人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

他力

2024-03-18 09:33:55 | 人生の裏側の図書室
「ヨットの上で、どんなにがんばってみても無駄です。他力の風が吹かなければ私たちの日常も本当は思うとおりいかないものです」(五木寛之「他力」/講談社文庫他)

このコーナーでは、珍しくポピュラーな本を取り上げてみます。
著者はご存知の作家、五木寛之先生です。
私は、その代表作「青春の門」とかはまだ読んだことがなくて、そんなに熱心な読者ではないのですが、昨年、小説「親鸞」を全巻読み終えたし、宗教、人生論関係の本を何冊か読んでいて、この確か15年くらい前、単行本で読んだきりの本を実に久しぶりに読み返してみたのですが...
これは、もう驚いてしまいました!...ところどころ何か私の分身のようなものが見え隠れしているではないか!...こんな本を長いこと読んでなかったことも驚きです。理由は一つ。あまりここには相応しくない、いつでも手に入り、読めるポピュラーな本だからでしょう?...
五木先生がこの本を著した背景には、95年の阪神大震災、地下鉄サリン事件など、わが国に重大な、想定外のことが相次いで起こり、いよいよ世界が先の見えない、混迷の世に突入したとの感を受けたことにあるようです。
そうです。我々はずっとこういう時代相の中で生きているのです。出口は見つからないどころかますます生きにくさを増しているではありませんか?
そこに生きてくるものが、この他力の世界という訳です。「神や仏の存在を信じる者も、信じない者も、目に見えない世界を認める者も、認めない者も、世界中の民族や国籍を超えて”非常時”に生きる私たちを、強く揺さぶるエネルギーがそこにある...この他力の世界こそ、いま私たちが無意識に求めている”何か”ではないか...」
この他力という言葉について、勿論そこには、法然や親鸞(蓮如についての記述が特に多い)などの他力門、浄土の教えがベースになってはおりますが、それは一般に所謂”自力”との対比として捉えられているようです。
しかし、自分の外に神仏を認めないように見られている禅仏教などでも、目に見えない”法”にゆだねるということがある、それ無しに座の道など開かれようがないものであるように、それは本来、他力、自力と分けられるものでなく、あらゆる宗教に通底しているもののはずなのです。
又、そもそも自分から離れた神仏などに、我々がそれに関わる道も深まる道も開かれようがないではありませんか?...あっ!(だからこういうことは誰かがいつも言っていることなんですってば!)
これは又、さらに宗教をも超えた、現実世界、現代人向きの問題にも広く関わるものであるのは言うまでもありません。著者は自由に、極めて平易にその見えない、捉えられない世界の消息を伝えようとしているのです。
ああ、もう私は数ページ読んだだけで、何かが呼び起こされてしまうではないか!
呼び覚まさずにおれないものがある!
これは、もはやペーパーバックのようなものであるはずなど無いではないか!

”ああ、私のすべてなる主よ!...私の信仰も、私の修行も捨てました。私がこれまで積み上げて来たものなど、全否定されても構いません!...絶対に無くてはならない、他の何ものにも換えられないあなたの前には!...”

五木先生!、私をわが主につなぎとめてくれて有難う!
この本は、ずっと私の枕元に置かれるようになるだろう!...
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 全託出来る人はいない | トップ | 自力、他力の誤解 »

コメントを投稿

人生の裏側の図書室」カテゴリの最新記事