goo blog サービス終了のお知らせ 

人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

思考と意識の統合

2025-03-11 06:43:29 | 哲学・思想
いつも私自身感じていて書いていることなのですが、段々思考機能が後退して、意識の領域が顕わになって来ているのを感じずにおれません。どうもそれは私個人だけのこととも思えないのです。
いつもは、世界がどうなるこうなるとか、人類の未来は如何に?、というような、有るのか無いのか分からない未来予言のようなことは書かないのですが、世界人類がどう変容するのか、ということは、どういう現象が起こるのかというよりも、我々の内的な変容の方が本質的で重要なことのように思えるのです。
思考自体が無くなるような、我々が生きて行けなくなるようなことは考えられませんが、それは隠れた意識領域と切り離せないものであることが段々感じられて来るのではないか?
それと切り離された思考は、いよいよ観念に浮いてしまうか、凝固して無機質的なものとなり生きたものとならなくなるのではないか?
我々は、そういう思考から表れた言葉などには真実性、リアリティというものを感じなくなるということです。
それは元々思考と意識の関係は、そういうものだったものが、より本来的に具体的に明らかになって来たということでしょう。
思考は本来、直感的感性と一つのものであった、ということに我々は覚めつつあるのではないか?
現象的に言えば、先のように思考は意識との本来的結びつきを加速させるが、一方ではその分離も加速させるだろうと感じています。
端的に言えば、思考は生きた、リアルなものに感じるか、そうでない、生きたものでない、消えてゆく姿のように感じるかに分かれて行くということです。つまり統合というものには分離が伴うということなのでしょう。
思考は意識と統合する...そこにはそう向かわせる、あるハタラキがある...自ずとある中心へと収斂されてゆくハタラキが感じられます。
このことは、フランスの古生物学者、カソリック司祭ティヤール.ド.シャルダンが「ヌースフィア(精神圏)」と呼んだ、未来に生物の進化段階として表れるという、世界というか地球的規模、全生物的規模のそうした精神的な圏層と関係しているようにも思えるのです。
勿論私には、地球的規模、全生物的規模のことは分からないですよ。そういうことを科学的に実証しようとも思わないです。
逆に言えば、ティヤールはどこかでそういうことを直感的に感じたから学者として、あのような壮大なビジョンを科学的に展開したのでしょう?
私は難しいことは分からないですが、そのようなことを感じなくもないということです。
ただ、ティヤールは進化過程として新たにその精神圏(この訳としては、“思考圏“という思考と意識の区別の分からないものもあったりしますが、“叡智圏“というものもあり、それがピッタリします)もたらされるとしていますが、それは私にはそれは隠れた本来的なものが復権するもののように感じていますが...
ティヤールは、その中心へと統合、収斂してゆくハタラキについて、それはキリストの霊なるハタラキだと言います。これはもう、彼が信仰の世界で直感的に感じたことを自明に言っているようなものでしょう。
何にしても、私は地球的な壮大なことは、思い描くしかないし、近未来に世界に何が起こる、かにが起こるなんてこと言うつもりもありませんが、段々思考は本来の意識的なものと一つに、それはある中心へと収斂されてゆくようなことは、少なくとも私には疑いようの無いもののように感じてならないのです。
私の内的実存が、私の主なるものがかく告げているのです!
あなたは如何?


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホントの真理?

2025-02-01 06:35:29 | 哲学・思想
太陽は東から上る...
今日は暖かくなるかな?
すべてを照らす日の光、有難いな!...

