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sky is blue

言わなければよかったのに日記

言葉のおもさ

2005-04-17 17:27:50 | AYU
昔の記事を読み返してみると、今よりまだ勢いがあるなぁと思う。最近は、勢いというか何というか、そういうのがないなぁ。更新を怠りがちだとか、内容が過去のものだとか、そういうところに理由はないのは分かりきっている。

自分自身だったか 周りだったか それともただの
時計だったかな 壊れそうになってたものは

ってのは、あゆの「TO BE」って曲の歌詞だけど、以前私は、あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた。って、本当に失礼極まりない奴だな私は(笑)。もちろん、多少オーバーに言ってますよ。それに、好きになったからこそ言えてるわけで。ま、今じゃ、ごめんなさいってところなんですけど(笑)。

言われなくても分かってる。教科書にでも書いてありそうな言葉。私は、<夢は叶えるもの 人は信じ合うもの 愛はすばらしいもの>ってのに対して、<もういいって もういいって>と歌うシロップに共感していたつもりだったし、そんなシロップだからこそ信じられるような気がしていた。そういう場所と浜崎あゆみって対極にあると思っていた。

でも、思ってたより私は単純だったようだ。そして、複雑でもあったのだ。そんな彼女の歌に反応してしまった。別に、詞を良いと思ったわけではないけど、彼女の歌を構成する要素として詞は確かにあるわけだし、私が何か(特に音楽)を好きになるときは大抵そうであるように、彼女のこの部分に惹かれたとかそういう部分的な惹かれ方ではなく、総合的な惹かれ方をしたわけだから、切り離せるものではない。そして、驚くことに、シロップも<愛しかないとか思っちゃうヤバい>とか歌いだした。「愛とか希望とか歌いだしたらお終いだと思っていたけど、歌いだしましたねぇ」というようなことを五十嵐くんは言っていた。

どんな言葉でも、言葉それ自体に、薄っぺらいも重たいもないんだよね。どんな言葉だって、重くも軽くもなる。そして私は、重い言葉が聴きたいわけでも、軽い言葉が聴きたいわけでもなかったんだ。飾りとしての言葉なら、重かったりも軽かったりもするんだろう。でも、言葉が飾りじゃなくなったとき、それは重くも軽くもなくなって、それこそ「歌」になるのかも知れない。

言われなくても分かってると感じたのは、それを私が言ったり言われたりする必要がなかったからかも知れない。今、私がそれを必要としてるのかどうかはよく分からないが、どうであれ、あゆは、彼女自身がそのとき言ったり言われたりする必要がある言葉を歌っているんだと思い知らされた。何を歌っているかとかそれがどこからきたかとかより大事なのはそこなんじゃないかと思った。

シロップだって、あゆだって、そんなに変わらないのかも知れない。ただ、夢とか愛とか、誰かに決められるのではなくて、自分の手で見つけたいってだけで。そうじゃなきゃ、リアルになんて感じられないってだけで。それに、好きになる前は知ってる気になってただけ&イメージに惑わされて分からなかったけど、あゆもシロップ的なこと(?)歌ってるんだよねぇ。そういう、自分の手でっていう、自分の手でなんとかリアルを掴もうとしているってところは、シロップもあゆも共通してると、私は思っちゃうんだけどねぇ。そんなの私だけかも知れないけど(苦笑)。

それと、教科書にでも書いてありそうな言葉で勝負しているあゆは凄いなと思うよ。逃げ場ないもん。あんな歌詞、下手に歌ってしまえば薄っぺらくなっちゃうからね。だから、飾りに逃げちゃう人だっていると思うし、その逃げが飾りを超えてアートになる人だっていると思うし、それはそれで良いと思う。けど、あゆはそういうのとは違うよね(今のところ)。すっごい不器用な人だと思うんだけど。で、そういう言葉で勝負してるにも関わらず、あの説得力。だって、好きか嫌いか、共感できるかできないかは別として、誰も踏み込めないもん! 歌っているあゆには、誰も近づけませ~ん! ステージ上のフレディ・マーキュリーに、バッターボックスのイチローに、誰一人触れられないようにね! でもそれって孤独と背中合わせなのかもね。世界の中心で、愛をさけぶってこういうこと?(笑)

