人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

覚えていたらいい

2018-01-22 15:06:53 | 求道、探究
"あ、又怒りの感情を出してしまった。
又、Hなことを想像してしまった。ネエちゃんを見るたびにこんなだi
あの教え、この教えに違うことに心が傾いているが、これでいいのだろうか?
混んがらがってしまった...まだ迷っているんだ...
いつまでもこんな低次元に居てはいけないんだ...高次元に居なければならないんだから..."

私は一頃このように、"こうしなければ、こうでなければ、何が正しい、間違い、かにが善い、悪い..."という、神経質なまでに窮屈な思いに囚われていました。
結構真面目だったのです。
こういう精神状態にあって、少しも心に平安、安心というものがもたらされることなどありません。
精神的な道を求める、求道というのは、そもそもそういうものに預からんとするものなのじゃないですか?
思い出したようにそんな気分になれるのは、その思いの縛りから解放されている時だったのです。
何のための求道、何らかの宗教的帰依だか分かりゃしません。
道を求め、帰依していたら心が軽くなり、諸々のトラワレから解放され、迷い、障りというものが無くなって来なければオカシイのです。
そうすると、"あ、迷ってしまったi"と又変なループにハマったりして...
迷ったっていいじゃありませんかi
怒ったって、スケベだって...
自分をどうにかしようとしなくても、どうにかなるものを覚えていたらいいのです。
"ただ、一つその諸々の思いの底に、表の自分がどうなってても、こうなってても変わらないものが息づいている"
思いの壁の狭間ー通気孔ーを通して、そういうものが思い出され、感じられたらいいのです。
(これを"常に気付いていなければならない..."なんて出来そうにない思いがもたげてたら、悟ったつもりの人になろうとしているのです)
"何故、自分は精神的な道に駆り立てられるのか? 何故 自分の中に神仏に惹き付けて止まないものがあるのか?" ということに思いを到せば、その心の底に息づいている、なにがしかのものに気付き、つながることも出来るでしょう。
精神的な道とは、自分の思い、力だけでどうこうする、どうこうなるものじゃないのです。
自分の思い、力で何とかしたい向きは、狭い思いの中で、高次元世界、悟りの境地を目指せばいいだけです。そこに平安、安心があるか、どうかは知りません。
本当に求められるべきものは、その平安をもたらすもの、そのものであるはずなのです。
そのもの無くして愛も平和も悟りも無いのです。
そのものが自己に明らかになるにつれて、この内実に覚めてくることでしょう。
問題だらけの現世では、諸々の思いに囚われてしまうこともありますが、一瞬そのものに意識が向けば、アレヨという間に雲が晴れるように、思いの風穴から息吹が吹き込み、トラワレから自由になります。
私に示された道とは、そのものを明らかに、否そのものの方が私に顕になるということをいよいよ覚えさせられています。



コメント
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