しかし...太陽は、地球の周りを回っているのではなく、その逆であることは、子供でも知っている真理なのでした。
そう科学で立証されているのです。客観的事実とされる。だから受け入れなきゃならない!...いや、そう言うけど、本当に受け入れている人は何人居るでしょうか?
私は、本当に地球が太陽の周りを回っていると感じたことは一度も無いですよ!
そういう真理を初めて知った時、“ふ~ん、そうなのか...ちっとも知らなかった!“と思っただけでさして驚かなかったですよ。
それでも地球は回る...いや、今日も太陽は東から上る...
これは、勿論そういう真理を否定する、否定しても構わない、と言っているのではありません。
それは、やっぱり受け入れなければならないことでしょう。一応は。
だけど、日常的にいつも感じていることと、それは別のことだ、いうことなのです。
これも受け入れなきゃならない...というか多くの人は、“おお、段々空が明るくなって来た!、今日も日が上る“、と普通に感じて、何の支障も無く生きているのではないですか?
何でこんなこと書くのかというと、宗教や精神的な道ではこういうことが沢山あるからなのです。
例えば、神を熱心に信じていると言っても、神の実在のことは立証されてないので分からない。神に人格があることも分からないけど、私なんかも“神よ、主よ!“、と語りかけるように祈ったりします。
これは、何が立証、論証されようと、真理が解明されようと関係ないことなのです。
先のように否定し去ることじゃない!…神が実在しているように感じた、神と人格的な交わりがあるように感じた、そう感じたのならしょうがないことなのです。
それが自己自身と切り離されないような、実存的な意識状態から来るものなら、目の当たりに感じて疑うことが出来なくなるでしょう。
だからと言って、そのことを“これが絶対的な真理なんだ!“、と自分で信じ込み、外に向かってそれを主張したりするのは狂信、盲信であるのは言うまでもありません。
実存的な意識の事態は、自分の思いで信じ込むことでは無いのだから。
それを言うなら、地球が太陽の周りを回っているという真理も、そう言われているから信じているのでしょうけどね?
実存的な事態のことは、立証も論証も出来ないし、その必要も無い、全く自分自身のことであり過ぎることなのです。
そういう自分が居なければ、何を信じるとか、証明するということも無いのです。
又、信仰も科学的真理も変わることがあるけど、このことは、太陽がどこから上ろうが、地球が回ろうが変わることはありません!
だから、これが絶対的真理なんだ!...これがホントの真理の太陽なんだ!
ということは、私とあなたが感じていればいいことなのでしょう?!...








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

神と人間と人格

2025-01-23 06:51:39 | 哲学・思想
神には人格があるのか?
人格神という、あるいは非人格的な何かがあるのか?...

こういうことについては、どうも皮相的な見解から語られることが多いように感じてなりません。
何故って、神のことは、知的概念で合理的に理解することが出来ないものであるのに、神が人格を有しているかどうかなど分かるはずがないからです。
いや、人格というものからしてからがそうなのではありませんか?(ここで言う人格とは、誰それの性格であるとか後天的に形成されるような性質についてのものでないことは言うまでもありません)
そういうものを実体論、存在論のように説明されても、知性がくすぐられて分かったつもりにさせられるだけで、目の当たりに触れる、関わるということがありません。
ただ人格について言えば、それは全くもって我々一人一人の個己に関わるものであるのは確かなことでしょう。(これは、一コの考える私のことだけのことを言っているのではありません)
それは、概念で理解出来るものでは無いが、それらしきあることを直接的に感得することはある、ということです。言葉で言い表せないそのあることを、メタファーとしてそのように表現されるものなのではないか?
ベルジャーエフが随所で語っているように、人格は実存と関わるものなのでしょう。
主として、西欧キリスト教で語られる人格神というものは、自己実存と切り離すことは出来ないものなのです。もっともそこにあの超越的な生命の消息が抜け落ちてしまえば、抽象的にそう信じるというだけの観念信仰になってしまうものですが...
私が神の手に捉えられると言っている、私の思い、力を超えて全心全霊が揺すぶられるような経験...それが“人格的な神と出会う“と言い表しているものなのではないか?
それは、所謂精神的覚醒、宗教的回心と呼ばれるもので、そういう超越的なあるハタラキ無しには起こり得るものではありません。
非二元論を説く、ヒンドゥー教や仏教などでは、それは多く形無き“法“、非人格的なエネルギーなどとして語られるようです。そこには、実存的な響きというものはあまり感じられません。だから人間の個我性も否定的に説かれたりするのでしょう。
しかし、そこでもアートマン(真我的なもの)のことは説かれているのです。
人格神を説くキリスト教的西洋、非人格的な何ものかを説くインド的東洋...私は、そこに互いのその慣用的表現に迎合してしまう傾向を感じてならないのです。
要するに我々は皆神のことも、自己のことも何も分からないということを物語っているのでしょう。
日本人である私には、どっちでもいいような問題なのかも分からないが...(東洋の宗教では実存ということはあまり言わないが)古今東西の如何なる宗教、精神的な道でも、自己ということを問題にしないものは無いのではないでしょうか?
自己は、考えられている自己だけでは決して解明されるものではありません。
それを超えたもの無しには!...神に人格があるかどうかは、分からないのだから問題になりません。
人格、実存の問題は、自己は、神的なものと切り離すことが出来ないというところに求められるものでしょう。神と真我は切り離すことが出来ない!...
それは、抽象概念でなく、具体的に解明されるべきものであるはずです。
神に人格があるのでも、個々の人間存在に人格があるのでもありません。
それは、我々が我々を超えたものに具体的に出会った時に、それが自己の内奥に差し込んだ時に明らかにされるものでしょう!...
頭では分からなくても、全身が震えるようにも!...





