人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

選択の余地が無いi

2021-11-20 06:41:56 | 詩的文章
僕は迷っている
ああしようか、こうしようか...
考えあぐねている
考えている時は、大概迷っている
何かをやろうと考えて...
何の意味があるのか、何が出来るのか?
どこにも落ち着きそうにないので
祈ろう...
そして、寝よう...

そして、目覚めたi
もう、迷っていない
滞っているものは何もない
選択の余地が無いi
どういう結果になるかは分からない
何も得るものは無いかもしれない...
されど、思惑は絶たれている
行かなければ...
義務など何も無いが...
何が呼んでいるのだろう...
呼ばれるものにゆだねる
どうなっても後悔は無いi
何を得るも得ないもないi
思いを超えたものに通られているのだから...




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考えすぎるあなたに...

2021-11-18 10:02:29 | 独語
あなたは考えすぎだi
何もかも考えごと...
僕の人生は何もかもやり遂げたから、もう何もやることはない、ということも...
まだ、20代なんだって?
私なんかとっくに墓場行き、ツタンカーメンじゃないかi
先祖を敬うことも、日本人に生まれたことへの感謝も...
そういうことをこれからの人に伝えて行きたい、ということも...
何もやることはないんじゃなかったっけ?
だから、考えごとの無限ループにハマるだけなんだi
一歩踏み出すことを考えていても、現実に一歩踏み出さなきゃ、一歩も進まないよi
話は面白いとこもあるけど、そのうち聞いていたらイヤになるよi
あなたも言い続けて、考え続けてイヤにならないの?
ホントは、その無限ループから逃れたいんじゃないの?
もう、疲れて、シンドイんじゃないの?
人に対しては、多分イヤなヤツが多そうだからともかく...
自分には素直になった方がいいよi
でないとホントに、"自分しか居ない"、というその自分も...
頭だけの自分だけになってしまうよi
先祖を敬う、日本人に生まれたことに感謝する気持ちがあるんなら...
そう、感じている自分が居るんじゃないのか?
あなたは自分の気持ちをぶつけて、聞いてもらいたい相手を探しているのか?
その相手との交流は、考えごとにしてちゃあ伝わらないと思うよi
素直にホントの気持ちを伝える...
"僕は疲れた、苦しい、ここから逃れたいi
だから、助けて下さいi"...と
その相手は目に見えないのかもしれない...

で...あなたは何しに来たんだっけ?
何でそこに居るんだっけ?
何で私はこんなこと話してんのかなあ?
誰に話してんのかなあ?
ま、いいか...


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共感と根付くこと

2021-11-17 12:03:58 | 求道、探究
私のように複数の教師に共感し、その宗教的グループと関わったことのある人なら、例えば、こっちの教えとあっちの教えは違うことを説いていて迷ってしまった、という経験があると思います。
私にも勿論ありましたよ。そういう時、頭の中で色々考えていて、考えて結論を出そうとしているんですね。
んなこた、自然(じねん)に意識が向けられる方に従ったらいいんだ、って今なら言えるのですけど...
これは言うまでもなく、自分に"そうせしめるもの"が根付いていない場合の話です。
じゃ、今度はその自分の中から何かの火種みたいなものが感じられて、それとある教えと合わないように感じてしまったら?
これは、自分がそれまで対象にして信じていたものが、自分の中から感じられてくるものによって、揺さぶられている状態と言っていいでしょうが、本当に根付いたものであるなら、選択の余地など無くなるはずです。
現実に、意識がただ観念的に信じているものに向けられることは無いでしょう。
だから、そういう信者が、精神的目覚めに与ることはまず無いと言えるのです。
思いを超えたところからもたらされるものは、信念とか信仰といったものを超えているものだから...
しかし、私はここで、単純にあれか、これかどっちかでなければならない、ということを言っている訳じゃありません。
それによってその教師、グループと離れることになるか、どうかということは、各々の生き方というか因縁次第によるでしょう。
しかし、自分が何に共感し、何が根付いているか、考えている自分からは分からないものです。本当は、その共感したものと、根付いているものは根底ではつながっているのかもしれないのです。
でなきゃ、そもそも共感するということも無いのではないでしょうか?
ただ、表向き、外向きに表された教えというものは、相対的現実の制約を受け、時にはその本来性から変質してしまうこともあったりなど、変易というものがどうしてもあります。
それについて、あれこれ思い巡らしているこっちはアチコチ分裂するし...
色々考え、迷っているのなら、自分の信念、主義みたいなものは一先ず脇へ置いて、共感したものを感じてみる...これは、意識を向けるということとほぼ同じことです。
(あのね、こういうことは書いている私自身も今、現実にそうなさしめられていることなんですよi)
いやあ、共感することと、根付いたものというのは、何が違うのか分からなくなって来たではないかi...諸々の思いを超えて...
それは考えたって分かりゃしません。そう感じられてくるのです。
私は最初、共感したことは、だんだん根付くようになる、なんてことを書こうとしていたのですが(実際にそういうこともあるんでしょうが...)、共感したことは、最初から根付いていた(i?)...そう感じられる。
もし、そういうものを感じていて、どっちに赴こうとしているか、といったら...どっちかかもしれないし、どっちでもいいのかもしれません。
どっちにせよ、自分の奥に根付いているものを抜きにしたら、本心にウソをつくことであり、私は私自身で無くなるだけでしょう。
実にそういうこと自体が導きであり、神的なもの...すべての私なのですから...

