親和会

地域自治会の親睦会の活動&トピックスなどなど~

「最期の7日間」「夕焼け小焼け」「写経観念文」「供養」「盂蘭盆」「生きる」「仏教の言葉」

2019年12月28日 17時08分11秒 | 写経の会

 妻が願った最期の七日間 亡き妻がつづった願いは・・・・令和元年12月21日

神様お願い この病室から抜け出して 七日間の元気な時間を下さい

一日目には台所に立って料理を一杯作りたい

あなたが好きな餃子や肉味噌 カレーもシチューも冷凍しておくわ

二日目には趣味の手作り 作りかけの手織りのマフラー

ミシンも踏んでバッグやポーチ 心残りがないほど いっぱい作る

三日目にはお片付け私の好きな古布や紅絹(もみ)

どれも思いが詰まったものだけど どなたか貰ってくださいね

四日目には愛犬を連れてあなたとドライブに行こう

少し寒いけど箱根がいいかな 思い出の公園手をつなぎ歩く 

五日目には子供や孫の一年分の誕生会

ケーキもちゃんと11個買って プレゼントも 用意しておくわ

六日目にはお友達集まって憧れの女子会しましょ

お酒も少し飲みましょか そしてカラオケ十八番(おはこ)を歌うの

七日目には あなたと二人きり 静に部屋で過ごしましょ

大塚博堂(シンガーソングライター)のCDかけて ふたりの長いお話しましょう

 

神様お願い 七日間が終わったら 私はあなたに手を執られながら

静かに 静かに 時の来るのを待つわ

静かに 静かに 時の来るのを待つわ    NHK TV 首都圏情報ネタドリ 11月1日

宮本英司 1947~愛媛県生れ平成30年1月妻容子さん他界(早稲田大学同級生)    

3月9日付朝日新聞投稿欄 著書:株式会社サンマーク出版 歌:クミコ 高橋久美子

夕焼け小焼け 中村雨紅 詩人、童謡作家 (1897明治30~1972昭和47)        八王子市上恩方町生まれ、府立日暮里小学校の教師の時に作詩  「こやけ」は、語調を整えるために添えたもの)「ゆうやけ(夕焼)」に同じ。日本国語辞典「小焼け」は、「日本語のような音数律の詩の場合、リズムを整えるために、意味のない枕言葉だとか対語が使われます」北原白秋にも「栗鼠栗鼠小栗鼠(りすりすこりす)」「涼風小風(すずかぜこかぜ)」「仲よし小よし」など 

夕焼け小焼けで日が暮れて山のお寺の鐘が鳴る     お手々つないで皆帰ろう烏と一緒に帰りましょう               子供が帰えった あとからは まあるい大きな お月さま 鳥が夢を 見るころは 空にはきらきら 金の星                        

宗教学者の山折哲雄氏は、この「夕焼け小焼け」の歌詞の背景には、仏教の真髄、とりわけ『般若心経』の真言が訳されているとしています。
般若心経の最後の部分は
ぎゃーてい ぎゃーてい取り除く、執着を取り除く=自覚 はーらーぎゃーてい 他の執着を剥ぐ=他覚・他人を悟らせる  ゆけり ゆけり 彼岸にゆけり

はらそうぎゃーてい ぼーじーそわか     共に彼岸にゆけり 霊智に敬礼す                       

自他ともに悟りを成就しよう(自覚・他覚・覚行円満=悟りと実践が共に満たされる)

はんにゃしんぎょう (サンスクリット語で漢訳していない箇所がある)

この部分が般若心経の一番大事な部分だと言われています。 昭和の名僧と呼ばれた山田無文老師はこの部分を、「着いた、着いた、彼岸へ着いた。みんな彼岸へ着いた。ここがお浄土だった。と訳されています。みんな同じなんだと。人はみんな同じところへ帰っていく。偉大なる母のふところへ、おおいなる命へ帰って行く。だからみんなひとりぼっちじゃない。寂しくなんてない。人も烏も、みんなで手をつないで一緒に帰りましょう。ここが帰るべき場所だ。そしてみんな帰っていなくなったその後は、大きなお月様や、星が輝きはじめます。子供が帰った後からは まるい大きな お月さま 小鳥が夢を 見るころは空にはきらきら 金の星 丸い月や明星は、執著を離れた悟りの境地を示すと言われています                         

金星Venus(水金地火木)明けの明星、宵の明星CO気圧95、510℃、風速350km公転224.7日、自転243日地球に比べ遅い、太陽との距離1億800万km地球は1億5000万km、赤道半径6000km地球比0.95(地球半径は6400km)                             聖書黙示録中では、イエスの事が「輝く明けの明星」と呼ばれている。                   仏教伝承では、釈迦は明けの明星が輝くのを見て真理を見つけたという。また弘法大師空海も明けの明星が口中に飛び込み悟りを開いたとされる      令和元年7月20日

 

  写経観念文  於畑自治会       平成31年2月16.                                       水は是れ大悲慈潤の智水、墨は楞(りょう)厳(ごん)禅定の石墨なり。