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

実体信仰の甘い妄想

2024-11-26 09:24:25 | 哲学・思想
あの反面教師の画伯の言葉に接して、いよいよ倒錯した観念にトラワレた人間の末期症状を見る思いにさせられます。
何でも、覚醒の道を進むことにより、神の世界を超えた、実存の境地に到達して、その又奥には真我の境地があるのだそうです。中身の無い言葉を並べて、弄んでいるだけです。
実存という言葉に馴染みのある人がこれを読めば、笑止に堪えなくなることでしょう。
この御仁、そういうことを説いている”宇宙全○”の教師の教えを鵜呑みにしているのでしょうが、それがどういうシロモノかはすぐ分かるではないか!...他人におツイショウするしかノウの無いこの御仁、一度でも自分自身で実存、真我について考えたことがあるのだろうか?...そうでなければまるっきりそういうことには縁が無いということ...勿論、そこに覚醒の道など永久に開かれる訳が無いのです!
この御仁、半世紀近くも五井先生を信奉していて、祈りのことも、消えてゆく姿、全託のことも何一つ身につかず、理解していなかった、ということなのでしょうか?
もう、”完全覚醒を目指す”などと非現実的な空想、妄想に耽っている場合じゃない、一刻も早くその狂相の世界から抜け出すことですよ!...自分からは不可能なら祈らなければなりません。そう、神に!...守護霊、守護神、五井先生でもいいでしょう。
神を超えた実存?...何という思い上がりであろう!...私がいつもこうして、こっぴどい言葉を浴びせるのは、この御仁、どうしようもない無知である上に、度し難い増上慢に陥っているからですよ!

実存という言葉は、哲学に関心の無い人には馴染みが無いでしょうが、自覚あるなしに関わらず、実存にあって生きてない人など狂人でない限り一人も居ないはずです。
つまり”私はここに在る”、ということを意識出来ない人は居ないということです。
もっとも、”実存とは何ぞや?”と哲学的に意味を問い続けていてもそれが解明される訳ではありません。
ということは、それを対象化している限り、実存的な在り様にはならないということ、換言すれば、実存という実体としては捉えられないということなのです。そういう実体信仰から様々な空想、妄想が生まれるのです。
真我ということも同じ意味合いで理解されるものでしょう。
そういうことは、そのようにいくら考えを重ねても分からないものです。しかし、それは先見に囚われず、自分で主体的に考えるという心的態度から開かれると言ってもいいでしょう。
そうして、自分の思考の及ばない、限界点という壁にブチ辺り、そこに初めてそれを超えたものがある、ということに気付かされるのです。
そういうことが最初から分かっているような人は、より直接的、直観的に参入出来る訳ですが...
いずれにしても、実存、真我に目覚めることは、自分を超えたもの無しには開かれないということは分かるでしょう。そのものを私は仮に神、神的なものと呼んでいるのです。
実存、真我というものがそうであるように、本当は神も自分と切り離して対象化することは出来ないのですが、考えている人間自らは、そういう根源的な状態に帰ることは出来ないから祈りとかある種の瞑想というものがあるのでしょう。(真摯に求めている方なら説明は要りませんね?)

