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人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

日月神示

2016-04-12 12:43:50 | 人生の裏側の図書室
「富士は晴れたり、日本晴れ。神の国のまことの神の力をあらわす世となれる、仏もキリストも何もかもはっきり助けて、七六かしいご苦労のない世が来るからみたまを不断に磨いて一筋の誠を通して呉れよ…。」(日月神示第一帖 ヒカルランド他、刊)

私の中にはいつも相反するものが同居しています。
実に目敏くて、コロコロと興味の矛先が変わる…。結果訳の分からない精神の遍歴が生まれます。
しかし、同時に初めて接して以来、ずっと何十年も手放すことの出来ないものもあります。
まるで初恋の人が忘れられないように…その一つは「日月神示」。38年前、初めてその小冊子を手に取って以来、私の関心は離れた事が有りませんでした。当時は知る人ぞ知る資料でしたが、今や所謂神サマ関係を超えて、宗教、スピ界で知られていますね。正直、神のお告げ、予言、超能力…いいかげんこういうものからは卒業しなければならない…と何度か思った事も有ります。(いや…自分で言うのも何だけど、もともと私はそれらにはクールなスタンスを取っていたっけ…)でも、何度読んでも、あの何とも言えない響きが伝わってくるのです。
この神示には今日実にこの種の色付けされた、通俗受け狙いの関連本で溢れかえっています。中にはそれらの色付いた本を読んで、この神示が分かった、掴んだつもりの人も散見します。それも結局は(肯定、否定問わず)その色に染まり易い人が勝手に染まっていくだけのことなのでしょう…
あの独特の神サマの言い回しにアレルギーを持つ人には無理には言いませんが、是非(どんなものでもそうですが)原書(勿論翻訳されたものです)に当たってみる事をお勧めします。
日月神示と言えば、もう言わずと知れた予言です。私はしかし、その事と結び付けて読んだことはほとんど無いです。
いつ、どこで何が起こる…どうして相も変わらずこのテの予言に関する短絡的な言説が後を絶たないのでしょうか?
日時を切った予言を流布することの危うさというものは、この神示の顕わされた一時代前、大正十年の大本教の予言狂騒曲が招いた、弾圧事件で教訓になっていることです。”末代に残すぞよ”と大本教神示でも示されていたことです。
そして”世の立て替え、立て直し”というものは、私やあなたの世界の立て替え、立て直しを離れて有り得るものでは無いはずです。
確かに神示には衝迫させるを予言的示しも少なくありません。
これは、昭和19年という太平洋戦争突入前夜に出された、上巻部分に集中しているのです。
しかし、幾たび読み返してみても私に感じられるのは、神と人を親子に見立てた、日本古来の神の道、生成と結び、愛の交流…といったものです。
それは、予言などに捉われていても伝わるものでは有りません。直に触れないと分かりません。
だから一先ず、色眼鏡を外し、脇に置き、生まれ赤子になったつもりで親しむ必要が有るのです。
ミタマ磨きというのも眼目は、こういうところに有るのではないでしょうか? 神示はよくヨミ、カムことか…
とは言え、”天子様”、”日本=ユダヤ同祖論”こういう関心も私には無い訳ではありません。
でも、それも数多の決めつけた色付いた解釈とは無縁です。
それらは心象に息づいているものであり、知恵によって取り込まれた時、心外な事態となります。
世に出るのは元の親なのであって、有象無象では無い!
誰だって天子様と言い得ようし、誰にも身もあれば魂もある(それがミタマか?)。それはミタマ親と一つとなった時、ありやかとなるでしょう。
”霊(ひ)の本はユダヤと一つになって世界をスメル…”というようなことは、ずっと私の心象にはあることですが、現実にどうなるかは知らないです。
要するに、信じる信じないかは皆さん次第です。では…Hello,Byebye(ずっと前、西荻でギャルと歩いているS氏を見た…これは、ヤリすぎか!)