定の墨、慧の水和合して、実相法身の文字を書写す。

この文字は三世諸仏甚深の秘蔵、三身如来真実の正体にして、 

禅定智慧の法門、自行化(け)他(た)の功徳、悉く皆具足す。

是を以って此経の文字は、十界に色身を現じ、随類説法して利生したもう。

この故に我れ、今この経を書写し奉る。

願わくばこの功徳の善根に依って、弟子法界の衆生と共に、

無始巳来(みらい)の三業六根一切の罪障を、皆悉く消滅し臨終は正念に極楽往生し

仏を見奉り、法を聞いて無生忍を証せんことを。

 写経観念文:写経を行う意義を観い写経の功徳がすべてに及ぶことを念じる文。 

実相法身 仏の本体 写経の文字は一文字一文字 仏の姿

三身   仏:法身 永劫不変 無色無形の仏

報身 修行により報い顕れる有形の仏 阿弥陀仏 菩薩の修行

       応身 仏への橋渡しをして下さる釈迦牟尼仏

自行利他 自分が先ず修行し、その法をもって他人を教導する

十界   六界 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上  迷いの世界

     四界 声聞・縁覚・菩薩・仏         悟りの世界

三業六根 三業 動作、言語、意志  (身・口・意)

     六根 眼・耳・鼻・舌・身・意

無生忍  修行によって悟りを開く                      

四弘誓願(しぐせいがん)菩薩が仏道を求める時最初に立てる誓い                上求菩提・下化衆生(上の如来に菩提を求め・下の衆生を化益する)

衆生無辺誓願度(しゅじょう) 地上にいるあらゆる生き物をすべて救済するという誓願

煩悩無量誓願断  煩悩は無量だが、すべて断つという誓願                

法門無尽誓願智  法門は無尽だが、すべて知るという誓願                 

仏道無上誓願成(せいがんじょう)  仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願 

  おっきりこみ「法燈」            

般若心経。唐の僧、三蔵法師が訳し、すべては空であると説くお経。それが幅広の麺

(横2.5㎝縦22㎝)に書かれ、野菜とともに煮えている。不思議だが功徳のありそうな光景だ。寒さに縮こまっていた身も心も芯からほかほかと温まる。

群馬県太田市料理店「新田乃庄」寒山亭 須永社長(67)談「仏教や食の歴史に関心があり、昔修行僧がお経を書いた木簡や紙を飲み込んで、一体化しようとしたことに因んだ」 ☎0276・37・4755

薬膳用の竹炭からインクを作り木簡に見立てた麺に印刷する。太田には中世に広大な荘園・新田荘があった。中国から伝わった宮中料理が、荘園を通じて持ち込まれたのがこの料理の起源。

幕末から群馬で養蚕が盛んになり、「かかあ天下」(働き者の女性)の多忙な農家の女性が、手軽さから好んで調理した。  

 12世紀、浅間山の大噴火で火山灰が降り、荒廃した土地を源氏の新田義重が再開発したのが新田荘。現在の太田市は中島飛行機が全身のスバルの企業城下町。大光院「子育て呑龍さま」も家康の創建で、家康をまつる「世良田東照宮」もある。            読売新聞 日曜版 H31.2.3

 写経終了後会員一同 ほうとう を頂いた。

写経の会 供養とは何か   H30.10.20 於畑自治会館 

供養はもとより故人の為に行うものだが、残された人の為でもあると思う

①大切な人がこの世にいない現実を受け入れ前を向いて生きる力を得る

②共に生きた時間(苦楽、愛憎)を宝とし、辛い思い出から解放される儀式

                恵泉女学園大学 学長 大日向雅美

供養 pujana (サンスクリット語)三省堂大辞林

① 死者の霊に供え物などをして,その冥福を祈ること。追善供養

② 仏・法・僧の三宝を敬いこれに香・華・燈明・飲食物ご飯・水などを供えること

供養の意味、考え方

亡き人の冥福を祈って行われる行為は、総じて供養と呼ばれる。

 仏壇にご飯や水を供えたり、墓前に花を飾ったり、読経をしたり。そういったものをすべて供養と考えて、亡き人が少しでも喜ばれるように、安らかになるように、そう願って人は供養を施す。

供養とは亡き人だけを対象とした言葉ではなく、生者に対しても供養という言葉は使われることがある。

たとえばアジアの仏教国などで托鉢をする僧侶に施しをする行為(布施)は、「僧侶に対する供養」と表現されたりする。

 生者に対する供養が存在するとなると、供養の範囲がどこまでも広がっていってしまうような、供養という言葉の指す対象がぼやけてしまうような気がする。供養とはずばり「功徳を積む行為」を指すと理解すればいい。

この「功徳を積む行為」が何を意味するのかについては、そもそも供養というものが間接的な施しを想定した行為であることを理解しておく必要がある。

直接的な施しと間接的な施し

死者に対しても生者に対しても供養は行われるが、供養の目的は、功徳を積むこと。これが理解のベースとなるのだが、ここには供養という独自のものの考え方が潜んでいる。

たとえば仏壇にご飯を供える際、おそらくほとんどの方がそこに故人の面影を思い浮かべるなど、対象(相手)がはっきりしている。墓前にお参りをする際などでも、誰にお参りしているかといえば、亡くなった身内、あるいは先祖だろう。

ほとんどの場合、供養を施す対象は明確である場合が多いのである。けれども、供養という考え方にとってそれらは対象の一端に過ぎない。

 供養というものは、「間接的な施し」をメインに想定した行為であって、「直接的な施し」はむしろ供養の考え方からみればサブ的なものといえる。

 直接的な施しとは、故人を相手と考えて故人に直接ご飯を供えるというような、一般的な供養のイメージに合致するもの。つまり、先祖のお参りのために墓前に赴くのも、僧侶に布施をするのも、直接的な施しである。

