魔法の弾丸

自己に対する選択毒性

物語を希求しているのか

2011-10-16 09:07:20 | Weblog
読書の感想です。
昨日は実験を早く切り上げて、ゆっくり時間をかけて読書しました。


富治よ、おめえな、ほんとうに獣ば憐れむ気持ちがあるならよ、鉄砲だろうと槍だろうと小長柄だろうとな、最初の一撃で仕留めてやらねばわがんね。余計に苦しませではだめだ。それが獣に対する礼儀というもんだべしゃ。

邂逅の森/森谷達也


直木賞・山本周五郎賞のダブル受賞作品。

なかなか読み応えがあるしっかりとした構成とマタギに関する詳細なリサーチでした。
山の神様と人間の情欲、マタギと鉱山、猟と人間関係、どれもが上手い具合にコントラストを描いた。マタギだけでは飽きてしまうし、人間関係だけでは緊張感が欠如してしまう。



最初のページを開いた瞬間から、東北の凍てつく山における寒マタギに連れさられた。
個人的には楽しめたけれど、心に残るかとどうかは疑問だった。

原因としては、登場人物の個々のストーリーはよく描かれているけれども、マタギを取り巻く環境の変化、歴史的な大きな流れの中におけるマタギの存在意義などがやや薄味だったように感じます。

この作品を外国語に翻訳しても、興味深く読む外国人がどれだけいるのだろうか。




やはり僕は文学作品の基準として


翻訳可能であるか?

その作品のメッセージが異国の読者にも届くのか?


で読書を楽しんでいるように思います。


今の日本人は物語を希求しているのだと思います。
この作品は、主人公の一代記としては語るだけの内容がある濃い人生の物語だと思います。

しかしながら、マタギという過去の歴史となりつつあるものの中に、現在の物語を見出すことは困難ではないだろうか。過去を振り返ることで、世界の人間における普遍的な物語を再構築することは可能かもしれないが、困難なことであると思う。


今、求められているのは全く新しい物語であるはずだ。
先日なくなったスティーブ・ジョブズのような、マイケル・ジャクソンのような。





「どうして私が『ぼく』ではなく、『私』という一人称を採用しているのか」

日本辺境論/内田樹


日本人による日本の考察論。
この手の本を読むといつも同じ印象を抱く。

結局、「日本語という言語の特殊性」という結論に収束する

ということです。

日本語と翻訳との圧倒的な非対称性の存在を日本人はそろそろ知るべきだし、
日常生活において実感すべきです。

モッタイナイという短いフレーズではなく、しっかりとした論理構成を有する日本語による日本の思考を世界に発する時期はいつなのだろうか。

日本人は、自分たちだけのオリジナルを創り上げる生みの苦しみを経験すべきだと思うのです。
(僕が参加しているサイエンスというもの自体が、西欧の思考方法そのものではあるが…)




哲学はなにを否定しているのでしょうか。やはり、自然に生きたり、考えたりすることを否定しているのだと思います。ですから、日本に哲学がなかったらといって恥じる必要はないのです。むしろ日本人のものの考え方の方がずっと自然だったということになりそうです。

反哲学入門/木田元


まだ読み終わっていないのですが、とても楽しめる内容です。
哲学は欧米人だけの思考方法であるという筆者の意見には、激しく同意します。

哲学者とは不自然なほど言葉に執着しているという人種である。

というのが印象的です。



読書も映画も飽きてきたのです。
作品について、語り合いたいのです。