魔法の弾丸

自己に対する選択毒性

最後だから

2013-06-30 22:01:52 | Weblog

この世界は、自分の力ではどうにもならないことが大半だけど、何かが変わる、変えれると信じて努力をしてみたいから。


同じように考えていたのが、嬉しかった。
思いっきり振り回して欲しい。



きっと純粋に他者を想うのは、これが最後かな…



今は、いつかは醒める夢の終わりをよく考えます。


読むことを諦めてはいけないのです。

2013-06-28 09:46:02 | Weblog
 だから、どんな場合も、「読む」は「書く」に先行している、とぼくは考える。
その最初の「読む」を包み込むように、「書く」がやって来る。もちろん、やがて、ぼくたちは、「読む」と「書く」を激しく往還することになるだろう。
 やがて、最初の「読む」の周りに、少しずつ、「書く」の伽藍が築き上げられてゆくだろう。そのことによって、最初の「読む」は、見えなくなってゆくだろう。だが、起点は、確かに存在していたのである。


 どんな「読み」をしようと「読者」は自由だ。そして、正しい「読み」などというものがないことも、自明のことだ。それらを認めた上で、なお、ぼくは「読む」ことによって前進したい、と考える。「読む」ことは、特別なことだ、と考えたい。「読む」ことは、人を、遠くに連れてゆくことができる、と考えたい。
 その時、「読む」ことと「書く」ことにちがいはないのだ。「読む」ことを欠いて「書く」ことはないし、その逆に、「書く」ことなしに、「読む」こともない。
 このことが、正確に伝わればいいとぼくは思う。

さよなら、ニッポン/高橋源一郎




前作 ニッポンの小説からの続きです。面白かった。若干、まとまりのないように感じるが、前作を読んでいれば、著者の意見は問題なく理解できると思います。




僕は、読む力が全てであると信じているのです。

研究においても、仕事においても、人生においても。


世間やマスコミの意見に流されてはいけないのです。


自分が読書を通じて、自分自身で辿った思考こそ、人間であることの証明であると思います。


これと同時に、適切な本を選ぶ能力も人間として大切なことであると思います。


いつだって、読書は僕に光を与えてくれる。


ゆれる

2013-06-28 00:58:57 | Weblog
人生において、無駄なことは何一つない

と言ってくれた親友。


やらなくて後悔するなら、やってみないと

と言ってくれた義兄。


それでも、僕はまだやれるという思いと、ここで諦めて別の道を選択することの間で
ゆれているのです。



中途半端では生きている意味を感じられないから。


走ること

2013-06-22 20:05:23 | Weblog

人生は基本的に不公平なものである。それは間違いのないところだ。しかしたとえ不公平な場所になあっても、そこにあるある種の「公平さ」を希求することは可能であると思う。それには時間と手間がかかるかもしれない。あるいは、時間と手間をかけただけ無駄だったね、ということになるかもしれない。そのような「公平さ」に、あえて希求するだけの価値があるかどうかを決めるのは、もちろん個人の裁量である。

走ることについて語るときに僕の語ること/村上春樹



先月からランニングを始めました。

理由はとてもtrashyなことなのですが、結構気に入って習慣になりつつあります。


まだ5kmぐらいしか体力が持たないのですが、始めたときよりは随分と走れるようになったと思います。


もう少し痩せて、長く走れるようになるといいな。