昔の記事を読み返してみると、今よりまだ勢いがあるなぁと思う。最近は、勢いというか何というか、そういうのがないなぁ。更新を怠りがちだとか、内容が過去のものだとか、そういうところに理由はないのは分かりきっている。
自分自身だったか 周りだったか それともただの
時計だったかな 壊れそうになってたものは
ってのは、あゆの「TO BE」って曲の歌詞だけど、以前私は、あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた。って、本当に失礼極まりない奴だな私は(笑)。もちろん、多少オーバーに言ってますよ。それに、好きになったからこそ言えてるわけで。ま、今じゃ、ごめんなさいってところなんですけど(笑)。
言われなくても分かってる。教科書にでも書いてありそうな言葉。私は、<夢は叶えるもの 人は信じ合うもの 愛はすばらしいもの>ってのに対して、<もういいって もういいって>と歌うシロップに共感していたつもりだったし、そんなシロップだからこそ信じられるような気がしていた。そういう場所と浜崎あゆみって対極にあると思っていた。
でも、思ってたより私は単純だったようだ。そして、複雑でもあったのだ。そんな彼女の歌に反応してしまった。別に、詞を良いと思ったわけではないけど、彼女の歌を構成する要素として詞は確かにあるわけだし、私が何か(特に音楽)を好きになるときは大抵そうであるように、彼女のこの部分に惹かれたとかそういう部分的な惹かれ方ではなく、総合的な惹かれ方をしたわけだから、切り離せるものではない。そして、驚くことに、シロップも<愛しかないとか思っちゃうヤバい>とか歌いだした。「愛とか希望とか歌いだしたらお終いだと思っていたけど、歌いだしましたねぇ」というようなことを五十嵐くんは言っていた。
どんな言葉でも、言葉それ自体に、薄っぺらいも重たいもないんだよね。どんな言葉だって、重くも軽くもなる。そして私は、重い言葉が聴きたいわけでも、軽い言葉が聴きたいわけでもなかったんだ。飾りとしての言葉なら、重かったりも軽かったりもするんだろう。でも、言葉が飾りじゃなくなったとき、それは重くも軽くもなくなって、それこそ「歌」になるのかも知れない。
言われなくても分かってると感じたのは、それを私が言ったり言われたりする必要がなかったからかも知れない。今、私がそれを必要としてるのかどうかはよく分からないが、どうであれ、あゆは、彼女自身がそのとき言ったり言われたりする必要がある言葉を歌っているんだと思い知らされた。何を歌っているかとかそれがどこからきたかとかより大事なのはそこなんじゃないかと思った。
シロップだって、あゆだって、そんなに変わらないのかも知れない。ただ、夢とか愛とか、誰かに決められるのではなくて、自分の手で見つけたいってだけで。そうじゃなきゃ、リアルになんて感じられないってだけで。それに、好きになる前は知ってる気になってただけ&イメージに惑わされて分からなかったけど、あゆもシロップ的なこと(?)歌ってるんだよねぇ。そういう、自分の手でっていう、自分の手でなんとかリアルを掴もうとしているってところは、シロップもあゆも共通してると、私は思っちゃうんだけどねぇ。そんなの私だけかも知れないけど(苦笑)。
それと、教科書にでも書いてありそうな言葉で勝負しているあゆは凄いなと思うよ。逃げ場ないもん。あんな歌詞、下手に歌ってしまえば薄っぺらくなっちゃうからね。だから、飾りに逃げちゃう人だっていると思うし、その逃げが飾りを超えてアートになる人だっていると思うし、それはそれで良いと思う。けど、あゆはそういうのとは違うよね(今のところ)。すっごい不器用な人だと思うんだけど。で、そういう言葉で勝負してるにも関わらず、あの説得力。だって、好きか嫌いか、共感できるかできないかは別として、誰も踏み込めないもん! 歌っているあゆには、誰も近づけませ~ん! ステージ上のフレディ・マーキュリーに、バッターボックスのイチローに、誰一人触れられないようにね! でもそれって孤独と背中合わせなのかもね。世界の中心で、愛をさけぶってこういうこと?(笑)
