠していた無能が自ずから露呈することで、その教師の側が、教師としての虚飾を自ら剥ぎ取られてその本来の相応しい場所に戻されるだけなのです。こちらには存在のどのレベルにおいても傷が付くことがありません。ましてや私の経験上、どんなに「酷い」教師も、学生の側が今述べたような積極的な態度を示す際には、不思議なことに、教師としての能力を生き生きと発揮し始めることが多いようです。教師の良し悪しは、大抵は、学生の良し悪しによるということのようなのです。
日本の古来からの隠された支配層を巡る上記のような矛盾に対してもこれと同じ手法でしか対処できないというのが、私の基本スタンスです。なぜなら、日本を創ったのは彼らであり、我々はまさにそこから生まれてきたのですから。彼らと我々では存在の次元が大きく異なっています。彼らに対する批判は、私たちひとりひとりが神と直接結ばれた存在であるという、私も形而上学的な真実として敬っている信念からすると、たとえどれだけ厳しくなったとしても悪くはないとは思いますが、同時に、上記のような正しい自己認識を弁えて慎重に行うのでなければ結局は、自分の存在基盤を毀損してしまい、取り返しのつかない悲惨な事態を招く可能性が高いと考えるのです。
まずは我々ひとりひとりが真っ当な日本国民となった後で、隠れた裏社会の本質が自ずから悪魔性として現れてくるのか、それとも神聖性として現れてくるのか、泰然自若として眺めるというのも、取るべき方策のひとつと言っていいのではないかと考えます。
今後暫くはこのスタンスの下、『「三人の天皇」を検証する』を初めとする一連の著作を行っていくつもりでいます。