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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

全能の神と自由

2023-05-21 09:41:28 | 独語
神が全知全能ならどうして世界から戦争などの悲惨なことや、兇悪な人間が無くならないのかって?
さあ、神が全知全能なのかどうかは神に聞かな分からないが...
もし、そうなら君は神のしもべか奴隷か子か分からないが、神のなされるままで、自由に生きることは出来ないだろうね!
そいつは、いいことなのか悪いことなのか?...どうなんだろう?
世の中のいいことや悪いこと...そう見える、思えるというだけでそれが本当にいいことなのか、悪いことなのかは分からない!
君にとっていいことなのか悪いことなのか?...そういうことでいいんじゃないのか?
いいだろう?...
僕はいいと思ったことをやって生きてきた...それしかやってこなかったような気がするよ!...
それとも悪いと思ってやる人間って居るか?
やれば不幸になるという...泥棒だって、そうすりゃ今よりよくなると思ってやるんじゃないのか?
そうだよ!...結果はいいか悪いかは別だ!...だから泥棒は逃げるんだ、捕まるよりかはそうした方がいいと思ってね...
いいと思ってやるのは...自由だ!
全知全能の神にはむかうのも自由だ!
それで、即宇宙のチリと化すということもない!
人間の自由ってヤツは、神を超えているのだろうか?
これは、本当にいいことなんだろうか?
それは、あくまでも僕にとって、君にとってだ!
これから外れたら、ホントの自由の侵害だ!
それでも僕は、人が、世の中が何と言おうが、いいと思ったことをやり続ける!
そうやって生きてるうちに...
いいこと、幸福なこと、そして自由と思っていたことをぶっ超えたことに出くわすこともあるよ!
それは、本当にいいこと、幸福なこと、自由なことなんだろうか?
知りたい?
言わないよ!
それを感じるのは、どこまでも君の自由なんだから!
僕は全能じゃないんだから、君に幸福を与えることは出来ない!
神には出来る?
いいや、それに与るのは君の自由だ!
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創造的空への道

2023-05-19 10:05:32 | 人生の裏側の図書室
「それは、すべてのものがそこにおいてあるがゆえに、眼には見えないが、いたるところにある(遍在する)。そして、場そのものとは何かといえば、それはすべてを容れるがゆえに、それ自身は“空“であり、しかも虚無ではない”創造的空“である」
(八木誠一「創造的空への道ー統合.信.瞑想ー」/ぷねうま舎刊)

著者はプロテスタント系神学者、宗教哲学者で、仏教にも深い造詣があり(禅修行も豊富で印可も受けられている!)、ことにキリスト教、仏教の比較研究ではよく知られている方です。
私は昔、その方面の著書を読んだことがありましたが、正直あまり印象に残っていません。
私が玉城康四郎先生に深く傾倒する以前のことで、比較研究というもの自体に何か観念世界を超えられないものを感じて、さして関心がなく、“ダンマが顕わになる“という表現が出て来たところから、“この先生は玉城先生の弟子かな?“、などと大雑把に捉えていたのでした。
そういう訳で、この度初めて八木先生の本に本格的に触れてみたのですが、ところどころ日頃私が書いていることと重なることもあり、多いに共感を覚えました。
まず、前回の記事で、“空の意識状態と、そこに開かれる神的な現臨にある状態を一つに言い表す言葉がほとんど通用されていない“、というようなことを書きましたが、これを八木先生は、“創造的空“と呼んでいるのです。
それは、神的なはたらきの場であると言う。そこで“単なる自我“から“統合された自己~統合体“(このように、二つの自己の在り方が区別されている)へと転じられる...それが宗教的回心と言われる事態でしょう。
キリスト教で、神の子キリストと言われているのが、この統合体たる自己のことで、ただドグマとしてそれを対象にして信じるだけなら、単なる自我の想念世界に留まり続けるだけてあり、転じられる“信“とは、その神的なはたらきにゆだねることとされています。
これは、真にキリストの福音の、仏教との接点のみならず、普遍性への転出を意味するものでしょう。
では、その統合体、神人の実現は、如何に成されるのか?
それは、多くの人が示されるように瞑想です。しかし、それは“信“と切り離されるものではない。この信とは、勿論単なる信仰のことではなく、神的なはたらきにゆだねることであるのは言うまでもありません。
あまり詳しい説明は無いようですが、要するに祈りと瞑想は一つのものなのでしょう。
と...これ以上は、詳しく触れるのはとても無理です。何分、難しい哲学的用語も頻出し、一般向きとは言えませんが、少なくとも私には行きづまりの感のある、宗教、哲学、神学などの界隈にあって、一つの突破への道標となるものを感じずにおれません。
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空を超えて