しかしこれらの直接的な施しは、本来的な供養の考え方とは少々異なる。供養のメインはあくまでも間接的な施しにある。間接的な施しとは、たとえば故人の冥福を祈って何かしてあげたいと思ったとき、故人に対して直接何かをするという選択をとらない方法をいう。つまり、故人とは直接的には関係のないことをするのである。

それでは故人に対する供養にならないのではないか、と思われるかもしれない。

まさに、ここが供養というものの考え方の独自性なのである。

直接故人に何かをするのではなく、故人と直接には関係のない善行を行い、功徳を積み、その功徳を故人に廻らす(送る)のが、供養というものの本来的な考え方なのだ。

これを仏教では「廻向(えこう)」と呼ぶ。

 直接的に故人に何かをするのではなく、善行によって生じた功徳を故人のもとに向けて届けるというのが、仏教的な供養の発想なのである。

供養とは功徳を積む行為

仏教は「善行によって生まれた善業は、必ず善い果報をもたらす」という因果の道理を非常に重視している。「善因善果」「悪因悪果」と呼ばれる、何らかの行いをすれば必ず何らかの結果が生まれる。

 供養の考え方はこうした因果の道理を基本としている。

たとえば、夏のお盆の時期に施食会(せじきえ)という法要が寺院でよく営まれる。

その目的は施主らの先祖の供養であるが、その供養の方法としては、あらゆる精霊に対し供物を捧げて読経をする点が挙げられる。

 供物や読経は先祖に対するものではなく(まったくないわけではないが)、「三界の万霊(さんがいのばんれい)」と称される「あらゆる魂」に対して施されるのだ。

そしてその施しによって生まれた功徳を、先祖の霊に廻向するというわけである。

もし先祖の供養のために先祖に供物を捧げるというのであれば、その供養の構図は施主と先祖の間で完結する。

しかし、直接先祖に供物を捧げるのではなく、ここに第三者を交えるだけで、供養の構図は無限の広がりをみせる。無限の廻り合いをみせる。そうして供養の輪を広げていくのが仏教的な供養の発想。

 「自他ともに」というのが仏教の発想であるから、「自のみ」すなわち自分の先祖のみというのは仏教的な考え方ではないだ。

供養とは上記のように、お供えをしたり施しをしたりといった功徳によって、間接的に亡き人に善い果報が訪れることを願って行うものである。したがって直接亡き人に対して何かをすることだけが供養のすべてではない。むしろ間接的な供養こそが供養の本筋。

つまり供養という言葉の本質は、広く「功徳を生む行為」そのものを指すということである。

                            曹洞宗 佐藤隆定

 

 写経の会 H30.8.18 於畑自治会館

うらぼん 【盂蘭盆】 〔 ullambana〕   

〘仏〙 もと中国で、盂蘭盆経に基づき苦しんでいる亡者を救うための仏事7月15日行われた。日本に伝わって初秋の魂たま祭り習合し、祖先霊を供養する仏事となった。 迎え火送り火をたき、精霊棚しようりようだなに食物供え、僧に棚経たなぎようを読んでもらうなど、地域によって各種風習がある。現在、一般に8月13日から15日行われるが、7月に行う地域も多い。お盆盂蘭盆会。盂蘭盆供。精霊会精霊祭歓喜会。魂(たま)祭り

[補説]一般に、梵ullambana(逆さづりの意、倒懸 (とうけん) と訳す)の音写とされる→(苦しんでいる人を救う)              (三省堂 大辞林

盂蘭盆会(うらぼんえ)とは、7月15日を中心に7月13日から16日の4日間に行われる仏教行事のこと。日本における日付については、元々旧暦7月15日を中心に行われていたが、改暦にともない新暦(グレゴリオ暦)の日付に合わせて行ったり、一月遅れの新暦8月15日や旧暦のまま行っている場合に分かれている。父母や祖霊を供養したり、亡き人を偲び仏法に遇う縁とする行事のこと。(ウイキペディア

盆踊仏教行事であるとする説、歌垣の遺風とする説、原始信仰の儀式とする説など諸説あるが、文献に最初に登場するのは室町時代と言われる。平安時代空也上人によって始められた踊念仏が、民間習俗と習合して念仏踊りとなり、盂蘭盆会の行事と結びつき、精霊を迎える、死者を供養するための行事として定着していった。死者の供養の意味合いを持っていた初期の盆踊りは、新盆を迎える家に人々が赴き、家の前で輪を作って踊り、家人は踊り手を御馳走でもてなした。盆には死者が家に帰って来るという考え方から、頬被りをして人相を隠し、死者の生き返った姿に扮した人がその物語を演じたという。

西馬音内の盆踊(にしもないのぼんおどり)とは秋田県雄勝郡羽後町西馬音内で行われる盆踊りである。毎年8月16日から18日まで西馬音内本町通りにおいて行われる。阿波踊り郡上おどりと合わせて日本三大盆踊り。             

 り火(おくりび)とは、お盆に帰ってきた死者の魂を現世からふたたびあの世へと送り出す行事である(反対語 → 迎え火)。 家庭の玄関先や庭で行われたり、地域社会の行事として行われる。山の送り火、海の送り火の2つがある。仏教が庶民の間に浸透した室町時代以後に年中行事として定着した。               

