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=聖句=
「人々はイエスにいった。『主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい。』イエスは彼らに言われた。『わたしがいのちのパンです。』」(6章34~5節)
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「霊に活力を与えるいのちエネルギーこそが本物のパンなのだ。旧約時代に天から与えられたマナはその影なのだ」ということは先回でわかりました。
次にイエスはこう言います。「その本物のパンとは、私なのだ」と(35節)。これを「そんならその本物のパンをチョウダイ、頂戴・・・」と迫る群衆にカマせたのです。
民衆は一瞬たじろぎます。ポカンとする。このイエス自身がパンだなんて・・・。どうやって食べたらいいの?・・・。対してイエスは、さらにカマシます。
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=聖句=
「私が与えるパンとは、・・・私の肉である」(6章51節)。
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「ええっ?」群衆は自問します。
「このイエスは自分の肉をどうやって私たちに食べさせてくれることができようか?」 まあ、そうでしょうね。誰だってそう思う。だがイエスは、かまわず宣言を重ねていきます。
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=聖句=
「人の子(イエス)の肉を食べず、その血を飲まなかったら、あなた方の内にいのちはない」(53節)
「私の肉を食べ、私の地を飲むものには、永遠のいのちがあるのだ。私は終わりの日にその人をよみがえらせるだろう」(54節)。
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終わりの日とは、いわゆる「最後の審判」がなされる日です。その時に、過去の全ての人は復活して、裁きを受ける。そこで天国に行くか火の池に送られるかは、霊にいのちエネルギーが完全充電されているかどうかで決まるというのが、聖書の思想です。ここでイエスが「よみがえらせる」といっているのは、「100%充電状態で復活させる」という意味になります。
イエスはさらに言います。
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=聖句=
「私の肉がまことの食べ物であり、私の血がまことの飲み物なのだ」(35節)。
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・・・ああ、もうだめだ、とてもついていかれない。追いかけてきた民衆だけではありません。イエスに付き従っていた弟子たちの多くも、「これはひどい言葉だ。誰がそんなことを聞いておられようか」といった、とヨハネは記しています(60節)
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