どんだけクサいタイトルなんだって感じだけど(笑)。今回、GWで皆出かけてて読まないかも知れないから恥ずかしいのは今のうちに書いちゃえ!ってことで(笑)、書き走っちゃいました~。GWスペシャル大放出です(笑)。読んでくれた方には大感謝です。予告通り、「言葉のおもさ」の続きです。
結局、あゆを好きになっちゃったわけだけど、だから私はお終いなのかなぁ(あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた)。うーん、そうかも知れないね。だとしたら、もう一回始めれば良いんだけど、あゆ自体、終わりから始まってるような人だもんね。それが、究極の癒しなのかもと感じる部分でもあるわけで。あの人、一回、自分を葬ってるもんなぁ。
2000年の『vogue』~『Far away』~『SEASONS』の「絶望三部作」と呼ばれてるシングル一連の流れがまさにそれだもんなぁ。「vogue」っていう“流行”とか“人気”って意味のタイトルで、<君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに 散って行くから>って歌ってるし。まだ、ベストも出してない、四大ドームツアーもこなしてない、つまり、傍目には全然これからって見える時期で既に。そして、「Far away」で、<新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる>で、三部作最後の「SEASONS」では、前二作の自分の写真をあゆ自身が持っているというジャケットで(遠近法?を使って三作のジャケが繋がってる)、PVでは喪服みたいな黒い服着てたもんなぁ。ちょっとこれって、結構凄いと思う。あのときのあゆの状況でこれを発想できたのは。自分を見つめるもう一人の自分の目みたいのが、常にある人なんだろうな。インタビューとか読むと、周りが思ってるよりずーっと、自分の置かれてる立場とか状況とか、音楽的にもそれ以外の面でも自分が世間にどう捉えられてるのかとか、良い面も悪い面も驚くほど認識しててビックリするもん。ま、ときどき、何もそこまでっていうか、言わなくても良いことまでバカ正直に言っちゃってるとこあるけど(笑)。
そんな、自分を多角的に見ることのできるあゆちゃんですが、そんな彼女ですら、デビューしてからの超多忙なスケジュールに、自分がやっていることやそれが世間にどう広まっているのかを確認することもできなくて、体を壊して休養したときにやっと確認する時間を持てて、世間での扱われ方を見て「何も伝わってないのかな」と絶望すら感じたらしい。「“浜崎あゆみ”をやっている自分を凄く恥じた」らしい。だからか、上記の「絶望三部作」ぐらいから音楽と(そして自分や自分の状況と)向き合おうって意志が感じられてきたんだけど、追い討ちをかけるようにして、本人の意向を挟む余地もなくレコード会社から「ベストを出します」と決定され、更にそれのアルバム同日発売「宇多田ヒカルvs浜崎あゆみ」騒ぎまであり、「ああ、私は“人間”浜崎あゆみではなくて、“商品”浜崎あゆみなんだな」と思い知ったらしい。当時は、「消費されていく対象となる典型的なアーティストであるというのも分かってる」なんていう卑屈というか皮肉というか、そんな発言までしてたし(やっぱりあゆちゃんは生意気ね!笑)。
だけど、あゆはそこで終わらなかったのです。だからこそ、私と出会えたのです(私エッラそ~笑)。そう、ここでキマシタ! 極道あゆ(笑)の名台詞!
「人間として生きてやれ」
キタ―――!
