人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思うこと、ゆだねること

2023-06-11 09:36:37 | 求道、探究
昨夜、妙にリアルな夢を見ました。
私は何か、歌舞伎の世界のような、しきたりの厳しい世界と関わっていて、そのことをとても不自由に、重荷に感じているのです。
そして、その業務時間が終わり、”やっと解放されるんだ!”、と思っていたら、リーダー格の人から”君、きみい!、折角のところ悪いけど、一寸頼みたいことがあるんだ、君なら勿論、やってくれるよねえ!”と催促が!...”やだよ!”と言いたいのだけれど、置かれた場を考えると断れなくて、渋々承諾してしまう私...
しかし、内心はすごく葛藤しているのです。”何でこんなことやらされなきゃ、従わなければならないのだろう?”と。
自分の正直な気持ちを伝えられない、昔の自分そのままです。そこにかつて”信じなければならないこと”に縛られていた、ある宗教教団に入っていた頃のことも重ねられていたようです。
”ああ、イヤだ、イヤだ、こんな世界から解放されたい!”と煩悶しているうち、電撃のようにあの事が閃いたのです!
”こういう時は、ほれ、神に思いを向けるってことがあるじゃないか!”...そう、思い方を変えればいいんですよ!
と、そうしようとするんですが、中々心の状態は変わってくれません。いや、内心はこんなんじゃ変わらないと感じているのです。”一体何が違うのだろう?”とモンモンとしてる内に目が醒めたんですが、いや、目覚めが悪いのなんの!...おかしいな?、どうも目覚め具合が中途半端だわい!
しかし、神に思いを向けようと、思い方を変えようとしてるのに?...
”そおじゃない、っつーの!”
ここは、とても大事なポイントなのです!
いくら思い方を変えようとしても、それは思念の力に頼るのであって、思いを超えたものに与ることは出来ないのです!
思念の世界だけしか感じられなければ、不自由、重荷に感じていて、そこから先は開かれません。思い方を変えて、一時的に思いの転換は成されるかもしれませんが、それは、同じ部屋の中の配置換えみたいなもので、部屋の外へは出られず、どこまで行っても思念の輪廻の世界は続くのです。
じゃ、どうすればいいかというと、思いを超えたものにゆだねるしかありません。
それが何かは分かりません。どうしてそういうものを知ることが出来るのでしょうか?
どうしてゆだねるという、心的な動きが生まれるのでしょう?
そのことと思い方を変えることとは、どう違うというのでしょうか?
この違いを感じるのは案外簡単だと思いますよ。自分の思念とそれを超えたものというのは!
実は、先の問題では、それは何故、自分は不自由に、重荷に感じているのか、という自覚の中に隠れているのではないでしょうか?
それは、私は本来、自由なのであり、何も重荷、障りになるものを感じなくても生きられるということを知っている、ということではないでしょうか?
そのことを感じてみて下さい!
思いを超えたものとは、その私の本来性でもあるでしょう。
そう感じると、瞬く間に私の現前が開かれてきます。そう思おうとしなくても!
(と、こういう状態で本来目覚めなければならないのです!)

それにしても、何故あんな昔の苦境を思い出すような夢を見たのだろう?
多分、自分の気持ちを正直に言い表せない、うじうじした女主人公のドラマを観たからだろう?
何にしても、ああいう夢を観るくらいなのだから、私はちっとも悟った人間じゃないってことなのでしょう。
だから、うっかり信じちゃダメですよ!
本当のことは、あなたの神に聞くのが一番!...
コメント (5)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 絶対的なこと | トップ | 我が因縁 »

5 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
思うこと、ゆだねること (みほれみ)
2023-06-18 17:26:18
こんにちは。みほれみと申します。
こちらの夢のお話、とても良いお話だと思いました。
たしかに思いで思いを変えようとしても、(←お話の内容がそういうことなのかどうかは、ちょっと自信がありませんが。)だめなのですね。部屋の配置換えというのは、すごく的確な表現であるように思いました。
こちらの記事を読ませていただいて思いましたが、要するに私が肉体側で何を思っていようと、私の場合は守護霊さまへの感謝をしていればよいのだと思いました。
私が自分の思いを止められなくても、もがいていても、怯えていても、とにかく守護霊さまを呼び続けていればいいような気がします。
そしてこの次の記事も、とても心に残りましたが、自分の心が神さまに近いかどうかは、心に安らぎがあるかないかでもあるのですね。
乱気流を通過中はともかく、乱気流を抜ければ青空が待っているような。
とても気づかされる記事でした。ありがとうございました。
(私の理解がピントがはずれておりましたら申し訳ありません。^^)
返信する
Unknown (シタテルヒコ)
2023-06-18 18:41:37
みほれみ様、お久しぶりの、あの五井先生と縁の深い(??)みほれみ様、思おうとすることと、祈ることとは違うとは、五井先生もよく言われていました。
守護霊さんも含めて、私は自分の思いを超えたものを神、神的なものと言っております。
自分の心が神様に近いかどうかは、心に安らぎが感じられるかどうかということは、とても大切な気づきだと思います。
自分に合わなければ、人が何を指導しようが、ある観行などすることも、会と関わることも必要なく、自然と向き合わされるものを心に置いたらいいと思います。
有意義なコメント有難うございました。
返信する
思うこと、ゆだねること (みほれみ)
2023-06-19 20:54:03
シタテルヒコ様、こんばんは。
私が五井先生(五井昌久氏)とご縁が深いかどうかは???ですが、覚えていてくださってありがとうございます。(笑)
シタテルヒコ様にはおそらく、ご自分の思いとそうでないものが、識別されて感じられるのですね。私にはそういう感覚がまるでなく、いつも自分の思いしかわかりません。
でもこちらの記事をきっかけに過去の体験を振り返ってみたのですが、自分が知覚している世界と、神様的な存在が働きかけてくださった世界は、次元が違っていたように思いました。それこそ部屋の中ではなく、外からのお働きであったかのような感じでした。
私は自分という存在に自信が持てない人間なので、何か外界(たとえば世界平和の祈りなど主張のあるもの)を見ることでしか、神様的な存在がわからないのかもしれません。
考えさせられます。ご返信をありがとうございました。(^^)
返信する
Unknown (シタテルヒコ)
2023-06-20 02:25:44
思いとそれを超えたものを識別出来るのは、まさに神のハタラキ、ことに現臨と呼んでいる、その臨在感によるのです。
それは、私が修行して開発したものでもなく、いつの間にか、そうなってしまったものなので、私の能力という感じがしません。そうですね、次元が違うようです。
外界を見ようとしなくても、神の存在を分かろうとしなくても、それが臨んだら、そのままを受け入れるだけなのです。
ただ、修行というものでなく、祈りというか、思いを神に向ける(特別な祈りの文句、やり方がある訳じゃありません)というのはありました。
しかし、どうもそれも神のハタラキかけという感じが強いですね。
神に祈り、思いを向けることで、安らぎや喜びが感じられたのなら、それこそは神のハタラキだと思いますよ!
返信する
思うこと、ゆだねること (みほれみ)
2023-06-20 23:37:14
シタテルヒコ様、こんばんは。
ありがとうございます。(^^)
返信する

コメントを投稿

求道、探究」カテゴリの最新記事