手をにぎれば、そこに他者がいる。すくなくとも私のものではない皮膚のすべらかさが、体温が感じられる。そこで他者が息づいている。けっして私ではなく、しかし、私に近しいものが、そこにあらわれている。―そうではあるけれど、たとえばどれほどつよくにぎりしめても、私のもとめるもの、他者の存在そのものに到達することがない。他者はそこにいるようで、そこにはいない。現われているなかで身をしりぞけ、顕れているようでかくされている。現前することが不在のひとつの形式であるかのように、である。
それでもなお私は他者の存在に「追いつこう」として、あるいは「遅れ」を取りもどそうとして、いよいよつよくその手をにぎりしめるかもしれない。だが、どれほど力をこめても、つねにそれではない。あるいはそれだけではない。他性そのものはつねに私の手をすり抜けて、無限に後退し、過ぎ去っていってしまうことだろう。他者はつねにとらえきることのできない余剰でありつづけ、私の<手にあまる>ものでありつづける。私の手をすり抜けていってしまうもの、私がいつまでも「遅れ」を取りかえせず、現前のうちに痕跡しか見いだせない存在のしかたのうちに、紛れもなく、他者があらわれている。他者がまさに<他者>であることが顕れているのである。
差異と隔たり/熊野純彦
長い引用となってしまいました。
どの言葉一つとして省略することができない明晰な論理が、ここにはあります。
僕はあなたを理解したくて、手をつよく握る。
その度にあなたの体温に触れ、あなたという他者を痛切に感じ、途方にくれます。
でも、諦めてその手を離してしまえば、そう感じることさえもできない…
限りなく近くて、果てしなく遠くても。