はい。取り乱してすみません。あゆが自らに下した決断は、組織のせいにするでもなく、世間のせいにするでもなく、諦めてしまうでもなく、「人間として生きることを自分に課した」わけですよアナタ! そりゃ、逃げられない状況だったってのもあるだろうけどね。自分の行動一つで株価動いちゃうんだから(汗)。でも、そんな状況から逃げないどころか、その中で人間として生きようとしたワケですよ! 思えば、ベストのジャケが涙なのも、ベストなのに曲を歌い直したのも、人間としての必死の自己主張だったんだろうなぁ。
そっからのあゆは、凄いよなぁ、やっぱ。ああ~、このときをリアルタイムで体験したかったよぅ~!(悔) それを体験できなかったから、こうして長々と書いて疑似体験しようとしてるのかも知れない(笑)。
よく、否定的な意味で商業音楽とか言うけど、どんな音楽だって、お金もらってる以上、構造的には一緒だよね。大切なのは、そこじゃなくて……。あゆはそのへん、全部引き受けてるっていうか、逃げも隠れもしてないっていうか、誤魔化してないっていうか……。
社会の中で人間らしく生きる難しさを、私達は知っている。ともすれば、すぐに社会の歯車、商品になってしまう。傍から見たら、輝かしく見えた彼女だって、自分が大きな社会の歯車に過ぎない、商品に過ぎないと感じていた。けど、社会と言ったって、蓋を開けてみれば、一人一人の集まりに過ぎない。色々な人間がいるゆえに、一人一人が人間らしく生きることが難しくなってしまうんだろうけど、でも、それができなければ、何のための社会なんだろう。それに、人は一人では生きられないということも、私達は知ってるはずで。あゆは、社会の中で人間らしく生きて、自分らしさを獲得しようとしたのだと思う。
あゆは、「あそこまで作り込まれてて凄い」とかよく言われると思うけど、私が本当に凄いと思うのは「そこ」じゃない。「あそこまで計算されていても、その計算に飲み込まれていない」ところだ。「ワインディング・ロード」で書いた「とてつもないバランス感覚」ってそれかも。確かに、あゆのステージや衣装に対する徹底ぶりは凄いと思うし、「浜崎あゆみ」を作っているのは、あゆ一人ではなくて、たくさんのスタッフやファン、メディアの存在なんかも感じる。その辺が、「アーティスト」ではなく「アイドル」として捉えられる要因だと思うけど(でも、どう考えても「人形」じゃないなぁ)、言わば、「浜崎あゆみ」という社会を、「あゆ」を含めた大勢の人達が作っているんだなという印象はある(でも、それってどのアーティストでもそうだよね)。でも、その中でも、しっかりと「あゆ」が見えるんだよね。普通なら、あれだけ巨大な「浜崎あゆみ」というシステム(社会)の中に放り込まれれば、それこそ本当に機械(商品)みたいになってしまうと思う。でも、そうはなっていない。少なくとも私の目には、そう映る。「浜崎あゆみ」という社会の中で、しっかりと人間としての「あゆ」が生きていると思う。「マイ・ストーリーは突然に」や「スター不在」で言っていた「99%の中の1%」って、そういうことを言いたかったんだと思う。
きっと、逆説みたいだけど、生身の確固たる部分(人間)がないと、あれだけ機械(社会)のように作り込まれたことってできないんだと思う。私も最初、「機械みたい」って思ってたけど、あのときのあの状況でそうならざるを得なかったというか、でも、そこにある信念というか生身な部分を感じてしまったから、今では、それはまるっきり逆転してしまった。
例えば、B'zとか、それが良い悪いではなくて、その音楽を聴いて、稲葉さんってこういう人なんだろうな~とか、松本さんってこういう人なんだろうな~ってのは、あまり伝わってこないんだよね(私には)。けど、あゆの音楽からは、あゆの人物像というか物の考え方や感じ方、そういう人間くさい部分が伝わってくるんだよね。それは、私があゆを好きだからだけなのかも知れないけど(B'zもちゃんと聴いたら違ってくるかもだけど)、好きになる前からそれは感じていたし、そう思う。
私の目にはそう映るだけかも知れないけど、あれだけの場所にいながら、人間らしさを獲得してるんだもの。だってね、私があゆと同じようなことになったら、す~ぐ本当の機械っぽくなっちゃうよ。す~ぐ飲み込まれちゃうよ。ああいう衣装だって、「着飾ってる」とか「着せられてる」って印象になっちゃうよ。私、あゆの衣装は「着飾ってる」って印象ないんだよね。「+」ってシークレット・トラックがあるんだけど、そこであゆは、<姿を飾れば飾るほど 心が虚しいでしょう 必要ないでしょ そういうことでしょ>って歌ってるんだよね。最初、「うわっ、あれだけ着飾ってるあゆがこんなこと歌ってる~。おもしれー」とか思ってたけど(笑)、本当<そういうこと>なんだよね。思うに、あゆの衣装や演出は、戦闘服みたいなもんなんだよ。「言葉のおもさ」でも不器用な言葉で勝負してるって書いたけど、そんな風に表現が丸裸だからこその戦闘服。だからきっと、あゆの中では「着飾ってる」とか、そういうんじゃないんだろうな。どんな機械みたいな衣装着てても、生身の体一つでぶつかってきてるっていう真逆の印象なんだもん。あまりに丸裸かつ不器用な分、戦闘服が必要になるんじゃないのかな。ギターウルフの人が着る皮ジャンとか、ビジュアル系の人がする化粧とか、そういうようなもん? 衣装に限らず人によって手法は様々だけど、「戦ってる人」なんだなってことは確かに感じるな。しかもその「+」の歌詞、歌詞カードに載せないんだよね、あゆは。粋だな~。