山の送り火。京都五山送り火奈良高円山大文字送り火などが有名。海の送り火としては、「灯籠流し」(「精霊流し」と呼ぶ地方もある)。午後8時に、最も東の如意ケ嶽(にょいがたけ、左京区)の「大文字」から始まり、西に向かって「松ヶ崎妙法」「船形万灯籠」大北山の「左大文字」曼荼羅山の「鳥居形松明」の順でともされた

写経の会 H30.7.21 於畑自治会館

座談会: 美しい沖縄の未来を築くために(波羅蜜多)今をどう生きるか(般若)琉球400年の文化を大切にしたい                                  

「平和の詩」  生きる               

私は、生きている。

マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、

心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、

草の匂いを鼻孔に感じ、

遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。

 

私の生きるこの島は、

何と美しい島だろう。

青く輝く海、

岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、

山羊の嘶き、

小川のせせらぎ、

畑に続く小道、

萌え出づる山の緑、

優しい三線の響き、

照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、

生まれ育ったのだろう。

ありったけの私の感覚器で、感受性で、

島を感じる。心がじわりと熱くなる。 

私はこの瞬間を、生きている。 

この瞬間の素晴らしさが

この瞬間の愛おしさが

今と言う安らぎとなり

私の中に広がりゆく。

 

たまらなく込み上げるこの気持ちを

どう表現しよう。

大切な今よ

かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。

 

七十三年前、

私の愛する島が、死の島と化したあの日。

小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。

優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。

青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、

光り輝いていた海の水面は、

戦艦で埋め尽くされた。

火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、

燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。

魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。

阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。

 

みんな、生きていたのだ。

私と何も変わらない、

懸命に生きる命だったのだ。

彼らの人生を、それぞれの未来を。

疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。

仕事があった。生きがいがあった。

日々の小さな幸せを喜んだ。

手をとり合って生きてきた。 私と同じ、人間だった。

それなのに。

壊されて、奪われた。

生きた時代が違う。ただ、それだけで。

無辜の命を。あたり前に生きていた、

あの日々を。 

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。

悲しくて、忘れることのできない、

この島の全て。

私は手を強く握り、誓う。

奪われた命に想いを馳せて、

心から、誓う。

 

私が生きている限り、

こんなにもたくさんの命を犠牲にした 戦争を、絶対に許さないことを。

もう二度と過去を未来にしないこと。

全ての人間が、国境を越え、人種を越え、

宗教を越え、あらゆる利害を越えて、

平和である世界を目指すこと。

生きる事、命を大切にできることを、

誰からも侵されない世界を創ること。

平和を創造する努力を、厭わないことを。

 

あなたも、感じるだろう。

この島の美しさを。

あなたも、知っているだろう。

この島の悲しみを。

そして、あなたも、

私と同じこの瞬間(とき)を

一緒に生きているのだ。

 

今を一緒に、生きているのだ。

だから、きっとわかるはずなんだ。

戦争の無意味さを。本当の平和を。

頭じゃなくて、その心で。

戦力という愚かな力を持つことで、

得られる平和など、本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。

その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

 

私は、今を生きている。

みんなと一緒に。

そして、これからも生きていく。

一日一日を大切に。

平和を想って。平和を祈って。

なぜなら、未来は、

この瞬間の延長線上にあるからだ。

つまり、未来は、今なんだ。

 

大好きな、私の島。

誇り高き、みんなの島。

そして、この島に生きる、すべての命。

私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

 

これからも、共に生きてゆこう。

この青に囲まれた美しい故郷から。

真の平和を発進しよう。

一人一人が立ち上がって、

みんなで未来を歩んでいこう。

 

摩文仁の丘の風に吹かれ、

私の命が鳴っている。

過去と現在、未来の共鳴。

鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。

命よ響け。生きゆく未来に。私は今を、生きていく。                                  

沖縄全戦没者追悼式 於糸満市   H30.6.23

沖縄県浦添市立港川中学校 3年 相良倫子(14歳)

脈々といのちのリレー沖縄忌 久野茂樹 読売俳壇

  

写経の会 H30.5.19    仏教の言葉   

1.キリスト教 崇拝:ヤハヴェ  創造主 支配者強い意志・計画を持つ人格的な存在者

   イエスにだけ天が開け神の御霊が下りる神の子(新約聖書)開祖イエスAD 30年

   イスラム教 崇拝対象アッラー 創造主人格的唯一神 開祖マホメットAD 610

  仏教    崇拝:諸仏   成仏=人間がなる、死ぬことでなく仏になる

                          生きとし生けるものすべて仏   開祖釈迦BC 5世紀

  浄土三部経 無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経    浄土宗開祖 法然

  神道    崇拝:八百万の神 人間の霊が浄化されて神となる 神の加護・庇護をうけ、禊や祓により自ら清明になる

2.阿弥陀仏  サンスクリット語amitabha 無量光   限りない光明  

        amitayus 無量寿   限りない寿命

        国王が法蔵菩薩になって誓願→修行→阿弥陀仏になる

  この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御姿をしめして、法蔵比丘となりたまいて、不可思議の大誓願をおこしてあらわれたまう(親鸞:唯信鈔文意)

  一如=真理 真理が自分の姿を人間に知らせ、真理の世界に人々を同化させようと働いているが無知な人間にはわからないので、方便として人の姿をとり、人間の言葉を使い、本願を立て人々を救おうとしている。方便法身の姿=阿弥陀仏 

