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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

キリスト教に潜む迷路・3

2005年01月03日 | 聖書思想の基礎知識
<創主王国のルールと世のルール>

 我々の住むこの世の世界、地上の世界には様々なルールがありますよね。法律とか、道徳とか。ところが創主の王国には、王国のルールがあると、聖書は教えています。

 そして、両者の関係はどうなっているかと言いますと、この「世のルール」の上位に「王国のルール」がある、という・・・これが聖書の思想です。その背景には、宇宙も基本的には天の王国の一部だということがあります。またこの世(宇宙)はいずれ消滅する、天の王国は永遠に存続する、という認識もあります。永遠な存在の法が詰まるところは重要だというわけです。

 だったら、「王国の法」を優先的に守ればいいということになりそうですが、ここに若干ややこしいところが出てきます。

 「天の王国の法」と「世の法」とには重なったところもあるのです。それが事態の明快な理解に障害を与えています。具体的に見てみましょう。人類に創主から最初に示される「天の法」は十戒です。それは次のような十の戒めとして与えられています。

1.創主以外のものを拝んではならない。
2.偶像を造ってはならない。
3.創主の名をみだりに唱えてはならない。
4.安息日を守れ。
5.父母を敬え。
6.殺すな。
7.姦淫するな。
8.盗むな。
9.偽証をするな。
10.他人のものを欲しがるな。

 一見してわかるでしょうが、これらには、この世のルールと重なったように見えるものもあります。殺すな、盗むな、などは、反すればこの世の法律でも道徳でも罰せられるでしょう。父母を敬え、姦淫するな、などはこの世の道徳でも言われるところです。

 しかし、十戒におけるこれらは、天の王国のものであり、天からの要求であります。それには相応の「王国の理由」があるでしょう。ですから、重なったところも、そういう“天の法の一部”として理解しておくのが道理となります。

<道徳教になる構造>

 ところがここで、天の王国、kingdom of heavenを明確に意識しておりませんと、迷路にはまります。この重なったところのルールだけを、選択的に重視するようになるのです。そして、重ならないところは、実際上あまり意識の中に入れない。それでいて、キリスト教をしているようなつもりになりがちとなります。

 こうなると、重なったところは、もう、天の法としてではなく、世の道徳として優れて意識するようになっていきます。つまり、従来から意識にあったこの世の道徳を守らないと、実は天の神様も罰を与える、と意識する。こういういう風に、世の道徳をより強く意識するだけのことになるのですね。

 こうなると、キリスト教は、ほとんど道徳教になってきます。ここに入ってしまうと人は、日常生活の中で、出来るだけ忘れようとして暮らしていた倫理観、罪悪感に強く責められるだけになります。打開策も与えられないで・・・。只「罪委・罪・罪・・・」と責められて・・。

 これでは、束縛感だけを強く与えられる宗教になります。宗教はそもそも、この世をよりよく生きるためのものではなかったか。それなら、わざわざこんなことになる必要はない!・・・こうして、もうキリスト教なんてや~めた、となります。これが求道者が陥りやすい第三の迷路です。
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