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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

爪切りが消えた?

2019-08-05 12:12:35 | 身辺雑記
昨日の朝、爪でも切って、出かけようとしたのですが、爪切りが棚から落ちてしまいました。
「ポトッi」と下の絨毯に落ちた音が確かにしたのですが...
"な、無いi...何で?...んなーに、チョイとその半径20センチばかりを探せば見つかるさ...どっかへ飛んでいく訳じゃあるまいし..."
しかし、無かったのですi 色々とっちらかってた周囲を丹念に探しても、半径1メートルに範囲を拡げても..."無いi なーい"ではありませんかi
"んもう、いつぞやの眼鏡といい、何で出かける間際にこういうことが起きるかなあ..."、しかしですねえ...
"ふふっ...僕はね、精神的に進化しているから、こんなことで心を乱したりなどしないんですよ..."
と、言いたいんですが...全くこの怪事で頭がいっぱいで、こっちがとっちらかってしまいましたi(毎度のことです)
もしかして、絨毯の下に潜り込んだかもしれないので、両手で"バンバン"と、その突起物に当たるまで、"絨毯爆撃"を試みましたが、やはり見つかりません。
そして、ここであることが頭に過ったのです。(ある人は、これを現実逃避と絡めた"転化"と呼ぶだろう...)
"これは四次元空間に消えたんじゃなかろうか?...ほぼ垂直に"ポトッ"と落ちたものが、あんな探したって言うのに、無くなるはずがないではないか?"
しっかし、私は、たとえ、UFOが現れたとしても、霊が出たとしても、"そういうことがあったとして別に不思議ではなかろう"と、否定したりなどしないのですが、こんな時は、内心"そんなバカなことあってたまるかi"と強固に疑っているのです。
超常的なことを、強固に否定する人間の気持ちも、なんだか分かる気もしてきました。
UFOや霊と違って、私に強く"疑えない現実性"のような感じをもたらしているのは、"ポトッ"という音を確かに聞いているから、という理由はあることなんですが...
現世で生きている人間は、どっかで見えないものを否定しようとする心持ちが根強くあるのかもしれません。
こ、これはしかし、私自らこのブログで語ってきたことを根底から覆すことにもなりかねないじゃありませんか?...
だ、だからですよi..."そうだよ、そうだよ、あの爪切りは四次元だか、霊界に消えたかしたんだ、そうに違いない...そう、そう神隠しだi...ウンi"
と、一先ず頭の中を一段落させて、近くのファミレスで朝食を楽しむことにしたのです。
が...ちっとも楽しめんがなi..."ここに在るフォークがテーブルから落ちると...チャキーンiとなって..."、とまだやってる始末...。
私はこういう宿業で生きてるんだからしょうがないのです。
しかしですね...こういうの大抵帰ったら事件は解決するものなのです。そうでなければ、今日からずっと"四次元、霊界、消えた、消えたi"と、自己催眠のように念じる修行をするまでです。
で、帰って改めて落ち着いて探してみると...6個入りの徳用ロールペーパーのビニール袋が目に入りました。"ははあ、この破いたところに落ちたんだろう"、と一度はひっくり返して出てこなかったのですが、も一度手でペーパー間の隙間を探っていると...
"あったじゃないかあi"
だから、6個入りロールペーパーはかさ張るからイヤなんですi、三段目までは気がつかんがな...4個入りは無いのかi...大型ドラッグストアはこれだからイヤだねえ...

この顛末、すべてこのクソ暑さのセイだi、違いないi...実に大いなる転化ではありませんか?...。
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業縁と法縁

2019-08-03 12:21:07 | 雑感
何度か書いていますが、私が小2の晩秋の頃、TVで「フランケンシュタインの怪物」を観て、その恐ろしさに囚われて、頭から離れなくなってしまい、生まれて初めてノイローゼ状態が続いたことがありました。
この時から、私は"思いというものは、自分からはどうにもならない、コントロールの効かない怪物のようなもの"ということを思い知らされたのです。
周囲の「そういうことを考えなければいいんだi 思い描くからダメなんだ」という声など、何らの助けにもならず、ただ白々しい思いにさせられるばかりでした。
中2の夏頃起きたのは、もっと奇っ怪で、特に何を観て(やはりTVで広島の原爆の猛威、惨状を観たことは、ショックでしたが、覚えている限りそれを引きずるということはありませんでした)、何に触れてそういうこと囚われる、ということもなかったのです。
この時、私の心を襲ったものは何かと言うと..."囚われる心それ自体"といったものです。お分かりだろうか?
"ああ、又囚われることがやってくる..."、囚われることをまるで"見に覚えて"いるみたいに、周期的にそんなことになってしまうのです。
これは一寸理解に苦しむことじゃありませんか? 全くです。こんなこと誰にも相談すること出来ません。
実際、兄にちょこっと言ったら、「何を言っているのか分からんi」となりました。
考えまいとすればするほど、深く絡まれてしまう、思いのガンジガラメ状態。私はこうなるのが自分の宿命と感じるようになりました。
このままではいずれ私は思いの重み、絡みに屈して、崩壊してしまうだろう...
"ああ...ヤツが又やって来る...何で又私はこんなケッタイな思いを背負わせられなきゃならないのか?"
いやはや、我が思いほど我が思いの通りにならないものはありません。
だから、いくら思い方を変えようとしても無駄ではないでしょうか。
思い自体に、自分の思いを超えたものが内包されているようですから...。
そうです。これは思いを超えたものの消息とパラレルになっているのです。
思い方を変えたり、そっちに意識を集中しようと励んだりしなくとも、ヤツは、否"あの御方"はやって来て下さるのです。
何という奇っ怪な、否神妙なことじゃありませんか?
これにより、思いが囚われるのでなしに、逆にそのくびきから解放されるのです。
私はこのように、宿業的な思いというものをイヤというほど知らされていたためか、精神的な道の探究で、意識集中や、意思想念をコントロールする修行などには全く関心が持てなかったのです。
そして身に覚えているように、思いを超えた"恩寵"というものを受け入れることが出来たのでしょう。
これは私の場合、そういう法縁があったということを述べているまでですが、実に業縁と法縁というものは、裏表のもののように感じざるを得ません。
自分から囚われた思いを手放すことは容易ではありません。
思いは自分でどうにも出来ない...このことを示されることが、手放せるものを頂く始めとなるでしょう。