ダメだあ。話がまとまらなくなってきた。とにかく、こういうあゆだからこそ、「社会の中で人間らしく生きる難しさ」と「人は一人では生きられない」という矛盾を知っている多くの人に指示されたのかなぁ(もし、本当に計算されただけの人だったら、ここまでなってなかったと思うし)。この世で生きる人なら、特にここ日本で生きる人なら、誰もがぶち当たることだろうしね。あゆも私とかと大して変わらないんだろうね。
ちょっと前のインタビューであゆはこんなようなことを言っていた。「今までは、機械っぽいっていうか、サイボーグっぽいっていうか宇宙人っぽいっていうか(笑)、そういう感じだったと思うけど、今は、もっと人間くさくありたいと思っている」(発言うろ覚え)。私含めて、あゆについては色々なことを思う人がいると思うけど、もうとっくに色々、分かってるんだろうね、あゆちんは。
ああ、やはり長くなってしまった。やっぱり、私にはできないんだよ。アーティストや音楽を、機械やアクセサリーやゲームやオモチャのように扱うことは。バーチャルなもののようには、扱えないんだよ。やっぱり、人間としてだったり、そういう風にしか捉えられない。基本的には。だからこそ、こんな風に恥ずかしーーーい文章になってしまうのかも知れないけど、でも、私には、あゆを機械だとかアクセサリーのようには扱えないの。
これでやっと、疑似体験(整理とも言う)が一段落して今のあゆの『マイ・ストーリー』に追い付けるかな?(ウマイ!) それが、あまりにも絵に描いたようなストーリーだったとしても、事実は小説よりも奇なり! 「本当のような嘘」だと思ってるものも「嘘のような本当」かも知れない! そりゃ本当のことは分からないけどね、ただ言えるのは、これは、バーチャルじゃないんだよ! リアルなんだよ!
非常に長く熱苦しい話、失礼いたしました。ああ、恥ずかしい。冒頭でも述べた通り、読んでくれた方に大感謝です。それにしても、最初は嫌いだったのに、何こんなに語ってんだろ(笑)。っていうか、いつの間にこんな語れるネタ(?)溜まってたんだろ。ここで語ったようなことって、そんな語られてることじゃないし、それこそ好きでもなければ知らないことだと思うし、大分後になってから明らかになったこともあるのに。もちろん、ほんの少し前まではこんなこと全っ然知らなかったし。私いつの間に? 自分、コワっ(笑)。
結局、あゆを好きになっちゃったわけだけど、だから私はお終いなのかなぁ(あゆの歌詞を良いとか思っちゃったらお終いだと思っていた)。うーん、そうかも知れないね。だとしたら、もう一回始めれば良いんだけど、あゆ自体、終わりから始まってるような人だもんね。それが、究極の癒しなのかもと感じる部分でもあるわけで。あの人、一回、自分を葬ってるもんなぁ。
2000年の『vogue』~『Far away』~『SEASONS』の「絶望三部作」と呼ばれてるシングル一連の流れがまさにそれだもんなぁ。「vogue」っていう“流行”とか“人気”って意味のタイトルで、<君を咲き誇ろう 美しく花開いた その後はただ静かに 散って行くから>って歌ってるし。まだ、ベストも出してない、四大ドームツアーもこなしてない、つまり、傍目には全然これからって見える時期で既に。そして、「Far away」で、<新しく 私らしく あなたらしく 生まれ変わる>で、三部作最後の「SEASONS」では、前二作の自分の写真をあゆ自身が持っているというジャケットで(遠近法?を使って三作のジャケが繋がってる)、PVでは喪服みたいな黒い服着てたもんなぁ。ちょっとこれって、結構凄いと思う。あのときのあゆの状況でこれを発想できたのは。自分を見つめるもう一人の自分の目みたいのが、常にある人なんだろうな。インタビューとか読むと、周りが思ってるよりずーっと、自分の置かれてる立場とか状況とか、音楽的にもそれ以外の面でも自分が世間にどう捉えられてるのかとか、良い面も悪い面も驚くほど認識しててビックリするもん。ま、ときどき、何もそこまでっていうか、言わなくても良いことまでバカ正直に言っちゃってるとこあるけど(笑)。
そんな、自分を多角的に見ることのできるあゆちゃんですが、そんな彼女ですら、デビューしてからの超多忙なスケジュールに、自分がやっていることやそれが世間にどう広まっているのかを確認することもできなくて、体を壊して休養したときにやっと確認する時間を持てて、世間での扱われ方を見て「何も伝わってないのかな」と絶望すら感じたらしい。「“浜崎あゆみ”をやっている自分を凄く恥じた」らしい。だからか、上記の「絶望三部作」ぐらいから音楽と(そして自分や自分の状況と)向き合おうって意志が感じられてきたんだけど、追い討ちをかけるようにして、本人の意向を挟む余地もなくレコード会社から「ベストを出します」と決定され、更にそれのアルバム同日発売「宇多田ヒカルvs浜崎あゆみ」騒ぎまであり、「ああ、私は“人間”浜崎あゆみではなくて、“商品”浜崎あゆみなんだな」と思い知ったらしい。当時は、「消費されていく対象となる典型的なアーティストであるというのも分かってる」なんていう卑屈というか皮肉というか、そんな発言までしてたし(やっぱりあゆちゃんは生意気ね!笑)。
だけど、あゆはそこで終わらなかったのです。だからこそ、私と出会えたのです(私エッラそ~笑)。そう、ここでキマシタ! 極道あゆ(笑)の名台詞!
