goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自己中心と自己認識

2023-03-13 09:52:16 | 意識、照明
精神的な道では、自己自身に意識を向けること、自己認識の重要性について語られたりします。
これは、ある意味で自己中心的なことなのかも分かりませんが、普通言われている自己中心的な在り方とは全く違うことと言わねばなりません。
これは、自己中な人間の言動をよく観察してみれば分かることでしょう。
なるほど彼は、“私は以前の私から変わることが出来ました!“、“長年の修行によりあらゆる業想念も欲望も無くなりました!”、などと自己のことばかり言い表したりしています。
しかし、彼の意識は、その話を聞いてくれ、認めてくれる他者、その目に向けられている、ということを知らねばなりません。
つまりは自己顕示欲、承認要求が強いということなのです。
そして、本当には自己自身には意識は向けられることが無いのです。いやむしろ、それは拒否されていると言った方がいいかもしれません。
内心は、外向きに表れた強がりとは逆で、それに見合う状態とは程遠いものを感じていたりするのです。だから虚勢を張らなければならないのです。勿論自分の話を聞いてくれる人間が居なければそうする必要が無い訳なのですが...
本当に自分自身に意識を向けることというのは、この内心の部分に参入したりするものでしょう。
自分が弱かろうと強かろうと、ありのままを見つめ、認めるということです。
勿論、人がそれをどう評価しようが関係ありません。
私の場合、自己の内面に意識を向ける、自己認識ということもあることはあるのですが、思われた私からは、ほとんど出来た試しは無いようなのです。
自己の内面に光を当てる、何てことを言いますが、それは自分を超えたものによってしかなされ得ないのではないでしょうか?
これは、ほとんど私が“照明“と呼んでいる状態のことを言っているのです。

と、こういうようなこと...外見の強みとは裏腹の弱みとして認識されている、自己中心的な意識状態のことも、そのちっぽけな自意識を超えた、自己観察ならぬ、照明に与る消息のことも、私自身覚えがあるから書き表せることが出来る訳でして...
私自身が変わった気がしないのは、きっと私の思いを超えた部分が大きいということなんでしょう?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

前に!

2023-03-12 09:42:20 | 独語
僕は以前の僕と同じ人間なのか?、と思うことがある...
僕はとても自意識の強い人間(だった?)!
考えている自分だけで生きていると思っていた...
何か悩みがある、苦しい...それだけになってしまう!
先は無い!...前に向けられない!
僕の世界は前に開かれていない!...
袋小路!
閉じ込められている...もう、終わりだ!
一度、重みに耐えられなくなって倒れ込んだことがあった!
前に!
こういう場合大抵前に、なのではないか?
後ろだったら、救急車かなんかが来るんじゃないか?
僕の世界には前があった!
現前するものがある!
いつも、こうだったのではないか?
一度も終わったことなど無いのだ!
前、先は無い!、考えている僕しかない!...
と、考えられていただけ!
僕の前には何があるのだろう?...何が開かれているのだろう?...
何か踏み越えてしまったのだろうか?
一歩前進?
活路が開かれる?
自分から前進し、活路を見い出したことは一度も無い!
開かれていたのだ!
自分から開いた訳じゃない!
だから、以前の僕と何も変わってないように思える...
以前の僕も今の僕も、多分前のめりに倒れる人間なのだろう...
何が違うのだろう?
多分...
後ろの方から聞こえてくる、”変わらなきゃならない”、という声のくびきから解かれたことだろう!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神のみ実在する?

2023-03-11 09:30:19 | 
精神的なことに関しては、私はもうとにかく、神のことを書いていたらいい、と思っているのです。
神はすべての道!
だからと言って、”神を信じましょう!”なんてことを言うつもりはありません。
ご存知のように、信じられる神のことなど、もうウンザリ...垢が付いてる、思念にまみれてる!
だからだから、私は神は人の思いを超えたものだ、と何度も言わねばならない!
あまりにシツコクて垢が付きそう?...いや、神を”本当に意識し、その現臨にある”、ということは、その言葉が示しているとおり、マンネリや形骸化とは全く縁が無いことです。もしそうなったら、もはやそれは現臨の事態から離れてしまった、別のものに変質したことを意味することになるでしょう!
寝ても覚めても、あらゆる固定観念から離れて神を意識していること!
といって、神の実体のことは分からないのです。分からなくていい!...分かったと思うことが思念に取り込まれ、垢が付く始めなのだから!
分からなくても、自ずと意識が向けられる、動く、惹きつけられてしまう!
神は私を超えている...だから神にあって幸福に与ることがあっても、それは私のみの幸福にとどまらないことを示唆しているのです。
私だけの幸福...そこに神は居ない!...私とすべてのものの幸福...そこに神はお在す!
ただ、”神!”と意識を向けているだけで、世界平和を祈っているようなものです!
主の祈り、念仏...何でもそこに溶け込んでしまう!...だから、祈らざるを得ない!
五井先生もラマナ.マハルシも、”神のみが実在する!”と言っております。
これは、インド哲学で言うように、”神の他はすべて幻(マーヤ)”、ということを意味しているのでしょうか?
そこで、”神のみが実在する!”とか”神以外はすべて幻、消えてゆく姿!”、と実際にそう感じても、得心してもいないのに、その言葉を信じよう、念じようとしたって無駄ですよ!...例によって思念の沙汰にしては!...
そのことを神的な現臨にあって感じてみるのです。
すると、自分の周りのすべての客観的世界、自然も、人間が作り出したものも、普段思い、感じていたよりも、リアルな輝きを放ち、自分と一つのもののように感じて来るようではないか!
この意味は、神にあって、幻のように映っていたものも、実在するように感じて来るということなのではないか?
又、実在する、リアルなことは幸福と切り離されないもの、と感じられるのです。
神にあって、あらゆるものは実在する!
だから...神にあって祈らざるを得ないのです!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福に感じていなければ!