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詩人と教師

2019-08-02 11:58:23 | 詩的文章
「自分が知らない強力な何ものかが時として僕を支配しにくる、...僕がそれをつかむ、いやつかむのではない、ー僕がそれにつかまれるのだからー」
「これら見えない力のめぐりには、何か僕自身にも説明のつかないあるものが漂っている。愛のような何かあるものーだが、姿のないもの、実体のないものへの愛なんてありうるだろうか? しかし、そうなのだ、やはりありうることなのだ」(ホーフマンスタール❬19ー20世紀、オーストリアの詩人、作家、文学者❭「帰国者の手紙」.岩波文庫他)

僕は、身のほど知らずにも人に何ごとかを教え、諭そうとしてはいまいか
そんなこと...誰が頼んだだろうか、誰が耳を傾けようか
何故、上から目線のようになる必要があるのか
一体、これはどういう宿業なのだろうか
人を、世の中をどうにかしようとする業
周りに押し広めようとする業
自分がやり主にならんとする業
迎合する業、反発する業
業が業を呼ぶ無限ループ...
教師になろうと思ったことも、ほんの一時あったが...
そんな資質に恵まれなかったことが救い
人に教え、従おうとする世界に救いはない...

僕はただ、あの驚くべき、喜ばしきことにでっくわし、与ることだけを表したい
たとえ、そんな才能が無かろうと、表すことに資格も、人におもねる義理もない
教師になど...
詩人になりたい、ありたい...
詩人なら幼児でも、誰でもなれる
あの言葉に表せないことに、コ難しいことは要らない
こうであるべき、ねばならないものなどない
驚異、歓喜そのものを別のものに変えてしまう...
これほど罪なことなどあろうか
ただ、理屈なしに、自ずと表されるままに詩う...
教え、従う地獄をよそに...
詩人が天国に誘う...






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真我はX

2019-08-01 05:40:54 | スピリチュアル
悟り系スピなどで、よく説かれている、"私はいない、全体しかない"という教説について、私はずっと疑問を呈してきたのですが、どうして"全体しかない"と、そう分かる私がいなくて、そういうことが言えるのか? ということがどうしても腑に落ちないのです。
"全体だけしかない"...これは、"まっしろ"、何も無い、絶対的な無のようなものではないでしょう。そう言っている私は在るじゃないかi
何も分からない、認識出来ない、示されないことについては、何も言えるはずなど無いのです。
"私はいない"と言い得るものについては、"そう考えている自分はいない"という含みであれば、一応は頷けることが出来ます。
"考えている私"というものは、それだけ日常において自己と同一化されている、ということなのでしょう。
そして考えている私がいなくなると、私というものは、全体なるものに取って代わる? あるいは全体の中に溶けちゃう? んな訳なかろうi
いや、むしろそうなってみて初めて、それまで示されなかった"本当の私"を実感する...かもしれない...。
つまり、"個である私がいなければ、全体しかない"、とか"どっちかしかない"ということにはならないのではありませんか?
考えている自分、思考を超えたもの、それに先立って息づいているもの、上よりの光(照明)、そのものによって、無限なるものに開かれるものが、在るのです。(いやホントは"在る"という風に実体あるもののようには、言い得るものではないのですが...)
私はずっと、この辺りの消息を書き表して来たのです。
これを真我として説明することも出来るかもしれません。が...
それは、"こうこうこういうもので..."と説明など出来るでしょうか?
もし、それで分かったつもりになるだけだったら、ずっとそう考えている自分のままでしょう。
"自我があり、真我があり、それはブラーマンみたいな一者と一つである..."
そういう教説をいくら頭に描いていようと、客観的に、第三者みたいに、それを向こうにおいて、捉えられるものではないのです。
私は真我というものが在る、というその実体のことは知らないのです。
ただ、考えている自分の与り知れないものであることが知らされるだけなのです。
思いが超えられると共に現前してくるものがある...それは、思念による空想、妄想ではないということです。
一定の知的理解というものはあっても、それはどこまでも自己に直接顕わにされるものではないでしょうか?
真我は客観化されるものではない...他人の見解など及びではありません。あなた自身で自内証されるものです。
釈迦が弟子の"真我というものが在るのか?"という質問に対して、"無記"としか答えなかったのは、そういう先見に囚われることを避けるためだったのでしょう。
この意味で、真我は永遠のXなのでしょう。その正体は永遠に分からないものかもしれません。
正体が分かったとしても、分かったあなたの思念に取り込まれるだけでしょう。
"思われた私は、本当の私ではない"ということが示されることがあるだけなのでしょう。
永遠のX、永遠のなんじがあるのみ...。
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