でも大丈夫。ファンがそんな孤独な場所からすぐに引きずり下ろしてあげるから!(笑) だから何度だって、その孤独な場所に戻っていけるのかもよ? 『ヴェスパタイン』のころのビョークに、アラーキーこと荒木経惟が「(彼女は)天女のように死に向かって飛んで行こうとしてる。だから俺が足を掴んでひきずりおろしてやるよ。掴む時にスカートの中は覗くけどな(笑)」なんていうとっても素敵なことを言ってたけどね。ま、それと同じかどうかは分からないけど。あゆも、一時期の世界の中心ぶり(苦笑)は脱したと思うし。一時期は、自分の状況とか分からなくなって、右も左も上の下も真っ白な壁に囲まれているような感覚に陥ったそうだから…。

あゆが表現してたのって、(結果的にだけど)究極の癒しかも知れないなぁ。だから、聴く人によってはウサン臭くも思えるのかも。でも、癒しなんてウサン臭さと表裏一体のものだろうしね。音楽からして、ウサン臭さと表裏一体だしね。ま、このごろのあゆは、またちょっと違うんだけどね。そこは脱したというか…。

ああ、ダメだ~。また長くなってしまう~。いつまでたっても終わらない~。今回の話もうまくまとめられない~。しかも、どんどん恥ずかしい内容になっていってる気がする~。

というわけで次回へ続く! って続くんかい!

*** P.S. ***

「TO BE」であゆは、こうも歌っている。

決してキレイな人間(マル)にはなれないけれどね いびつに輝くよ

あ~、「魂のかたち」でも「凄く大人な部分と凄く子供な部分が同居してたりとか、そういう両極端な(いびつな)感じが好きなのかも知れない」って書いたけど、やっぱりいびつな人に弱いのね~私。うーん。でも「TO BE」、良い曲だわぁ。99年の曲。


ZOO

2005-04-13 23:13:57 | 映画
そんなこんなで『ZOO』、観てきました。

なんかドキドキした。5つの物語なんだけど、すべてに共通して思ったのは、生の隣には死が、死の隣には生が、常にあること。最後の「ZOO」では、生と死の境い目もよく分からなくなってたけど、何かが生まれたときには何かが死に、何かが死んだときには何かが生まれている。生のあるところに死あり、死のあるところに生あり。そんな死と隣り合わせの生、生と隣り合わせの死が伝わってきたから、ドキドキしたのかも知れない。

注目の子役って、神木隆之介くんのことなのね(「SO-far そ・ふぁー」出演)。なるほど。でも、「SEVEN ROOMS」に出てた須賀健太くんも良かったよ。子役かぁ。自分が子供のころを考えると、演技なんてできたかなぁ?

エンディングに流れたバックホーンの「奇跡」は、曲だけですごく好きだし、力を持っている曲だと思うから、映画に合ってたかどうかとかは私には判断できないところがあるんだけど、良かったんではないだろうか。

バックホーンと言えば、松田晋二(ドラム)が、「キズナソング」の企画で、『リスナーとのキズナ』というお題でコメントしていて、それがなんか良かった。リスナーとのキズナといっても、一人一人の顔は見えないし、どんな人が自分達の音楽を聴いてるかは日々疑問に思うことで、リスナーとのキズナというのは分かりそうで分からないと。でも、リスナーがいることで自分達の音楽が成立していることは事実で、だから、バックホーンを作っているのは自分達だけじゃなくリスナーの皆でもあると。そして、目に見えない関係だからこそ素晴らしいものもあると思う、と言っていた。

好きなアーティストとか、知り合いでもなんでもないけど、友達とか家族とか、目に見える関係とは違う繋がりってあると思う。会ったこともないのに、友達や家族以上のキズナを感じてしまうときだってあると思う。目に見えないからこそ、より深い部分で繋がれるってこともあるのだと思う。それが逆に、目に見えることで、見えなくなってしまうこともあるのだと思う。目に見えないからこそ、見えることもあるんだと思う。

「知らない方が幸せなこともある」ってよく言うけれど、それは、「知らないことで知れることもある」ってことなのかも。例えば、すごく単純な例だけど、着ぐるみを着てる人がいて、子供はそれを本物と信じてる。でも、大人は人間が着ていると知っていてそうとしか見れない。どっちが真実を見ているのかな。その前に、真実はどこにあるのかな。真実って、一つきりなのかな。必ずしも事実=真実ってわけじゃないし。でも、大人になればなるほど、「知らないでいること」は難しくなってくるわけで。それでも、「知らなかったときに知っていたこと」を守ることはできると思う。何も知らないでいたいとは思わないし、むしろ知りたい。でも、知っていることがすべてとも思いたくない。目に見えることを見た上で、目に見えないことも見ていたい。目に見えることと目に見えないこと。その両方を見るのは、とても力の要ることなんだろう。心の眼を持てってことですかね。

松田晋二はこうも続けていた。「目に見えないキズナだからこそ音楽が必要なんだな、きっと」。ううーん、やっぱり、音楽って最高!