2023-03-09 10:02:40 | 雑感
人間は考え、行動する生き物だ、と当たり前のように思われています。
そして人生は何を為(成)したかによってはかられたりします。
何をしていいか分からないのに、どっかから、”為せ、為さねば成らぬ!”という声に迫られ、せき立てられるように感じて、為せないことにひがみを感じたり...
まるで為さはければ、幸福を得ることが出来ないかのように思われているようです。
だけど、もし何にもしなくても幸福に与っちゃってたらどうなのでしょう?
例えば、テレビを観てたら...とか外に出て夕焼けを眺めてたら...とか行動と結びつくものではあるけれど、普通考えられている能動的なそれではありません。
もっと受動的で本当に何もしなくても幸福に与るということもあるのです。意識的になっているということはあるのですが...そう、これを毎度書いている訳ですね!
目的論というものでなく、すべての人生の軸になるものは、”幸福であること”と言ってもいいでしょう。”幸福を得るため”、ということは、ここでは敢えて外して言っているのです。
だってそう取ると、幸福を得るために何かの行動に駆り立てられたりするんでしょう?
精神的な道でも、短絡的に行動する人は、難行苦行や禁欲、あるいはオカルト教説にハマったり色々闇雲に突っ走ったりします。
それで、本当に幸福が得られるのでしょうか?...そんな保障などどこにもありません。
一つのヒントととなるものとしては、幸福に与れるものなら、それを目指して何らかのことを行っているプロセスにおいて何かしらの幸福を感じ取っているはずです。
私が言いたいことの本質的なことはこの辺りにあるのです。
つまりは、何かをやろうと、やるまいと”幸福であること”!
もし、何もしなくても意識的になっているだけで幸福に与っているとして、さらにそれを確たるものにしようとして、何かを為(成)そうとしたが、(これは得てして世の常として有り勝ちなことなのですが)、その課程で幸福感を失うことになったとしたら、こんなに愚かなことは無いでしょう!
逆に言えば、そうしたあれこれの行動に走ってしまうことは、その起点となるところですでに”本来的幸福”を感じることが出来ない、それを失ってしまっているということでしょう。
そうでなければ、そのように迷ったりはしないはずなのです。
人間は、考え、行動する生き物です。勿論、何もしなくて寝てばかりで生きる訳には行きません。
何をするにせよ、幸福であることから離れずに行動することは可能なのです。”幸福であることを意識する”ことによって!...軸からブレたりはしない!
そう考えると、”何をするか?”、ということはあまり重要では無いのかもしれません。
というか、幸福に感じていることは自然にやらされているものなのでしょう。

もう、すっかり春ですね!
”幸福、幸福”って、一寸お花畑すぎるみたいですけど、私の場合、それは神と共にあるもの、切り離せないもの、であるのは言うまでもありません。
ということは自分だけ幸福であればいい、ってことにはならないのです。
皆さんも幸福であらねば...でなきゃ、こういうことは書いてません!
そうすることで幸福に感じていなければ!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幸福であることを意識してみる

2023-03-08 10:30:19 | 意識、照明
いい映画、ドラマを観て、いい小説を読んで、”ああ、いいお話だったなあ!、と思いますね。
人生に劇的変化をもたらすものとの出会い...”もし、そういう出会いに巡り合うことが出来たなら、きっと幸福になれるに違いない!”
だけど、そういうことを思い浮かべている時、幸福に感じてないでしょうか?
それがフィクションでなく、実話に基づくお話だったらどうでしょう?
そうですね、お話だったらフィクションだろうと、ノンフィクションだろうとあまり変わらないでしょうね。
宗教書、思想書...説教、スピーチ...”いいお話、スバラシイ考え方だった!...”
そんなに良かったなら、スッバラシイものだったのなら、何故ただの誰かのお話だけにしてしまうのでしょう?...何故、”~だった...”で終わりにしてしまうのでしょう?
私は絶対に、ゼ~ッタイに!、そんなんでは満足出来なかったのです。
ただ、私如きがそんな人生を一変させるものに与ることは無いだろう、とは思っていました。
しかし、ある夜中、何の本か忘れましたが、スッバラシイ本を読んでいたのでしょう。思いがけなく歓喜が自分の中から突き上げて来たようになり、幸福感を抑えることが出来ないで、”もう、居ても立っても居られない!”、と雨の夜中だというのに、外に飛び出してしまったことがありました。もう、お話の世界を飛び出してしまったのです!
他人事のように、読んで聞いていたことがわが身のことに及ぶとは!
本を読んだだけでそんなことに与ることなど...あるんだ!
しかし、それも、一時の精神的興奮、高揚状態に過ぎないと思っていたためか、すぐに通り過ぎて行ってしまいました。
あまり意識的になっていなかったのです。
いいお話に接して幸福になる...そもそも幸福に感じる何ものも無かったならばそれに接しようとすることも無いでしょうが、幸福に感じたならそれをもっと意識してみるのです。
それはお話と共にあるものなら、それが終わったら消えてしまうのだろうか?
他の誰でもない自分自身が幸福に感じているのに、何故誰かのストーリーにばかり任せていられるのでしょうか?
意識的になるということは、自分自身を置いては無いのです。
精神的興奮状態と共にあるものなら、それが終わったら消えてしまうのだろうか?
意識的になることで、幸福な状態というものは、爆発的に動的なものとして表れることもあれば、より根本的には、静的な静寂をもった常在なものでもあることが知られるでしょう。
幸福であることを意識してみる...それは全くもって自己自身のことなのです!
ただのお話にするのはモッタイない!...




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする