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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

真の神通力

2023-11-14 09:33:48 | スピリチュアル?
神通力というと、天眼通とか天耳通、他心通など常人には見えないものが見えたり、聞こえないものが聞こえたり、人の心が分かったりするなど、所謂超能力として語られていることが多いようです。(仏教から来ているのに神から来るみたいですね?)
だけど、この言葉通りに受け取ると、神に通じるということもあるでしょうが、私には“神が通る“というニュアンスが強く伝わってきます。
神から来て通る力...それは、超能力でよく、語られるような得たり、自分のものにするというものでは無いということです。
道元禅師も「正法眼蔵.神通巻」の中で、(そこでは勿論仏道との関連で説かれているのは言うまでもないですが)「色彩や形態の世界に入っても、それに惑わされず...」「、「(六)神通とは、六根にあとをとどめないものとして明らかにすること」と述べられています。
見えたり、聞こえたりする感覚があったとしても、そのあとを残さないということなのです。
キリスト教では、“聖霊の賜物“と言って、予言や異言、癒しなどの力が与えられたりします。
これも又読んで字の如く賜物なのであることを忘れてはなりません。
小池辰雄先生もそれは決して私物化など出来ないものとして強調されていました。
このように、常人の力を超えたことばかりに囚われがちになるものですが、囚われたら、とどまっていたら通らないのです。通らないものは神通ではない!
悟りというものでも同じことでしょう。神から来なければ、そこを通らなければ悟りではない!(先の道元禅師の場合は仏から...)
神の力が通るということ...その根底にあるものは、愛、安らぎでなくて何であろう!
何も奇をてらうものなどありゃしないではないか!
こう言うと、すべてが神から来て、通ると言ったらそうなのでしょう?
又自由というものがある。通るということは、遮るものが無いということなのだから...
今、通っている!...これを“私は得た、私の力だ!“、と囚われた途端に無くなるか、外道、別のものに変質するだけですよ!
だから、私は“与る“という言い方をするのです。
通るということは道がある、回路みたいなものがあるということです。
それはやはり“ここ“にある。それは開かれなければならないのは言うまでもありませんが、一度でも神の力が通れば開くのです。
何事でもそうですが、それはやはり望まなければなりません。祈りをもって...神が臨むのを!、神の力を!...思い、為そうとする自分でなく、自分の力でなく、神の神通力によって開かれるのです!...


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霊的物質主義

2023-11-12 09:12:57 | スピリチュアル?
私は、例えば神的な現臨のことを書いたりしますが、それが何かの霊体みたいなものとして言い表したことなど一度もありません。
見た、見える訳じゃないので分からないのです。
それで、何でそういうものが臨むとか顕わになるのが分かるのか?...
こんなハッキリ分かることは無いんだから仕方がない!
現臨にある時、私という一個の人間が無くなるような感じにしばしばなります。
勿論、それで私の肉体が消えて、霊化したりなんかしませんよ(笑)
そこに何か体を帯びたような固定したものがあるかのように考える...これは肉体は無い、物質は無いと否定することでも同じことです。
それがあることを前提にしている。そうじゃない!(おや、言い回しが難しいな)
別にそれ(物)を否定することでもないのです。有っても無くても。
その他、霊界というものがあって、それは何段階もの層によって出来ているとか、何千年前の過去世はどうだったとか、何十年後にこういうことがあると予言で示されたとか...見えない世界にもそういう固定した時間というものがあるらしいです。
こういうものは、すべてこの世で考えられるものの延長に過ぎないことが分かるでしょう。そう思い描いていることを言っている訳です。
このような、考えている自分がこの世の感覚で、見えない世界(短絡的に霊界のことではない)のことを決め付けたように言い立てることは、差し詰め“霊的物質主義“とでも呼ぶのが相応しいでしょう。
いくら霊的なものとして語られようと、そういうものは何も伝わりません。返って思念に覆われ、囚われるだけです。
いつも感じて、そう言うように霊なるものに関わることは、思いを超え、離れるということなのです。
見てる世界、肉体の自分はそのままで、そういうことが実にハッキリと感じられるのです。
これはどういうことかと言うと、思考マインドでなく、意識次元が変わるということに他ならないのです。
そのままで、丸っきり変わってしまう!
それには、具体的にそれへの転換、シフトというものが無ければなりません。
それを宗教、スピの世界では、回心とか覚醒体験と結びつけて語られているのですが、そこを曖昧にしてずっと思念世界に囚われてるってーのは、一体?
きっと、そこのところをきちんと示す、導師に巡り会ったことがないのでしょう。
会っただけで分かるかもしれないのに!
導師は、肉体を持った人間とは限らないですよ!
霊体か?...いやだから、会えば、その御方が臨めばハッキリ分かるんだってば!
だから私は神的な現臨のことを見えない導師とか言っているのです。それが臨めば、あらゆる妄想ごとは終わるだろう!...