2023-05-18 09:58:03 | 求道、探究
”空になる、無になる、無念無想になる...”
こういう境地を目指したりするのは、自力修行に取り組む人に多いと思われますが、私は勿論、そういう道を目指したことはありません。だって、普通に考えて出来ないことでしょ?...
それにただ、何も思わない、考えない、意志的な努力をしないというだけだったら、植物人間と一緒でーといっても私はそういうことになったこと無いので、それがどんな、精神的、意識状態なのか分からないのですがーほとんど人間存在としての機能を失うことになるでしょう。
当たり前の話ですが、空とか無とか、思考が無くなるとか言葉では言いますが、本当にそうなる訳が無いのです。もしそうなったら、そうなったことを認識出来ず、伝えられるはずがありません。
私がクドいほど言っていることは、思いの纏わりから離れること、思いを超えることであって、無くなる、無くすことじゃありません。持って与えられたものを無くす道理など無いのです!
禅仏教などでよく取り沙汰される、この”空”の問題ですが、ただ空になることだけを目指してるはずは無いでしょう。先のようにこちらからは容易になれるものでありません。
空じられた(この言葉が適切かどうかはともかく)そこには、思いを超えたあるもの、ある状態が存しているはずなのです。
それは、キリスト教などで言われる、”プレローマ~聖霊の満たし”のようなもの...神的な現臨を伴うあるもののことでしょう。
浄土系などでは、”如来住”とか言ったりしますが、どうも自力修行系には蔑ろにされがちになるようです。
そもそも、このもの無くして、思いが超えられることも無いにも関わらず、私にはそれが不思議に感じてならないのです。
最初から神的なものを、聖霊を、如来を求めたらいいではないか?
え?、”自分以外の何かに頼るべきではない?”
”多分、そう考えている自分以外何も無くなるか、その自分が完全に無くなるかどっちかだろう?完全覚醒というのは後者の方なのだろうか?、多分、完全にフニャフニャだろう?
神、聖霊、如来...人格神的なものを認めたくない向きの気持ちも何となく分かります。
ブッダはダンマと言い、老子はタオと言いました。宇宙意志でもワンネスでも何でもいいでしょう。
ただ、”空だ、無だ!”、何て言っているのは、ズレてるとしか言いようがありません。(それは強固な思いの囚われではないか?)
しかし、考えてみたら適当な言葉が無いようなのですね。思いから離れることとそこに臨むこととが直結(それは正に一つのことです!)したような言葉が...
そういうことに意識が向かないから、”空にならなければ!”、という思いが先走ってしまうのでしょう?
出来もしないことを”考える”より、安らぎを感じる方に思いを向ければ、容易くその思い(空への囚われも)から離れられるのに...

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自由でなければ...

