songbookの自己回顧録

「教えて!goo」で見つめてきた自分自身と、そこで伝えられなかったことを中心につづってきましたが、最近は自由なブログです

いじめはあったのか?その2

2010-04-30 02:19:45 | マスコミ関係
①いじめの質、レベルに関する疑問

いじめによる自殺、または自殺寸前に至った事件の多くで、私たちはそのいじめの実態に戦慄することがよくあります。
執拗な嫌がらせの上、担任の先生まで巻き込んでの葬式ごっこまでしてしまう事例、5000万円までの金を恐喝し続けた事例、
死にたいと本人が言っているのに、ズボンを下ろさせるなど強要し、死亡後も、せいせいしたと言っている事例など。

今回述べる岐阜県の事例。今までの報道によれば、いじめはあったと考えられる、が、その質において、若干疑問が感じられました。
上にあげるような例ぐらいひどかったのか?ひどかったのかもしれないが、あまり報じられていない。
相当しつこかったのかも知れません。でも今までの報道では、自殺という選択肢を選ぶ以前にできそうなことがいくらでもありそうな状況に感じられました。
何にせよ、そのあたりの事実関係が、あまりにもあいまいです。

いや、そうではない。傍目にはそれほどひどく見えなくとも、本人にとってはキャパいっぱいだったのでは、とも言われます。
しかし、これが、暴言覚悟で、いじめた者100%責任説にのっとってしまえば、たとえば一度無視して、無視された子が自殺してしまったら、
その子が一生かかって償っていかなければならないのか。

バカの壁を作ってはいけません。

加害者の行為は、本当に万死に値することをしたのか。今までの報道を見る限り、どうにもあいまいなのです。

また、一部報道では、この4人の子が葬儀の際、雑談で笑いあったり、文句を言っていたり、「ハッピーバースデー」などとふざけたことを
行っていて、言語道断である、との情報が流れています。

もしも加害者側に、その当時、現実が受け入れられなかったとしたら。で、やはり状況に即した態度が学べていない子であったとしたら。
「自分たちに何がしてあげられるか」「誕生日をこんな形で迎えてしまった彼女のために、してあげられることは何か」
などと姑息なことを考えて、結果的に最低のひんしゅくを買ってしまうような行為をしてしまった、とも、私には考えられます。
九州の事例のように、「この子がいなくなってせいせいした」というたぐいの反応とは、全く質を異にすると思えます。かといって反省に向かっているのかと言えば、
自分たちがしたことの重大性について、「本当に人の命を奪うまでのことだったのか」という疑問が自分の中で納得できない限り、
反省に心が向かうことはありません。

「そうだ。君は、そこまでのひどいことをしたのだ。」
と、断言できるようなことだったのかどうか?

事件から数年たち、ようやく今、客観的に検証されようとしていると思うのです。
被害者及び関係者の皆さんの怒りがおさまらないことは、言うまでもありませんが、一つの事件として冷静に見直した時、
なるほど、加害者は万死に値することをしたのだと納得できる客観的事実が、曖昧であったことが、私のイライラを募らせていたと思うのです。

もっと言えば、「そのいじめレベルは、人の命を奪うレベルのことなのか。いじめはいけないが、今までのステレオタイプで、ゼロか100しかないようなとらえ方はどうなのか。
」もっと真剣に、私たちはその点について討論しないといけないのではないでしょうか。
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