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今ここにあること

2023-11-10 09:41:33 | 現臨、ハタラキ
精神的な道では、仏教などは特にそうですが、“今ここに意識を集中することが大事“、なんてことをよく言います。
例の反面教師画伯もそういうことを言っていたかと思ったら、途端にどうしてそうなるのか、世界、人類の在り様が大変革してしまうような日が来るのは近い、などと今ここにない未来予言に言及しているのです。
この他陰謀論的なことでも、いつかワクチン接種の副作用で大変なことになる...いつか闇の勢力に世界は支配されてしまう...又何次元あるのか分からない霊界のこととか、前世のこととか...要するにこの御仁、今ここにないことにばかり囚われ続けているのです。
全く、今は分からないんだから、そんなことなどほっとけばいいだろう!
だから、“今が未来を決めるんです!“、なんて自分を飾ろうとしているのか、気の利いたことを言ってても、浮いたもののようにしか感じてきません。そう思っているだけなのでしょう。
そうなのです。今ここに意識を集中することなど、考えている自分からは無理なことなのです。
しかし、誰でも“今ここにある“、という感覚を持ったということもたまにはあることでしょう。
そういう時は、“何も考えてなかった“ということに気が付かれるはずです。
そして、考えている自分からは思考から離れることは出来ないのです。
思いを超えたものによらなければ!...
則ち、神的な現臨にある時、意識は今ここにある、と言うことが出来るのです。
それは全く持って、現在に臨み、現在あらしむるものなのですから!
過去に引きずられることも、来ない先のことを不安に感じることも、今分からないことを分かったことのように妄想することもなく....
自分の意志想念で、今ここに意識を集中するのでなく、ただほんの取っ掛かりとして、思いを向けるだけです。
別に今ここにあるためでなくてもいいと思いますが...え?
イマ?、ココ?...いつ?、どこのことだ?
って、考えたら、今ここにないですよ!
途端に時間や空間にセパレートされてしまいます。
過去や未来じゃなく、現在が大事!
って、人生、そんな行き当たりばったりで渡って行けるかってんだ!
現在、現在ってホントに大事なものを置き忘れていませんか?
そう!...愛、安らぎ...
いつでもどこでも、もう切り離されることは無い!
あの御方と共に、今ここにある!...
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あの日から始まった

2023-11-09 09:31:56 | 人生の教師
昭和52年の今頃の季節のことです。
私はある本を読んで思わず涙が溢れてきたのでした。
その年ぐらいから読書に目覚めて、以来実に多くの本を読んで来ましたが、そういうことは数回しかありません。移り気が激しい私でも、そのことは今でも忘れることは無いのです。
それは五井先生の「愛すること」(白光出版)という本でした。
とにかく、それを通して神は愛なのであることを知り、何よりも神を信じつつも恐れたりして、自分とかけ離れたもののように接するのでなく、親しみ、近しきものとして感じられるようになったことが実に、ホント~に大きいことなのです。
だから、このことが無ければ今の私は無いと言っても過言ではないのです。
それは、五井先生がどういう人であったとしても変わらないでしょう。
“先生は大きな教団の教祖であり、絶対視されていて、偶像のように祭り上げられている...”
そんなことは、初めてお目にかかった、その年の先生のお誕生祝賀会の時に既に感じていましたよ!
だけど、よくよく考えてみれば、先生の教えは“守護霊、守護神教”とも言われるように、我々を形ある導師でなく、“見えない導師“につなげることが主眼となっていたはずなのです。
そして私はそのように導かれたと言ってもいいのです。
これは一時は考えもしましたが、会員になることなく、あまり教団の醸し出す、あの集団的思念の影響を受けてこなかったことが大きかったようです。
いや、こう書いてきて感じることは、私は最初から(守護霊、守護神という表現はともかく)見えない導師の導きを受けていたのではないか、ということです。
それは、物心付いた時からとも言えるのですが、よりそのことがハッキリ意識づけられたのは、五井先生との縁を通してだったということでしょう。
どの教えに接しても、本質的なこととそうでないものとを見極めることが大切です。
しかし、自分で見極めることが難しいんですよね?
だから祈ることが大事なんです。迷い、本質的でないことは神の中に入れちゃえばいい!
又、“人間は本来神の子なんだ、迷いなんか無いんだ!“、なんて理想論みたいな教理を現実にそう思えないのに、無理に念じたりして思おう、信じようとする必要もありません。
祈る...意識が自然に神に向いてしまう、こっちで合わそうとするのでなく、自然に合わされてゆくだけ...そうすると、いつの間にか会い難きものに、会わされる!...かもしれない。...
と、こういう風に、私はいつの間にか、五井先生の教えの根っこにあるようなことに合わされて行ってしまったようなのです。
それは、みなあの日から始まったのかと思うと!...(ううう!)
私のような五井先生の無教会派の皆さんだけでなく、このように導かれた方は私だけではないはず!
非本質的な教団本位の在り方や、真偽の分からない陰謀論やオカルトに脱線する在り方などはもう消えてゆく姿の様を見せているだけです。
見える導師から見えない導師を通して神、真我につながる、という五井先生が残された本筋の道こそは、本当の意味で宗教宗派を超えて、息づいているのを感じずにおれません。
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人間と怪物