そう言えば、『青いブリンク』を見終えた。やっぱ、良かったぁ。物語の結末というかオチ(グロス皇帝の正体)も良い。最後、「全部、夢だったの?」と言ったカケルに、お父さんが「どうかな。でも、夢を見る前と後とで、カケルが少しでも成長していたのなら、それは夢じゃないんじゃないかな」みたく答えていた(台詞うろ覚え)。

目に見えないキズナでも、自分の中に何かがあるならば、それは夢でも幻でもないんだと、そう思う。いや、たとえそれが夢でも幻でも、良いんだよ。目に見えることだって、いつかは消えてしまうのだろう。目に見えることより目に見えないことの方がよっぽど信じられるときだってある。きっと、答えがどこにもないのは、それが自分の中にあるからなんだ。

って、私は何を言ってるんだろう(笑)。「ZOO」ってタイトルなのに、半分以上『ZOO』の話じゃないし。


ヘッドフォンチルドレン

2005-04-12 12:35:41 | 音楽
私がどうして乙一に興味を持ったかというと、最近、ザ・バックホーンというバンドが好きでよく聴いていて、そのバックホーンの「奇跡」という曲が『ZOO』という映画の主題歌になっていると知り興味を持ち、その『ZOO』の原作者が乙一だったのです。

バックホーン、良いです。最近『ヘッドフォンチルドレン』というアルバムが出たのですが、今年初めて“新品で”買ったアルバムかな(多分)。やっぱ、私はこういう、クドい(笑)のが好きなんだなと改めて思いました。日本人が好きそうな、ワビサビっていうか、歌謡ちっくっていうか、感極まる感じっていうか、そういう歌心があって、私は好きだなぁ。やっぱ、演歌なんだよ。日本人の根底に流れてるのは、ソウルじゃなくて演歌の血なんだよ!(要はダサいの大好き!ってこと?笑) ま、そんなことはどうでも良くって、バックホーン、私は好きです。バンドの音は単純にカッコ良いし。私の場合、この“ダサさとカッコ良さのブレンド具合”が決め手なのかも知れない。バックホーン、ギターもドラムもベースも、印象的で象徴的で、カッコ良い。だから、まぁ、『VINTAGE 2004』でも書いたように「うるさいバンド」ってことなんだろうけど、そこでも書いたように「全員ヴォーカルみたい」で、なんか楽器も歌ってるんだよね。結局私はこういう“歌もの”に弱いんだろうな。

このバックホーン、SSTVのイベントやエレカシとの対バン、前述の『VINTAGE 2004』などで観る機会はあったんだけど、そのときも良いなとは思ったんだけど、そこまではハマらず。確か、オダギリジョー主演の映画『アカルイミライ』を観たら、主題歌がバックホーンの「未来」でジーンと来て。で、アルバム『イキルサイノウ』を聴いたら、良いじゃん良いじゃんと。それからしばらく経ったのかな? 最近のシングル群、『夢の花』→『コバルトブルー』→『キズナソング』にどれもググッと来て。で、ファースト『人間プログラム』とかも聴いてみたら、これまた良くてガツンと来てしまったというわけです。アートワークも良いんだよね。

で、最新作『ヘッドフォンチルドレン』を買ったわけですが、菅波栄純(ギター)の書く詞が良いんだよなぁ。汚いこと書いていながら、実はすごくロマンティストな感じが。ベタだけど、そのベタが良いんだよ。「キズナソング」なんてもう…。「キズナソング」の<誰もがみんな幸せなら歌なんて生まれないさ>とか、「ヘッドフォンチルドレン」の<ヘッドフォンの中になんて救いはないよ そんなことはわかってるよ>とか、音楽が抱える矛盾、音楽を鳴らす人が抱える矛盾、音楽を聴く人が抱える矛盾……、そういったもろもろの矛盾を抱えた表現っていうか、その矛盾が音楽になっているというか。ヘッドフォンを取り外すための音楽、この音楽を必要としなくなったときにこそ、その音楽の本当の役割が果たされるみたいな、そういう生まれたときから矛盾している音楽。それはでも、私達の姿によく似ていて…。

