人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

心象と実存

2024-02-04 09:49:04 | 哲学・思想
私は、言うまでもなく特定の宗教、思想などからは自由な人間です。
しかし強いて、私の精神的な歩みの、特に初期の頃は、日本神道的なものとキリスト教的なものの影響が強かったということは言えるでしょう。
これには、その二つを体現していたような霊感詩人、ジャーナリスト、故.西村忠義先生の「人類の復活」という著書と出会ったことが大きかったのです。
先生には、その敬愛していた手島郁郎先生と同じく、古来からの日本とユダヤの同祖性、関係性が常に心象に映っていたのは間違いありません。
そうです!...大本などの神道で、表に現れる元の神、国常立之尊とは、“在りてあらわになる神“、ヤハウェに他ならないのです!
そして、その神からこの地上に現身として現れた神人がキリスト.イエスであり、その原型は素戔嗚尊であったのです!
“平安京“を開いたのは、渡来民の秦人であった。彼らは太古のエルサレム(平安の都)から真の魂の故郷、メシア出現の地を目指し、これを造営したのです。
これは、再臨のキリスト、真のメシアは東方より出現することの黙示でなくて何であろうか?
私はこのことをここに実証...なんかされる訳が無い!
いや、実証されては、実証しようとしてはダメなのです。それは、霊的な実相界から思念世界に堕ちてしまい、生ける神を再び岩戸の中に閉じ込めることを意味しているのだから!
これは、あくまで内的心象に映し出されていることを言葉、表徴を借りて表現したものに過ぎないので、これは一種の霊界物語のようなものなのです。(ちなみに私は出口王仁三郎師のその大著述は、その当時数多あった、又大本教団に蔓延していた、そうした実証に駆り立てられて、妄想に走った試みに対するアンチテーゼであったと見ています)
実に内的心象に留められているか、強固に信じ込み、実証、妄想に走るかどうかが、真に霊的な現実からズレるか否かの分かれ道となるでしょう。
肝心なことは、その心象に描かれているものが、私の霊的実存にどう映し出されているか、ということなのです。
思念世界の岩戸を開いてそこに、顕わに現臨するものとは何か?
神人...神と人が合い、一つになる、その顕現とは如何なるものか?
それは思い描かれたものでなく、私自身と直に関わるものでなくてはならないはずなのです。
そして又、私の心象には、この実存に訴えてくるものと、日本神道にみる、ある種の寛容性とが、これからの宗教的、精神的な道において重要な要素となるように感じているのですが...
やっぱり、真の救世主はこの日本に出現する!、というような声もどっかから聞こえてくるような?...
それは、あなたの真の神のみぞ知るところでしょう!...
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