2023-11-08 09:31:06 | 人生の教師
先日、 「ある日の五井先生」(清水勇著)という本を読んで、一寸イヤーな気分にさせられました。
ある日、人の過去世が分かるという、会の有力?な講師が「五井先生にも業がある、消えてゆく姿(過失や欠点)がある」と言っていたのが先生の耳に入り、その講師を叱責したというのです。それを又連帯責任があるのか、別の二人の有力な講師が謝っているのです(本人は謝らなかったとのこと)
誰にも業や消えてゆく姿の一つや二つはあるでしょう?、それもこれは常人の与りしれない過去世のことらしいのですよ。こういうことは、おそらく大きな教団の(神に等しき)教祖と講師との関係でなければ、さして問題にならないでしょう。
このことを知って、私は五井先生の“人間的な限界“を感じてならないのです。
いや、もしかして先生は本当に何の欠点も無い、完全なる超人なのかもしれないですよ!
この意味は、五井先生も世の常なる宗教の教祖たちと変わらない、(あまりにも人間的な)尊大な態度を見せることもあるのだ、ということなのです。先生はある講話の中で、そのふんぞり返った態度を見ると虫酸が走る、とか言っていたにも関わらず...
先生に業や消えてゆく姿があることがそんなにコケンに関わることなのでしょうか?
私には、宗教教団に纏わる思いのほとんどが消えてゆく姿に思えてなりません!
そこへ行くと、数多のその神に等しき教祖さんを輩出させた、新興宗教の大本、大本教の怪物と呼ばれた、出口王仁三郎聖師ときたら...接客に際し、素っ裸で現れることもあったとか。本心かポーズなのか分からないが、開けっぴろげの精神の表明なのでしょう。
又若気の至りのことだったとはいえ、過去の派手な女性遍歴のこととか、侠客との関係のこととかも隠さず公表していたのです。
聖師の飾らない、人との距離を感じさせない人柄は「出口王仁三郎と青年座談会」という本などで伺い知ることが出来ます。
これが怪物、日本の宗教史上きってのカリスマと言われた人物の裏の顔であり、いや本当の顔だったかも知れないのです。
この何とも人間臭い有り様が、何と人間離れしているように映ることか!...あの超然とした態度の生き神サマたちには誰もマネなど出来ないでしょう!(こう逆説的なこと書いてきて、ハテ人間とは?、人間らしい人間とは何か、テンデに分からなくなってきました!)
私はここで、“出口聖師と五井先生はどちらが人間として上か?“、な~んてことを言いたいんじゃありません。
その教え的な方でいくと、色々なハッタリとかカモフラージュなどが入り混じってるようで、ストレートに伝わってこない、聖師のものよりも、五井先生の方が分かりやすくス~っと入ってくるところがあります。
そして本来の五井先生は、あんな尊大なところは見せない人であろうことも何となく伝わります。
教団組織というものが人間を変えてしまうのか?、だからそんなものは消えて行ってしまえばいいのです!
いや、なんだかんだ言っても人間がやっていることなんだから!...
人間にはみんな限界があるってことなんでしょう!...あなたも私も人間、大先生も生き神サマも人間...だけどその人間には何かそれをぶっこえた、得たいの知れないものが隠れているらしい?
これが時たま顔を覗かすものだから、人間らしい人間のままで、怪物らしく見えるらしい...
いや、人間は何ともオモシロく、オソロシイものだ!...

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