  真理:永遠のいのち、永遠のひかり 慈悲、迷妄を破る智慧

3.本願 仏になる為の修行期間の誓願 自分だけが悟って満足するのでなく衆生を救わねば真の仏になれない

  四弘誓願 しぐせいがん

  1 衆生無辺誓願度 誓って生きとし生けるものすべてを悟りの彼岸に渡します

  2 煩悩無量誓願斷 誓ってすべての煩悩を断ちます

  3 法門無尽誓願知 誓って仏の教えすべてを学びます

  4 仏道無上誓願証 誓ってこの上ない悟りに至ります

  仏教    悟り 宇宙の真理を正しく自覚し、煩悩、執着心から解脱する

  キリスト教 神がイエスに自分の意志を啓示・予言する

4.極楽浄土 sukhavatiスカーヴァティー楽の極み、幸福のあるところ、10万億の仏土を経た彼方にある、心配、悩みなし:出来れば欲望を捨てようとするのが仏教、(欲望を満たすために極楽浄土に生まれたい)死んで行く所ではない。人間にとって最高、絶対の境地・涅槃・覚りの世界。真実の浄土に至る為の方便化身土(親鸞)浄土はここにある。阿弥陀の浄土=穢土そのもの(鈴木大拙)  極楽浄土に思いを馳せ、心を清め、そこに行けば、人間のきたなさや欲望を捨てることが出来ると信じた。 阿弥陀経:衆生衆苦無有受諸楽故極楽と名づく

   花の命は短くて苦しきことのみ多けれど風も吹くなり雲も光るなり 林芙美子

5.信仰

  新約聖書「見ないで信ずる者は幸いである」超自然、非合理な世界を信じる

  無量寿経「聞きたいことがあったら、何でも聞きなさい。私がこの世を去ってから疑いを生ずるようなことがあってはなりません」教え(真理を正しく理解)をいてじ、歓んで菩提心をおこし、教えを受け入れを起こす

                加藤智見著 誰でもわかる浄土三部経 

 

納経してきました  柴又帝釈天 H30.3.15

1 経栄山題経寺 日蓮宗 1629年創立

2 帝釈天の板本尊 日蓮聖人、親刻による 所在不明になったが庚申(かのえさる)の日に出            現 縁日・宵庚申(江戸から3里、宵をかけて参詣)となる 

 中央にお題目南無妙法蓮華経、両脇に法華経・薬王品経文を聞くことを得ば 病即ち消滅して不老不死ならん と彫られている

 もう一方の面  帝釈天 右手に剣、左手を開いた忿怒の相 徐病延寿の本尊・悪魔降伏の尊形。雷神・武勇神・仏法守護神(仏教信仰者に災難あれば悪魔を除き退散させる) 

四天王 須弥山(しゅみせん)喜見城(きけんじょう)

に住む帝釈天(四天王天)に仕える外臣、

四方守護の仏教守護神

持国天 東  広目天      西

増長天 南  多聞天(毘沙門天)北

     柴又二天門 増長、広目の二天王を門の両袖に安置してある 

納経してきました 平成28年2月10日

松戸 真言宗 徳蔵院 納経と般若心経読誦 本堂は平成18年建立

   本尊 観世音菩薩。 薬師如来、阿弥陀如来、釈迦牟尼如来

Café de Kaoriで会食

戸定が丘歴史公園

戸定邸 徳川昭武の別邸 建物は国の重要文化財、庭園は国の名勝 

徳川昭武 水戸・徳川斉昭の18男、水戸藩最後の藩主で15代将軍徳川慶喜の異母弟

パリ万国博覧会に使節団を率いて渡仏した 季刊 光明 第197号より  

   「憎しみを学べるなら、愛を教えてもらうこともできる。愛することは

   憎むことより自然なことだ」南アフリカの父 ネルソン・マンデラは

   白人に仕返しをするのでなく、許すことを選んだ

     (徳蔵院)        (戸定が丘歴史公園)

  納経の充てる心や梅探る   富士筑波望む庭園梅日和

  早春の赤き前垂れ六地蔵   杉垂木光る屋敷の余寒かな

  鐘一打納経の寺冴へ返る   春浅し欄間自慢の戸定邸

                      井上 幸明

  春みかん熟るる寺にて納経す

  木囲いの三大聖樹春浅し

  納経を終へて如月遍路かな        砂村 登茂江  

 

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仏教美術展に行って来ました

2017年09月16日 11時46分59秒 | 写経の会

写経の会で仏教美術展に行って来ました
平成29年7月20日 於出光美術館

「祈りのかたち―仏教美術入門―展」
1.仏像・経典・仏具 ―かたちと技法
2.神秘なる修法の世界―密教の美術
  不動明王図 力ずくでも仏教に目覚めさせようとする忿怒の形相
3.多様なる祈り   ―弥勒・普賢信仰の美術
4.極楽往生の希求  ―浄土教の美術
  当麻曼荼羅図 穏やかでいつくしみ深い慈悲の相の阿弥陀三尊像。
         生前の行いにより9通りに区分されるが、蓮池の新生菩薩
         として極楽に生れ変わり祝福された生活を送る
5.峻厳なる悟りへの道―禅宗の美術 仙厓の禅画
                         以上

                                          出光美術館の仏教美術展                                                       尾山美知子

  テーマは「祈りのかたち」で日本仏教史による美術品展であった。

 仏教美術の展示は宗派によるものが普通なので宗派がきめられていないのはめずらしい。初期館長の出光佐三氏のコレクションによるものだから仏教への想いがあってのものなのだろう。

 以前この美術館で禅画の展示をみたことがあった。色紙に、まる、さんかく、しかくが描かれた墨絵だった。それの意味するものが理解できなかったが、不思議な魅力を感じたものだった。

 展示は仏教が日本に入ってから。ガンダーラ出土のものらしい仏頭がある。アフガニスタン出土という供養礼拝者像はインドからもたらされたものだろう。日本では貴重なものではなかろうか。

 仏教の初期の思想が説明されている。二千五百年前インドのシャカ族の王子ガウタマ・シッダールタ(釈迦)は修行の末悟りをひらかれた。そして仏陀として真の生き方を見出されたのである。「四苦八苦の苦しみを受けなければならない人間の生き方に対する疑問がある」、「この世のすべては常に変遷を繰り返し、実体のない仮の存在である」、「無明があり、対象に向けられた執着が苦の根元である」とある。

 仏陀の教えはシルクロードを経て中国へそして朝鮮から日本へは六世紀頃に伝えられた。

 中国の仏像

 金銅仏座像は中国北魏時代のもの  

金銅仏立像は朝鮮新羅時代のもの

 金銅観音菩薩像は中国宋時代のもの 

 中国の昔の時代の仏像は信仰の対象だったのだ。

日本の白鳳時代の金銅聖観音菩薩像は美しい。古代の人々の祈りをあつめたのだろう。

 聖徳太子経講讃図は仏教を信奉し三宝をあつく敬った聖徳太子を神秘化した太子伝の決定版、蘇我馬子と百済(くだら)の学啊(かくか)が描かれている。

 平安時代の密教系では愛染明王図がある。両界曼荼羅図は密教の世界観を表す。普賢菩薩騎象図は美しい。

 浄土経の時代に入ると人々は極楽往生を希求する。当麻曼荼羅図は阿弥陀如来の極楽浄土をあらわした曼荼羅。これは平安時代の中将姫の伝説の当麻寺所蔵のものの縮小版。

 浄土宗派の美術品は多いようだ。十王地獄図・阿弥陀聖衆來迎図がある。

 鎌倉時代に新仏教が流行する。座禅修行によって真理を体得することを目指した禅宗が伝わった。臨済宗と曹洞宗である。

 当コレクションには禅画墨跡等の美術が多いのだ。達磨図・拙宗等揚教外別傅・不立文字・沢庵宗彭禅は心を安定統一させることによって瞑想する心の状態である。

室町時代の一休宗純は禅の教えを広めた。一休宗純像・七仏通戒偈・諸悪莫作衆善奉行・仙厓名品選・仙厓義梵の禅画がある。

 出光コレクションの作品は一千点もあるという。○△□の禅画は禅を志す者の悟りに至る段階を三つの図形で表現したといわれる。禅の悟りの境地を図示しつつ悟道体験に安住することを戒めたという。

 帝劇ビル九階の出光美術館の大きな窓から緑の濃い皇居が見渡せる。ソファに座りサービスのお茶をいただく。日本仏教美術の歴史を知りながら人々の信仰の熱意にふれた満足の日をすごしたのだった。

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私の般若心経

2015年03月22日 15時33分25秒 | 写経の会

私の般若心経Ⅲ

尾山美知子

 般若心経は何を語っているのだろうか。何を教えているのだろうか。

 この経は、仏陀が弟子の舎利子に観世自在菩薩の姿を通して仏陀が悟りに到った思想を語るのである。智慧の完成によって苦悩からの脱却を教えている。

 智慧の完成とはどのようなことなのか。

 照見五蘊皆空 度一切苦厄

 五蘊とは何であるのだろうか。

 五蘊とは五つのかたまりであり、それは色、受、想、行、識である。色はかたちあるもの、目にみえるものである。受、想、行、識は人間の精神活動を意味する。

空とは何であるのだろうか。

 空は実体がないという意味である。原語ではスニヤターといい、なにもない状態を意味する。存在しているが、固定的実体がない。この世の現象としては実在しているものの、その本体は存在していないとみるのである。この世のすべては変化していく。万物は流転するという見方である。諸行無常は仏教の思想であり日本仏教の主流となっている。

 五蘊は空であると見きわめたということは仏陀の悟りである。

 空であるという意味は、仏陀の教えの十二縁起で明らかにされる。すべてこの世に存在するものは縁によって起るものである。万物は因縁により生ずる。この世の存在で永遠不変の固定的実体はないのである。これは仏陀が発見された真実である。この世のすべては現象的世界とみるのである。五蘊は空であるということ、すなわち現象世界には永遠はない、空であることを認識することを空観という。

 十二縁起の教えは「無明」にはじまる。「渇愛」から「老死」にいたる。「無明」がなくなれば「老死」はなくなる。菩薩になる道を一歩一歩すすむことを教えるのである。

 

 仏陀は四つの真実を教える。

1、苦 人生は苦しみに満ちている。

2、集 苦には原因がある。

3、滅 原因を滅ぼせば、苦が滅する。

4、道 滅ぼす方法がある。

 苦しみは、四苦八苦といわれ、四苦は生老病死、それと愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦があげられる。

 この世の苦悩をいかにほろぼすか、仏陀は教える。この世の現象として存在することがらを、智慧の目で真実を見きわめることが空観でみることなのです。

しかしこの世は現象世界であり現実に存在するものであり、無常の世から逃れることは出来ない。「空即是色」なのです。

 不生不滅、不垢不浄、不増不減

 この世の現象世界では生滅、垢浄、増減の相対的世界である。しかし空観でみれば、変化しない永遠の世界にかわる。

無無明、無無明尽、無老死、無老死尽

 無明からはじまり老死まで十二縁起でこの現象世界は説明される。存在は現象としてあるのである。

 無苦集滅道

 仏陀が明らかにした苦集滅道さえも空観によってこだわりを捨てることで無となる。

 心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃

 執着を捨てこだわりがないから恐れることもなく、顛倒した心を遠く離れて永遠の平安に入っていけるのである。悟りの世界は英語でspiritual enlightenment 経典は呪文で終わるが彼岸に往ける幸せを念じているのです。

 以上、岩波文庫 般若心経 中村元 紀野一義訳註によるものです。

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私の般若心経(Ⅱ)

2014年08月14日 13時01分45秒 | 写経の会

私の般若心経(Ⅱ) 26.9.20 

尾山美知子

 般若心経で有名なところは、色即是空です。色とは五蘊、すなわち色、受、想、行、識とあるもので、色はかたちあるもの、たとえば人の身体をさします。受、想、行、識は精神活動のことです。

五蘊皆空とはこの世の現象世界、人間の身体、精神活動は空であるといっています。

 空であるということは、広辞苑には「もろもろの事物は縁起によって成り立っており永遠不変の固定的実体がないということ」と説明してあります。すなわち無常であるということです。

インドの哲学者、龍樹は空の思想を論じ般若経の空の思想を確立したのです。日本における仏教思想に大きな影響を与えました。

  無眼耳鼻舌身意

  無色声香味触法

無をはずしてみますと眼、耳、鼻、舌、身、意と感覚器官をあらわし、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識と人間の自我意識をあらわし現代の心理学に通じる分析になります。  

これはインドの哲学者世親が認識主体と認識対象を区別しました。世親の唯識及び龍樹の空の思想は奈良の興福寺で法相宗として学ばれました。法相宗はこれらの分析を通しての瞑想を深め解脱して涅槃に入ることを目的とするものです。

インドの思想は輪廻転生思想です。インド人のヒンドゥー教は、生きものには再生と再死とえんえんと繰りかえすという死生観があります。現在でもインドのヒンドゥー教徒の目標はこの生死の繰り返しの束縛からのがれることであり、ガンジス河のベナレスで死後灰となって流されるのは、輪廻からの解放を得て、生死の束縛からのがれることにあるのです。

 不生不滅

 不垢不浄

 不増不減

 不の字を取り外しますと生滅、垢浄、増減となります。これはこの世の無常の現象世界です。この世では生き死にをくりかえすものであり、汚れたり浄らかになったり、増すこともあり減っていくものです。無常の世ですが空の思想で観察すれば無常ではなくなり、生まれることも減ることもなく、汚いものはないし、きれいなものもなく、増すことも減ることもないということになります。すなわち生滅、垢浄、増減にこだわるなということです。

十二縁起

 仏陀の思想で十二縁起といわれます。

 無明、行、識、想、名色、六つの感覚、触、受、愛、取、有、生、老と死

 仏陀の縁起説といわれます。仏陀は人間的な基本問題である苦しみ、すなわち老と死は無明(無知)に起因すると見極められたのです。

  無無明

  亦無無明尽

  無老死

  無老死尽

 

  無苦集滅道

  苦、人生は苦しみに満ちている

  集、苦には原因がある

  滅、原因を滅ぼせば苦が滅びる。

  道、滅ぼす方法がある

これは仏陀の四つの真理といわれる。

生死とは生き死ぬ事をくりかえす、すなわち迷いの世界のことです。仏陀はこの迷いの無明老死の苦しみの解決を見極められたのです。

  究境涅槃

仏陀の教えは衆生が解脱し涅槃へ導くことにあります。

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写経の会

2014年05月18日 17時33分13秒 | 写経の会

写経の会  毎月第三土曜日 13時30分~16時

写経観念文        読誦    

摩訶般若波羅蜜多心経  読誦と写経

仏説父母恩重経

 今後の教本予定

妙法蓮華経観世音菩薩普門品第25

山家学生式

般若心経のこころ

佛法の教え

実語教

教育勅語

千字文

 

 

 

    私の般若心経   平成26年5月17日                                                   尾山美知子

 

僧籍にいるのではない私が、経典について述べることに、たじろいでしまいますが、般若心経を読むのが好きという気持ちを話させて戴きます。

私は東方学院で仏教について教わりました。東方学院は中村元先生が一般の人のためにつくられた学校でインド仏教、日本の仏教のクラスで学べます。

般若心経は日本にもたらされて千年以上にわたり日本の人々の間に保持されてきており現代で読まれています。なぜこのように人々に読まれるのか、それは功徳があるからといわれますがそれだけではなく、人々の心に深い印象を与え教えと救いを与えてくれるからではないでしょうか。

日本に般若心経がもたらされたのは飛鳥時代頃で梵字で書かれた経典が法隆寺にあり現在上野の国立博物館の法隆寺館にあります。パンフレットに写真があります。

 