返す返すも、神を超えた何かの境地のことなど夢想している人間は、さっさと勝手に消えてゆく姿になって、宇宙のチリになってしまうがいい!...


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

私の感応哲学

2024-11-23 09:47:59 | 哲学・思想
ここ数年、私は自分の本来性というものを意識するだけで、言い知れぬ安らぎを覚えるようになりました。
本来性とは、自然であり無理の無い在り方であり、”それに到達した”、とか”そんな境地になった”とかいう言い方は不適切、ということが分かるでしょう。
”かつての私は、不自然な生き方をしていたが、今はそのように変わるようになった”、という言い方もなんかヘンですねえ...
かつての不自然な私でも、そのブ厚い外装を脱げば本来の私で在り得たのです。
”本来の私に戻る、帰る”という言い方は出来るでしょう。そうなるには、何の努力も必要が無いはずなのです。
私はね、自分で言うのもおかしいですが、本来とても感性が豊かな人間なんですよ。
それがかつての私は、そのまんまに生きるのは、人に弱みを見せることのように思い、それを覆い隠して生きていたのです。今思うとチャンチャラおかしいことなんですが...
それで、人前ではなんか難しいことをいつも考えているような、知的な人間であるように装っていたのです。能面みたいな顔してね。いつも頬の辺りが不自然に引きつっているような感じがしたものです(笑)
論理的に考えることがエライような気がして、そう考えようとするのですが、オツムの構造が元来そのように出来ていないのだから無理なんですよ。
高校の時、授業でこれまで読んで印象に残っている本の読書感想文を書け、ということになったのですが、今じゃ考えられないことですが、それまでろくすっぽ一冊の本も読んだことない上に、気の利いた、難しいことを書かなきゃ、って意識が働いて、ついに白紙で提出したことを覚えています。感想文なんだから、感じたことを書きゃあいいのに!...今ならスラスラと言葉が湧き出るに任せていくらでも書けますよ!
マトモに読んだ本が無かったらマンガについて書きます。「鉄腕アトム」とか感激して読みました。ホントなんだからしょうがない!
”あの時の私はいつも迷っていた、頭の中がモヤモヤしていた、苦しかった!...
ものが本当に分かるとはどういうことなんだろう、それとも分からなくてもいいことがホントなのだろうか?
ああ、読んだり聞いたりするんじゃなくて、マンガの主人公のように直接、ものにブチ当たって生きてみたい!(ほお、結構、哲学してるじゃん!)...”
私は今、こう書いてみて、なんだか魂が震えて来てたまらない感じを覚えます。
思いを超えたものにアクセスしているようです。そこに震源地がある!、惹かれてやまないものがある!
思いを超えるということは、真向かいに自分自身に会うことなんだ!
こういうことは、多く宗教書よりもベルジャーエフとかの哲学書から学んだのです。
というよりも、それに”感応した”と言った方が近いでしょう。
そこに哲学的論理性など求められないのは、皮肉かもしれませんが!...
かつては上手く”着地”が出来なかったですが、なんか知的っぽいところもただの偽装では片付けられない私の本来性を成しているものではあるようです。
知性というものは、本来感性と一つのものなので、それと結び付かなければ着地出来ないものでしょう。
哲学的論理は元より破綻しているのですが、知的直観によって私の実存はところを得たと言ってもいいでしょう。
私の実存?...それは私には何かは分からない。私を超えたものに感応して分かるもの...いや分からなくてもいい!、感じていたらいい!...
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする