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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神、導師、真我、現臨

2023-09-12 09:32:37 | 現臨、ハタラキ
私がこれまで学んできた精神的な道において、もっとも啓発を受けた言葉を挙げてみると...すぐ思い浮かべられるのは、ラマナ.マハルシの「神、導師、真我は同意語である」というものです。
初めてこの言葉に接したのは、忘れもしない昭和58年の夏のことで「南インドの瞑想」(めるくまーる刊)というラマナの講話を集めた本を読んだことからなのでした。
最初は、当然のことながら”そういうものかなあ”、という程度のもので、抽象的な理解に留まっていたのは言うまでもありません。
ところが、それから数日後、初めて精神的な目覚めに与ることになり、このことを直に、目の当たりに示されるということがあったのです。
しかし、その覚めた意識も再び日常の意識に覆われることで、元の黙阿弥となり、その直覚的な理解もいつしか消えて行ってしまったのでした。
直に感じられないものは、ただの理屈にすぎません。
この言葉が本当に腑に落ちるようになったのは、漸くこのブログを始めた時からと言ってもいいでしょう。
具体的に言うと、現臨感がより深まって来たことに拠るのです。
神的なものが臨むことは、より自分自身が深まるということを意味しているのです。
何が真我であるか、ということは分かりませんが、少なくとも現臨にある私は、思っている私を超えており、又本源的なものだ、と言うことは言えます。
ここにおいては、神の意識と私の意識が合わない、食い違うということはありません。
だから、神に願いを聞いてもらうとかいう発想は後退せざるを得なくなります。
神に意識を向けるということはあります。だけど来てもらう訳じゃないですよ!
私自身に意識を向けることと同じなのですから...
私自身に超然として、私を支配する神というのは、現実に私の実存に臨む神ではなく、そう信じられ、思われた神に過ぎないのです。
神的なものと真我的なものは同じである...しかし、そこには大きな落とし穴があります。
思い、為そうとする私が真我ではないということです。自我は常に真我に取って代わろうとしています。
だから、私は神と一つである、などと観念的に思う必要は無いのです。思っている私に帰される何ものも無いのです。
だからだから、思いを超えたもの、超越者、神を意識する必要があるのです。そして、このこと自体が(自分の思い、力でということでなく)、思いを超える、思いから離れることを意味しているのです。
思っている私は、先の理由で導かれなければならないのです。導師という自己と向き合うもの(自己にま中に相まみえる...これが端的に現臨即ち神、主の臨在というものなんだ!)が無ければ、明け渡しということもありません。
明け渡しの無い精神的目覚めというのは偽りでしかありません。
真に、神、導師、真我は同じである...それは現臨にあって言えることなのです。
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理屈じゃない!

2023-09-11 09:19:57 | 哲学・思想
神とか超越的なものといったものなど本当は存在してなくて、すべて自覚されることの無い、潜在意識とか、自己の知られざる機能がもたらしているのかもしれません。
又逆にそういうものは、本当に我々の力を超えて存在しているのかもしれません。
真相は?...勿論分からないですよ!...だから、分かったようなこと、決めつけたことを言う方がおかしいのです。
一つ言えることは、潜在、深層意識、人間の知られざる機能だとして、表層意識では分からないという意味で、それは自分の思いを超えたものであるのは確かなことでしょう。
又、“それは科学的に証明されている“、と鬼の首を取ったようなことを言う向きもあるかもしれません。
だからそれは、ただ、誰かが言ってる、その証明されたことを信じているだけなのであって、自分の表層に直接示されたものでも、自覚されたものでも何でも無いのですよ!
要するに、具体的に自分は何を、どう感じているかどうかが肝心なことなのです。
そうでないものは、所詮理屈に過ぎません。
現実に意識が広がったり、深くなったりしてもいないのに、理屈で納得したつもりの人多くないですか?
私は、神的なものが自己実存に臨めば、愛、平安がもたらされると何度も言ってますが、そういう言葉をいくら信じてたって、それが感じられなかったらしょうがないのです!
身もフタも無いような言い方ですが、もしホントにそういうものを感じてみたいのなら、理屈で自分の頭を縛るの辞めてみたらどうですか?
自分の思いが自分を不自由にしていることに気付いてみたらどうですか?
そう、自分の思いから自由になることが愛、平安に与ることなんだ、とそう言っているのです!
だから、ヤッパシ、自己実存というものは、自己を超えたものと切り離されない、ということなんですよ!
だから神は居るんだ!...って、別に存在論的に信じる必要も無いのですが...
いや、信じたかったら信じてもいいでしょう。
ここでは信じようと、信じまいと思いを超えたものは感じることが出来る、と言っているのですが、決めつけたり、絶対視しなければ、それは基本的に分からないものだ、ということを弁えていれば何だっていいのです。
神や霊的存在が、絶対的なものではないけれど、仮に現れることもあることを私は否定してません。
そこでも、自分がどう感じているかがおざなりにされると、妙な、不自由な偶像崇拝に陥ったりします。
そうでなければ....“何を信じようと、信じまいと私の自由だ!
思いを超えたものは結局は分からない!
分からないから自由なのです。自由に感じることが出来るのです。
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現実に即した実存主義

