私は誰か?
私とはそも何なのか?
本当の私とは?
ここでは、それを知的概念として理解するということを言っているのではありません。
そうすると、どこまでもそう考えている私が居座り続けるだけでしょう。
知的に意味を追求するんで無しに、この”私そのもの”を感じるということなのです。
私は、自我か真我か?、と又々考えるんで無しに丸ごとの自分を感じてみる。
私がここに実存していることを感じてみる...
しかし、現実的には、どうしても考えている私がそうしようとしているだけのようで...
いや、本当に考えているあなたしか居ない、感じられないですか?
いやあ...感じてきませんか?...あなたの思いを超えたものという感じ...
もし、そこにそういうものを、ありのままに映し出すようなものを感じるとしたら...正にそれがあなたを超えたもんがあるということを示しているのです。
それが、あなたのすべてを見通し、包むという感じ...
おっと待った!...そういうことをイメージする、観念世界を描くということじゃないですよ!
ただ、感じてみる。ダイレクトに!...
そうすると、私は誰か、問うている私は、いつの間にかその”私そのもの”の中に消えていってしまうのが感じられてくる...かもしれない...
私は、考えている私だけで生きている、実存しているのでは無かった!
それ以前にそう在らしめているもんがある!
それは、全く考えている、この一個なる私を超えている!
その超えたもん無しには私は存在していない!
その超えたもんを、私は神的なものと呼んでいます。
だけど、”私は神と一つになりました!”、なんて又観念が上滑りして、信仰ごとに取り込んでしまったら、そう信じ、観念している私がのさばってきますよ!
考え、信じてる私が観念上の何ものかになろうとしていますよ!
そして、信じる思いが強ければ強いほど、超えることが出来なくなります。
でも、そうですね、この考えている私が頑張っていて、中々そのように感じられない、開かれてこないというのも事実でしょう。
それならば、神に祈ったらいい!
それは発端は、観念から発するものかもしれないけれど、祈るということには観念を超えることが見据えられているのです。
それは、最初から一個なる私でない、それを超えたものにより頼む、それに意識が向けられるということなのだから!
いや、先のように自分は、一個の私だけで生きているのでない感じに導いたものは、そのように意識が動いた、向いたからなのではないか?
元より、考え、為そうとする自分だけからは、何にも始まってこないのではないか?
だから、祈りと瞑想は一つのものと言えるのです。
そして又、本当のあなたと神も一つなのでしょう?...
私とはそも何なのか?
本当の私とは?
ここでは、それを知的概念として理解するということを言っているのではありません。
そうすると、どこまでもそう考えている私が居座り続けるだけでしょう。
知的に意味を追求するんで無しに、この”私そのもの”を感じるということなのです。
私は、自我か真我か?、と又々考えるんで無しに丸ごとの自分を感じてみる。
私がここに実存していることを感じてみる...
しかし、現実的には、どうしても考えている私がそうしようとしているだけのようで...
いや、本当に考えているあなたしか居ない、感じられないですか?
いやあ...感じてきませんか?...あなたの思いを超えたものという感じ...
もし、そこにそういうものを、ありのままに映し出すようなものを感じるとしたら...正にそれがあなたを超えたもんがあるということを示しているのです。
それが、あなたのすべてを見通し、包むという感じ...
おっと待った!...そういうことをイメージする、観念世界を描くということじゃないですよ!
ただ、感じてみる。ダイレクトに!...
そうすると、私は誰か、問うている私は、いつの間にかその”私そのもの”の中に消えていってしまうのが感じられてくる...かもしれない...
私は、考えている私だけで生きている、実存しているのでは無かった!
それ以前にそう在らしめているもんがある!
それは、全く考えている、この一個なる私を超えている!
その超えたもん無しには私は存在していない!
その超えたもんを、私は神的なものと呼んでいます。
だけど、”私は神と一つになりました!”、なんて又観念が上滑りして、信仰ごとに取り込んでしまったら、そう信じ、観念している私がのさばってきますよ!
考え、信じてる私が観念上の何ものかになろうとしていますよ!
そして、信じる思いが強ければ強いほど、超えることが出来なくなります。
でも、そうですね、この考えている私が頑張っていて、中々そのように感じられない、開かれてこないというのも事実でしょう。
それならば、神に祈ったらいい!
それは発端は、観念から発するものかもしれないけれど、祈るということには観念を超えることが見据えられているのです。
それは、最初から一個なる私でない、それを超えたものにより頼む、それに意識が向けられるということなのだから!
いや、先のように自分は、一個の私だけで生きているのでない感じに導いたものは、そのように意識が動いた、向いたからなのではないか?
元より、考え、為そうとする自分だけからは、何にも始まってこないのではないか?
だから、祈りと瞑想は一つのものと言えるのです。
そして又、本当のあなたと神も一つなのでしょう?...
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