「人間として生きてやれ」
キタ―――!
はい。取り乱してすみません。あゆが自らに下した決断は、組織のせいにするでもなく、世間のせいにするでもなく、諦めてしまうでもなく、「人間として生きることを自分に課した」わけですよアナタ! そりゃ、逃げられない状況だったってのもあるだろうけどね。自分の行動一つで株価動いちゃうんだから(汗)。でも、そんな状況から逃げないどころか、その中で人間として生きようとしたワケですよ! 思えば、ベストのジャケが涙なのも、ベストなのに曲を歌い直したのも、人間としての必死の自己主張だったんだろうなぁ。
そっからのあゆは、凄いよなぁ、やっぱ。ああ~、このときをリアルタイムで体験したかったよぅ~!(悔) それを体験できなかったから、こうして長々と書いて疑似体験しようとしてるのかも知れない(笑)。
よく、否定的な意味で商業音楽とか言うけど、どんな音楽だって、お金もらってる以上、構造的には一緒だよね。大切なのは、そこじゃなくて……。あゆはそのへん、全部引き受けてるっていうか、逃げも隠れもしてないっていうか、誤魔化してないっていうか……。
社会の中で人間らしく生きる難しさを、私達は知っている。ともすれば、すぐに社会の歯車、商品になってしまう。傍から見たら、輝かしく見えた彼女だって、自分が大きな社会の歯車に過ぎない、商品に過ぎないと感じていた。けど、社会と言ったって、蓋を開けてみれば、一人一人の集まりに過ぎない。色々な人間がいるゆえに、一人一人が人間らしく生きることが難しくなってしまうんだろうけど、でも、それができなければ、何のための社会なんだろう。それに、人は一人では生きられないということも、私達は知ってるはずで。あゆは、社会の中で人間らしく生きて、自分らしさを獲得しようとしたのだと思う。
あゆは、「あそこまで作り込まれてて凄い」とかよく言われると思うけど、私が本当に凄いと思うのは「そこ」じゃない。「あそこまで計算されていても、その計算に飲み込まれていない」ところだ。「ワインディング・ロード」で書いた「とてつもないバランス感覚」ってそれかも。確かに、あゆのステージや衣装に対する徹底ぶりは凄いと思うし、「浜崎あゆみ」を作っているのは、あゆ一人ではなくて、たくさんのスタッフやファン、メディアの存在なんかも感じる。その辺が、「アーティスト」ではなく「アイドル」として捉えられる要因だと思うけど(でも、どう考えても「人形」じゃないなぁ)、言わば、「浜崎あゆみ」という社会を、「あゆ」を含めた大勢の人達が作っているんだなという印象はある(でも、それってどのアーティストでもそうだよね)。でも、その中でも、しっかりと「あゆ」が見えるんだよね。普通なら、あれだけ巨大な「浜崎あゆみ」というシステム(社会)の中に放り込まれれば、それこそ本当に機械(商品)みたいになってしまうと思う。でも、そうはなっていない。少なくとも私の目には、そう映る。「浜崎あゆみ」という社会の中で、しっかりと人間としての「あゆ」が生きていると思う。「マイ・ストーリーは突然に」や「スター不在」で言っていた「99%の中の1%」って、そういうことを言いたかったんだと思う。
きっと、逆説みたいだけど、生身の確固たる部分(人間)がないと、あれだけ機械(社会)のように作り込まれたことってできないんだと思う。私も最初、「機械みたい」って思ってたけど、あのときのあの状況でそうならざるを得なかったというか、でも、そこにある信念というか生身な部分を感じてしまったから、今では、それはまるっきり逆転してしまった。
例えば、B'zとか、それが良い悪いではなくて、その音楽を聴いて、稲葉さんってこういう人なんだろうな~とか、松本さんってこういう人なんだろうな~ってのは、あまり伝わってこないんだよね(私には)。けど、あゆの音楽からは、あゆの人物像というか物の考え方や感じ方、そういう人間くさい部分が伝わってくるんだよね。それは、私があゆを好きだからだけなのかも知れないけど(B'zもちゃんと聴いたら違ってくるかもだけど)、好きになる前からそれは感じていたし、そう思う。
