とあるところから、乙一(おついち)という作家に興味を持ったので、『夏と花火と私の死体』を読んでみた。ホラー小説という区分けになってるらしい。ゲームではそういうの読んだことあるけど(『弟切草』とか)、小説で読んだことはないなぁ(多分)。
それにしても、作者は年下。最近、若い人が賞をとったりして話題だけど、こうして実際に年下の人が書いた小説を読むことになるとは。いつの間にか高校野球の選手が年下になってたりとかそういうのと同じで、当然のことなんだけどね。でも、小説っていうのは、私の中で、自分より年上の人が書いたものとして存在してたっていうか、自分より長く生きてる人が書いたものっていう認識があったみたい。これからは、年下の人が書いた小説もどんどん増えていき、自分より遥か年上に思えていた文豪たちの年齢に自分が近付いていくんだね~。
で、『夏と花火と私の死体』。この小説が語られるときは必ず語られるであろう、語り手の位置付けというか角度というか視点。これね、ネタバレになっちゃいますが(読んでみたい方は注意!)、最初の方で主人公が死んじゃうんですよ。しかも、あっさり。あっと言う間に。殺されるんだけど、なんか、「殺された」というより「あ、死んじゃった」って感じ。それが、何ともないことのように、そこらへんをぷらっと散歩する場面でも描いてるかのように描写されてるから、「ええ?」みたいな。<わたしは死んだ。>って、ええ? いやいやいや、ちょっと待って、みたいな。で、そんなことお構いなしに、その死んじゃった私が、そのまま語り手として物語を語っていくんですよ。いやいや、あなた死んでるから! しかも、それがごくごく普通のことのように描かれている。平然と。
それで、その語り手である<私の死体>が、死体とも亡霊ともつかない何とも不思議な位置付けで、宙ぶらりん。過去を振り返るのではなく、あくまでリアルタイムで語っていくのが、その宙ぶらりんさに拍車をかけている。読んでると、死体とも亡霊ともつかない<私の死体>と一緒に世界を覗き見しているような。そんな不思議な感覚が常に保たれながら、鮮度が落ちることなく、物語は終わりまで進んでいく。その感覚が何とも言えない。この“感覚”を味わうためだけに読んでも良いくらい。
それと、殺されたら殺されたで、殺した人の感情を追求したり、殺されたことに理不尽さを感じたり、とにかく色々感情の波が起こって当然だと思うのだけど、そういうのがほとんど描かれてない。「あなた殺されたんだよ? 死んじゃったんだよ?」って突っ込みたくなる、いや、突っ込むのも忘れてしまうくらいに淡々と語られていく。死人に口なしってこと? でも、殺した方だって。計画的じゃないにしろ、事件というより事故だったにしろ、普通だったら、殺しちゃった(しかも友達を)ということについて、もっと思い悩んだり苦しんだり考え込んだりするだろうに、それもほとんど描かれない。殺人という一大事が起こっているはずなのに、それすら<私の死体>と一緒に葬られようとしている。それが怖いような気持ち悪いような、なんか変。
そんな描写が、人一人死んだところで、どんな殺人が起こったところで、時(世界)はそれまでとまったく同じ速さで同じように淡々と流れていくということをさり気なく描いてしまっている。それでいて、世界は何も変わらないんだな~というような、時が止まってしまっているような感覚も与える。それは、語り手が<私の死体>であることが大きいのだろう。生きている者に流れる時間と、<私の死体>から見た流れていく時間の絶妙な対比。生きた時間と止まった時間。この対比が絶妙で、悲しくて切なくて、残酷で、何だか尊くて美しい気もする。それが、夏休みや花火、お宮や森や田んぼといった風景の中で余計に映える。いや、だからこそ、風景が映えるのか。淡々と語られてはいるのだが、ときどきチラッと、気付くか気付かないかぐらいのさり気なさで描かれる主人公である<私の死体>が抱く悲しみや淋しさや切なさや恋心……。淡々と描写していく中で、それが時々サラッと顔を出すから、それが何だか夏の花火のようで、キラッと光って何とも切ない。
そして、そういうことに気をとられている間に、物語は思わぬ方向に。ここでまた、「ええ?」。ま、でも、あくまで結末はオマケで、物語を読んでいる間の不思議な感覚。これが一番の醍醐味なのかな~なんて思ったりもした。