バンドサウンドも、いよいよ複雑にこんがらがってきてて、でもそれが、単純なところに向かって突き抜けていく感じで。アルバム全体を通して伝わって来るその流れが気持ち良い。特に、最後の「ヘッドフォンチルドレン」→「キズナソング」→「奇跡」の流れが素晴らしい! 最後の「奇跡」に向かってちゃんと繋がってて、それは、聴くというより、体験するという感じ。

ヘッドフォンを取り外すときが来たなら、音楽を必要としなくなるときが来たなら、ヘッドフォンを取り外すべきなのだろう。でも、恐れなくて良い。だって、きっとまた<悲しみは巡る>から。そしたら、きっとまた歌に会えるから。そんな変な方向から勇気をくれる、ヘッドフォンを取り外す勇気をくれる音楽という、なんとも矛盾した、でもそれでこそ音楽な気がする一枚。ヘッドフォンを付けたままじゃ、聴こえない歌もあるのかも知れない。音楽から手(耳)を離したとき、初めて聴こえて来る歌があるのかも知れない。そんなことをふと思った。

では、他に、最近レンタルで聴いた作品の感想をちょこちょこと。

YUKI 『joy』
歌になるのは悲しみだけじゃない。喜びだって歌になる。というか、喜びがあるから悲しみがあって、悲しみがあるから喜びがある。切り離せるものじゃないんだよねきっと。軽やかでダンサブルな喜び(と悲しみ)のグルーヴ。特に「キスをしようよ」が好き。

銀杏BOYZ 『DOOR』『君と僕の第三次世界大戦的恋愛革命』
いやぁ、これも、これを聴いちゃう自分も、最低で最高! 例えば、グループ魂とかマキシマム・ザ・ホルモン(下記参照)とかは、(本人は本気でも)ギャグとして捉えることもできるかも知れないけど、銀杏はどうもそうもいきそうにない、いかんともしがたい感じ。現実なんてみねえぞ! ライヴが観たい。『君と僕の~』では、YUKIちゃんも参加しております。

中島美嘉 『MUSIC』
「Fed up」は、是非あゆに歌ってもらいたいんですけど!(似合いそ~ただそれだけ)

マキシマム・ザ・ホルモン 『ロッキンポ殺し』
歌詞カードに書いてある解説が最高です。これ読んで借りちゃったくらい。皆ロッキンポだからこそ、「ロッキンポ殺し」が必要なんですよね?

V.A 『avex 10th Anniversary Presents avex THE ALBUM』
これだったのか! あゆがm.c.A・Tと一緒に参加しているというのは。や~っと見つけたよ! エイベックス10周年記念コンピ。あゆがm.c.A・Tと一緒に「m.c.A・T & 浜崎あゆみ」名義で「『A』」という曲で参加しているのですが、こ~れがウケ…いや最高! あゆは多分デビューしたばっかりの頃だったと思うんだけど、<へ~わたしもA Ayuのイニシャルだって誇りのA>とかいって、ご機嫌にラップしちゃってるんですけど! <A・T Ayu そして我らが a,v,e,x やっぱ最初はA>とか! <Ayuの歌届けに会いにいきたい>ってあゆ自分でラップしちゃってますから! きゃ~、会いにきてYO! Ayu、最高っす。

そんな私は最近、スネオヘアーのファースト『スネスタイル』を聴いております。いやぁ、良いですね、これ。名曲揃い。


ヒム・マッカートニー

2005-04-10 14:37:05 | その他
バナナマン『さるマンとバカジュリエット』を見た。

その中で、バナナマン扮するミュージシャン・ユニットが複数出てきて、音楽番組のコントをやっているのだが(プリプロなんていう専門用語まで使ってるのがウケる)、一組のユニット(2メンアンド1ウーマン)がこんなことを言い放った。

「日村さんは、ポール・マッカートニーに似てる…」

きゃー!! 私が日村さんに猛烈な勢いで惹かれてしまう理由が判明してしまった!! んなわけない!!