2023-09-10 08:53:34 | 哲学・思想
どのようなことでもそうなのですが、自分自身のこと、例えば実存とは何ぞや?、と知的概念によって、意味を追求したりしていると、すぐ行き詰まってしまいます。
実存とは?、と考え続けて行っても(頭では分かったつもりにはなっても)、永久に実存そのものには到達出来ないのです。
追求なんかしなくたって、最初から実存感覚というものはあるんじゃないですか?
即ち、“私は在る“という感覚のことです。
実存とは?、私とは?、と知的に追求したりしているのは、そうしたトータルな自己感覚から切り離されたところで為されているから行き詰まってしまうのです。
だから、この感覚的なものを意識したらいいのです。ていうか、人は皆自然にそうして生きているものなのですが...
意識している、なんて普段“意識していない“ので、すぐに考えてしまう...考えている自分などチッポケな頭の中にしかないのに...
つまり、私という感覚には、思考する私は超えられているのです。
思考を超えなければ、真理に到達出来ないんじゃなくて、最初から超えられているのです!
そういう実存的な広がりがある...超越的なもの共々が私なのです。超越的実存。
私は在るということは、しかし空性に消えてしまうことではありません。
消えてしまったら、私感覚は無くなるでしょう。
かと言って、ここまでが私という限定された輪郭というものも無いのです。
空性に無限なる広がりを感じさせながらも、個的に限定されたような感覚もある...というようなことは誰しもが自然に感じていることではないでしょうか?
現実にそう感じている...この現実に即していない、如何なる哲学的思弁も観念に浮いてしまう他ありません。
少なくとも、今の私には自然に意識が向かうということがありません。


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変わるもの、変わらないもの

2023-09-08 09:00:11 | 詩的文章
雨が降り続いている...
絶え間なく...
クーラーは付ける必要ない!

雨が降りそうで降らない...
そんな日が何日続いただろうか?
クーラー付けっぱなしの日々...
みんな昨日までの話...
夜中に目覚めたら...
雨が降り続いていた...
降らないものでも降る時は降る!
一月分くらい?
気温も下がる!

変わるものは変わる!
一日で変わる!
変えようとしなくたって変わる!
昨日までのことは当てはまらない!

外は雨が降り続いている...
中も鳴り続いている...
耳の中?
何が降っているのだろうか?
陽性だろうと陰性だろうと!
何も変わっていない!
いや…
それは私のものじゃない!
同じものであるわけがない!
昨日は昨日
今日は今日...
変わっても変わらなくても
絶えず、鳴り続いている...



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開かれる、なってくる!

2023-09-06 09:50:15 | スピリチュアル
私は、精神的な道において、自分自身に意識を向けることが如何に大切なことか、と言って来ました。
それが出来なきゃ、悟りだ、覚醒だ、なんてことは夢の又夢なんだ!...って、そういうこともあるかもしれないが...そういうことでもないのです。ちなみに私はそういうことを意志的な努力でやったことないですよ!...つまり出来た試しは無い!
こういうこと(自分が自分であるだけのこと)は、出来る、出来ないって問題でもないでしょうが、“思いから離れる、超える“、なんてこた、絶対でけへん話ですね。
出来なかったら、出来なかったでいい!...出来ないんだから!...
ただ、神的なものに意識を向けていたらいいのです!...思いをそこに入れる、要するに祈る、祈入(小池先生の造語)。そうなると、もう、それ自体、自分自身の“実存的なものが開かれる“ことと同じことになってしまうのです。勿論、自然に思いは離れてゆきます。
この“開かれる“、ということで、超越的なもの(神的な現臨)が開かれることを伝えているのです。
思い、為そうとする私は、そのものに明け渡される...
な~んて、事もなげに書いちゃってますけど...これは、も、本当に、ホント~に驚くべきことを言っているんですよ!
私は何でもありません。ダメなまま、出来んヤツのまま...“長年の修行でそういう境地に到達したのです、私は無になりました、空になりました“...そういう我心がどこまでもくっついて回る世界のことでは全く無いのです!...
言うなれば場が違うのです!...そういう現臨の場にあってそうなるということ...為そうとするのでなく、“なってくる“ということなのです。
ちょうど画面をちょいとタッチしたら、開かれる、なってくる、というネット社会に対応しているかのようです。
ただ、画面をタッチしたら、愛と平安に包まれるということはありませんが...
あれはヴァーチャル空間からは伝わりません。
思い描いているだけの世界からも...
これはただのお話ではありません。我々の現実のことなのです。
意識しなければなりません。祈りを通して...
出来ない人っていうのは、ハナっからその気のない人でしょう?
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