2023-05-16 09:33:42 | 宗教
ある宗教を熱心に信じている人からみれば、ここで色々異なる宗教や、教師の名前が何人も出て来たりして、おかしく思われるかもしれません。
これは言わずもがなのことですが、私は自由な感性で書かせてもらっているのです。
特定の教義や行法などに縛られたくありません。自由さを全く欠いた狂信的在り方は生理的に受け付けません!
私が書いているものは、”自由であること”が大前提なのです。
勿論、社会生活では、多々縛られること、不自由であることを余儀なくされることがあります。それから解放された余暇で、宗教なり精神的な道に勤しんでいるのでしょう?
そこでも尚、諸々のことに縛られ、不自由を背負い込むなんて、もうナンセンスの極みじゃありませんか?!...何のための、精神的な道、神信仰、真理の探究なのか?
私はさかんにここで、神のこと、祈ることの大切さについて書いてきました。
ある会の元信者の方は、その神信仰、祈ることで少しも幸福に与ることが出来ず、むしろそのことで苦しみを受け、辞めた現在でもその感情を引きずっており、それらに意味を見い出せないでいるようです。
私の感じでは、この方はその会を取り巻く宗教集団には付きものの、”集団的思念”の障りを受けており、神を意識する、祈るということの本質的なところには触れていないように思えるのです。
不自由に、苦痛に感じることは、やらなければ、やめたらいいのです。会を辞めさせてくれないのは邪教だから、何としてでも離れなければ心身共に破滅するだけですよ!
神を思う、祈るのが苦痛?...ナンセンスです!、やめたらいい!
愛、平安、リアリティに導かれないものは、祈りじゃない!...形は、謳い文句はそのようでも、別のものに変質してしまった何かなのでしょう。
意識を向ける先が間違ってやしませんか!、周りの教団の御用ききや取り巻きたちなんかである訳無いでしょ!
あなたは自由でなければ、神信仰も、祈りもする必要はありません!
神という言葉に、こんな理由でアレルギーを持っている人も沢山居るでしょう。
囚われる必要はありません。信じられないものを無理に信じる必要などさらさら無いのです。
いや、無闇に信じてはならない!...固定観念を強くして自由で無くなるから!
”信じなければ救われない!”...先の方でも、多くの信者にその精神的苦痛をもたらしているのは、こういった呪われた言葉、思いでしょう。救われたい、だけど信じられない、信じたくない...信じなくていい!、疑問に感じているのなら...
あなたが本当に信じたいものは、疑うことの出来ない、信じざるを得ないものなのではないですか?!
何の障りもなく、自然に意識が赴くもの...自由でなければけっしてそうなりません。
そして、このものこそが、諸々の思念の縛りから解放させ、本当の自由に導くものでしょう。
このものは、あの悪しき強制とは全く無縁です。あなたは自由でなければ、そのみ顕れの扉は開かれない!
宗教界隈には何と本末転倒したことが行われていることか!...


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初一念

2023-05-14 09:26:22 | 祈りと瞑想
”祈ろう!
意識を向けよう!...”
これでよし!、決まり!

人生は最初に何を思うかで決まる!...かもしれない?
祈ろうと思うのは、勿論考えている、そう意志する私ですよ。
だけど、祈ろうという場合、意識がその思いを超えたものに向けられる、というのがミソなのです。ゆだねようとしている。
そう思い、意志した瞬間に切り替わるのです。瞬間、パーッと開かれる!
思いが離れて、その思いを超えたものが臨む!
長い祈りごとを唱えるでもない、瞑想というのなら、即座に瞑想的な意識状態になります。(いつも言うように、祈りと瞑想は切り離せないのです)
何も難しい呼吸法とか、”空になる、無になる!”、むむむっと意識を集中する必要もありません。
祈ろうと思うだけなのです。これがホントの初めの一念、初一念というものでしょう。
一般に使われている意味とは違うかもしれませんが、初め、そこから始まるものを意識する、向いてしまう...一念の念仏と言ったりしますね。
初めにごちゃごちゃ考えることじゃない!、思いを無くそうとか、無になるとか出来そうにないことでもさらさらない!...悟ろうとか?、関係ない!
ごちゃごちゃ想念、雑念がやまなくてもいい...とにかく、意識を向ければいい!
すると、即”現臨にある状態”に切り替わります。
これは、五井先生などが、”祈りは業生の自分がやるのではない”、と言われていたことと関わることなんでしょう。
業生かもしれないが、初めに何に依り頼むかで、天と地ほどの違いが出て来るのです。開かれるか、閉じられるかが決まってしまうのです。
小池辰雄先生は、”祈入”ということをよく言われていました。祈りで”主”の世界に入る!
「私の祈りは、”主様!”の一言です」これは、正しく初一念のことを言い表していると言えるでしょう。ホントはその一言も要らないくらいなのでしょうけど。
勿論、私は先生方のような達人とは比べるべくもない、業生の人間に過ぎません。
しかし、向けられるもの、臨むものは同じでしょう?
あの御方と共にあれば、エライ人間も、ダメな人間もありゃしません。(勿論、先人たちの縁によることも大きいのですよ!)
この初一念は、何人にも与えられていることを私は強調してやまないのです!
”主なるもの”とつながっていない人間など居ないのだから!...


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