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我ならぬ我

2016-04-10 14:08:31 | スピリチュアル
「人が幸福を望むのは、幸福が自分にとって自然なものだからです。…
幸福とは真我の本性そのものである。」(ラマナ・マハルシ)

幸福でいた時のこと、楽しかった時のことを思い浮かべてみて下さい。
桜が視界一杯に咲いていた…心から欲しいと思っていたものが見つかった…無中になってマンガを読んでいた…初めてのデート…
その時あなたは何も考えていなかった、考えられなかったことでしょう…。喜びでいっぱいで…
何も考えていない、ということは我を忘れていた、ということではないでしょうか?
と同時に、そこで生の充実感が感じられなかったでしょうか?
我を忘れるって…”私はいない”ってことなのですか?
”私はいない””全てはストーリー”…まるで使い古されて、すりきれたテープみたいで…フニャフニャ、何を言ってるのか分かりませんが、”私はいなくて、全体だけがある”などと言いますが、全体というのは始まりも終わりも無く、動きとかハタラキとかも無い、ということです。
空論みたいなもので、分かったつもりの人は、常にそうした考えごとにハマりこんでいるのでしょうが、我を忘れて幸福感にある人は、そこに生成し続ける生のエネルギー、愛のハタラキを実感せざるを得ないはずです。
まあ、それが使い古されたフレーズ”今ここにある”ということになるのですかね…
そうですね…そこには”あいでんちちい”で固められた自我というものは無いでしょう。
でも、”私はここにある”という実感は隠しようが有りません。
それはしかし、その実感をもたらすものは、通常思われた通りの我でなく”我ならぬ我”です。
つまり、自分が自分でなくなるのが幸福なんです。エクスタシー!です。
自分を超えちゃうのです!…Oh、yeah!…
これは、自分からそうなろうったって、そうなりません!
やれ、瞑想、修行、メソッド、諸々の方法論…自分から何かに取り組もうとしたら、その仕組みに絡まれたりします。
自分をよく知ろうと、見つめよう、認識しようとしてより一層自己閉塞に陥るように…
それは思われていたままの我は、ホントの自分の主体じゃないからです。
ホントの主体とは、我ならぬ我…真我と言ってもいいし、又、神人…キリスト、阿弥陀如来、直霊(なおひ)と、様々な宗教的伝統で呼び親しまれ続けていたものでしょう…。 
それは全体と言えるものではありません。今も尚、現臨として生きて顕れ、ハタラくものだからです。
絶対無ともいうべき始まりも終わりも無い根源的なものが有るとすれば、そこから有的に動き出てくるもの…絶対無の自己限定です。
その枝分かれ?のような我々にとっての事始めとは、このものがこの身を通して顕わになった時でしょう。
それが”ここにある”という実感と共に、私やあなたの世界、歴史が開かれるという事です。
”ここにある”ことは幸福なこと…我ならぬ我と共にあることだから…
何も問題は無い、桜は咲いて、散って…”あら、葉っぱが出てらあ!”
何にも無くなってなど無いのです。ごく自然なことじゃありませんか!
自分が出そう、出そうとすると無理が出る、出てくるものは出てくる…
生かされていることって幸福ですね…。

