私の目にはそう映るだけかも知れないけど、あれだけの場所にいながら、人間らしさを獲得してるんだもの。だってね、私があゆと同じようなことになったら、す~ぐ本当の機械っぽくなっちゃうよ。す~ぐ飲み込まれちゃうよ。ああいう衣装だって、「着飾ってる」とか「着せられてる」って印象になっちゃうよ。私、あゆの衣装は「着飾ってる」って印象ないんだよね。「+」ってシークレット・トラックがあるんだけど、そこであゆは、<姿を飾れば飾るほど 心が虚しいでしょう 必要ないでしょ そういうことでしょ>って歌ってるんだよね。最初、「うわっ、あれだけ着飾ってるあゆがこんなこと歌ってる~。おもしれー」とか思ってたけど(笑)、本当<そういうこと>なんだよね。思うに、あゆの衣装や演出は、戦闘服みたいなもんなんだよ。「言葉のおもさ」でも不器用な言葉で勝負してるって書いたけど、そんな風に表現が丸裸だからこその戦闘服。だからきっと、あゆの中では「着飾ってる」とか、そういうんじゃないんだろうな。どんな機械みたいな衣装着てても、生身の体一つでぶつかってきてるっていう真逆の印象なんだもん。あまりに丸裸かつ不器用な分、戦闘服が必要になるんじゃないのかな。ギターウルフの人が着る皮ジャンとか、ビジュアル系の人がする化粧とか、そういうようなもん? 衣装に限らず人によって手法は様々だけど、「戦ってる人」なんだなってことは確かに感じるな。しかもその「+」の歌詞、歌詞カードに載せないんだよね、あゆは。粋だな~。
ダメだあ。話がまとまらなくなってきた。とにかく、こういうあゆだからこそ、「社会の中で人間らしく生きる難しさ」と「人は一人では生きられない」という矛盾を知っている多くの人に指示されたのかなぁ(もし、本当に計算されただけの人だったら、ここまでなってなかったと思うし)。この世で生きる人なら、特にここ日本で生きる人なら、誰もがぶち当たることだろうしね。あゆも私とかと大して変わらないんだろうね。
ちょっと前のインタビューであゆはこんなようなことを言っていた。「今までは、機械っぽいっていうか、サイボーグっぽいっていうか宇宙人っぽいっていうか(笑)、そういう感じだったと思うけど、今は、もっと人間くさくありたいと思っている」(発言うろ覚え)。私含めて、あゆについては色々なことを思う人がいると思うけど、もうとっくに色々、分かってるんだろうね、あゆちんは。
ああ、やはり長くなってしまった。やっぱり、私にはできないんだよ。アーティストや音楽を、機械やアクセサリーやゲームやオモチャのように扱うことは。バーチャルなもののようには、扱えないんだよ。やっぱり、人間としてだったり、そういう風にしか捉えられない。基本的には。だからこそ、こんな風に恥ずかしーーーい文章になってしまうのかも知れないけど、でも、私には、あゆを機械だとかアクセサリーのようには扱えないの。
これでやっと、疑似体験(整理とも言う)が一段落して今のあゆの『マイ・ストーリー』に追い付けるかな?(ウマイ!) それが、あまりにも絵に描いたようなストーリーだったとしても、事実は小説よりも奇なり! 「本当のような嘘」だと思ってるものも「嘘のような本当」かも知れない! そりゃ本当のことは分からないけどね、ただ言えるのは、これは、バーチャルじゃないんだよ! リアルなんだよ!
非常に長く熱苦しい話、失礼いたしました。ああ、恥ずかしい。冒頭でも述べた通り、読んでくれた方に大感謝です。それにしても、最初は嫌いだったのに、何こんなに語ってんだろ(笑)。っていうか、いつの間にこんな語れるネタ(?)溜まってたんだろ。ここで語ったようなことって、そんな語られてることじゃないし、それこそ好きでもなければ知らないことだと思うし、大分後になってから明らかになったこともあるのに。もちろん、ほんの少し前まではこんなこと全っ然知らなかったし。私いつの間に? 自分、コワっ(笑)。