人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

我が道とカルト

2018-07-13 17:03:57 | スピリチュアル?
私がいつも宗教、スピ関連で重点をおいて書いていることは、ある意味カルト思考と対極にあるようなことです。
対極にあることは、又何と隣り合わせのものであることでしょう。
"自己を明け渡す"、"思考を超えたものへの超脱"、"スピリチュアルなものとの交わり"、"普遍的有機体、共同体とのつながり"...これらのことは、カルト宗教においても、様々に色付けされて語られ得るものに違いありません。
抽象的にこのように文章にして表しているだけだったら、区別がつかなくなりそうですが、そこには分かりきった、明確な相違があります。
"我が道"は、特定の集団や教師などに寄りかからなくとも、その道は開かれるということです。
そうですi これは我が道なのですi あなたの道かどうかは知りません。まして不特定多数の道などにはなりようがありません。
私はただ一つのサンプルを示しているだけで、何か感ずるところを参考にして各自の道を歩まれればいいと思っているのです。
要するに、私が言いたいことは、自分以外の誰か、集いに容易く隷従し、擬似的な神に自分を明け渡してはならないということです。
例えば、見えざる何かに自分を明け渡す、全託するということでも、そういう促し、導きを受けたりしますが、それは自分を信頼しているからこそ起きることなのです。
そう促しているのは、思われた自分でない、大本の自分からの音信に他ならないからです。一体、それが信じられなければ、この世に信じられる何ものがあるだろうかi
私はカルト的団体にハマったことがあるからこそ、こうして書くことが出来るのです。
自分が信じられない時に、自分以外の誰か、集団を求め始めます。
それらに寄り付かなければ、そうしないと救われないような気がしてくるのです。
そこに映し出されているのは、擬似的な有機的つながりのようなものでしょう。そこでは"自分自身であること"にはフタ閉めされ、擬似的な神に従属を強いられます。
そして、そうと信じたら、それ以外に道は無いように思えてきます。
"この教え以外にありませんi" そう言っている人というのは、大概他の教えのことなどロクスッポ知りません。知ろうといういう気もありません。井の中の蛙なのです。
カルトにハマる主たる要因は、自己信頼の欠如と視野の狭さでしょう。
洗脳された人間が、脱することが困難なのは、自分が洗脳されている、という自覚を持っていないところにあります。
洗脳されているのは、国家権力やマスコミに洗脳されてる一般人だと周囲に吹き込まれ、信じ込んでしまうのです。
一般人がそうなっているという観方もあるかも分かりませんが、一般社会=カルトではありません。(少なくともここ日本では)
そこにはOO肯定派もあれば、反対派も、中道みたいな派もある...カルト一色というものはありません。カルトは、その社会の一角の闇みたいなところで成立しているのです。
一般人などと言ってはいますが、そんな人間など具体的には何処にも居りません。誰もが違う顔をしたユニークな人間なのです。
そうした自分自身の独一性の尊さに気付いたら、各々の独一性も尊重するようになるでしょう。
それが世間一般というものとは違った意味の、公のもの、普遍に開かれた生き方になるでしょう。
カルトの生き方は、普遍世界にも、自分自身にも開かれていないのですi
それは何処にも実体も無く、自己を普遍から閉ざされた隔離的空間へと追いやる、観念の奴隷の道です。
我が道はカルト思考の愚かさ、恐ろしさに気付くことから導かれたものなのです。

麻原教祖らオウムの死刑囚に、私にはいくつか釈然としないものを残しながらも刑が執行されました。
毎度書いているように、これからますますこの二様の対極的にして、隣り合わせの精神的有り様が、一段とハッキリと分かれてくる付節を迎えたように感じられます。



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