人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私のすべての宗教

2020-07-18 10:35:09 | 宗教
40年前くらい昔のある宗教書を読み返してたら、"今までOO教団の教えを熱心に信じ、行じてきたが、OO先生を知ってから、この教えに勝るものはないと確信し、これからはOO先生の教え一筋で行きたい云々..."、という文章に接したのですが、正直隔世の感を強く持たざるを得ませんでした。
あの頃は宗教というものはそういうものなんだ、と当たり前のように思っていたものでしたが...本当にそう思って生きていたのかなあ、その頃は大分私の頭の中には、モヤモヤと霧が立ち込めていたのかなあ、と感じてしまったのでした。
当時の私自身の宗教的な道に対する取り組み方というのは、無上の教えというのが沢山あって、そのどれか一つということが決めかねてて、"それじゃダメなんでは?"、という思いがある一方、そうなってることを自然に任せていて、そのうちドーン、と強烈な一撃に出くわすこともあるだろう..."なんて感じてたりして、まあ、そういう迷いも持ちつつ、ずっと後者の流れで来ていたと思います。
私はこれが"唯一の教えであるi"、という決めつけを持たなかったのです。それは、"決めつけてはいけない、自分の思いで固めてはならない"という内なる声のようなものの導きも微妙に感じていたからです。
宗教というのは、ある特定の教師の教えを信じ、従い守ってゆくことなんでしょうか?
そうすることで一体我々は何処に導かれるというのでしょうか?
神仏との一体化?、安心立命?...ある宗教と関わっていつまで経っても、神、安心というものが感じられないとしたら?
そこは素直に自分自身に徹底的に問うてみるべきでしょう。教団の取り巻きが何を言って幻惑してきても...
精神的な道と関わる初期の段階では、その教えに対し心情に訴えるものを感じて、信奉するようになるのが普通なのでしょうが、それはあくまでも観念、意思想念の働きに留まるものであり、永続性を持つものではありません。思念は絶えず揺れ動き、表れては消えてゆくものだから...
頭の中だけで、その実限界ある永遠性や絶対性などに囚われると、狂信者、パラノイアのようになってしまうのがオチです。
もし、意思想念の世界で、熱心にある宗教を信じていて、別の教えに接することで、心情とか観念でない、根本的というか、存在レベルといっていいのか、とにかく理屈でなしに全人格が揺すぶられるような、そう、神的な愛のようなものを経験したらどうなるでしょうか?
全人格的というのは、観念も身体も微細体も何もかもの文字通り、私のすべての生に関わるものです。
その二つの道のどっちを選ぶか、何て分かりきったことでしょうi ...選択の余地などありませんi
仮り(借り)物では決して満たされない、あなたの魂はすべて知っているのですi
あなたがごく自然に赴かされることは、観念的な決めつけとは全く別の次元のことなのです。
そしてこの全人格性というものは、実は特定の宗教、教えに限定されるものでないということが、自ずと知られるでしょう。
私の直接的な生が、そのような相対的な諸々の教えなどに規定されてしまう訳が無いのですi
観方を変えれば、この直接的な生に導くものこそが本物の宗教であり、教師なのでしょう。
たとえそれらが本物でも、信者や弟子がまっすぐ導かれるとは限りませんが...

私は、特定の宗教、教えを持たず、何ともイイカゲン、テキトーな求道生活をしていたものでしたが、仄かに身に覚えていた、愛に満たされるような感覚を忘れていなかったのです。
私の前には多くの異なった神が、教えがあったように見えましたが、そのいずれにも還元出来ない、すべてで一つのものに知らずに、一筋に導かれてきたように感じています。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 根本的幸福状態 | トップ | ラブソングのことじゃないi »

コメントを投稿

宗教」カテゴリの最新記事