確認してみたい方はどうぞ。責任は持てません(笑)。

そんな日村さん(設楽さんもかな)、今度、SABU監督の映画に出るらしい。SABU監督って、私の好きな映画監督なんだけど! チョー嬉しい! そして楽しみ! それと、林檎ちゃんもバナナマン好きらしいという話は軽く知っていたが、ちょっと調べてみると、相当好きらしかった。映像作品は全部持ってるらしいし、同じ公演を3回観るほど。ああ~、真似しないで邪魔しないで置いてかないで~(笑)。


夏と花火と私の死体

2005-04-04 23:24:11 | その他
とあるところから、乙一(おついち)という作家に興味を持ったので、『夏と花火と私の死体』を読んでみた。ホラー小説という区分けになってるらしい。ゲームではそういうの読んだことあるけど(『弟切草』とか)、小説で読んだことはないなぁ(多分)。

それにしても、作者は年下。最近、若い人が賞をとったりして話題だけど、こうして実際に年下の人が書いた小説を読むことになるとは。いつの間にか高校野球の選手が年下になってたりとかそういうのと同じで、当然のことなんだけどね。でも、小説っていうのは、私の中で、自分より年上の人が書いたものとして存在してたっていうか、自分より長く生きてる人が書いたものっていう認識があったみたい。これからは、年下の人が書いた小説もどんどん増えていき、自分より遥か年上に思えていた文豪たちの年齢に自分が近付いていくんだね~。

で、『夏と花火と私の死体』。この小説が語られるときは必ず語られるであろう、語り手の位置付けというか角度というか視点。これね、ネタバレになっちゃいますが(読んでみたい方は注意!)、最初の方で主人公が死んじゃうんですよ。しかも、あっさり。あっと言う間に。殺されるんだけど、なんか、「殺された」というより「あ、死んじゃった」って感じ。それが、何ともないことのように、そこらへんをぷらっと散歩する場面でも描いてるかのように描写されてるから、「ええ?」みたいな。<わたしは死んだ。>って、ええ? いやいやいや、ちょっと待って、みたいな。で、そんなことお構いなしに、その死んじゃった私が、そのまま語り手として物語を語っていくんですよ。いやいや、あなた死んでるから! しかも、それがごくごく普通のことのように描かれている。平然と。

それで、その語り手である<私の死体>が、死体とも亡霊ともつかない何とも不思議な位置付けで、宙ぶらりん。過去を振り返るのではなく、あくまでリアルタイムで語っていくのが、その宙ぶらりんさに拍車をかけている。読んでると、死体とも亡霊ともつかない<私の死体>と一緒に世界を覗き見しているような。そんな不思議な感覚が常に保たれながら、鮮度が落ちることなく、物語は終わりまで進んでいく。その感覚が何とも言えない。この“感覚”を味わうためだけに読んでも良いくらい。

それと、殺されたら殺されたで、殺した人の感情を追求したり、殺されたことに理不尽さを感じたり、とにかく色々感情の波が起こって当然だと思うのだけど、そういうのがほとんど描かれてない。「あなた殺されたんだよ? 死んじゃったんだよ?」って突っ込みたくなる、いや、突っ込むのも忘れてしまうくらいに淡々と語られていく。死人に口なしってこと? でも、殺した方だって。計画的じゃないにしろ、事件というより事故だったにしろ、普通だったら、殺しちゃった(しかも友達を)ということについて、もっと思い悩んだり苦しんだり考え込んだりするだろうに、それもほとんど描かれない。殺人という一大事が起こっているはずなのに、それすら<私の死体>と一緒に葬られようとしている。それが怖いような気持ち悪いような、なんか変。

そんな描写が、人一人死んだところで、どんな殺人が起こったところで、時(世界)はそれまでとまったく同じ速さで同じように淡々と流れていくということをさり気なく描いてしまっている。それでいて、世界は何も変わらないんだな~というような、時が止まってしまっているような感覚も与える。それは、語り手が<私の死体>であることが大きいのだろう。生きている者に流れる時間と、<私の死体>から見た流れていく時間の絶妙な対比。生きた時間と止まった時間。この対比が絶妙で、悲しくて切なくて、残酷で、何だか尊くて美しい気もする。それが、夏休みや花火、お宮や森や田んぼといった風景の中で余計に映える。いや、だからこそ、風景が映えるのか。淡々と語られてはいるのだが、ときどきチラッと、気付くか気付かないかぐらいのさり気なさで描かれる主人公である<私の死体>が抱く悲しみや淋しさや切なさや恋心……。淡々と描写していく中で、それが時々サラッと顔を出すから、それが何だか夏の花火のようで、キラッと光って何とも切ない。

そして、そういうことに気をとられている間に、物語は思わぬ方向に。ここでまた、「ええ?」。ま、でも、あくまで結末はオマケで、物語を読んでいる間の不思議な感覚。これが一番の醍醐味なのかな~なんて思ったりもした。

ただ、思ったのは、これを作者がどこまで自覚して書いてるのかな~ってこと。あまりにも自然体で書かれているから。この変さに自分気付いてんのかな?みたいな。でも、この“自然に変”な感覚が面白いのかも知れない。