ただ、思ったのは、これを作者がどこまで自覚して書いてるのかな~ってこと。あまりにも自然体で書かれているから。この変さに自分気付いてんのかな?みたいな。でも、この“自然に変”な感覚が面白いのかも知れない。
それにしても、作者は年下。最近、若い人が賞をとったりして話題だけど、こうして実際に年下の人が書いた小説を読むことになるとは。いつの間にか高校野球の選手が年下になってたりとかそういうのと同じで、当然のことなんだけどね。でも、小説っていうのは、私の中で、自分より年上の人が書いたものとして存在してたっていうか、自分より長く生きてる人が書いたものっていう認識があったみたい。これからは、年下の人が書いた小説もどんどん増えていき、自分より遥か年上に思えていた文豪たちの年齢に自分が近付いていくんだね~。
で、『夏と花火と私の死体』。この小説が語られるときは必ず語られるであろう、語り手の位置付けというか角度というか視点。これね、ネタバレになっちゃいますが(読んでみたい方は注意!)、最初の方で主人公が死んじゃうんですよ。しかも、あっさり。あっと言う間に。殺されるんだけど、なんか、「殺された」というより「あ、死んじゃった」って感じ。それが、何ともないことのように、そこらへんをぷらっと散歩する場面でも描いてるかのように描写されてるから、「ええ?」みたいな。<わたしは死んだ。>って、ええ? いやいやいや、ちょっと待って、みたいな。で、そんなことお構いなしに、その死んじゃった私が、そのまま語り手として物語を語っていくんですよ。いやいや、あなた死んでるから! しかも、それがごくごく普通のことのように描かれている。平然と。
それで、その語り手である<私の死体>が、死体とも亡霊ともつかない何とも不思議な位置付けで、宙ぶらりん。過去を振り返るのではなく、あくまでリアルタイムで語っていくのが、その宙ぶらりんさに拍車をかけている。読んでると、死体とも亡霊ともつかない<私の死体>と一緒に世界を覗き見しているような。そんな不思議な感覚が常に保たれながら、鮮度が落ちることなく、物語は終わりまで進んでいく。その感覚が何とも言えない。この“感覚”を味わうためだけに読んでも良いくらい。
それと、殺されたら殺されたで、殺した人の感情を追求したり、殺されたことに理不尽さを感じたり、とにかく色々感情の波が起こって当然だと思うのだけど、そういうのがほとんど描かれてない。「あなた殺されたんだよ? 死んじゃったんだよ?」って突っ込みたくなる、いや、突っ込むのも忘れてしまうくらいに淡々と語られていく。死人に口なしってこと? でも、殺した方だって。計画的じゃないにしろ、事件というより事故だったにしろ、普通だったら、殺しちゃった(しかも友達を)ということについて、もっと思い悩んだり苦しんだり考え込んだりするだろうに、それもほとんど描かれない。殺人という一大事が起こっているはずなのに、それすら<私の死体>と一緒に葬られようとしている。それが怖いような気持ち悪いような、なんか変。
そんな描写が、人一人死んだところで、どんな殺人が起こったところで、時(世界)はそれまでとまったく同じ速さで同じように淡々と流れていくということをさり気なく描いてしまっている。それでいて、世界は何も変わらないんだな~というような、時が止まってしまっているような感覚も与える。それは、語り手が<私の死体>であることが大きいのだろう。生きている者に流れる時間と、<私の死体>から見た流れていく時間の絶妙な対比。生きた時間と止まった時間。この対比が絶妙で、悲しくて切なくて、残酷で、何だか尊くて美しい気もする。それが、夏休みや花火、お宮や森や田んぼといった風景の中で余計に映える。いや、だからこそ、風景が映えるのか。淡々と語られてはいるのだが、ときどきチラッと、気付くか気付かないかぐらいのさり気なさで描かれる主人公である<私の死体>が抱く悲しみや淋しさや切なさや恋心……。淡々と描写していく中で、それが時々サラッと顔を出すから、それが何だか夏の花火のようで、キラッと光って何とも切ない。
そして、そういうことに気をとられている間に、物語は思わぬ方向に。ここでまた、「ええ?」。ま、でも、あくまで結末はオマケで、物語を読んでいる間の不思議な感覚。これが一番の醍醐味なのかな~なんて思ったりもした。
ただ、思ったのは、これを作者がどこまで自覚して書いてるのかな~ってこと。あまりにも自然体で書かれているから。この変さに自分気付いてんのかな?みたいな。でも、この“自然に変”な感覚が面白いのかも知れない。