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あれとこれ

2016-04-08 20:52:41 | 現臨、ハタラキ
私は母親譲りからか、多分生来感受性が強いのでしょう。
ある衝撃的な事に出くわすと、ずっと心象に思いが捉われて、どんどん思考力が強くなって、簡単にその占領軍の侵攻を許してしまったりしました
周りで何の屈託も無く遊んでいる他の子を見てると不思議で仕方ありませんでした。
あっちは、オカシナことに見舞われている私のことなど永久に理解出来ないでしょう…
これが慢性化すると段々オートマチックに一寸した思いのスキにそうなってしまいます。
ああ、又あれが来た…ヤツらの侵攻が始まるのだ、私の喜びに満ちた聖地は蹂躙される…私に出来る事は何も無い…
ある時なんかは実に不可解です。これといったあれをもたらすはずの事象、要因も無いのにそんなことに陥ってしまったことも有ります。これはどうにも自分でも訳が分からず説明出来ません。
おそらく間接的にその時の暗く、重い気分が私のどこかに巣食っていたあれを呼び起こすのでしょう…
こんな具合なので、私の人生はもう決まったも同然です!…神経衰弱、ノイローゼ、鬱病…これがずっと付いてまわるのか…
そんな私ですが、今ではあれのなすがままに置かれることは無くなりました。
更に強力な防衛軍が出動してくれるからです。
それは、あれと隣り合わせのものと言えます。
ただ、これあれとはまったく正反対にハタラきます。
とめどなく思いが積み重ねられ、強くなっていくので無く、思いの加重を減らし、頭を覆う思考ベルトに風穴をもたらし、ついには無力化させることも有るのです。
そして、これは又あれよりはるかに手回しが早い…思うより先にオートマチックという感じです。
それもそのはず、思いを超えたところからやって来る現臨だからです。
思いというものは本当に重いものです。…苦しみの要因には違いないでしょう。
それが強く心の自治領に侵攻し、占領し始める事が問題なのです。
ただ、このある線を超えなければ別に何も問題は無いです。
”無くそう”とか”根絶しよう”何て言う向きは全くどうかしてます。
現臨に包まれると、自動的に収まるところに収まり、心の自治領は平和を保たれます。
大体あれは何だって、越境して侵入してくるのか?
おそらく私の知らないあれの知り合いが招き寄せているのでしょう…
こういう話は常識の世界で、マトモに精神を働かせている人には、おそらく理解出来ないことかもしれません。
思いというのは自分で自由にコントロール出来るものだと思いますか?
あれこれとは隣り合わせ、というのは、どちらも自分ではコントロール出来ないという事です。
何度かの不可解な苦境に見舞われて、私は精神には自力、自制の及ばないものが有る、という事を深く知らされたのです。
不意に季節の変わり目とか風向きとかで、思考地獄から解放された状態も肌身に感じています。
だからこそ、自分を超えたものに自然と委ねることが出来るんだと思います。
あの不可解なあれこれとは実に裏表のことになっていたのです。
人生で起きる事は全て意味が有るのでしょう…。









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地上最大のロボット

2016-04-07 18:30:30 | 回想
昭和39年という年は、我が国の歴史においても東京オリンピックの開催、新幹線、東名高速の開通など重要な事績が相次いだ特筆すべき年だったと思います。
私の人生においても観るもの、触れるもの、もう驚き、楽しさの連続でした…晩秋に差し掛かり、肌寒さを感じ始めた頃までは…
”フランケンシュタインの怪物シンドローム”というのは、人が聞いたら、”何だそりゃ!”となるのでしょうが、(家族は誰一人本気にしてくれませんでした)本当に私の歴史におけるおそらく最初の怪事でした。
ある思いが頭からずっと離れなくなる…それは現実のことに起因している訳でも無いのに…要するに私の内面は生来から空想、現実の境目からズレていたようです。
”ああ、人生にはかくも訳のわからないことに見舞われてしまうのか…ああ…この思いを頭から分離出来る魔術は無いものか…(御年8歳にして悩める子供!天才か、モンスターか…)
そんな時、僅かな時間ながらこの苦悩から解放されることが出来たのは、忘れ得ぬコミック「鉄腕アトム」の「地上最大のロボットの巻」を読んだことでした。アトムといえばもうこの物語に尽きる、と言っていいほど強く印象に残っています。
アトムも同時にテレビ放映されていましたが、この巻がオン・エアされたのは確か翌春でした。
世界で最も強いことを誇示したい、というある国王の野心によって造られた悲劇のロボット、プルートウを巡るお話です。
”プルートウ!、強い、カッコイイ!”…「鉄人28号」に出てきたブラックオックスを彷彿とさせる黒を基調にした、いかにもダークヒーローという感じで、たちまち好きになってしまいました。
プルートウは、七人もの各国の強者として名高いロボットたちに一方的に挑戦状を叩き付けて、問答無用とばかりに次々と破壊して行き、日本のアトムにも戦線布告をし始める…「鉄人」と違い、ここに登場するロボットたちは自由に言葉を話し、豊かな知性も感情も持っていて、ロボットというよりサイボーグに近い感じで、プルートウによってバラバラに破壊されてしまう様はいささか残酷に感じました。
彼にはそれなりに相手を思いやり、内省し、アトムの妹ウランに好意を持つ?といった感情も持ち合わせているのですが、如何せん「敵ロボットを破壊せよ!」という、宿業にも似たプログラムに従わざるを得ないのです。
そこにもう一人、私が大好きになったロボットが登場します。オーストラリアで孤児院の世話をしているエプシロンという平和主義のロボットです。
この愛すべきロボットもプルートウと戦わねばならないのか?
最後に残った者同士のアトムとは親友になり、「コワイ…戦いたくない…」とすっかり弱気の虫ぶりをこぼしたりしています。
このように、好戦的でなく、最も非力と思われたエプシロンでしたが、実は大変な武器を持っていた!
それは光子をエネルギー源にしていた事です。日中は太陽からそれを取り入れることが出来、その力は無尽蔵となる…本気を出したら彼こそは最強になれるではないか!…しかし、彼は戦闘用に造られていなかったのです…。
一度はアトムを交えた三人の間に友情が芽生えたかに思えたプルートウでしたが、どうしても宿命には勝てず、マトモに戦えば不利と、夜間にエプシロンに戦いを挑みます。
意を決して果敢に戦ったエプシロンでしたが、孤児を庇おうとしたスキを突かれて破壊されてしまいます。
残された両手の中で泣き叫ぶ孤児…今も涙を誘います…。
私はこれでプルートウが憎くてたまらなくなったのですが、彼も突如出現した、さらに強い馬力を持った破壊の権化のような正体不明のロボット、ボラーの前に倒されてしまいます。複雑な気持ちが交錯しましたが、結局プルートウも自由意志を持たない哀れな被造物だったのです。
ボラーは実は、国王の命令でプルートウを造った同じ博士が、エゴに憑りつかれた国王にその愚かさを気付かせようとして造られたのでした…。

”強けりゃいいってもんじゃない!”私は自分が悩みを抱えている時、自分の力でどうにもならないハメになっている時、とても実感させられることです。おそらく人生で初めて気付かされたんじゃないでしょうか…
例の怪物シンドロームはどうなったか?
3月頃春の到来を思わせる、陽だまりに浴しているうち、いつの間にか解消されました。
まるでそれまで覆っていたベールのようなものがスーッと引いていったような感じでした。
食い入るようにテレビ版の件の物語を観ていた時、私は普通の子供になっていました。普通でいたいとどれだけ思ったことか!(いやあ…普通ってのは幸せな事です…)
季節の変わり目というのは実に節目と重なるものだと改めて思います。
そして、太陽エネルギーこそ、無尽蔵の地上最大、最強のものに違いない…それは誰のものでも無く、誰もがその恩恵を受けることが出来る…
明日は又ポカポカ陽気だそうです…。









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鉄人がやって来た!