でも大丈夫。ファンがそんな孤独な場所からすぐに引きずり下ろしてあげるから!(笑) だから何度だって、その孤独な場所に戻っていけるのかもよ? 『ヴェスパタイン』のころのビョークに、アラーキーこと荒木経惟が「(彼女は)天女のように死に向かって飛んで行こうとしてる。だから俺が足を掴んでひきずりおろしてやるよ。掴む時にスカートの中は覗くけどな(笑)」なんていうとっても素敵なことを言ってたけどね。ま、それと同じかどうかは分からないけど。あゆも、一時期の世界の中心ぶり(苦笑)は脱したと思うし。一時期は、自分の状況とか分からなくなって、右も左も上の下も真っ白な壁に囲まれているような感覚に陥ったそうだから…。
あゆが表現してたのって、(結果的にだけど)究極の癒しかも知れないなぁ。だから、聴く人によってはウサン臭くも思えるのかも。でも、癒しなんてウサン臭さと表裏一体のものだろうしね。音楽からして、ウサン臭さと表裏一体だしね。ま、このごろのあゆは、またちょっと違うんだけどね。そこは脱したというか…。
ああ、ダメだ~。また長くなってしまう~。いつまでたっても終わらない~。今回の話もうまくまとめられない~。しかも、どんどん恥ずかしい内容になっていってる気がする~。
というわけで次回へ続く! って続くんかい!
*** P.S. ***
「TO BE」であゆは、こうも歌っている。
決してキレイな人間(マル)にはなれないけれどね いびつに輝くよ
あ~、「魂のかたち」でも「凄く大人な部分と凄く子供な部分が同居してたりとか、そういう両極端な(いびつな)感じが好きなのかも知れない」って書いたけど、やっぱりいびつな人に弱いのね~私。うーん。でも「TO BE」、良い曲だわぁ。99年の曲。
自分自身だったか 周りだったか それともただの
時計だったかな 壊れそうになってたものは
ってのは、あゆの「TO BE」って曲の歌詞だけど、以前私は、あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた。って、本当に失礼極まりない奴だな私は(笑)。もちろん、多少オーバーに言ってますよ。それに、好きになったからこそ言えてるわけで。ま、今じゃ、ごめんなさいってところなんですけど(笑)。
言われなくても分かってる。教科書にでも書いてありそうな言葉。私は、<夢は叶えるもの 人は信じ合うもの 愛はすばらしいもの>ってのに対して、<もういいって もういいって>と歌うシロップに共感していたつもりだったし、そんなシロップだからこそ信じられるような気がしていた。そういう場所と浜崎あゆみって対極にあると思っていた。
でも、思ってたより私は単純だったようだ。そして、複雑でもあったのだ。そんな彼女の歌に反応してしまった。別に、詞を良いと思ったわけではないけど、彼女の歌を構成する要素として詞は確かにあるわけだし、私が何か(特に音楽)を好きになるときは大抵そうであるように、彼女のこの部分に惹かれたとかそういう部分的な惹かれ方ではなく、総合的な惹かれ方をしたわけだから、切り離せるものではない。そして、驚くことに、シロップも<愛しかないとか思っちゃうヤバい>とか歌いだした。「愛とか希望とか歌いだしたらお終いだと思っていたけど、歌いだしましたねぇ」というようなことを五十嵐くんは言っていた。
どんな言葉でも、言葉それ自体に、薄っぺらいも重たいもないんだよね。どんな言葉だって、重くも軽くもなる。そして私は、重い言葉が聴きたいわけでも、軽い言葉が聴きたいわけでもなかったんだ。飾りとしての言葉なら、重かったりも軽かったりもするんだろう。でも、言葉が飾りじゃなくなったとき、それは重くも軽くもなくなって、それこそ「歌」になるのかも知れない。