般若心経は大乗仏教の初期につくられた経典です。大乗仏教は西暦紀元前後に興りました。それは釈尊の時代から500年後です。般若心経は大冊のものがあります。大乗仏教は法華経、浄土三部経その他にも経典があります。大乗仏教の経典には如来と菩薩が登場します。如来と菩薩の仏像をみるとわかります。如来は浄土にいらっしゃる主です。菩薩は身体に装飾をつけていらっしゃいます。これは衆生を救うためにこの世にいらっしゃるからとのことです。

 

お経は如是我聞からはじまります。このお経もあるはずなのですが省略されているのです。お経は釈尊がお話されたものです。般若心経は観自在菩薩が修業(般若波羅蜜多)されて悟りを得られたのです。その悟りの内容を明らかにされたのです。

 

観自在菩薩とありますが観世音菩薩ともいわれます。これは翻訳者の違いからなのです。玄奘の訳では観自在ですが、法華経の訳者鳩摩羅什は観世音としています。

 

観自在菩薩が深い般若波羅蜜多を行って五蘊が空であると見きわめられました。一切のこの世の労苦から解放されたのです。すなわち自由になったと釈尊の弟子の舎利子に告げられたのです。

 

舎利子は他の仏典では舎利仏となります。般若波羅蜜とは何か。これはサンスクリットの音写です。

 

「般若」とは広辞苑では次のとおりです。真理を認識し、悟りを開くはたらき、最高の智慧です。

 

「波羅蜜」とは宗教理念を実現するための実践、修行、完成です。菩薩の修行法、すなわち波羅蜜は布施、自戒、忍辱、精進、禅定、智慧です。

 

五蘊皆空とは、五蘊(五つの集まり)は色、受、想、行、識です。

 

この世にあるものを現象世界と言いますが、色はかたちあるもの、受は感覚、想は考える事、行は行う事、識は認識することです。

 

空は広辞苑では次のとおりです。もろもろの事物は縁起によってなりたっており永遠不変の固定的実体がないということ、大乗仏教の根本原理とあります。まとめて空思想ともいいます。

空観はこの世すなわち此岸の現象世界には固定的な実在は無いと見きわめることです。空観でこの世の現象の真実を見極めて束縛から解放され自由になること、現世の苦悩から解放され絶対の自由の境地を見出されたのです。

此岸は無常であるという考えになります。無情ではありません。無常という言葉の意味は広辞苑では一切の物は生滅、変化して常住ではないこと、人の死去とありいろいろな意味に使われます。

是諸法空相

 

法は物事をする仕方、しきたりを表す。

 

法は空である。

 

不生不滅、生まれる事も滅ることもない。

 

不垢不浄、汚い物はないしきれいなものもない。

 

不増不減、増す事も減る事もない。

 

無色

 

無受想行識

 

無眼耳鼻舌身意

 

無色聲香味觸法

 

 

 

無限界

 

無意識界

 

色(物質的存在)は変化して壊れる。すべての事象は空であるゆえ執着してはいけない。釈尊の教え(初期仏教)を否定しているわけではない。釈尊から500年経過した新しい教えとして大乗仏教が出て来た。それゆえ初期の教えにとらわれるなという意味で書かれている。

 

無無明

 

無無明盡

 

迷いも悟りもない。迷いも悟りもなくなることもない。

 

無老死

 

無老死盡

 

老も死もない。老と死もなくなることもない。

 

無明も老死も空とみなすことを教えている。

 

無苦集滅道

 

苦集滅道は釈尊の教えの四聖諦(人生に関する四つの真理)

 

苦、人生は苦しみに満ちている

 

集、苦には原因がある

 

滅 原因を滅ぼせば苦が滅びる。

 

道、滅ぼす方法がある

 

空の思想をもって釈尊の苦集滅道の教えを否定するのではなく現象世界にこだわるなと言っている。

 

空であるから苦しみも原因も苦しみを制する道もないのである。知る事も得る事もないから智慧の完成により心を覆われることがない。ゆえに恐れが無く顚倒した心を遠く離れて永遠の平安即ち涅槃に入っているのである。

 

究竟涅槃

 

涅槃とは煩悩を断じて絶対的な静寂に達した状態。現世の苦悩から解放されて絶対自由の境地に達すること。この世の此岸に対して涅槃の世界を彼岸という。

 

阿耨多羅三藐三菩提は最高の悟りのこと。

 

般若波羅蜜の呪文を唱える事によってあらゆる苦しみを消滅させてくれる。

 

ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディー スヴァーハー

 

中国でも日本でも言葉に人を動かす力があるとそのままを呪文として受け止めた。

 

スヴァーハーとはそうでありますようにの意味である。

 

般若心経は般若の智慧、すなわち彼岸の智慧にいたる道、空で現象世界を見極めて自己の主体性を確立し束縛から離れて自由になることを教えています。

 

付録

 

いろはうた

 

色は匂へど散りぬるを

 

我が世たれそ常ならむ

 

有為の奥山今日越えて

 

浅き夢見し酔いもせず

 

涅槃経にあります

 

諸行無常

 

是正滅法

 

寂滅為楽

                                            平成26年5月17日

平成26年3月1日(土)  納経の集い

千葉寺 真言宗 坂東第二十九番霊場  納経と般若心経読誦
青葉の森公園    梅林       観梅 満開
県立中央博物館レストラン       昼食
参加者       12名
 
納経をすませ般若心経を唱え、清々しい心で観梅を楽しむ事が出来ました。
 
  春寒や 写経納めぬ 千葉寺  幸明
  納経の 心は清し  梅真白  幸明
 

 

 

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