2016-04-06 19:15:59 | 回想
人生は何かに夢中になることで開かれてきますね。
夢中になるとは”我を忘れる”という事です。
私の物心ついてからの歴史のフタ開けも夢中になったことから始まりました。
おそらく多くの人にとってもそうであるように、それはマンガとの出会いでした。
初めて夢中になって読んだのは、主に横山光輝先生のロボットマンガの歴史的傑作「鉄人28号」で、昭和39年の今頃でした。その頃私の歴史が一斉に開き初め、記憶が鮮明に浮かび上がってくるのです。(その年の後半は手塚治虫先生の同じく傑作「鉄腕アトム」に興味が移っていきました。)
「鉄人28号」は確かアニメのテレビ放映とほとんど同時進行で読んでいた記憶が有ります。
私の歴史開示は、そのアニメの冒頭の「グリコ」のCMから始まる、テーマ・ミュージックと共にあったと言ってもいいかも知れません。
夜のビル街に”ノッシ、ノッシ”とヤツがキターッ!”Gao!”という感じで…
(しかし…私はグリコより、明治のサイコロキャラメルの方が好きなのでした…ガチョーン!)
鉄人28号は何度かリメイクされているそうですが、これはオリジナル版です。
私が鮮烈に印象に残っているのは、”善か悪か”微妙な立ち位置の天才科学者、不乱拳(フランケン)博士の登場からでした。
そうです。この作品は随所に「フランケンシュタイン」へのオマージュが見られるのです。
まず、博士の”試作品”として、人造人間”モンスター”が登場することからして、もうお約束という感じです。
このモンスター、単独で出現する時こそ、文字通り怪物的存在感を示すものの、鉄人の前ではサイズ不足のため形無しなのです。いつも二回りくらい大きい鉄人に投げ飛ばされてばかりで可哀そうでした…(この毛皮の怪物のモデルとは数か月後、映画「フランケンシュタインの復活」で遭遇するのですが、その年の暮私がまさか怪物ノイローゼに陥ってしまうとはその時は知る由も無かったのでした…”怪物は死なず”の記事参照)
博士は、さらに強力なロボットを作り出していくのですが、今の私でしたらロボットより人造人間の方が人間に近い進化形じゃないかと思うのですが、当時の私にはそんな小賢しい疑問など持ち合わせてなどいません。つまり進化したものとは、より強いものに他ならないのです! 子供は皆独裁者の卵なのです!(もっとも、それも半年ぐらいして鳴りを潜めるのですが…)
そのロボットたち、バッカス、ブラックオックス…ハッキリ言って鉄人とは比べ物にならないくらい高性能だし、動きが速くカッコイイ!(というか、鉄人はかなり、太目だし、背中にボンベ?を背負って実にドンクサそう…)
私は特にブラックオックスの大ファンでした。全身黒ずくめで、夜だと姿は見えず目だけが光る…そこから怪光を発し、相対するロボットを機能マヒさせ、無力化してしまう…(こ、これは一体、何のモデルなのか!牛頭天王、スサノオか?)
バッカスのほうは、自らコントロール不能に陥り、何とか鉄人も空中戦をモノにすることが出来ましたが、オックスにはまともに戦っては勝ち目が有りません。そこで正太郎君は考えた…いや誰だって思いつくだろう…人間が操縦するロボットは操縦器さえ奪ってしまえばこっちのモノになる…かくして夢の最強タッグが実現した…
”何と姑息な!”と私は初めて大人の世界を垣間見た気がしましたが…
それにしてもオックスと並ぶと、どうしても鉄人のスマートさに欠ける部分は拭い去れません。
要するに私が初めて夢中になったマンガというのは主役に対する思い入れはほとんど無いのです。
(いや、よくよく考えてみれば私はずっとマンガに限らず、映画でもドラマでも思い入れを抱いていたのは、ずっとわき役、敵役ばかりです)
そのオックスも考える人工頭脳を持ったロボット、ロビーらによって滅ぼされてしまう…(このロビー誕生の基礎的な部分も不乱拳博士が研究に携わっていました)
ロボット王国樹立を目論むロビーの登場は、今日実に現実性を帯びた問題になってきた感もありますが、当時の私にはオックス亡き後のストーリーはいささか興味半減…オックス・ロス状態になっていたので、あまり印象に無いです。
そして、不死身の不乱拳博士もついに殺されてしまいましたし…
このようにどういうわけか、「鉄人28号」は、私の中では不乱拳博士を中心に動いていた、と言ってもいいのです。
それは、まるで半年後の”怪物事件”を暗示している様でした…。






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