言われなくても分かってると感じたのは、それを私が言ったり言われたりする必要がなかったからかも知れない。今、私がそれを必要としてるのかどうかはよく分からないが、どうであれ、あゆは、彼女自身がそのとき言ったり言われたりする必要がある言葉を歌っているんだと思い知らされた。何を歌っているかとかそれがどこからきたかとかより大事なのはそこなんじゃないかと思った。
シロップだって、あゆだって、そんなに変わらないのかも知れない。ただ、夢とか愛とか、誰かに決められるのではなくて、自分の手で見つけたいってだけで。そうじゃなきゃ、リアルになんて感じられないってだけで。それに、好きになる前は知ってる気になってただけ&イメージに惑わされて分からなかったけど、あゆもシロップ的なこと(?)歌ってるんだよねぇ。そういう、自分の手でっていう、自分の手でなんとかリアルを掴もうとしているってところは、シロップもあゆも共通してると、私は思っちゃうんだけどねぇ。そんなの私だけかも知れないけど(苦笑)。
それと、教科書にでも書いてありそうな言葉で勝負しているあゆは凄いなと思うよ。逃げ場ないもん。あんな歌詞、下手に歌ってしまえば薄っぺらくなっちゃうからね。だから、飾りに逃げちゃう人だっていると思うし、その逃げが飾りを超えてアートになる人だっていると思うし、それはそれで良いと思う。けど、あゆはそういうのとは違うよね(今のところ)。すっごい不器用な人だと思うんだけど。で、そういう言葉で勝負してるにも関わらず、あの説得力。だって、好きか嫌いか、共感できるかできないかは別として、誰も踏み込めないもん! 歌っているあゆには、誰も近づけませ~ん! ステージ上のフレディ・マーキュリーに、バッターボックスのイチローに、誰一人触れられないようにね! でもそれって孤独と背中合わせなのかもね。世界の中心で、愛をさけぶってこういうこと?(笑)
でも大丈夫。ファンがそんな孤独な場所からすぐに引きずり下ろしてあげるから!(笑) だから何度だって、その孤独な場所に戻っていけるのかもよ? 『ヴェスパタイン』のころのビョークに、アラーキーこと荒木経惟が「(彼女は)天女のように死に向かって飛んで行こうとしてる。だから俺が足を掴んでひきずりおろしてやるよ。掴む時にスカートの中は覗くけどな(笑)」なんていうとっても素敵なことを言ってたけどね。ま、それと同じかどうかは分からないけど。あゆも、一時期の世界の中心ぶり(苦笑)は脱したと思うし。一時期は、自分の状況とか分からなくなって、右も左も上の下も真っ白な壁に囲まれているような感覚に陥ったそうだから…。
あゆが表現してたのって、(結果的にだけど)究極の癒しかも知れないなぁ。だから、聴く人によってはウサン臭くも思えるのかも。でも、癒しなんてウサン臭さと表裏一体のものだろうしね。音楽からして、ウサン臭さと表裏一体だしね。ま、このごろのあゆは、またちょっと違うんだけどね。そこは脱したというか…。
ああ、ダメだ~。また長くなってしまう~。いつまでたっても終わらない~。今回の話もうまくまとめられない~。しかも、どんどん恥ずかしい内容になっていってる気がする~。
というわけで次回へ続く! って続くんかい!
*** P.S. ***
「TO BE」であゆは、こうも歌っている。
決してキレイな人間(マル)にはなれないけれどね いびつに輝くよ
あ~、「魂のかたち」でも「凄く大人な部分と凄く子供な部分が同居してたりとか、そういう両極端な(いびつな)感じが好きなのかも知れない」って書いたけど、やっぱりいびつな人に弱いのね~私。うーん。でも「TO BE」、良い曲だわぁ。99年の曲。