『荒らし』に遭ったblogです^^

『荒らし』はネット上で利害に反する書き込みをした人を攻撃する行為です。ネット監視会社、支持団体・自営等々があります。

民事不介入と相互監視社会

2009年10月02日 | 雲の日記
民事不介入と相互監視社会

 皆さーん、おはようございまーす^^           

朝起きたら、今日は雨でした^^ シトシト降る..静かな雨です。こんな雨って
情緒があっていいですよね。私の好きな雨です^^ (想像が出来ますか?)

今日のblogは以前に読んだ本の中にあった..『いま私達は、誰かに管理される
のではなく、相互管理している社会にある。』という一文から考えてみました。

その一文のあった本は1980年代に書かれた“教育に関する本”です。
戦後の自由な教育から揺り戻され、再び管理教育が敷かれ始めたが、その弊害

が顕在化してきた時期でもありました。 リベラルが敬遠され..ネット上では
ネット右翼と称される匿名の人たちが活躍し始めた時期でもあります。

私達日本人は悲惨な過去の歴史から学び、国家の暴走を許さない仕組みを作っ
てきた。国家権力が国民を(過度に)管理しないようにしてきた。油断出来ない
のは国家権力の暴走だった筈だ!! 

その為に国民の権利を謳った『日本国憲法』が作られた訳です。

ところが戦後30年も経つと記憶は薄れ、過去をもう一度と思う連中が出てく
る.. それは未来を担う子供たちの教育にも現れる。管理教育の再登場だ! 

その弊害が多く現れた結果、今度は児童の自主性を重んじた『ゆとり教育』が
出てきた。皆さんは『ゆとり教育』の登場を覚えていますか?

そして..その『ゆとり教育』も僅か5年で幕を閉じることになりました。
自主性を重んじて子供達に与えられた時間は、大人たちの都合(面倒?)で消え

たのです。大人にとって『管理教育』は都合が良かったので復活した訳ですね。
それでは『大人の社会』は、どうだろうか?? 大人もやんわり管理されるの

を望んだのですね。自由など貰っても“どうしていいか?”分からない。高度
成長期の日本で、大人たちは働き蜂になってしまった。だから自由より“やん
わり”管理される心地良さを選んでしまったのでしょう。

『赤信号..みんなで渡れば怖くない!』 

個人の自由より“みんな一緒”を選んだ。お互いに“横並び”から“はみ出さ
ない”ようにする社会の方が“居心地がいい!”と考えたのでしょうね。

個人の責任は、問われないから??

そして今は、どうだろうか? 

相互監視社会について書かれている文を見つけたので掲載しますね^^

(引用始まり)
近代社会は、個人の自由と平等を保障する。ゆえに、各人の意思によって権利
義務関係が成立するものだとされる。そして、後者は「私的自治の原則」につ
ながる。すなわち〈社会〉の問題は〈社会〉で解決するのが原則で、凶悪事件
など、〈社会〉が自ら解決できない例外的な場合にのみ〈国家〉が介入する、
というあり方が基本だとされる。

しかし、最近になると〈国家〉が国民を厳格に管理しようとする一方で、国民
すなわち〈社会〉のほうも、〈国家〉による権力的な介入を望むようになって
きた。その背景には〈社会〉が自分で問題を解決できるという「自信」を失っ
ていることがある。なぜそのようになってしまったのか。

かつてムラとしての地域社会が存在していた頃は、「近所づきあい」があり、
揉め事をまとめるムラの顔役も存在していた。だから、今日ならばつまはじき
にされるだろうツッパリや不良も、チンピラやヤクザも、ムラの顔役が容認す
る限りにおいて、たとえ法律が──〈国家〉が──許容しないことになっては
いても、それなりに受け入れられていた。

もちろん現在ではそうした〈社会〉は、とっくに崩壊した。トラブルを自分た
ちで──〈社会〉で──解決できなくなってくるにつれて、警察に、つまり
〈国家〉に、しっかりやってほしいと思うようになるのは、ある意味で自然な
流れだろう。かくして、かつてなら〈社会〉の顔役から、〈国家〉の警察へと、
要求の宛先が移転されていくのだ。

その意味で、今日、家庭内暴力(DV)やストーカーから女性や子供を守れな
くなった日本の〈社会〉が、〈国家〉の積極的な介入を望むようになるのは、
致し方ないとも言える。しかしその結果「民事不介入の原則」はどんどん範囲
が狭められ、警察権力が及ぶ範囲が際限なく拡がっていくことになる。暴対法
の誕生もその延長線上にある。
(引用終り) (ソース先:http://www.miyadai.com/?itemid=126)



女性同士が喧嘩していた。一方の捨て台詞が『警察に訴えてやる』だった..
こんなところでも警察は出てくるのですね。『民事不介入の原則』なんて誰も

知らない社会になってしまったのだろうか。皆さんはもう..法律の無い社会を
想像出来ないでしょうね。本当に成熟した社会では『法律は要らない』のです。

お互いが相手の権利を侵さない理性を持って行動出来れば、法律など要らない
のです。理想の社会とは『法律の要らない』社会なんだと、私は教わりました。

さて..監視社会にいるとお話ししましたが、見当が付きますか??

一番はカードだと思っています。何を買って、幾ら使ったかまで把握出来ます。
その内容を分析すれば、食事の趣向から趣味、旅行まで何でも把握できます。

車に乗れば、ガソリンの購入から走行距離が..監視カメラから行き先が..把握
出来ます^^ 街角監視カメラを見れば、ささやかな散歩の様子まで把握される

でしょう。権力者たちがその気になれば、私など丸裸も同然です。思想信条の
自由も『図書館で借りる本』『カードで買う本』『ネット検索』等々を分析す

れば分かることです。身近で被害に遭わないから分からないだけですね。
その上に『考える自由』まで奪われているのが現実です。世論の誘導ですね。

(引用始まり)
宮崎学氏も指摘しているが、青少年を含め強姦や殺人などの凶悪犯罪は、戦後
から一九六〇年代前半にかけての二つのピーク時から見ても大幅に減った。
ヤクザの抗争事件も明白な減少傾向だ。だが、ひとたび“凶悪事件”が起こる
とマスコミが大騒ぎするから、何となく「〈社会〉は犯罪が増加している」と
いう不安を抱かされる。

これは九・一一以降に顕著になった「空気を利用した〈国家〉支配」に通じる。
〈社会〉に対する漠然とした不安が醸成されていく。不安が昂進するにつれて
〈社会〉は自らが解決できないと思い込み〈国家〉が何とかすべきだとの意識
になる。〈国家〉がそれを百も承知でマスコミを使って〈社会〉に対する不安
を煽る。
(引用終り) (ソース先:http://www.miyadai.com/?itemid=126)


『主権在民』『国民が主役』などと言いながら、その実は有りとあらゆる監視
の中にあり、その監視を国民が“実は必要”と思い込まされているのではない
だろうか?

自由を楽しんでいると思っていたら、実は思考回路まで監視され、誘導されて
いるとしたら.. あなたは、どう思いますか??

それでは、どうしたら『このような状態』を回避することが出来るのだろうか。

それは『民度』を上げるしかないです。国民のレベルを上げるしかないのです。
マスコミの報道(特に新聞)を鵜呑みにしない.. 権力側には常に批判精神で

望むべきだと私は思います。その為にも最低限の知識を得る必要があるだろう。
今の社会の問題点(年金問題、格差社会、雇用問題等々)は全て、私達が作り

出したものです。不安に刈られ、より良い社会を目指した筈なのに結果は違う
方向に行ってしまった。そこには“何か間違い”がある筈なのだと思います。

権力側に『不安な空気』を作られ、マスコミがそれを煽る.. そうやって私達
は(自分で考えたかのように思って)誘導されてしまったのですね。

権力と強かさを併せ持つ相手に向かう時は、私達も武器(知識)を持たなければ
ならないでしょう..^^ 頑張ろう!! おぉ~!!


今日も肌寒いですね。少し風邪気味のようです>< 鼻水が.. グシュンと..
今日も元気(?)で フアイト!!