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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.224『聖句には「含み」も残っている』(14章14節)

2008年05月07日 | ヨハネ伝解読
(写真はミシガン州、ホランド市のヴィンヤード教会)


本日の聖句はこれです。

                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もし諸君が私に、私の名のうちで求めるものはなんでも、私は行いましょう(I will do it)」(14章14節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


 この14節の言葉は、13節の前半
(「諸君が私の名の内で求めることはなんでも、私は行います」)とほとんど同じですよね。
だが、13節では(それによって)「父が栄誉を受けられるため」とのことばが付けられています。

14節は、それを踏まえていっている。そういう文脈になっています。
つまり、「なさるのは究極的には父なのだけれど、わたしはそれを父に願ってなしてもらうんだよ」
という含みがある。

 英語で I will do it と訳されているこの文は、文字通りには
「イエスがそれを実現する」と言う意味なのですが、「父に祈り求めて」実現してあげる、
という内容を持っているのですね。

 だけど、結果だけを見れば、イエスがやったことにもなります。
だから、つづめて「求めればかなえるよ」といっているわけです。


                             

<父と子の正確な関係>

 でも、そうだからといって、「含み」を考えないようになっていくのは
聖書誤解読のもとになります。

力やわざに関する、父なる創造主と子との関係は、聖書思想の根本です。
これを放念して「まあイエスがやったでいいだろう」とやっていきますと、
聖句から雰囲気としての霊的実体を心に生成させる際に、微妙なずれが出てきます。
聖書解読の究極ゴールは、この霊的実体の生成にありますから、それはまずいのです。

 このあたりを正確にするためにも、聖句そのものを基点にし続けるのは重要でしょうね。
解釈者の言葉を基点にするとあぶない。
聖句の微妙なところは消えてしまいがちですから。

 聖句というのは妙なる言葉なんですね。
そして聖句主義はかけがえのない方法である。

こうしたことが伺われるところでもあります。



                    


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