人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

ただ一つ、祈ること

2018-04-22 11:24:36 | 祈りと瞑想
いつも言うように、私は特定の教えというものも、メソッドというものも持ち合わせてなく、そうしたものを他に伝えるということもようしないのです。
ただ一つ、それらしきものを伝えるとしたら...祈ることとしか言い様がありません。
この事にしても、特別な教えともメソッドとも無関係なものです。
むしろ、そうしたものに囚われたところに、祈りなんてものは生まれてこないのではないでしょうか?
それは、こちらの何ものか、人為的な方法論などによってなされるものではありません。
どんな祈り言葉で、何回唱えるとか、姿勢や呼吸がどうとか、意識をどうコントロールするとか、あるいは"全託するという決心"が必要だとか...祈りによって苦境から脱することや、愛と光に満ちた至福に預かることもあるかも分かりませんが、それは、我々の何らかの行いとか決心によってもたらされるのではありません。
それはどこまでも、どこまでも、そこに思いを越えた神的な主が臨み、ハタラくからなのです。
これは形としての祈りというものでなく、実に意識がその現臨に向けられ、その息吹に充たされる...ということを言っているのです。
この命、愛、平安そのものであるものを抜きにして、どんな教えだろうと、修行法だろうとそれに執したりするのは、本末転倒と言う他ありません。
これがあった上で、いくらかの人為的なこと、決心(これは強力i)というものも出てくるのです。
何にもせんでもパッと...なるようなことでも何かはあるのです。意識していなければ何ももたらされません。
意識を"向ける"などと言ってますが、ただ、自ずとそうなることを伝えているにすぎないのです。
そして、"ああ...いつの間にか感謝が沸いてきた...有り難いなあ...心が休まってきた...何て幸福なんだろう..."という具合になったら...それこそが前述の事態に預かっているということなのですi
"あれこれ願い事をしていたが、具体的にはちっとも叶わなかった" なーんて、バチ当たりなことは..."ちがうだろーっi"(いつの話だっけ)
と言っても、"中々そんな心持ちにはならないが..."ということもあるでしょう。
そうでしたら、普通に祈ればいいのです。やっと普通の話になったのかも分かりませんが(笑)。
普通にと言うのは、"祈ろう"という気を起こして、ある程度の意志的な努力をもって取り組むってことです。
どうやって、というのはイロイロな本に書いてあります。自分にもっともフィットしたものがいいでしょう。
私の場合"御心のままに導きたまえ"というようなニュアンスの心持ちで祈っていたか、祈らされたかしていました。
この記事に限らず、ここで書いているのは前記した"意識というものと、意志的なものは違うものだ" ということを大前提にしているのですが、瞑想などで、私の経験では意志的なものに則っていくら重ねても、中々その根っこの方にある意識につながることがありません。
土台からして違うという感じなのです。
しかし、これ又経験してますが、祈りは、自分の人為的思い、意志から始めたとしても、いつの間にか無為的な、そのハタラキのなされるままの状態に導かれるのです。(これには意識の有り様が重要なのですが...有り体に言えば祈り心のようなものでしょう)
これは祈りという行為というか、その心持ちの中に"思いを超えたものにつながろう"、という意識が働いているためでしょう。
というよりも、我々気付いていなくても、深い意識の奥で、神的な主の方から我々にハタラキかけ、それに通じた意識を呼び覚まそうとしておられるのでしょう。
祈りは、本当にこのものあっての私である、ということに思いをつなぎ止めてくれるものです。

祈りは人生の幾多もの苦難からの避けどころ...命の親との邂逅の場...
私は特定の教えにも方法にも依拠してきませんでした。しかし、ただ一つ、祈りというものはあったのです。







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