人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

祈りと瞑想の出発点

2023-07-06 09:45:43 | 祈りと瞑想
「瞑想の出発点は、”我は意識している“よりも、”自己自身において意識されていること“の方がいっそう適切であろう」(玉城康四郎「比較思想論究」/春秋社刊)

少し前にも書いたように、“意識する“ことというのは、中々適切に表現することが難しいのです。
そんな時、玉城先生の著書を読み返していて、こんな適切な文章を見つけました。
そうです。意識の次元では、“私は“という主語があって、動詞となる表現はどうしても抜け落ちてしまわざるを得ません。
そういう自意識が起こる以前に、意識されている状態がある、自然な意識の動きがある...だから主語は省いて(抜けちゃうんだから!)、“意識的になる、そのものに在る“、と言った方がずっと正確と言えるでしょう。
瞑想と言っても、祈りと言っても、自己意志的な働きかけはほんの取っ掛かりにすぎず、それは人為的なもの、方法、形を超えた、無為的なハタラキが主導となるのは言うまでもありません。
それは、そういうハタラキに乗る、否乗っている状態に帰ることであり、私という主格はそのハタラキに包まれるということと言えるでしょう。
そちらの方がこちらを結びつけようとしている!...だからこちらの何かになろう、何かを得よう、到達しようと思い図ることは余計なことなのです。
私という主体など!...いや、しかし玉城先生は、この意識状態の基底に戻ることにより「ますます主体性、具体性は明瞭になってくるであろう」と述べておられるではないか?
一寸逆説的ですが、この場合の主体性とは、個的な我がそれに包まれてしまう、“包括するもの“からもたらされるものに他ならないのです。
何分、思いを超えた次元のことなので本当のところは分からないですが、それを仮に“真我“と呼んでもいいでしょう。
その私性が包まれている状態の方が、はるかに主体性を強く感じさせるものだからです。
....
いや、もう何かに吸い込まれそうで、書き続けるのが難しくなってきたではないか!
瞑想状態、祈りの状態...出発点?
なるほど、“私は“は、抜け落ちている...




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