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火種

2021-11-15 11:47:48 | スピリチュアル
"この火種を絶やしてなるものかi、もっと熱くなるんだi、前を見据えるんだ!、この命燃え尽きるまでi"、って...
もう燃え尽きちゃったかもしんない...トシだし。
そのせいか、堪え性が無くなって、すぐカッとなって熱くなることはあっても、中々前向きに、情熱的になれません。
サメちゃってる方だったのです。昔から。
だけどねえ...そうムキにならんでも、熱いというか、暖かいものなんですけど、自ずといつも込み上げてきちゃうんですi
いつも火種は、絶やされていないのを感じている次第なのです。
そういうものは既に与えられている...それは、自分で何かをどうこうするんじゃない、どうこう出来ないものなんです。
これは正に火種というのが相応しい...意識を向けるとパッと自動点火のように燃え、広がるって感じが...
ただ、それに気付いていればいい、感じていればいいのです。あー、こう書いている最中にもポッ、ポッと...逆にどうやったら消えるのかが分かりません。(消そうとするヤツの気がしれませんけど...)
ということは、どうやってこの火種が私に根付いたかが分からないのです。
うーん...と、現臨というものを感じ始めた頃だったとは思うのですが...
あi...なーるほど、これはそういうものの感じ方の一つだったってーことなんだi...私が"照明"と呼んでいるものが、日の光のように外から、上から来る感じなのに対し、これは中から来る感じなのです。
この言葉からよく連想されるようなことで、"火種を絶やしてはならない"...と、ある宗教的道統を受け継ごうとか、このサメたような私でも全く思わんでもありません。
いいや、それは全く身の程を弁えていないようでもあるし、大体そういう道統の中にちゃんと身を置いたということも無さそうだし、私がエラそうに言うこと自体が間違っているのでしょう。
私はいくつかそういう道統と縁があったのも確かですが、私に与えられた火種というものは、一つしかありません。これはよく考えたら、感じてみたら当たり前のことです。
この火種を抜きにして、あっちの道の火種、こっちの...なんて言うのは全くおかしなことでしょう。アチコチに違う火種があるなんてのはウソですよi
勿論、そこには各々の有り様にアジャストされるということはありますよ。だけど根本的なものは一つでなきゃおかしい...私も、私の主も一つなんだから...
これを置いて、どっかにあるような火種に取りすがろうとすれば、私は私でなくなるだけだろう。
それは私を"中から"私在らしめているものに他ならないのだから...
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高御位山に日が落ちて

2021-11-14 10:10:39 | 秘教、その他団体
播州高砂の北方に高御位山なる、古来播磨富士とも呼び慣らされている名山あり
その山頂には異様、偉容に巨岩が仁王のように下界を見下ろすようにもそびえている
されど、その南斜面は岩肌ばかり目立つはげ山だった...木はあまり育っていない
神の気、霊気、火の気...水の気が足りないよう...
ここは古来より神の道、修験道の聖地だった
鹿島明神、熊野権現、艮の金神...古伝所縁の道を借りてこそ表れ、開かれる本末の道
古伝侮るなかれ...
神の社は、主神を祀り、主一無適の道を明らかにする場
四体あっても、一体に帰一されるものを欠いては...立たない、開かれない
神は人に鎮まれども人に非ず...本末誤るなかれ...
その南麓にある聖地が設けられ、四面体の角柱があった
銅製であったか、何か文字が刻まれてあったが、錆び付き、色褪せて、判読出来ない
四つの何かのメッセージらしきもの...古色蒼然のうちに消えてしまったのか?
そして、その下には何の変哲もない、一軒家にしてはやや広い、お家があった
そこが、"人類の帰り場所"なのだ、と言う
私はそこを訪れる度に聞かされた..."お帰りなさいi"
"今、帰りましたi"、と言うべきなのか?...一度も言ったことはない気がするが...
そこが、"人類の、世界の歴史開顕の時を告げる"場なのだ、と言う
時の声侮るなかれ...
今、時の人たちは何を求め、何を望み、どこへ向かおうとしているのか?
その言葉にならない叫びに耳を傾けなければならない...
その口を塞ぐようなマネをしたら、開かれるものも閉ざしてしまうだろう...
されど、なるようにしかならないのも時の定め...
みんな、どこへ行ってしまったのだろう...
新しい人類...
高御位山に日が落ちる...
すべては過ぎ去ってゆく...
されど...たとへ誰も居なくなったとしても...私の書かれざる聖典には、ハッキリとずっと記されている...
"ときのひと"
秋から冬へ、花は散り、木は枯れて景色は移りゆけども...
石が叫ぶ時が来ることもあろうことなど、誰に知り得ようか?
見える火は消え去ろうとも、内なる火は燃え続ける...
どこかで、人知れずその火種は絶やせず受け継がれているのだろう...
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